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教科書で教えない世界神話の中の『古事記』『日本書紀』入門』

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No.2149


『教科書で教えない世界神話の中の『古事記』『日本書紀』入門』鎌田東二著(ビジネス社)を読みました。宗教学者である著者から献本された本です。著者は、ギリシア神話や『旧約聖書』、北欧神話など西洋世界の神話と、『古事記』『日本書紀』など日本神話を比較すると、地球が抱える問題の解決法や、国家間・民族対立の課題を考えるヒントが見えてくると訴えます。さらに、神話には人間の生き様、死生観、リーダーの在り方に対する答えも書かかれており、本書は古代人の叡智が凝縮された神々の物語を、現代に生かす試みの書となっています。

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本書の帯

 

 帯には「●地球と人間は、どう生み出されたか」「●世界は終末に向かうのか、天壌無窮か」「●英雄は、絶体絶命の危機をどう切り抜けたか」「●西洋と日本は、根っこの何が違うのか」「ギリシア神話と日本神話には現代を考えるヒント満載!」と書かれ、カバー前そでには「『古事記』はスペクタクル映画、『日本書紀』は神話のアーカイブ!」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

 帯の裏は、【本書の主な内容】として、「『人間の位置づけ』がこんなに違う/日本神話では人間と神の距離が近い/北欧神話の『終末論』と日本神話の『修理固成』『天壌無窮』/『父殺し』のモティーフと『国譲り』の大きな違い/黄金の時代から鉄の時代への『下降史観』/人間に『火』を与える物語と『パンドラの箱』/神話は地球物理学的な真実を含んでいる/ペルセウスの結婚とスサノヲの結婚の類似/西の果てと東の果て――海のかなたに『永遠の魂の世界がある』」と書かれています。

 

 本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」

第一章 世界神話と日本神話

  ――その違いから見えてくるもの

第二章 不思議な「類似の神話学」

  ――なぜこんなに似ているのか

第三章 『古事記』はオペラ、

    『日本書紀』はアーカイブ

第四章 ギリシア神話を深堀すると

    日本神話もよくわかる

「おわりに」

 

 「はじめに」の冒頭で著者は「世界各国に神話があります。もちろん、日本にも神話があります」とし、各国や各民族の神話比較は多くの発見に満ちており、さまざまな国々の文化の「根源」(根っこ)を知ることができると述べています。それを通して、自分たちの国の「特質」をはっきりと浮かび上がらせることもできるようにるとも述べます。神話はこの世界(宇宙)や人間存在の起源や成り立ちやありようを説き明かす根源的な物語であり、物語の中の物語とも、物語の基盤をなす物語とも、物語を超える物語ともいえると述べています。それほど、大切で重要な物語の根っこであり、幹なのです。

 

 日本神話といえば、『古事記』『日本書紀』の神代の物語の総称です。『古事記』が編纂されたのは(序文の記述が正しければ)和銅五年(712年)。『日本書紀』が編纂されたのは養老四年(720年)です。いずれも冒頭に天地創成と神々の誕生の話が置かれ、イザナギ、イザナミやアマテラス、スサノヲなどよく知られた神々の神話が続きますが、両書の内容はかなり違うとして、著者は「『古事記』の神話はドラマチックで、まるでオペラかスペクタクル映画のよう。一方、『日本書紀』は神話をアーカイブのように、いくつもいくつも併記していきます」と述べます。この日本人の二大神話についての表現は見事です。

 

 さらに、『古事記』や『日本書紀』の神話と、世界各国の神話を比べていくのも興味深いものであるとして、著者は「実は、私が神話の世界にはまり込んだのは、小学校五年生のときに学校の図書室で『古事記』と『ギリシア神話』を読んだことがきっかけでした。たまたま『古事記』を読んで、すっかり夢中になった私は、続けて『ギリシア神話』を手に取りました。すると、『古事記』のイザナギとイザナミの黄泉の国での物語と、『ギリシア神話』のオルフェウスとエウリュディケーの冥界での話があまりにも似ているので、まったく度肝を抜かれたのです」と述べています。このエピソードは、著者の数多くの著書にも書かれていますが、改めてこの原体験が本書執筆の契機となったことに納得しました。

 

 第一章「世界神話と日本神話」の「日本神話では人間と神の距離が近い」では、日本神話の特徴として、人間の位置づけ・格づけが世界中の神話体系の中でも高いことが指摘されます。日本では、人間と神とが連続線上にあり、いまでも神が非常に身近であり、現代でもいろいろな神様が頻繁に生まれてくるとして、「経営の神様」「マンガの神様」「小説の神様」「和食の神様」「野球の神様」「サッカーの神様」「選挙の神様」などが例示され、「いろいろな分野で神が生まれてくる。それほど神と人間とのあいだの距離が、感覚的にとても近いのです」と述べています。世界神話の中で日本神話が、一、二を争うほどに、神と人間とのあいだに親近感があるということは、大きな距離感がなく、神と人間が密接な状態でつながっているということです。

 

 一方、人間からは「神の姿が見えない」というケースもあるとして、著者は「そういう意味では、イスラム教はもっとも厳格でしょう。イスラム教は完全に神の姿は見えません。ユダヤ教よりも、イスラム教のほうが神の超越性がより強化されています。だからイスラム教の『見えない神』の存在性に対し、日本の神は『見える化』されている。日本の場合は、一緒に宴会をやっているかのようなイメージで、どこか一緒にお酒を飲んで、歌い踊って、といった感じもあります」と述べています。

 

 「『ムスヒ』という日本の根本的な考え方」では、人間に非常に近いと同時に、自然性というものも賦与されているということが日本の神様の大きな特徴であり、その自然性の根幹には「ムスヒ」というものがあると指摘し、著者は「日本の神話はそういう構造になっています。それは、『古事記』の冒頭に出てくる最初の三神が『天(あめ)の御中主(みなかぬし)の神』『高御産巣日(たかみむすひ)の神』『神産巣日(かむむすひ)の神』であることに象徴されます。まず天の中心に神が現われる。次に現われるのが『ムスヒの神』なのです」と述べています。わが社の社名である「サンレー」の意味の1つは「産霊(むすひ)」ですので、「ムスヒ」についての記述をもっと詳しく見たいと思います。

 

 この「ムスヒ」とは、どのように解釈すべきものか。これは「ムス」と「ヒ」の合成語です。「ムス」は、ものが現われ出て、生成すること。本居宣長は『古事記伝』で「息子」や「娘」、「苔むす」の「ムス」と同じだと述べています。「ヒ」というのは、神様の力、霊力を意味する言葉です。日本の古語では、神様や神様の力(神格・神威)、あるいは霊的なものや霊力(霊格・霊威)を、チ・ミ・ヒ・モノ・タマ・ヌシ・オニ・ミコトなどのさまざまな言葉で表現してきたとして、著者は「たとえば、『ちはやぶる』という言葉があります。和歌などで『神』を形容する有名な枕詞ですが、これは『チ・ハヤ・フル』の合成語だと考えられます。つまり、『チ(霊の力)』が変容し、ものすごい速さで振動し運動している様子を表わしているのです」と説明します。

 

 「ムスヒ」の「ヒ」も同じです。生成していくことを意味する「ムス」に、霊力を表わす「ヒ」がついて、「ムスヒ」になります。『古事記』では「ムスヒ」に「産巣日」という字を当てていますが、『日本書紀』になると高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)、神皇産霊尊(かむみむすひのみこと)のように「産霊」という漢字で書かれています。著者は、「『古事記』では万葉仮名(カタカナやひらがなが成立する前に、漢字を「表音文字」として用いたもの)で神様の名前の『音』を表記しているので、少しイメージがつかみづらいかもしれませんが、『日本書紀』の『産霊』であれば、イメージがつかみやすいでしょう」と説明しています。

 

 まさに生成していく霊力であり、生成していく神様の力です。「ムスヒ」の考え方は、日本神話の中で、もっとも信仰的、神学的ともいえる面であると指摘し、著者は「天地のはじめに『ムスヒの神』が登場し、その力で次々に神々が生成していく。『古事記』の冒頭を読むとわかりますが、それは誰かが『創造』したのではありません。『おのずから成りゆく』、つまり生成していく霊力によって、自発的に次々に生成していく。そして、人間を含む自然の万物も、『ムスヒ』の力によって次々に生成し、発展していくのです。そしてその『ムスヒ』は自分自身の中にも脈々と息づいている。そのような、万物の生成発展を突き動かす源である『産霊=ムスヒ』の威力への賛嘆、畏怖、感動、感謝。それが日本神道の信仰の根幹にある考え方なのです」と述べています。わが社の社名の意味をなす「産霊」が日本神話の根幹であるということで、たいへん嬉しく、心強く思いました。

 

 「北欧神話に登場する最高三神の性格は?」では、インドの最高三神はブラフマン、ヴィシュヌ、シヴァであり、北欧の中で非常に重要な神々として崇められてきたのは、オーディン、トール、フレイという三神であることが紹介されます。その中のトールは農耕に関わる神ということでとても崇拝されたそうです。アマテラスが非常に崇拝されることになるのは、「斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅」といって、孫のニニギに稲を授け、人間が生きていくための糧(作物)を育む方法を教えたことになるからです。神勅とは「神の命令」の意味ですね。だから現在も、天皇が田植えをしたり収穫をしたりして、収穫感謝祭として新嘗祭を行ないます。そして天皇が即位したときには、一世に一代行なう大新嘗祭として「大嘗祭」が行なわれます。折口信夫の説によると、この大新嘗祭は天皇霊というものが新天皇に付着して一体になり、天皇という霊位を完成するという、ある種、スピリチュアルな意味があるのです。著者は、「このように、農耕を司る根源的な力は命や生活に関わるので、どの社会でも農耕神は崇拝されるのです。豊穣を予祝する、豊穣を司るからです」と説明します。

 

 「「不老不死の木の実」はリンゴかミカンか?」では、神話の中で神々も死ぬ一方で、北欧神話やギリシア神話には「不老不死の黄金のリンゴ」という物語もあることが紹介されます。「不老不死」は、人間の探求する1つの究極の理想であるとして、著者は「秦の始皇帝もそうでした。ギルガメシュ(メソポタミア神話に登場する伝説的な王)も不老不死を得ようとしました。逆にブッダ(仏陀)の場合は、『なぜ死ぬのだろう、なぜ病気になるのだろう』ということを考えに考え抜いて悟りに至り、仏教を開くわけです」と説明します。死生観といいますか、「生老病死」の死の問題は、人間が必ず直面する大きな課題ですが、著者は「死の恐怖、死の不安、死によって何かが終わってしまう──。死は一つの個体としての終末になるので、『死を乗り越える思想』は必ずどこかで出てくるわけです」と述べています。

 

 「世界の自然風土の違いがダイナミックな神話の違いを生んでいる」では、古来、日本人は日本のことをいろいろな言い方で表わしてきたことが紹介されます。大きな島々が8つあるので「大八島国(おおやしまぐに)」。葦が生えている湿地帯を多く持っているので「葦原中国(あしはらのなかつくに)」。お米が植えられて豊かに実っていくので「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」。著者は、「これは1つの祝福の意味を込めています。そして、もっとも原型となる、日本の変動性のある浮遊しているような状態が『くらげなす漂える国』です」と述べます。くらげなす漂える国を、天孫(アマテラスオオミカミの子孫)が豊葦原瑞穂国に変えて、この国を維持しようとしました。それが大嘗祭という天皇の祭祀にまでつながっていくというのが、『古事記』や『日本書紀』に書いてある神話の1つの重要なメッセージです。このように、世界の神話においても、世界の自然風土の成り立ちについて、それぞれの国がさまざまなバリエーションやバージョンの物語をつくっているわけです。

 

 神話とは、自然と人間の関わり、そして自然がどういう特徴を持っているかについて、とても注意深く観察しながら、生き生きとしたダイナミックな物語として、それぞれ語っているのです。このような神話を創りあげる「物語力」は、まさに驚嘆すべきものであるとして、著者は「熱帯雨林があれば、熱帯雨林の特性を説明するような物語になる。日本は火山が多いので、火山の特性を説明する物語がいろいろできる。北極圏、あるいな南極に近い寒冷な地域では、その寒冷さを説明する物語ができる。太平洋の島々であれば小さな島々はなぜできてくるかという物語になる。気候風土、自然、地形、そういったものを、全部うまく納得のいくかたちで説明していく。自分たちが現実に住み、リアルに眼の前に見ているものにつながるような物語になるわけです」と述べ、そのコアにあるのは「普遍性のあるもの」であると指摘しています。

 

 「日本の思想の基盤にあるのは『原恩』か『原悲』か」では、日本は、火山や地震も含めて大きな天変地異が非常に多かったのに、なぜ終末論的なものではなく、天壌無窮の世界観になるのかという問題提起がされます。著者は、「それはやはり、日本の風土には四季の循環があるからでしょう。春から夏へ移ろいゆき、次は秋になり、その後、冬になって、また春になっていくという巡りゆくものが、ずっと連係プレーとして続いている。そういった経験を長くしていくと、何が起こっても『揺るがない巡りがある』という『ムスヒの力(=生命力)に対する根本的な信』のようなものが出てくると私は思うのです」と述べます。

 

 社会学者で東京大学名誉教授の見田宗介は、これを「原恩の思想」といいました。畏怖、畏敬の念を持ち、感謝の気持ちが湧いてくるという「原恩」が日本の思想の基盤にあるというのです。一方で、心理学者・京都大学名誉教授の河合隼雄は「原悲の思想」(原型的に悲しい)を唱えましたが、著者は「さまざまなかたちで破壊的な事態が起こったりすると、この破壊を諸行無常のようなものとして感じられる。仏教が入ってきたときには、その無常観が日本人の心を捉えたのでしょう。神道的にいうと『ムスヒ』で、非常にポジティブに、新たに生成・発展していく力としてイメージされます。けれども、『諸行無常』となると、盛者必衰の理(平家の滅亡、源氏の滅亡など)のように『終わり』をイメージするようになっています。日本の思想風土の中には、この二つが必ずあるわけです」と述べます。

 

 「神話が生きている日本の天皇は世界でも稀有」では、天皇は、三種の神器(草薙剣、八尺瓊勾玉、八咫鏡)を常に身の近くに持っていることを紹介し、その三種の神器を持たなければ天皇になる資格はないとして、著者は「日本国憲法では、天皇は日本国民の総意に基づく象徴ということになっています。ところが天皇として即位するためには、剣璽等承継がなければならないのです。これは神話に基づきます。実際に総理大臣以下の重職にある大臣たちがその場にいて、その前で恭しく剣璽が捧げられて、その後に『国璽御璽』という憲法で定められた天皇の印が捧げられる。つまり、神話のほうが先なのです。そしてそれが終わり、天皇の即位あるいは譲位がはっきりと認められ、元号が変わり、秋になって大嘗祭が行なわれる。そのときに高御座に上がる『昇殿の儀』という儀礼が行なわれる。この一連の儀式の中で天皇の即位礼というものが完成する」と述べています。

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決定版 年中行事入門』(PHP研究所)

 

 『古事記』や『日本書紀』がまだそのままのかたちで生きているということですから、考えれば考えるほど、日本とは不思議な社会です。「日本人の中に刷り込まれている『集合的無意識』」では、災害に対する復興の心や、天皇という存在の不思議さなど、日本の神道の感覚は、どこかで日本人に染みついているものであるように思うとして、著者は「日本人の行動原理の中に埋め込まれているものだといえるでしょう。生活の中に一体化して、年中行事化しています。いってみれば先祖代々やってきた生活習慣として行なわれているので、これについて自覚的に意味づけをして『こうだからこうしなければいけない』とは思っていないのです。先祖代々伝承として持っている力は『集合性』です。個人の思想でも個人のイデオロギーでもありません。ある種の『集合的無意識』(ユング的にいえば「元型」)によって保持されてきているのです」と述べます。

 

 著者によれば、日本の神々の祭祀は、日本の自然風土の中で、おのずと生まれてきて、ずっと受け継がれてきたものなので、大変自覚しにくいといいます。それほど日本人の暮らし方と一体化しており、日本の無意識の層ともいえると指摘し、著者は「その日本の無意識の層が『古事記』や『日本書紀』の中に、いろいろなレベルで物語として注ぎ込まれています。われわれは世界の神話と比較したり、神話の中に入り込んで感じ取ったりすることによって、その『無意識の層』を解釈し、日本という国の文化的な特徴をもう一度自覚し直していくべきでしょう。それが本書の意味合いでもあるのです」と述べるのでした。この著者の発言には、全面的に賛成です。

 

 第二章「不思議な『類似の神話学』──なぜこんなに似ているのか」の「日本神話とギリシア神話がなぜこんなに似ているのか」では、著者が小学校5年生のときの図書室には『古事記』のすぐ隣に、『ギリシア神話』がシリーズで置いてあったことが紹介されます。『古事記』に非常に感動した鎌田少年は、次にその『ギリシア神話』を読んでいきました。著者は、「ギリシア神話にも、どこか『古事記』と共通するテイストやトーンといったものを感じました。そして、ギリシア神話のオルフェウスとエウリュディケーの話に至ったときに、あまりにも『古事記』に描かれるイザナギとイザナミの黄泉の国の物語と似ているので、心底から驚かされたのです。地図で見るとユーラシア大陸の東の果ての島国である日本と、西方の地中海のほとりにあるギリシアとで、なぜこのような類似の話があるのか。子供心に、本当に不思議に思いました。これが後に比較神話学や比較宗教学に関心を持って研究を行なうようになった、いちばんのきっかけとなりました」と述べています。

 

 「ペルセウスの結婚とスサノヲの結婚の類似」では、『ギリシア神話』のペルセウスとアンドロメダの神話と、日本神話でスサノヲがヤマタノオロチを倒し、クシナダヒメ(『古事記』では「櫛名田比売」と書きます)と結婚した話が近いことが指摘されます。著者は、「スサノヲの神話は、ギリシア神話のオルフェウスとつながると同時に、ペルセウスの神話ともつながっている。こういった類似の物語があちらこちらにあるわけです」と述べます。「浦島伝説──『日本書紀』に書かれた不思議な物語」では、もう1つの類似の神話として、日本の浦島伝説と、アイルランドのオシーン伝説が紹介されます。著者は、「浦島太郎の伝説については、皆さん、よくご存じのことでしょう。「助けた亀に連れられて、龍宮城へ来て見れば」の、あの物語ですが、この物語の最古の記録が『日本書紀』(西暦720年に完成)に記されたものであることをご存じの方はどれほどいらっしゃるでしょうか」と述べます。

 

 「浦島伝説に驚くほど似るアイルランドの『オシーン伝説』」では、浦島伝説と多くの共通点を持つアイルランドのオシーン伝説について、著者は「英雄物語のパターンなのですが、母親が魔女に魔法の力でシカに姿を変えられ、父親と出会うことによってシカの姿から本来の美しい娘の姿になり、結ばれるという、本当に波乱万丈の物語です。そしてオシーンという名前を持つ子供が生まれてきます。オシーンはアイルランド語(ゲール語)で子鹿を意味する言葉です。オシーンは、立派な戦士に成長しますが、ある日、オシーンの前に白馬にまたがって海を渡ってきた常若の国(ティル・ナ・ノグ)の王の娘ニアヴ──ニアム、ニアヴなどいろいろな訳し方があるので一定しないのですが──という女性がやってきます。彼女の美しさに魅了されたオシーンは、一緒に常若の国に渡ります。日本の浦島伝説では大亀が麗しい女性の姿になったわけですが、アイルランドのオシーン伝説では美女が白馬にまたがって海を渡ってくるわけです。いずれも海の向こうから来るというイメージです」と説明しています。

 

 「西の果てと東の果て――『海の彼方に永遠の魂の国がある』」では、日本とアイルランドは、地理的には対極的・対照的な場所であると指摘。ユーラシア大陸を、「大きな顔」と見立てると、日本とアイルランドは、まさに正反対の両耳の位置です。著者は、「その両極の地に、浦島伝説とオシーン伝説のようにとても似た物語がある。このことを考えると、まるでユーラシア大陸の二つの耳が、ユーラシア全体の、さらには地球全体の大きな声を聞き届けているかのようにも思えてきます」と述べます。さらには、「あらゆるものが、西の果てと東の果てにとどまり、たまっていきます。この行き止まりの地には、実は地球上で生成されてきた神話的な物語の古い部分がかなり残されているのかもしれません」と述べています。

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よくわかる伝説の「聖地・幻想世界」事典

 

 日本もアイルランドも、そこからさらに東西に行こうとしても、とりわけ大昔の航海技術では、太平洋や大西洋を横断するのは、およそ不可能なことでした。海の向こうにどこまで行っても、何もないと思ったことだろうと推測し、著者は「おそらくそれゆえに、日本でもアイルランドでも、海のかなたに「永遠の魂の世界がある」「神々のふるさとがある」という考えが芽生えていきます。日本の場合は、東の海(太平洋)のかなたは『常世の国である』『ニライカナイである』とされました。一方、アイルランドの場合は、西の海(大西洋)のかなたは『ティル・ナ・ノグという常若の国である』と考えられたのです。これらの「永遠の魂の世界」については、わたしの監修書『よくわかる伝説の「聖地・幻想世界」事典』(廣済堂文庫)で詳しく紹介しています。

 

 それにしても、ギリシア神話と日本神話はなぜ似ているのか? 浦島伝説とオシーン伝説の物語の共通性をどう考えればいいのか? 「『出アフリカ』した人類が物語とともに移動?──『伝播説』」では、神話がなぜ似ているのかについての1つの考え方としての「神話伝播説」が紹介されます。ホモ・サピエンスが登場したのは、数十万年前のアフリカです。そこで言語をともなった知的な活動をするようになり、宗教的な神秘な物語、神話的な物語を生み出し、儀礼的な行為も行なうようになりました。そして、「出アフリカ」をして世界各地にホモ・サピエンスが散らばっていきます。著者は、「アフリカで誕生したホモ・サピエンスがアフリカでつくりあげた『神話の原型』を持ち伝えながら世界の各地へ移動していった。それによって、神話の象徴的な構造が伝えられていった。それが『神話伝播説』の考え方です」と説明します。「人間の深層心理に神話の元型がある?──『生得説』」では、似た神話がなぜ世界各地にあるのかについてのもう1つの説として、ユングの考え方が紹介されます。わたしたちの心の中に、神話的な元型を生み出す深層心理学的な心の回路がある。そういった深層的な心の回路の中から、神話の元型が生まれる、というものです。つまり類似の神話類型が生まれてくる可能性として、経験論的な「伝播説」と、心の元型を考える「生得説」の二つが考えられる要素としてあるということです。

 

 人間の死を巡っても、2つの考え方はありえるとして、著者は以下のように述べています。
「まず、『伝播説』では、このように考えられます──ネアンデルタール人にも埋葬文化があった、などという話があります。当然、死んだら人はどこに行くのかということは、おそらく原初のホモ・サピエンスから非常に重要な課題だったことでしょう。だからこそ、もしかするとイザナギとイザナミの黄泉での物語、あるいはオルフェウスとエウリュディケーの冥府での物語のような神話が、それこそアフリカにいたホモ・サピエンスの中でできあがっていたのかもしれない。そして、それが次々と伝えられたということがあるかもしれません。一方、『生得説』では、次のように考えられるかもしれません──最近、臨死体験の研究が進み、世界中の人々が似たような体験をすると指摘されるようになりました。たとえば死ぬとトンネルのようなところを通って、お花畑のような美しい景色のところに行くなど、キリスト教圏であれ日本であれ、表現が多少違うにしても、同じような臨死体験が語られることがあります。それはもしかすると、人間にインプットされている一種の深層プログラムのようなものなのかもしれません。そういうものが、神話に反映される可能性もあるでしょう」

 

 「そもそもなぜ世界中のどこにも神話があるのか」では、世界中のどの文化圏にも神話があること自体が不思議な話であるとして、著者は「なぜ人類は、そういった話をつくらなければいけなかったのでしょうか。それは『生きるため』「生き抜くため」だったのだろうと、私は考えます。なぜなら、われわれは苦しんでいるとき、生き抜いていくために、苦しみから抜けるための出口を探します。出口を探していくときに、いちばんのきっかけになるもの(力の根源、考え方の根源になるもの)が神話なのです。神話が、考え方の類型の『拠り所』になっているのです。神様でさえ、このように苦しい目に遭っていたのだ。天岩戸の前で太陽神が隠れてしまって世界が真っ暗闇になるようなクライシスもあったが、そのクライシスを切り抜けるために祭が行なわれて、光がもう一度再生したのだ──。このような話を持つことによって、われわれに生きる力がもたらされる。新たな展望・展開を生み出すもととなる。ものの考え方や発想について、『新しい地平の形成』『新しい関係性の形成』『新しいシステムの構築』といったものを教えてくれる。つまり、神話がわれわれを支えてくれているのです」と述べます。

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儀式論』(弘文堂)

 

 この「神話がわれわれを支えてくれている」という部分は、本書の中でも最重要であると思います。「人類は神話と儀礼を必要としている」とは著者の持論ですが、その神話必要論の根拠が書かれています。儀礼必要論のほうは、拙著『儀式論』(弘文堂)に詳しく書きましたので、ぜひお読み下さい。神話に話を戻すと、アメリカでは何層もの神話がせめぎあっています。もともとは、アメリカ先住民たちの神話がありました。そこへアングロサクソン系の人々がやってきて、キリスト教的な神話観に基づいてフロンティア(新しいエデン)を創造しようとしました。しかし、そのとき、先住民は虐げられました。さらに黒人奴隷がやってきました。黒人奴隷は差別されながら、アメリカの豊かさをつくりあげていくための労働力とされました。著者は、「まさにメソポタミア神話における下級の存在としての人間、ロボットのような存在としての扱いを受けた。しかし、アフリカの人たちは人類の祖先ともいえる、人類のいちばんの源ともいえる場所から来ているので、もっとも古い神話や儀礼などの物語要素を持っていた」と述べます。

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死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)

 

 先住民の神話の世界、白人の神話の世界、そして黒人の神話の世界がアメリカの中で三つ巴になっており、それらは折り合わさっているといいます。しかし、「それらの神話は間違いなく、アメリカのエネルギーを作りあげ、アメリカの生きる力を形成してきました」と、著者は言います。わたしも、その通りだと思います。しかしながら、まったく別の見方をすると、アメリカの歴史には神話の亜種のようなものが存在したと思います。拙著『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)にも書きましたが、建国200年あまりで巨大化した神話なき国・アメリカは、さまざまな人種からなる他民族国家であり、統一国家としてのアイデンティー獲得のためにも、どうしても神話の代用品が必要でした。それが、映画です。映画はもともと19世紀末にフランスのリュミエール兄弟が発明しましたが、他のどこよりもアメリカにおいて映画はメディアとして、また産業として飛躍的に発展しました。

 

 アメリカにおける映画とは、神話なき国の神話の代用品だったのです。それは、グリフィスの「國民の創生」や「イントレランス」といった映画創生期の大作に露骨に現れていますが、「風と共に去りぬ」にしろ「駅馬車」にしろ「ゴッドファーザー」にしろ、すべてはアメリカ神話の断片であると言えます。それは過去のみならず、「2001年宇宙の旅」「ブレードランナー」「マトリックス」のように未来の神話までをも描き出します。そして、スーパーマン、バットマン、スパイダーマンなどのアメコミ出身のヒーローたちも、映画によって神話的存在、すなわち「神」になったと言えるでしょう。たとえば、一条真也の映画館「バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生」で紹介した映画で暴れるスーパーマンは、まるで日本神話の「荒ぶる神」であるスサノヲのようでした。「ワンダーウーマン」で紹介した映画が面白いのは、本物のギリシャ神話とアメコミの世界を結びつけたところでしょう。ワンダーウーマンことダイアナ・プリンスはギリシャ神話の最高神であるゼウスの娘ということになっているのです。また、物語には軍神アレスも登場します。

 

 「人類の想像力・創造力を生む根源的なイメージは神話にある」では、神話がメッセージとして伝えてくれているものは、過去の人類の最大の知の遺産であると指摘し、著者は「われわれの世界がどんなに苦しい状況に直面しようとも、スサノヲやペルセウスが知恵と勇気によって苦難を乗り越えたように、必ずや打開の道があるはずだ──そういった物語を持つことで、われわれが生きていくビジョン、勇気、探求心、忍耐心、さらなる冒険心といったものを持つことができる。それによって、未来に向かって、新たな世界が創造されていくのです。また、人類の誕生以来、数々の芸術作品が、神話に基づいて生み出されてきました」と述べています。「スター・ウォーズ」などの映画も、ジョーゼフ・キャンベルの英雄神話研究に大きな影響を受けています。

 

 ジョーゼフ・キャンベルの英雄神話研究とですが、一条真也の読書館『神話の力』で紹介した名著があります。神話はずっと壊れずにわれわれの中で生き続け、考えさせる力、考えさせるきっかけとなり、そこからいろいろなヒントや解釈をつくりだしているとして、著者は「ある意味では、神話は、われわれの身の回りにある思いがけない宝物ともいえるでしょう。また、各国各地の神話と比較して、われわれの思考のパターンをいろいろなかたちに組み替え、攪拌して、リフレッシュさせていくこともできます。神話はそういう役割も果たしてくれます。どのような時代になっても、神話的な物語こそが、新しい技術、新しい発明、新しいシステム転換を生み出していく大きなきっかけをつくってくれる。人類の想像力・創造力を生み出す根源的なイメージは、やはり神話にある──そう私は思うのです」と述べるのでした。

 

 第三章 「『古事記』はオペラ、『日本書紀』はアーカイブ」の「スペクタクル映画のように描かれる『古事記』」では、『古事記』と『日本書紀』の大きな違いは何かについて、「まず、成立年代です。『古事記』は西暦712年とされており、一方、『日本書紀』は、それから8年後の西暦720年に編纂されたとされます。『古事記』には序文がありますが、『日本書紀』には序文はありません。『古事記』の序文がまた特異で、稗田阿礼が『帝王日継』や『先代旧辞』を『誦習』し、口承したものを、太安万侶が書き留めていったことなどが記されています」とあります。著者は、「私から見ると、『古事記』はまるでオペラのようです。たとえば、『古事記』全体の中には、112首の歌が収められています。収録されている歌は、短歌や長歌などさまざまです(短歌はよく知られているように『五・七・五・七・七』が基本のリズム。長歌は『五・七』を繰り返して最後が『五・七・七』となるのが基本です)。その112首を総称して『古事記歌謡』とも呼ばれます。『日本書紀』にも128首の歌が載せられているのですが、『地の文』と『歌の量』を比較すると、歌の比率は圧倒的に『古事記』のほうが高くなっています」と述べています。

 

 『古事記』の神代の巻の上では、神々の出現が荘厳に描かれていきます。その後も、スサノヲやオオクニヌシなど、個性豊かな神々が織りなす面白いストーリーが、それこそスペクタクル映画でもあるかのように描かれるとして、著者は「まことに楽しく、まことに興味深い神話です。私も以前、『超訳 古事記』(ミシマ社、二〇〇九年)という本を書きました。まるで「詩」のような文体で『古事記』を現代語に「超訳」したわけですが、それは私が『古事記』を神聖なる詩劇、神聖オペラとして捉えているからです。歌物語なのですから、歌劇のように、詩劇のように、詩的な格調をもって語られなければならない。しかも、神聖な神々の歌・叙事詩・祝詞を歌うのが『古事記』です。『古事記』の根幹には、「歌う」ことがあるのです」と述べています。

 

 一方、『日本書紀』は歌ではありません。すべて記録です。つまり、後世に遺していくべきアーカイブなのです。よく言われているように、『日本書紀』は編纂当時の国際状況を受けて、明らかに外国(東アジア)を意識したものでした。「『古事記』を重要視した本居宣長の『常識』を乗り越える」では、『古事記』は「詩劇」であり、一方、『日本書紀』は後世に遺していくべきアーカイブだとしつつも、著者は「もちろん、『日本書紀』の編纂の目的は、『日本はどのような国であるか』という国家の根幹や国家意思を示すことにありました。そのために、日本の天皇がどのような神々の系譜の中で続いてきて、記述の最後の持統天皇までつながっているかの記録を連綿と残したのです」と述べます。『日本書紀』には、長らく宮廷の文化の中で権威を担ってきた歴史があります。それをひっくり返したのは、江戸時代の国学者・本居宣長による『古事記伝』などの著作であったことが指摘されます。

 

 『古事記』の特徴は何といっても、日本的なスピリチュアリティ、日本的なキャラクター、文化の面白さであるとして、著者は「それを本居宣長が指摘し称揚したことで、はじめて『古事記』の世界が前面に出てきたのです。それから今日に至るまで、日本の心、日本文化の心を探るためには『古事記』がいちばん重要な書だという『本居見解』が、世の常識になっています。しかし、『本居見解だけが常識だ』ということは疑わなければいけません。もともとは『日本書紀』が重要であったわけですし、『古事記』も面白いけれども、『日本書紀』もそれはそれとして面白いのですから。『日本書紀』の面白さは何であるのか。1つひとつの混乱させられるような部分も細かく分析し、考察して、大きく捉えて位置づけていかなければいけないのではないでしょうか。その役割がこれからの研究者には求められているといえるかもしれません」と述べます。

 

 「『我が御心清淨し』──和歌のはじまり」では、スサノヲが、ヤマタノオロチから助けたクシナダヒメと結婚し、二人で住む「宮」をつくるべき地として、出雲の「須賀」に行きついたことが紹介されます。生まれた直後から泣き叫び、幾度もの悲嘆を繰り返してきたスサノヲは、このとき、はじめて自分の心が晴れ晴れと、清々しい気持ちになりますが、このときに自分の心の解放、歓びを託してスサノヲが詠んだ「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」という歌は、日本の和歌のはじまりだとされます。著者は、「日本の歌をも生み出したのがスサノヲです。また、スサノヲが原因となってアマテラスが天岩戸に籠もってしまい、それを復活させるために『祭』が行なわれたわけですから、スサノヲなしに日本の祭もなかったことになります。そういう意味では、スサノヲは日本文化の根源でもあるのです」と述べます。

 

 「『古語拾遺』や『先代旧事本紀』もふまえて日本神話を読み解こう」では、日本神話の神話的想像力や伝承の根幹に何があったのかを特定していくためにも、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』『先代旧事本紀』のいわゆる「四書」に遺されている伝承をしっかりと見比べながら、より古い、より根幹的な伝承部分は何であったのかを見ていかなければならないと述べ、さらに著者は「加えて、各国・各地域の地理・地形・地勢や産業や神話伝承を記録した各国の『風土記』も併せて検討していく必要があります。日本という国は、どれだけ最少に見積もっても1300年以上、天皇を体制の中軸に置いてできあがっていることは間違いありません。そのような日本の国家のあり方をつくっていくときの構造とは、どのようなものだったのか。それを補完、下支えしていく重要なストーリー(物語)が、どのような各氏族の勢力抗争の中で、どのようにして現われ出てきたのか。それが日本の国の成り立ちや統治のしかたと、すべて結びついてきているともいえるでしょう」と述べるのでした。

 

 第4章「ギリシア神話を深堀すると日本神話もよくわかる」の「なぜ『あの世』から『この世』を考えるのか――ミュトスとロゴス」では、プラトンの『国家』の最後に登場する「エルの物語」が取り上げられます。神話と哲学の関係について、「哲学の始まりは、神話を乗り越えること(ミュトスからロゴスへ)だ」といわれることがあるとして、著者は「ミュトス、つまり神話などのような物語や伝承の世界は、要するに人間がつくりあげたフィクションだから、そのようなフィクションではなく、真に論理的・理性的に判断できるロゴスの世界に立脚するのだ。そのように語られるわけです。しかし、プラトンを読んでいると、そんなに簡単ではありません」と述べています。

 

 「エルの物語」には、神話の人物(たとえばオルフェウスなど)が巧妙に組み入れられて、普遍的な正義の根拠とされていると指摘し、著者は「神話のメッセージをうまく読み替えて、ロゴスの中にミュトスを入れ込んでいる。つまり、ミュトスの息吹を用いることによって、よりリアルに、より生き生きと、その時代の人々の感性や思想に訴えかけているのです。このように神話は、さまざまな思想を物語るときの重要な手立てになっているのです。この世(現世)とあの世(異界)を串刺しにするようなかたちで、自分の生き方や社会のあり方をつくっていかなければ、かえって翻弄されてしまう。そのようなメッセージが、このプラトンの『国家』の記述から濃厚に伝わってきます」と述べます。

 

 「物を考えることの根幹に、どのような神話があるのか?」では、神話は、その神話を語り継ぐ社会の文化背景でもあり、その社会で生きる人々の人生の背景でもあるとして、著者は「いろいろな知恵や救いを人間に与えてくれるものでもある。しかし、だからこそ、神話の世界観の違いが、実際の人間観や社会観の違いにもつながります。神話は『ただの物語』ではありません。神話は世界の『絵解き』です。また、ある意味では、私たちの生存を基礎づけていく、ある種の不思議な『なぞなぞ』でもあります。そして、神話を受け継いできた人々は、その神話が絵解きをしてくれたものから、メッセージを受け取ってきました。そこから、知恵を汲み取り、人生を生き抜いていくヒントや活力ももらってきたのです。ですから、たとえばギリシア神話と日本神話の世界観の違いは、西欧社会と日本社会の違いをもたらしているはずです」と述べています。

 

 ギリシア神話は、竪琴を奏でたりしながら神話をうたい聞かせていく吟遊詩人たちによって社会の隅々にまで広められていきました。そして古代ローマ帝国にも、決定的な影響を及ぼしたわけですが、現代日本の吟遊詩人である著者は「吟遊詩人たちは、実は哲学者の先駆者のような部分もあったのではないかと、私は思います。なにしろ吟遊詩人たちは、神話を何度も何度も語っていくわけです。幾度も語るうちに、やはりその物語の意味について、深く考えをめぐらせなければいけなくなる。また、ドラマチックに語るためにも、意味の深掘りは必須です。その深掘りが、ますます人々の心を強く捉えていったはずです。そして、そのようにして社会に浸透していった物語は、その物語を受容した社会の人々が哲学や思想を形成する基盤になっていきます。そのことは、いま見てきたプラトンの『国家』でも明らかです。その点からしても、やはりホメロスの『イリアス』『オデュッセイア』や、ヘシオドスの『神統記』『仕事と日』などをはじめとする著作に残されたギリシア神話が、西洋思想の根幹をなしていることは疑いありません」と述べます。

 

 そして、著者は以下のように述べるのでした。
「たとえばギリシア神話の『父殺し』のテーマが導き出した『エディプス・コンプレックス』のような見方。あるいは、黄金の時代から鉄の時代への変遷が示すような『下降史観』の考え方。あるいは『運命』についての、厳格な捉え方。それらは、実際に西洋の社会にどのような影響を与えているのでしょうか。そこは、日本人としてはとても興味深いところです。一方、これまで述べてきたように、『古事記』や『日本書紀』の神話には『父殺し』の物語はほとんどなく、『天壌無窮』『修理固成』の未来志向の歴史観が貫かれ、しかも『運命』に縛られる意識が相対的に低く、道を切り拓いていく楽天的な人生観が多く描かれている。そのような神話伝統の違いが、日本と西洋、さらに他の文化圏と、どのような異同を生み出しているのか。そのようなことも、本書をきっかけに、ぜひ考えてみていただければ幸いです」と述べるのでした。

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「魂の義兄弟」である著者と

 

 「テンミニッツTV」で収録した内容が原話となっている本書は、まことに読みやすく、面白い神話の書でした。わが社の社名の由来である「産霊」についての詳細な記述も勉強になりました。著者とわたしは「魂の義兄弟」であり、もう18年近くも「ShinとTonyのムーンサルトレター」というWeb往復書簡を交わしています。その中で、「人類は神話と儀礼を必要としている」と言う言葉が2人の合言葉のようになっています。「人類はなぜ儀礼を必要とするか」については日頃から考え続けて、そのことについての本もたくさん書きましたが、本書を読んで「人類はなぜ神話を必要とするのか」がじつに明快に書かれていると感じました。著者とは「神道と日本人」をテーマにした対談本を出す予定ですが、やはり「神話と儀礼」がメインテーマになると思いました。