No.2143 プロレス・格闘技・武道 | 歴史・文明・文化 『柔術狂時代』 藪耕太郎著(朝日新聞出版)

2022.06.24

『柔術狂時代』藪耕太郎著(朝日新聞出版)を読みました。「20世紀初頭アメリカにおける柔術ブームとその周辺」というサブタイトルがついています。著者は、1979年兵庫県生まれ。立命館大学大学院社会学研究科博士後期課程修了。仙台大学体育学部准教授。博士(社会学)。専門は体育・スポーツ史。

本書の帯

 本書のカバー表紙には多くの柔術関係の古写真が使われ、帯には「柔術・柔道が世界に与えた衝撃をこの1冊が証明した。 増田俊也(作家)」と書かれています。

本書の帯の裏

 帯の裏には、「20世紀初頭のアメリカで生まれた、ジャポニズム、日露戦争、大衆消費社会などを背景とする柔術・柔道の大流行。そこには嘉納治五郎の期待を背負って米大統領に柔道指南する柔道家もいれば、レスラーと異種格闘技試合に挑む柔術家もいた。さらに流行の波はヨーロッパから南米にまで波及して?――著名な柔道家ら無名の柔術家での活動を通じて、海の向こうで生じた柔術・柔道ブームの実相を、豊富な図版資料とともに描く」と書かれています。

 本書の「目次」は、以下の構成になっています。
序論
第1章 熱狂のとば口
――ジョン・オブライエンと20世紀初頭のアメリカ
補論1 世界大戦と柔術
――リッシャー・ソーンベリーを追って
第2章 柔術教本の秘密
――アーヴィング・ハンコックと「身体文化」
補論2 立身出世と虚弱の克服
――「身体文化」からみた嘉納治五郎
第3章 柔術家は雄弁家
――東勝熊と異種格闘技試合を巡る物語
補論3 私は柔術狂
――ベル・エポック期パリの柔術ブーム
第4章 柔道のファンタジーと
    日露戦争のリアリズム
――山下義韶と富田常次郎の奮戦
補論4 日本発祥か中国由来か
――「日本伝」柔道を巡って
第5章 「破戒」なくして創造なし
――前田光世と大野秋太郎の挑戦
補論5 「大将」と柔術・
    「決闘狂」と柔道
――南米アルゼンチンにおける柔術や柔道の受容
「あとがき」
「註」
「史料・文献」
「図版出典一覧」

 序論の3「ジャポニズム・日露戦争・大衆消費社会」では、20世紀初頭における柔術・柔道の世界的な流行について、最初に当時のアメリカで柔術・柔道が流行した理由が検討されています。著者は、「まず考えられるのは、ジャポニズムとの関連である。19世紀後半から20世紀初頭にかけてヨーロッパを席巻したジャポニズムの波はアメリカにも押し寄せ、美術や工芸、建築や文学、さらには日用品にまで影響を与えていた。こうした指向性のうちに、柔術や柔道を含めることはできるだろう」と述べます。

 もうひとつ重要なのは日露戦争の影響です。この戦争は、単に満州地方や朝鮮半島の支配権を巡る二国間の争いというよりは、日英同盟を組んだイギリス、ロシアを支援するドイツ・フランスなど、列強各国の思惑が複雑に入り組んだ世界戦の様相を呈していたと指摘し、著者は「ジャポニズムと日露戦争は、アメリカにおける柔道・柔術ブームを読み解くうえで必須のキーワードだ。それに加えて、本書が特に重視したいのは、20世紀初頭のアメリカの社会状況である。なぜなら当時のアメリカには全世界に先駆けて大衆消費の時代が到来していたからだ」と述べます。

 なぜ、大衆消費時代の到来が、柔術・柔道ブームに関係するのか? それは、この文脈において、柔術や柔道は大衆のニーズに応える形で受容されたからです。、また『カノウ柔術(柔道)大全』を筆頭に、それらはしばしば消費の対象とされたとして、著者は「柔術や柔道の受容の大多数をなしたのは、日本通でも格闘技の専門家でもなく大衆であり、だからこそそれは爆発的な一大ムーブメントになり得たのである」と述べるのでした。

 第1章「熱狂のとば口――ジョン・オブライエンと20世紀初頭のアメリカ」では、当時流行していた柔術家とボクサーの対決について、著者は「ボクシングはピュジリズムから袂を分かち、近代スポーツとしての道を歩み始めていた。もちろんボクシングからピュジリズム的な要素、たとえば強烈な闘争心や勇気、成り上がり精神などが失われたわけではなく、その意味でボクシングもまた『男らしい』文化ではあった。しかし同時にそうした『男らしさ』は、ルールにのっとり公平な条件で戦うというスポーツマンシップ、あるいはコーベットの異名が示す『ジェントルマン』の精神にも紐づけられていた」と述べています。

 ちなみに、ピュジリズムとはボクシングの原型となった拳闘ですが、著者は「ピュジリズムとボクシングの最大の分水嶺はこの点にこそあり、そしてスポーツだからこそボクシングは非スポーツとしての柔術とは相対しない。逆説的にいえば、『紳士』に対する『壊し屋』という構図は、事実上両者の対決が不可能であることを暗示する一方で、『紳士=スポーツ』に対応する『柔術=非/反スポーツ』、という構図をも内包していたのである」と述べます。

 補論1「世界大戦と柔術――リッシャー・ソーンベリーを追って」の1-2「レクリエーションとしての柔術」では、柔術が駐屯地で受容されたことを指摘し、著者は「それが軍隊格闘技としてだけでなく、スポーツやレクリエーションとしても受け入れられていた様子が伝わってくる。そもそも軍律厳しい緊張度の高い生活を強いられる駐屯地では、戦意の維持、心身の鍛錬、そしてストレスの解消を兼ねて盛んにスポーツが奨励されていた。特に人気があったのは球技だが、レスリングやボクシングなどの格闘技を学ぶ者も多く、その中に柔術のサークルもあった」と述べています。

 そこでは殺伐とした軍隊格闘技としての柔術ではなく、レクリエーションとしての柔術を学ぶことができ、さらにときには見物人を集めて余興試合すら行われたとして、著者は「柔術という名称やイメージが一気に人口に膾灸したのは日露戦争期だろう。しかし、柔術を実際に学んだ人々の多さという点では、第1次大戦期がそれを大きく上回るはずだ。なぜなら、日露戦争期の柔術ブームが総じて言説空間から抜け出ることがなかったのに比して、第1次大戦期の柔術は駐屯地という確固たる足場を持って展開したからだ」と述べるのでした。

 第2章「柔術教本の秘密――アーヴィング・ハンコックと『身体文化』」の1-2「手刀とウォーキングの奇妙な関係」では、アメリカのスポーツ新聞『ガゼット』で、巴投と手刀に話題が集中したことを紹介し、著者は「特に巴投は柔術の代名詞のごとく扱われた感がある。死中に活あり、を体現するこの捨身技は、みた目が派手なばかりではなく、柔術とレスリングとの差異を端的に示すものでもあった。というのは、両肩を同時にマットに抑えつけるフォールの技術を前提とするレスリングにおいて、巴投の発想自体が考えられないものだったからである」と述べています。

 そして手刀もまた、柔術を象徴的する技でした。巴投とレスリングの関係と同じく、手刀もまたボクシングやピュジリズムの発想の外にあったと指摘し、著者は「グローブの着用はおろか拳を握り込むことすらせず、手の平の側面で相手を攻撃するこの技術もまた、巴投と同様に読者の関心を引いたのだろう。さらに手刀は、〈東洋由来の神秘的な殺人技〉、という柔術イメージにもピッタリだった。それは人体の急所を突く『死の接触』(death touch)、あるいは『致命の一撃』(fatal blow)などと称され、即座に相手を戦闘不能に陥れる謎の技術として好奇の的となった」と述べます。

 補論2「立身出世と虚弱の克服――『身体文化』からみた嘉納治五郎」の冒頭を、著者は「嘉納治五郎(1860~1938)はいくつもの誇るべき顔を持つ。いまや世界的な文化となった柔道の創始者であるのはもちろんのこと、東京高等師範学校(現:筑波大学)の校長を23年半にわたって務め、近代日本の体育・スポーツの発展に尽力し、さらにはアジア初の国際オリンピック委員会(IOC)委員としてオリンピック・ムーブメントを推進した」と書きだしています。

 1「柔道と国民教育」では、嘉納は何も手本とせずにゼロから柔道を創ったわけではなく、技術的なベースとなったのは柔術であると指摘し、著者は「嘉納と柔術との最初の出会いは1877年のことで、天神真楊流の福田八之助(1828~1879)に師事して2年ほど修行に励み、福田が病没後はこの道場を継ぎながら、同流の磯正智(三世磯又右エ門:1818~1881)の門人となった。その磯もまた没したことで、嘉納は新たな師を求めて起倒流の達人として名をはせていた飯久保恒年(?~1888)の門をたたき、かくして二流を修めた。そのうえで嘉納は、双方の長所を掛け合わせ、近代社会に適合可能なように改良し、それを講道館柔道と名付けたのである。嘉納は、柔術が技術ないし応用を指すならば、柔道は理念あるいは基本であると考え、知・徳・体が三位一体となった人格形成の手段として柔道を位置づけた。〈道を講じる場所〉を意味する講道館という命名も、その理念の表れである」と述べています。

 第3章「柔術家は雄弁家――東勝熊と異種格闘技試合を巡る物語」の2「決戦の気運」の2-1「ワンダフル? 柔術」では、「雄弁家」が喧伝する「素晴らしき柔術」像を覆す、柔術家・柔道家の相次ぐ敗戦が取り上げられ、著者は「柔術のイメージは急速に悪化し、紙面はネガティブな言説で埋め尽くされるようになる。その象徴的なニュースが、フィラデルフィア在住の20代のアスリートが柔術家との親善試合で重傷を負わされ、その後死亡したというゴシップである。このニュースは、まず3月5日に『柔術、アスリートを殺す』と題して、殺人事件さながらに報じられた。さらに1週間後、今度は『柔術』と題する検証記事が掲載される。そこでは、『破壊的かつ生命の危機に関わる柔術の本性が暴露された』と柔術の恐ろしさが強調されたうえで、『将来が約束されていたはずのこの有望な若者[20代のアスリート]は無益に利用され、東洋の異様な儀式のための祭壇で生贄にされた』と結ばれた」と書いています。

 〈殺人犯のような柔術家、邪教に見紛う柔術〉といった記述の仕方は、大衆の恐怖心をあおるばかりでなく、それ以上に復讐心を惹起するだろうとして、著者は「このとき柔術とレスリングの関係は、もはや優劣によってではなく、善悪によって語られる。善良なアメリカ市民を脅かす殺人犯や邪教は、アメリカの『正義』によって成敗されなければならない。こうして勧善懲悪の物語が社会的に要請される。この物語に従って異種格闘技試合が制裁の場となるとき、それもまたひとつの儀式的な色調を帯びる。つまり『東洋の異様な儀式』は、アメリカ側が用意した別の儀式によって浄化されるのだ。そうであるならば、異種格闘技試合という名の儀式に備えられた本当の『生贄』は、実のところアメリカの有望な若者ではなくて、柔術家のほうだったといえはしないだろうか。先の引用をもじって言えば、〈柔術家は無益に利用され、アメリカの「正義」の名に基づく制裁の儀式のための祭壇で生贄にされる〉のである」と述べます。わたしには『儀式論』(弘文堂)という著書がありますが、異種格闘技試合の本質とはまさに儀式であることに気づきました。

 5「もうひとつの物語」の5―3「受け継がれた柔術」では、柔術狂時代における異種格闘技試合が単なる拒絶と決別の物語のみに終始しないのは、その物語の裏側で、柔術の技術がレスリングへと受け継がれていったからであるとして、プロレスの”鉄人”ルー・テーズの師としても知られるアド・サンテルが取り上げられます。レスラーのジョージ・ボスナーから柔術を学んだサンテルは、次々と柔術家・柔道家をなぎ倒しました。すなわち、1915年11月の一戦で柔術家の野口清(1877~1930)に圧勝すると、日本人初のプロレスラーになった柔術家の三宅タロー(1881~1935)、シアトルの柔道場で師範を務めていた柔道家の坂井大輔(1887~1932)、そして講道館きっての実力者、伊藤徳五郎(1880~1939)を次々に撃破したのです。

 こうして柔術・柔道キラーとなったサンテルは、米国内にもはや敵なしと判断して1921年に来日し、柔道家の挑戦状を募りました。著者は、「このとき、挑戦の受諾の賛否を巡って嘉納治五郎と鋭く対立し、柔道観の違いから講道館を脱退したのが岡部平太である。一方、嘉納は黙認に近い形で当初は応じようとしたものの、高弟一同の猛反対に遭って翻意したという経緯があるが、もしもこのとき対戦が実現していたら、その後の柔道は、いま私たちが目にする柔道とは技術も理念も異なっていたかもしれない」と述べています。

 補論3「私は柔術狂――ベル・エポック期パリの柔術ブーム」では、小説家のモーリス・ルブラン(Maurice M.E.Leblanc:1864~1941)は、『アルセーヌ・ルパンの脱獄』(L′Evasion d′Arsene Lupin)に胸を躍らすパリジャンのために、ひとつの仕掛けを用意したことが紹介されます。著者は、「世にも名高い怪盗紳士を柔術家に仕立てたのである。行く手に立ち塞がる力自慢のガニマール警部を難なく返り討ちにしたルパンは、警部を立腕拉固で捕えつつ、パリ市警の警官ならば、この技も知っているはずだ、とうそぶく。変装の達人は柔術の達人でもあったのだ」と述べています。

 その1年前、柔術は銀幕デビューも飾っていました。タイトルは『柔術の真実』(Le Vrais Jiu‐Jitsu)。著者は、「スクリーン投影式のシネマトグラフ(cinematographe)でこの作品を撮ったのは、世界初の女性映画監督といわれるアリス・ギィ・ブラシェ(Alice Guy‐Blache:1873~1968)である。主演に起用された喜劇役者のアーマン・ドラネム(Armand Dranem:1869~1935)によるコミカルでシニカルな演技は、2分半のコメディ仕立ての映画にうまくマッチしている」と説明しています。

 第4章「柔道のファンタジーと日露戦争のリアリズム――山下義韶と富田常次郎の奮戦」の1「柔道のアメリカ初上陸」の1―1「柔道の代表者」では、講道館130年の歴史において、十段位を許されたのは15名しかおらず、さらに嘉納治五郎が存命中に十段を認めたのはわずかに3名であるとして、著者は「1人は磯貝一。この寝技の達人がいなければ、講道館の全国拡大は西の壁に阻まれていたかもしれない。磯貝の研鑽あってこそ、柔道は寝技の巧みな関西の柔術家勢に対抗し得る技術を得た。もう1人は捨身技を極めた永岡秀一。磯貝とともに1937年に十段位を授けられたこの不世出の柔道家は、東京高等師範学校(現:筑波大学)など高等教育機関での柔道教師を歴任し、誰からも愛される人柄に嘉納の寵愛のほども深かった」と述べています。

 そして、講道館四天王のその1、山下義韶(1865~1935)こそ、講道館初の十段位授与者でした。著者は、山下義韶について「けた外れの強さから『鬼横山』と称された横山作次郎や、幻の大技『山嵐』の使い手としておなじみの西郷四郎を差し置いて、山下が四天王の筆頭に置かれるのは、山下ほど嘉納から信任を得た柔道家はいないからだ。その信頼と評価の度合いの高さは、師に先んじて没した山下を悼んで嘉納が認めた『永訣の辞』によく表れている」と述べます。

 1-2「ハイブラウな文化」では、1904年を迎えると、山下がメディアに露出する回数は漸増するとして、著者は「理由は単純で、3月からローズヴェルト大統領への柔道指南が始まったからだ。ただし、当時はまだ柔道ということばは社会に浸透しておらず、このニュースを報じた新聞各紙のいずれをみても、柔道ではなく柔術と記されている。なお、ローズヴェルトはそれなりに熱心に柔道を学んだようだが、日露戦争の開戦直後という時期的状況に鑑みれば、大統領の柔道実践は、自らを知日家として演出するための一種の政治的パフォーマンスとしての意味合いが強かったと考えられる。こうして山下の知名度は、大統領のインストラクターという肩書とともに跳ね上がり、その活動が記事にされる機会も増えていった」と述べています。

 アメリカにおける柔道の受容は柔術のそれと基盤を異にしていました。大衆社会に立脚し、それゆえ流行現象となった柔術に比して、柔道は当初より大衆社会から隔絶された上層社会で受け入れられていたのです。著者は、「それは、そもそも前世紀転換期の段階においては、日本国内ですら柔道はかなりハイブラウな文化だったことと無関係ではない。講道館の創設から発展の初期において、嘉納は高等教育機関を柔道普及の要としており、そこで柔道を学ぶ機会を得た学生が、今度は留学先の大学に柔道を伝えたのである」と述べます。

 それは日米の若きエリート同士による文化交流であり、それゆえにある種の特権性と閉鎖性を帯びていたと指摘し、著者は「柔道はクローズド・サークルの中の文化だったのである。けれども、こうした環境もまた、山下の登場によって変化していく。柔術への熱狂が高潮へと達する過程で、メディアは大富豪サム・ヒルが日本からわざわざ招いた柔道家の一挙一動を追うようになり、その視線は高等教育機関の内部にまでも潜り込むようになる。こうして山下の意図とは別に、柔道もまた大衆社会との接点を持つようになった」と述べています。

 補論4「日本発祥か中国由来か――『日本伝』柔術を巡って」では、嘉納治五郎の目的は、柔道を通じて「国士」としての国民の創出を図ることにあったとして、著者は「そうである以上、柔道は『国士』が学ぶに足る文化、つまり、誰か特定の個人や集団のみではなく、国民全体を射程に収めた文化でなくてはならない。嘉納がわざわざ『日本伝』講道館柔道と命名した理由の一端もそこにある。「日本伝」という名乗りは嘉納のオリジナルではなく、たとえば1883年に師匠の飯久保恒年から授かった免状にも『日本伝起倒柔道』とあるが、そうした先達の想いをくみ取りつつ、嘉納は講道館柔道が『日本伝』柔術の伝統を受け継ぐ文化であるとアピールしたのである」と述べています。

 1「柔術の日本起源論」では、嘉納にとって柔術は、一面において文明開化の波に乗り遅れた時代の遺物であり、武術界の堕落の象徴だったと指摘し、著者は「従って嘉納は、国内に向けて情報発信する際には、柔術に最大限の配慮を払いながらも、柔道と柔術の差異を説いている。けれども、国外向けに発信されたこれらの言説において、両者の区別はさほど重視されていない。それは、国内の事情を知らない外国人を想定しての措置だったのだろうが、たとえそうであれ、柔術の中国由来論を躍起になって否定する嘉納の姿に、並々ならぬ「日本伝」への拘泥を読み解くことができる。柔術の起源を日本に求めることは、かように柔道の根幹に関わる大事だった」と述べます。

 第5章「『破戒』なくして創造なし――前田光世と大野秋太郎の挑戦」の5「前田が求めた柔道」では、ブラジルで活躍し、グレイシー柔術の祖となった”コンデ・コマ”こと前田光世が取り上げられ、5-2「嘉納と前田の距離」では、講道館には「形」ではあれ当身技(打撃技)があり、しかも嘉納は、ゆくゆくは当身技を乱取りに組み込もうと考えており、また後年になると、合気道や空手の技術にも強い関心を示すようになったとしながらも、著者は「重要なのは、嘉納柔道の根本が教育にあった、ということだ。それは思想のみならず技のありかたにも表れている。たとえば嘉納は寝技より投技を重視した。それは、投技の鍛錬が体育や精神修養の観点から最も有益と考えていたからである」と述べます。

 しかし前田が夢想した柔道は徹底的に対異種格闘技用の柔道であり、そこに教育的な配慮はありませんでした。前田もまた「投げ業で負かすのが一番気持ち良い」としたが、しかし同時に投技は「一方の降参するまで」の勝負において究極的には重要ではないとも考えていたとして、著者は「『投げられて[も]後の先に出るほうが真の勝』とみなす前田にとって、投技の価値は寝技や当身技と同等である。前田のまなざしは、徹頭徹尾、異種格闘技試合での勝利にのみ向けられていた」と述べています。この思想が後のグレイシー柔術を生んだのです。

 前田は在りし日の柔術に戻ろうとしたのではなく、異種格闘技試合の枠組みに適合的な柔道を求め、西洋の格闘技の長所を取り入れた結果、一面で柔術ともみなしえる格闘体系の構築に至ったのだという著者は、「言い方を変えれば、嘉納が近代教育としての柔道を構想したように、前田は近代競技としての柔道を追い求めたのであり、ただそこで前提とされる競技の形態が、東西の異なる近代格闘技同士を戦わせる試合形式、すなわち異種格闘技試合だったのである」と述べます。

 さらに敷衍すれば、異種格闘技試合という発想自体が、人と人、文化と文化、技術と技術、その他ありとあらゆるモノが人類史上未曽有のグローバルなスケールで入り混じる、近代という時代の所産だったとして、著者は「この点で前田に先見性を認めるとすれば、異種格闘技試合が文化対決の場であり同時に文化混淆の場でもあることをその身をもって体験したうえで、流行が去った後もなお異種格闘技試合のニーズが消えることはないことを、半ば直感的に理解していたことにあるのではなかろうか。その意味で、『コンデ・コマ流柔道』は、異種混淆の時代としての近代を的確に反映していたのである」と述べます。

 5-3「異端児にして『国士』」では、前田光世といえば、嘉納の禁、あるいは柔道の「ご精神」を破って異種格闘技試合に乗り出したことと、やがて従来の柔道の枠組みを超え出る格闘体系を創案したことに目が行きがちだとしながらも、著者は「その一方で、それのみをもって前田光世を語り尽くすことはできない。異種格闘技試合に身を捧げ、『コンデ・コマ流柔道』を夢みた前田は、しかし遠い異国の地にあってすら、柔道の本義を伝えようともしていたのではないだろうか。そしてこのとき、前田の中にも、紛れもなく嘉納の遺伝子が受け継がれていたことが再確認される」と述べます。

 さらに、著者は以下のように述べるのでした。
「コニー・アイランドでの初戦を含めて、日本人移民の期待を背に戦い続けた前田は、いつしか『僕は海外に居る日本柔道家を代表して柔道を傷けず外国人と勝負するから、[リングネームを]日本前田とする』ようになり、そして最後にたどり着いたブラジルの地では、新たな日本人移住者の安住の地を設けるべく、アマゾン開拓事業に乗り出していく。異種混淆を通じて嘉納柔道を超越しようとする講道館の異端児は、紛れもなく嘉納が求めてやまない『国士』でもあったのだ」

 「あとがき」では、本書で主に論じたのは、資本主義が高度化し、都市部を中心に大衆消費社会が形成されてゆく時期のアメリカにおける柔術と柔道の受容の様態だったとして、著者は「そこでは柔術や柔道は商品となり消費の一大対象となる。それだけではない。流行を駆動させたのは愛憎入り混じる柔術や柔道への複雑な感情であり、その背景には帝国主義の時代性や日露戦争を介した日本へのまなざしがあった。いま少し詳しくいえば、アメリカの大衆の愛国心をくすぐる仕掛けが、商品化された柔術や柔道のうちに一緒にパッケージ化されていたのである」と述べるのでした。本書を読んで、柔術や柔道がいかに時代というものと密接に関わっていたかを知り、非常に勉強になりました。格闘技や武道に関心のある方は、ぜひ一読されることをお勧めします。

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