No.2141 日本思想 | 芸術・芸能・映画 『教養としての茶道』 竹田理絵著(自由国民社)

2022.06.16

 『世界のビジネスエリートが知っている教養としての茶道』竹田理絵著(自由国民社)を読みました。茶道500年の歴史を習得するための本です。著者は、株式会社 茶禅の代表取締役。一般社団法人 国際伝統文化協会理事長。日本伝統文化マナー講師 茶道裏千家教授。和の教養や精神を身につけて、世界で活躍したいビジネスパーソンに対して、日本の伝統文化や茶道、和の作法で支援するグローバル茶道家。神楽坂生まれの3代目江戸っ子。青山大学文学部卒業後、日本IBMに入社。退社後、日本の伝統文化の素晴らしさを伝えたいと株式会社茶禅を創設。 銀座と浅草に敷居は低いが本格的な茶道を体験できる茶室を開設。茶道歴40年、講師歴25年。年間世界30カ国の方々に日本の伝統文化を伝え、延べ生徒数は30000人を超えるとか。ブルネイ国王即位50周年のイベントにて茶会披露。各国首相や大使館、官庁、VIP、一部上場企業からの依頼で、お茶会を多数実施。

本書の帯

 本書の帯には、「茶道500年の歴史はグローバル社会での必須教養。」「茶道の教えから読み解くビジネスエリート必読書!」と書かれています。帯の裏には、「世界のビジネスパーソンが憧れる『おもてなし』。それを体現するのが『茶道』。」と書かれています。カバー前そでには、「海外では茶道=日本を代表する文化と考えられています。千利休、わび・さび、表千家・裏千家など茶道にまつわる言葉をあなたは説明できますか? 本書で茶道の中に隠れているビジネスや生活の知恵をみつけて、世界に発信しましょう!」とあります。

本書の帯の裏

 本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」
第1章 外国人が知りたい
    日本の文化・世界が憧れる
    日本のおもてなし
第2章 なぜエリートは
    茶道の虜になるのか
第3章 これだけは知っておきたい
    日本の伝統文化「茶道」
第4章 ビジネスや日常に活かしたい
    千利休七つの教え
第5章 知っていると一目おかれる、
    日本人としての品格
第6章 知っていると自信が持てる
    お茶会の作法 楽しむ為の知識
「おわりに」
「参考文献」
「著者プロフィール」

アマゾンより

 「はじめに」では、著者は、自身のことを「祖父は掛け軸の職人、母は茶道の先生という家庭の中、和の空間があたりまえと思って育ってきました。社会人となり、外資系企業に入った際、外国人から『日本の文化について』説明を求められた際に何も答えられずに、恥をかき、せっかくのチャンスを逃した人をみて、寂しい気持ちになり、茶道を中心とした日本の伝統文化の素晴らしさを伝えたいと思うようになりました。退職後、どなたにも気軽に茶道を楽しんでいただきたいとの想いから、銀座の歌舞伎座の隣りに小さなお茶室を開きました」と述べています。

 その銀座にあるお茶室「茶禅」には年間30カ国以上の人々が日本の文化を求めて訪れることを紹介し、著者は「海外でもお茶会をさせていただきますが、そこにいらっしゃるお客様たちの茶道に対する関心の高さは想像以上です。ミラノでは定員の10倍のお客様からのお問い合わせをいただいたり、ニューヨークのJFK空港でもたくさんのお客様がお茶会に参加してくださったりしました。海外の人々が茶道に強い魅力を感じるのは、茶道の文化的な面や美意識は勿論のこと、礼儀や思いやりを重んじるふるまいなど、精神面の美しさにも強く憧れるからのようです」と述べます。

 ビジネスパーソンとして求められているのは、ただ仕事ができるだけではなく、人間的な幅や厚みを身につけ、豊かな心を持った教養ある人であるという著者は、「そのような時代に、日本の伝統文化や精神について説明できることが益々重要になっています。茶道は書道、華道、香道、着物、建築、和食など、日本の美意識が全て入った総合伝統文化といわれています。教養として茶道を学ぶことは、幅広い日本の伝統文化を学ぶことにもなります。日本人として、日本の伝統文化についての教養を身につければ、国際人として真の自信を持つことができると思います」と述べるのでした。

 第1章「外国人が知りたい日本の文化・世界が憧れる日本のおもてなし」の「究極の『おもてなし』は茶道にあり!」では、著者は「究極のおもてなしは『茶道』にありといわれています。それは、茶道ではお客様をおもてなしする際に、何日も前からお客様を想いながら、お茶室の内外を整え、道具の取り合わせに心を配り、お菓子を選び、お花を入れ、打ち水をして、心を込めて丹念に準備をするからです。お客様との一期一会を想い、どうしたらお客様に喜んでいただけるか、満足していただけるかを考え、道具や菓子などでその心を表現することが、『茶道のおもてなし』なのです」と述べています。

 「お茶会はどのような時にするのですか」では、茶道はとても季節感を大切にするとして、著者は「寒い季節(11月から4月)には炉に釜をかけて、お客様が少しでも温まるようにと考えます。暑い季節(5月から10月)には風炉に釜をかけて、お客様から離れたところで炭をおこし、暑くならないようにと心がけます。釜をかける位置だけでも季節により違ってきますし、道具類やお花、お菓子、お点前なども、それぞれの季節を考えて、お客様に楽しんでいただけるような趣向になっています」と説明し、「昨今、季節感がなくなったといわれておりますが、日本の伝統行事や季節を、お抹茶やお菓子と共に楽しんでいただけましたら、日々の生活が彩り深く、豊かになるのではないでしょうか」と述べるのでした。

 第2章「なぜエリートは茶道の虜になるのか」の「エリートが魅了される茶道の精神」では、著者は、「茶道は、栄西が中国から禅と一緒にお茶の種を持ち帰り、禅院茶礼という、禅の修行の一環として誕生しました。また、『茶禅一味』という言葉があるように、茶道は禅から誕生し、求めるところは禅と同一であるという意味があります。茶道も禅も目指すところは、余計なものを捨て、シンプルに生きるということです。現在、茶道は女性の嗜みと考えられがちですが、元々、茶道は男性が行うものでした。戦乱の世、明日をも知れぬ武将が、茶の湯によって、己と向き合い、邪念を払って心を整えたのです」と述べています。

 「信長や秀吉が天下統一に取り入れた茶の湯は戦国武将の憧れだった」では、本能寺の変の前日、織田信長はお茶会を開いて、守りが手薄なところを明智光秀に狙われ最期を迎えたという説が紹介されます。また、豊臣秀吉は国の政治まで、茶頭である千利休に任せていたことにも触れ、著者は「織田信長は、足利義昭を奉じて上洛した際、名物茶器を献上され、そこから茶の湯に魅了されたといわれています。信長は文化への造詣が深く、上流階級である足利将軍家が行っていた茶の湯を取り入れて、武士階級にも品格を身につけさせたいとの思いがありました。しかし、信長は単に茶の湯を楽しむだけでなく、人心掌握の政治的手段としても利用しました」と述べます。

 以前は手柄のあった家臣に領地を与えていましたが、領地には限りがありました。それを名物茶器に一国に値する価値を与えることで、茶道具を所有していることが権力の象徴となり、ステータスシンボルとなったことを指摘し、著者は「こうして茶の湯は、戦国武将の心を掴んでいきました。茶道具ではなく土地を与えられたと嘆いた滝川一益や、茶道具を取られるくらいならと茶釜と一緒に爆死したといわれる松永久秀。秀吉がお茶会を開く権利を信長から与えられた時には、感激して号泣したという逸話も残っているくらいに、戦国武将と茶の湯は密接な関係になりました」と述べます。

 秀吉は、関白就任の際、朝廷に対するお礼として御所での禁中茶会を企画しました。他の何ものでもなく、茶の湯で天皇をもてなそうとしたわけですが、著者は「秀吉は部屋中に金箔をほどこした、組み立て式の黄金の茶室を造らせ、みずからが天皇を茶の湯でもてなしました。茶の湯によって天下人としての権威を示したのです。また、秀吉は、今まで限られた人だけに許されていたお茶会に対し、一般庶民も招いた北野大茶会を開催します。北野天満宮の境内において、秀吉が所持していた名物道具を用いてのお茶会は、その権力を一般庶民にまで知らしめました。境内では800カ所に及ぶ庶民らによるお茶会が開かれ、茶の湯の流行に大きな影響を与えました。秀吉は、一般庶民へも茶の湯を広め、茶の湯の黄金時代を築いたのです」と述べています。 

 当時の戦国武将にとって、茶の湯は教養であり、ステータスシンボルでした。そして、以前は薬として飲まれていたお茶を飲むことで、頭もすっきりとして、疲れがなくなり、気力が湧いてきたのかもしれないと推測しながらも、著者は「しかし、一番の大きな理由は明日をも知れぬ時代を生き、いつ敵の急襲を受けるか、味方の裏切りにあうかもわからず、常に死と隣り合わせの日常にいた武将にとって、茶の湯は、唯一、心を穏やかにして安らげるひとときだったからです」と述べるのでした。

  「石田三成、三献のお茶でお寺の小姓から大出世」では、名将・石田三成が茶のもてなしで秀吉にとりたてられ、武将となった「三献のお茶」という有名なエピソードが紹介されます。ある日、鷹狩りの帰路に喉が渇いた豊臣秀吉が喉寺に立ち寄り、「おーい。茶を所望したい」と言ったところ、小姓が3杯のお茶を運んできました。著者は、「1杯目のお茶は、秀吉の喉の渇きを察して、飲みやすいぬるめのお茶をたっぷりと運んでいきました。それにより秀吉はすばやく喉を潤すことができました。2杯目のお茶は、秀吉にゆっくりとお茶を飲んでもらうため、少し小さめのお茶碗にやや熱めのお茶を運んでいきました。秀吉は心も落ち着き、ゆっくりとお茶を飲むことができました。3杯目のお茶は、秀吉にお茶をじっくりと味わってもらうために、高価な小茶碗に上等なお茶を少しだけ淹れて運んでいきました。秀吉は美味しいお茶の香りや味、器を楽しみながら、お茶を味わいました」と説明しています。

 その小姓は、のちの名将・石田三成でした。三成の機知と気遣いに感心した秀吉は彼をとりたてて家臣にしたわけですが、この「三献のお茶」はビジネスでも同じことがいえるのではないかとして、著者は「いつも同じ対応ではなく、お年を召したお客様には大きな声でゆっくりと対応する。お急ぎのお客様には、こちらも急いで対応するなど、お客様が今、何を欲しているのかを察知して、柔軟に対応する機転や気遣いは、大いに石田三成に学びたいと思います」と述べるのでした。ここでいう気遣いは「サービス」というよりも「ケア」と呼ぶべきではないかと思います。

 第3章「これだけは知っておきたい日本の伝統文化『茶道』」の「茶道の歴史、中国から伝わってきたお茶は薬だった」では、江戸時代に入ると、茶の湯は幕府の儀礼に正式に取り入れられ、大名や豪商、武士にとっての嗜みとなったとして、著者は「この頃から茶の湯は茶道と呼ばれるようになりました。明治時代になると、上に立つためにはまず茶道を習えといわれたほど、政界人や財界人にとって、茶道の心得は必須教養でした。また、良家の女子が通う学校でも茶道が教養科目として組み込まれるようになりました。その後、岡倉天心による『茶の本』(The Book of Tea)がアメリカで出版紹介され、「Tea Ceremony」として海外でも知られるようになりました」と書いています。

 「千利休は堺の商人で、60歳になってから秀吉に仕えるようになった」では、1591年1月のお茶会で、秀吉が黒を嫌うことを知りながら、利休は「黒は古き心なり」と黒楽茶碗にお茶を点てて出したことを紹介し、著者は「1月22日には、利休の後ろ盾であった温厚な豊臣秀長が病没します。そして、2月23日、大徳寺の利休像安置事件が問題視され、秀吉より堺の自宅謹慎を命じられたのです。北政所や前田利家らは謝罪すれば許されるだろうからと助言し、また、弟子たちも利休を救うために奔走しますが、利休はこれを断ります」と書いています。

 そして2月28日、ついに利休は秀吉から切腹を命じられます。著者は、「当日は雷が鳴り、大霰が降るといった荒れた天候で、上杉景勝の3000の軍勢が利休の屋敷を厳重に包囲していました。切腹を伝えにきた使者に、利休は静かに『茶室にてお茶の支度ができております』と伝え、お茶を点てました。そして、利休は一呼吸つき、湯が沸く音を聞きながら切腹したのです。最後までわび茶の信念を貫き、70年の生涯を終えました」と書いています。一条真也の映画館「利休にたずねよ」で紹介した2013年公開の日本映画では利休が切腹するシーンが描かれていますが、この世を去る直前に飲んだ一服の茶は、死の恐怖を乗り越える精神安定の機能を果たしたように思いました。

 「表千家と裏千家は、利休のひ孫から分岐した流派である」では、元々は千利休を本家とした千家流茶道ですが、千利休のひ孫の代に三千家に分かれたことを紹介した後、著者はこう説明します。
「千利休の孫、宗旦には4人の息子がいました。長男の宗拙は、父親の宗旦と折り合いが悪く、千家を継ぎませんでした。次男の宗守は、漆屋の塗師へ養子に出されていましたが、後に千家に戻り、武者小路通りに『官休庵』というお茶室を造り『武者小路千家』を興しました。長男が出ていき、次男は養子となっていたので、宗旦が隠居する際に三男の宗左が千家の当主となり、お茶室『不審庵』が受け継がれました。不審庵が表通りに面していたことから、『表千家』と呼ばれるようになりました。宗旦は隠居する際に不審庵の裏手に新たに『今日庵』というお茶室を建てて、四男宗室と暮らしました。後に四男の宗室が『今日庵』を受け継いで『裏千家』を興しました。こうして、三千家が誕生したのです」

 「茶道の精神は『和敬清寂』の中に凝縮されている」では、「和は、お互いに心を開き、和やかに周りと調和する心」「敬は、自らに謙虚に、そしてあらゆるものに対して敬意を払う心」「静は、茶室や茶道具を清潔にし、気持ちも邪念のない清らかな心」「寂は、どんな時にも静かで乱されることのない動じない心」と説明し、「ある時、わび茶の祖といわれる村田珠光に、将軍足利義政が『茶の湯の精神とはどのようなものなのか?』と尋ねました。その時に、珠光が『茶の湯は心穏やかに、相手を敬い、礼を尽くす。和敬清寂の心です』と答えたといわれています」と書かれています。

 「『わび・さび』は足りないことを美しさとして見出すこと」では、英語で「impermanent」と訳される「さび」は、時間の経過と共に古くなり、色あせ、錆びて劣化していきますが、逆に古くなることで出てくる味わいや枯れたものの趣ある美しさを表すとして、著者は「例えば、銀などは時を経ることで、色味や風合いが変化して、アンティークのような落ち着いた味わいになります」と述べています。また、英語で「incomplete」と訳される「わび」は、さびを美しいと思う心や内面的な豊かさを表すとして、著者は「例えば、歪みや壊れなど、姿かたちが整っていないものでも、個性として独自の魅力を見出し、不完全なものを面白がるのが、わびの美意識です。置かれている状況を悲観するのではなく、それを楽しむ精神的な豊かさを表した言葉です」と述べています。

 「『一期一会』とは、二度とないこの瞬間を大切にすること」では、「一期一会」は、千利休の弟子の1人である山上宗二が記した『山上宗二記』の中に、「いつもの茶会であっても、臨む際は一期に一度のものと心得て誠意を尽くせよ」といった一文が最初であるといわれていることを紹介し、この言葉を広めたのが、江戸幕府の大老で、茶人でもあった井伊直弼だといいます。彼の著書『茶湯一会集』には、「そもそも茶の湯の交会は、一期一会といひて、たとへば、幾度おなじ主客交会するとも、今日の会に再びかえらざることを思へば、実にわれ一世一度なり。」(たとえ同じ人と何度も茶会で同席する機会があっても、今、この時の茶会は一生にその日ただ一度のこと。二度と同じ時に戻ることはできない。だから一回一回の出会いを心を尽くして臨まなければならない)と書かれているのです。

 第4章「ビジネスや日常に活かしたい千利休の七つの教え(利休七則)」では、有名な「利休七則」が取り上げられます。「茶は服のよきように、炭は湯の沸くように、夏は涼しく冬は暖かに、花は野にあるように、刻限は早めに、降らずとも雨の用意、相客に心せよ」というものですが、これにまつわる逸話として、著者は「弟子が『茶の湯の極意とはどのようなものでしょうか?』と尋ねた時に、利休が答えたのが、利休七則です。それを聞いた弟子は、『それくらいのことなら私でも知っています』と答えたところ、利休は『もしそれができているのなら、私があなたの弟子になりましょう』と返したそうです」と述べます。

 茶の湯は、単にお茶を点てて飲むだけの行為ですが、相手を思いやり、細かな気配りをして万全を尽くすという、そこに人の心を育て、人生を豊かにする、おもてなしの極意があるとして、著者は「それを説いているのが、利休七則なのです。コロナ禍で人と人の距離が遠くなり、コミュニケーションが欠落している現在だからこそ、利休七則から新しい生活様式のヒントを見出し、日常生活やビジネスに取り入れていただければと思います」と述べるのでした。

 「利休七則」の最後に置かれた「相客に心せよ」は「お互いに尊重し合う」という意味ですが、お茶会では、お菓子やお抹茶をいただく際に、お隣りの方に「お先に頂戴します」とひと声かけます。また、お抹茶を点てて下さった亭主にも「お点前頂戴いたします」と感謝の言葉をかけます。お互いを思いやり、尊重することで和やかなお席となるのです。著者は、「茶道というと作法や形のことが頭に浮かびがちですが、利休が大切にしている茶道は全ての心についての教えでした。形だけきちんとしていても、心がなければ本当の茶道ではないということです。人と人との思いやりや気遣いが何よりも大切ですよ、と説いています」と述べるのでした。

 第5章「知っていると一目置かれる、日本人としての品格」では、「お茶室の中は日本文化の縮図だ」では、茶道は日本の総合伝統文化とも称され、書(掛け軸・禅語)、お花、お香、お道具(陶芸・漆器)、建築(茶室)、庭園(露地)、和食(懐石・和菓子)、着物、歴史、文化、作法、精神性など、日本の文化が凝縮され、密接に繋がっていることが紹介され、著者は「茶道は、一碗の美味しいお抹茶を召し上がっていただくために、様々な日本の文化が加わり発展してきました。露地(庭園)を通り、茶室(建築)に入り、掛け軸(書)やお花を拝見します。そして、懐石料理や和菓子(和食)をいただき、お茶道具類を鑑賞します。お客様をおもてなしするための作法や精神性などが融合し、総合芸術となりました」と述べています。茶室が究極の瞑想空間であることは拙著『リゾートの思想』(河出書房新社)の「日本的リゾートのヒント」で、茶道が日本が誇る総合芸術であることは拙著『儀式論』の「芸術と儀式」でも詳しく紹介しました。

 「禅語=禅(マインドフルネス)。」では、茶道と禅は「茶禅一味」といわれるように、密接な関係にあることが紹介されます。禅は6世紀にインドから中国に渡った達磨を祖とし、座禅を修行形態とするとして、著者は「文字で伝えられることには限界があり、体験に勝るものはないという教えなのです。中国で広まっていた禅を、栄西がお茶の種子と一緒に日本に持ち帰り、臨済宗を開きました。栄西の功績により、日本に喫茶の風習が広まりました。このような背景から、茶道は禅から始まり、求めるところは禅と同じであるといわれています。禅とは単を示すと書きますが、非常に簡潔な何事にも囚われないシンプルな心の在り方をいい、茶道も同じ心の在り方を求めています」と述べています。

 昨今、世界の多くのビジネスリーダーたちが「禅=ZEN」に魅了され、ビジネスにも反映されていますが、著者は「スティーブ・ジョブズが禅を愛し、ビジネスに取り入れていたことも理由の1つにあるかと思いますが、GoogleやYahoo!など150社を超える世界的な優良企業で、禅のエレメントを取り入れたマインドフルネスと呼ばれる瞑想法が実施されています。マインドフルネスとは、『今、この瞬間』に注意を向けた心の在り方のことで、そうした心の状態を保ちながら『目の前のことに集中して取り組む力』をいいます。このマインドフルネスのやり方は、基本的には座禅の3つの基本である、調身(身を調える)、調息(呼吸を調える)、調心(心を調える)と同じです」と述べるのでした。

 「和食=懐石。」では、お抹茶をいただく前にもてなされる食事である懐石について、著者は「お茶事では、一服の濃茶を美味しく召し上がっていただくために、最初に懐石をお出しして、お腹を満たしたよい状態でお抹茶を楽しんでいただきます。そこには、まずはお食事でゆっくりしていただいてから、お抹茶をという亭主のおもてなしの気持ちも込められています。懐石料理はお抹茶を楽しむ前に出される軽いお食事で、お酒も出されますが、目的はお抹茶を美味しくいただくことです」と説明します。

 懐石料理と会席料理を混同している人もいるようですが、両者はまったく違います。著者は、「会席料理は、お酒を楽しむことに主眼が置かれています。そのため、お料理をお出しする順番も異なり、一番顕著に表れているのがご飯の出る順番です。懐石ではご飯とお汁は最初に出てきますが、会席料理ではお酒を充分に楽しんだ最後に出てきます。一般的に日本料理屋さんでお楽しみいただいているのは、会席料理です」と説明しています。

 第6章「知っていると自信が持てるお茶会の作法 ―楽しむための知識―」の「蹲(つくばい)ってどう使うの?」では、蹲の名前の由来は、手水で手を清める時にしゃがむ(這いつくばる)ことからきたといわれていることを紹介し、著者は「手を清める手水鉢、手水を使う時に乗る前石、湯桶を置く湯桶石、行灯を置く手燭石、周りに敷き詰められている小石の海の総称を蹲とよんでいます。お茶会に招かれて、露地(茶庭)を進み、蹲の清らかな水で身を清めると、気持ちも同時に引き締まります。蹲は俗世から離れ、清浄なお茶室へと誘う結界でもあるのです」と説明しています。

 蹲といえば、京都の龍安寺に有名な蹲があります。知足の蹲踞とよばれ、水が溜められている四角の水穴を口の字と見立てていますが、著者は「周りにある文字と真ん中にある口の字を合わせて、『吾唯足知』(われただたるをしる)と読みます。これは、足ることを知っている人は不平不満がなく、心豊かな生活を送ることができるという意味を表しています」と説明しています。

 また、「お茶室の入口、躙り口(にじりぐち)ってどうして小さいの?」では、躙り口は、千利休が淀川の川舟の小さな出入り口からヒントを得て作ったのが原点だといわれていることが紹介されます。さらに、躙り口には、日常と非日常の境界を分ける意味もあったとして、著者は「当時、能楽や歌舞伎などの芝居小屋に入るためには、鼠木戸という鼠のように身体を曲げてしか入れない小さなくぐり戸を通ることになっていました。くぐり戸を抜けたその先には、普段の生活とはかけ離れた、非日常の芝居の世界が広がっていたのです」と述べています。

 利休の時代は戦国時代で、刀を持った武士もお茶室を訪れました。躙り口から入ろうとしても、刀を差したままでは入口が小さくて入ることができません。お茶室に入る時は、武士の命ともいわれる刀を、お茶室の外の刀掛けに置いて入らなければなりません。また、どんなに身分の高い人でも、躙り口を入る時は、頭を下げなければ入ることができませんでした。拙著『リゾートの思想』でも詳しく書きましたが、躙り口から入る茶室とは究極の平和空間であり、平等空間だったのです。

 この躙り口には、信長や秀吉の逸話があります。信長をお茶会に招いた利休でしたが、権力者である信長が躙り口から頭を下げて入らせられたことに立腹すれば、どんなことになるか、わかりませんでした。躙り口から入った信長は、そのいわれを聞き、「それはなかなか考えたな」と上機嫌になり、利休もほっとしたといいます。著者は、「能力があれば身分の上下に関係なく、秀吉のような身分の低い者でも家臣にした信長ならではの話です」と述べています。

 ある時、秀吉は、利休の屋敷の露地に美しい朝顔が咲き乱れているという噂を耳にし、朝顔の茶会を所望。当日、利休の屋敷を訪れると、庭の朝顔は全て切り取られていて何もありませんでした。あっけにとられながら、躙り口からお茶室に入った秀吉の前に現れたのは、床の間に入れられた見事な一輪の朝顔でした。著者は、「この利休の美意識には秀吉も大いに感心したという話です。利休の大胆な趣向ですが、躙り口を入り、顔を上にあげた瞬間、目の前には床の間が現れるのです。お茶室はこの瞬間の景色を一番意識して建てられています」と述べるのでした。

 「おわりに」では、著者は「今、私たちが一番求めていることは、心の平静、安定ではないでしょうか。新型コロナウイルスの影響もあり、手の汚れを落とすことは生活の一部になりましたが、目にみえない心の汚れや曇りを意識したことはありますか?」と読者に問いかけます。千利休に「茶道とは何ですか?」と尋ねると、「渇きを医するに止まる」と答えたそうです。著者は、「これは、お茶が単に喉の渇きを癒すだけでなく、心の渇きも癒すのだと答えたのです」と述べます。

 最後に、「水を運び、薪を取り、湯を沸かし、茶を点てて、仏にそなえ、人に施し、吾も飲む」という千利休の言葉を紹介し、著者は「水を運び、取ってきた薪で湯を沸かし茶を点てる。お茶は仏様に備え、お客様にも召し上がっていただき、自分も飲む。それが茶の湯です」と本書を締めくくるのでした。わたしは、「茶道はヘルスケア・アートであり、スピリチュアルケア・アートであり、グリーフケア・アートでもある」と考えているのですが、本書を読んで、その考えが間違っていないことを確認しました。とてもわかりやすくて、興味の尽きない茶道入門書です。

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