お探しの書名・著者名・キーワード等を入力して下さい

  • HOME
  • 教養としての神道
Title

教養としての神道』

Category

No.2140


 『教養としての神道』島薗進著(東洋経済新報社)を読みました。「生きのびる神々」というサブタイトルがついています。著者から献本していただいた本です。著者は、宗教学者。東京大学名誉教授。日本宗教学会元会長。1948年、東京都生まれ。東京大学文学部宗教学・宗教史学科卒業。同大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。主な研究領域は、近代日本宗教史、宗教理論、死生学。著書に『宗教学の名著30』『新宗教を問う』(以上、ちくま新書)、『国家神道と日本人』(岩波新書)、『神聖天皇のゆくえ』(筑摩書房)、『戦後日本と国家神道』(岩波書店)などがあります。

20220613105828.jpg

本書の帯

 

 本書の帯には、「神道1300年の歴史は日本人の必須教養」「『神道』研究の第一人者がその起源から解き明かす」「ビジネスエリート必読書!」と書かれています。また、帯の裏には、「明治以降の『国家神道』は異形だった」「今を生きる日本人の精神文化形成に『神道』がいかに関わったか」と書かれています。

20220613103254.jpg

本書の帯の裏

 

 アマゾンの「内容紹介には、こう書かれています。
「明治以降の近代化で、『国家総動員』の精神的装置となった『神道』。近年、『右傾化』とも言われる流れの中で、『日本会議』に象徴されるような『国家』の装置として『神道』を取り戻そうとする勢力も生まれている。では、そもそも神道とは何か。神道は古来より天皇とともにあった。神道は古代におけるその成り立ちより『宗教性』と『国家』を伴い、中心に『天皇』の存在を考えずには語れない。しかし『神道』および日本の宗教は、その誕生以降『神仏習合』の長い歴史も持っている。いわば土着的なもの、アニミズム的なものに拡張していった。そのうえで神祇信仰が有力だった中世から、近世になると神道が自立していく傾向が目立ち、明治維新期、ついに神道はそのあり方を大きく変えていく。『国家神道』が古代律令制以来、社会にふたたび登場する。神聖天皇崇敬のシステムを社会に埋め込み、戦争へ向かっていく。近代日本社会の精神文化形成に『神道』がいかに関わったか、現代に連なるテーマをその源流から仔細に論じる。同時に、『国家』と直接結びついた明治以降の『神道』は『異形の形態』であったことを、宗教学の権威で、神道研究の第一人者が明らかにする」

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」

第1部 神道の源流

第1章 神道の起源を考える

第2章 神仏分離の前と後

第3章 伊勢神宮と八幡神

第2部 神道はどのように

    生きのびてきたか

第4章 天津神と国津神

第5章 神仏習合の広まり

第6章 中世から近世への転換

第3部 近世から近代の

    神道の興隆

第7章 江戸時代の神道興隆

第8章 国家神道の時代の神道

第9章 近現代の神道集団

「参考文献」

 

 「おわりに」に書かれていますが、本書は、NPO法人東京自由大学で2017年から19年にかけて、3年間にわたって行ってきたセミナーがもとです。東京自由大学は1998年に鎌田東二氏(京都大学名誉教授)とその仲間たちが設立した市民の学びの場です。わたしも顧問に名を連ねています。神道をテーマとした「島薗ゼミ」は、1年目は「神道とは何か」、2年目は「神道はどのように生きのびてきたか?」、3年目は「近世・近代の神道の軌跡」という題で行われました。若い参加者が多く、質問も多かったようで、この講義録をもとに書物をまとめることになりました。著者は、「神道はどのように生きのびてきたのか」という問いを導きの糸として大幅に書き換え、書き足しをしつつ原稿をまとめていったそうです。

 

 「はじめに」の冒頭を、著者は「神道というと、まずは産土神や氏神を思い浮かべる人もいるだろう。地縁や血縁の人々がお祀りする神があって、それこそが神道のもとだというイメージだ。それぞれの共同体の範囲で祀られる神があり、それが多数並存しているので多神教になる。中心的な神が高位につくとしても、他の神々もそれなりの地位を与えられ、村や集落の神々こそが基盤となっている。神々は自然の中に宿るものと信じられ、また死者の霊を尊ぶ文化とも関わっている。これをアニミズムとよぶこともあるが、これこそが神道の基礎だ」と書きだしています。

 

 続けて、こうした多神教的な、あるいはアニミズム的な祭祀は世界各地にあったはずだとして、著者は「日本だけでなく、東アジアでも東南アジアでも、インド亜大陸でも、ユーラシア中央部でも、ヨーロッパや中近東でも、アフリカや中南米でもかつてはそのような神々の祭祀があったはずである。ところが、現代世界ではそれらの神々の祭祀の多くはすでに消え去っている。キリスト教やイスラームの影響が強い地域ではそうなっている。南北アメリカやアフリカの多くの地域、またオセアニア各地などでは、数百年前まではそのような神々の祭祀があったと思われるが、今はほぼ消え去っている」と述べます。

 

 ところが、日本ではそのようなアニミズムや古代の神々の祭祀が、神道というかたちをとることによって生きのび、現在もかなりのバイタリティーを保っています。いくらか似ているのはインド亜大陸のヒンドゥー教と中国文化の影響が残る地域の道教でしょう。では、なぜ日本では長い歴史を経て、古代の神々への信仰やアニミズムが生きのびてきたのか。著者は、「『神道とは何か』を考えることと、この問いは切り離せないものだと私は考えている。そこで、本書では『古代の日本の神々の祭祀はどのように現代まで生きのびてきたのか』というこの問いに導かれながら、神道とは何かを考えていくこととした」と述べます。

 

 第1部「神道の源流」の第1章「神道の起源を考える」の「東アジアの神聖王権の中で」では、キリスト教はローマの皇帝が神聖な祭祀を行っていた時代に民の間に広まり、のちに国家祭祀に代わって国教となったことが紹介されます。著者は、「政治体制とは独立した宗教が西洋社会の精神的バックボーンになった。したがって、国家がキリスト教を採用しても、キリスト教は国家から独立して存在する状況が本来の姿ととらえられ続ける。イスラームは少し違っている。ユダヤ教もヒンドゥー教も異なるし、日本の神道も同じではない。仏教も同様だ。ただ、仏教も、キリスト教と同じように、宗教として政権とは独立しているのが本来のものとされてきた」と述べています。

 

 中国では皇帝が神聖とされます。儒教は漢の時代から皇帝を理想の統治をすべき存在とみなしており、「王道」理念は儒教の体系の中心に位置するようになったとして、著者は「そこに、天命を受けて統治する皇帝が天の祭祀を行うという理念も伴う。『礼』、すなわち儀礼を尊ぶのも儒教の中核であるから、その意義の大きさは理解できるだろう。これが江戸時代の日本で影響を強め、江戸時代に日本は中国的な国家観の影響を大きく受け、それが明治維新につながるというとらえ方もなされている。皇帝中心の体制をつくっていく方向性は東アジアの近世に強化され、日本ではそれが近代化と重なった側面があるというわけである。このあたりは、一条真也の読書館『天皇と儒教思想』で紹介した小島毅氏の著書に詳しく書かれています。

 

 第2章「神仏分離の前と後」の「教派神道の成立と国歌神道」では、明治以後の神道の流れとしては、政府が強引に神仏分離を行い、また全国の神社を国家祭祀を分けもつ施設としようとした結果、神道の施設や集団が二つに分かれたことを指摘し、著者は「一方は神社で、祭祀を行い、『宗教活動』はしない。他方は宗教を行う神道で、教派神道となる。つまり、祭祀と宗教、神社神道と教派神道に分かれた。教派神道の代表は天理教や金光教などで、富士講系の扶桑教や實行教、御嶽講を引き継ぐ御嶽教などもこの流れに入る」と述べています。

 

 第3章「伊勢神宮と八幡神」の「神道という用語をめぐる異なる見解」では、神道とは何か、いつからあるのかという通説がない問題について、さらに考察を進める著者は、「古代に神祇官が設けられ、天皇が天照大神を祀ることによって近代の国家神道の元となるものができた、それは古代律令神道、あるいは古代国家神道などとよんでよいものではないかとするのが私のとらえ方だ。井上順孝、岡田莊司ら國學院大學の宗教学や神道史学の研究者も同様の立場だ。ただ、私は国家神道的な神道だけが神道だとみなしているわけではなく、成立をそれ以前にさかのぼることができる要素が多々あると考える」と述べます。

 

 「古代律令体制の時期の神道」として、神道が古代に存在したと考える場合、律令国家神道の存在が1つの指標となると指摘し、著者は「中国にならって日本が律令制度をつくった際に、国家が祀る神の制度化が必要となった。中国では国家の存立には、天(天の神)を祀る祭祀が重要で、天の神(天帝、上帝)を祀るという大切な仕事によって皇帝の支配の正統性が得られる体制だ。日本の古代国家は、その神を日本の土地に根ざした神として独自に祀るかたちにしようとした。日本の場合は中国のような遠い天にある神ではなく、地上に各豪族が祀っている神々、アニミズム的な要素が色濃い神々を拝む体制を設けた。その中心に天皇の先祖とされる神を置くこととする。それが天照大神だ。しかし、律令体制によって確固たる神道の国家的体制がつくられたとすれば、その基盤となるものは神話にしろ、皇室祭祀にしろ、神祇祭祀の相互関係にしろ、それ以前から形成途上にあったと考えられる」と述べます。

 

 「古代の神々と祭祀の姿」として、「古代に神道とよべるものがあったのかなかったのか」という問いに答えていくために、古代の祭祀の実態を探り、著者は「古代の神の祀りや信仰の姿を想像させるものとして宗像大社の沖ノ島がある。ふだん人が立ち入ることができない神秘的な沖ノ島には、神が降りてきたとされる所や古代から祭祀が行われてきた場所がある。そうした岩や巨石に昔の供物が残されているが、もとは社殿がなかった。宗像大社は九州本土側にあるが、沖ノ島には滅多に近づけず、行くときには必ず禊をする必要がある」と述べます。

 

 日本の古代、さらにさかのぼって縄文時代の祭祀はそのような神秘的な自然の中で行われるかたちであったと考えられ、社殿の小空間に常に神(御神体)がいるという祭祀形態は新しいものであると指摘し、著者は「各地で社殿が整備されていくのは律令国家祭祀が整えられていく段階とみられる。沖縄の御嶽も沖ノ島などと似た古い時代のおもかげをもち、神祇祭祀の初源の姿をうかがわせる。神道の古いかたち、古神道といえるものが縄文時代の神道であったのではないかという推察とつながっている。こういう場所は全国的にみられ、今でも人々は神秘な場所という感覚をもつことが多い」と述べています。

 

 「八幡神の登場」として、伊勢神宮とほぼ同時期に八幡神が史料の上に現れることが紹介され、著者は「同じ頃に宗像や大神や稲荷など、古い豪族や国造の大きな神祇祭祀から、大和朝廷と連携した神道祭祀へと信仰の姿に変化がみられる。八幡信仰は稲荷信仰と並んで、日本の最も広く知られた神の一つである。稲荷信仰は秦氏をはじめ外来の人たち、朝鮮や中国と関わりがあるが、八幡神も同様だ。登場する場所は九州、今の大分県の宇佐で、福岡県北東部を挟んで宗像大社、そして玄界灘があり、朝鮮半島に通じる」と述べます。

 

 「英彦山の修験」として、宇佐から西へ向かうと英彦山(彦山)があり、九州の修験の大きな中心地の1つであったと紹介し、著者は「1214年の奥書をもつ『彦山流記』の修験道の話の中に八幡との関わりが出てくる。彦山権現は衆生を救うためにマガダ国から如意宝珠をもって日本国に渡って彦山に入ったと伝える。それから160年後、その彦山の般若窟で修行していた法蓮が、奉仕してくれる白髪の翁と親しくなり、『自分が宝珠を得たならば汝に与えよう』といったという」と述べます。

 

 「伊勢神宮が民衆に広まった要因」では、著者は「一方に、古代に律令国家の祭祀制度の基盤となり、明治以降、国家神道の核となっていく、国家的な神道祭祀の中心としての伊勢神宮がある。他方に、八幡信仰的なもの、また稲荷信仰的なものから発展していく神仏習合の中での神祇信仰がある。両者の組み合わせという図柄の中で神道の歴史を理解していくことで神道史の理解が深まる。伊勢神宮自身も神仏習合的な神祇信仰の影響を大きく受けたのだ」と述べています。

 

 そして、こうした民衆の神祇信仰があってこそ、江戸時代の富士講は神祇信仰色を強め、国学も神道信仰を掲げる方向に発展し、明治維新以降は天理教や大本が出てくると指摘し、著者は「20世紀の末頃になっても、幸福の科学やオウム真理教のような霊能教祖が大きな影響力をもつような宗教文化のポテンシャルが潜み続けてきた。古代の宇佐八幡に法蓮という人物がいて、不思議なことを行って民衆を動かして国家にも影響を与えている。そうしたことが起こるような宗教運動の背景が神道の中にあったことも神道史の重要な一面である」と述べるのでした。

 

 第2部「神道はどのように生きのびてきたか」の第4章「天津神と国津神」の「『天孫降臨』と土着の神々」では、宗像大社が取り上げられます。宗像大社には、日本の神道が成立する以前の原神道、古神道、すなわち縄文時代にまでさかのぼるような信仰をうかがわせる祭祀が残されていると指摘し、著者は「大神神社、宇佐八幡宮、伏見稲荷大社などは、形成されてきた時期はよくわからないが、大和朝廷が全国支配を固めていく時期には、それぞれ独自の信仰世界を形成していたとみられる」と述べています。

 

 古神道を継承しながら、伊勢神宮が形成される7世紀頃には、それぞれの地域で豪族の祀っていた神々を信仰する勢力が存在していたと考えられるとして、著者は「伊勢神宮が成立して、朝廷が神祇官を設置し、各地の神祇信仰をつなぎ、神祇信仰連合体の意識を形づくろうとする。同時期に『古事記』『日本書紀』の記紀神話が、公的な教義文書として成立する。そこでは、朝廷に直接連なる神祇と朝廷の外にあった神祇が、国譲りを通して天津神と国津神という神々として統合されたと語られている。国家の各地に位置する神々がアマテラス(天照大神)と朝廷のもとで一つの細い体系として全体を構成するという形がつくられた」と述べています。

 

 「限定的だった古代のアマテラスの影響力」では、伊勢神宮と天照大神=アマテラスがなじみ深い神として広く信仰されるようになったのは、江戸時代のおかげ参り以降のことであると指摘し、著者は「記紀神話をみても、アマテラスは天岩戸に隠れて出てきたという場面でその表情を表しはするが、物語上は劇的存在感の濃いキャラクターではない。神仏習合の神として観音菩薩や大日如来などの化身として知られた時期もあり、男神とみなされたこともあった」と述べています。

 

 ところが、オオクニヌシやスサノオは記紀神話でもキャラクターとして印象的であり、また神秘的な力をもつ存在でもあるとして、著者は「霊威神とよべるような存在で、救いの神として働くこともあり、人々がその威力に期待し祈る対象ともなっていく。これは八幡神や稲荷神ともあい通じるものだ。しばしば、神がかるシャーマン的存在が関わってその信仰を広める。アマテラス系にも鹿島神宮のタケミカヅチのように、雷の神で、霊威をもつものもある。アマテラス系、天津神系にもそういうタイプはあるが、国津神系の方が霊威神は多い」と述べています。

 

 「仏教の流入と国津神=霊威神の変容」では、神祇信仰が一定の独立性をもちつつも仏教と組み、人々の生活に大きな働きを及ばすものへと展開していくのは日本の神仏関係の特徴といえるとして、著者は「中国の『神仏融合』とは異なる日本の『神仏習合』の特徴だ。神仏習合が進んでも神祇信仰の側が根強くその力を維持し、のちの時代にその力を伸長させていく基盤を保ったのだ。八幡神、稲荷神はそのよい例だが、山岳信仰も同様だ。古来、地域で勢力を維持していた神祇信仰が、そうした神仏習合の神々として多くの信徒を惹きつけるようになる。だが、その前の段階では地域の豪族などの共同体を基盤とした国津神としての地域神がいた。それが神仏習合の神になり、次第に国家から独立した信仰世界を展開し、国家とは独立した『神道』とよべるものへと展開していく」と述べます。

 

 「神道を名乗る教説と流派の形成」では、神仏習合を考えた場合、太陽神であるアマテラスを祭祀する内宮を、日天子とされる観音菩薩の垂迹としたり、大日如来の垂迹とするのは本地垂迹説の展開としてわかりやすいとしながらも、著者は「だが、あわせて外宮の祭神である豊受大神を月神にあてるのは、外宮の地位向上と関わる。皇祖神であるアマテラスに捧げる食物の神であった豊受大神だが、外宮の神官、度会行忠(1236-11305)、度会家行(1256-1351)らによって根源神へと地位を高めていく。こうして『神道五部書』などの伊勢神道(度会神道)の書物が編纂されていく」と述べます。

 

 「反抗する国津神、タケミナカタ」では、日本の祭礼では人が死ぬことがあると紹介されます。18世紀の牛頭天王の祭りが起源とも伏見稲荷の祭りが起源ともいわれる岸和田のだんじり祭りも同様だとして、著者は「人が死ぬようなことを避けるべきだという考えもあり、そういう時代も来るかもしれないものの、今のところそうはなっていない。地元民にとっては、それこそが祭りだといえるのだろう。私が見学したある都市の祭りでは、荒れる山車に破壊されるのを防ぐために商店がショーウィンドウに板を貼っていたりする。そうすると神輿や山車はあえてそこへ行ってそれを壊す。人々はそれは神が行うことだと感じている。人々は祭りというのは神意が表現されるときと感じており、そこに暴力的なことが生じることを神の来臨のしるしと信じようとした(柳田國男『日本の祭』)。そういう雰囲気が日本の祭りにあり、タケミナカタは古来の荒ぶる神の性格を継いでいる」と述べます。

 

 「オオクニヌシとスサノオ」では、著者はこう述べます。
「地下の世界、他界、死後の世界と関係がある国津神の系統で、この世の政治的秩序を守るのが天津神系のアマテラスだ。アマテラスは太陽の神だから、もっと多くの機能があってもよさそうだが、この世の政治的な支配に関わっているものの、その面でも印象的な逸話はない。江戸時代のおかげ参りの頃はそうでもないかもしれないが、ある時期までは多様な表象が生み出されはしたものの(中世神話)、人々の生活に近いところで崇敬されるようになったのは比較的新しい。それに対して、スサノオ、オオクニヌシは、『あの世』系だ。江戸時代に平田篤胤らが一種の幽界・霊界通信を試み、死者の世界、死後の救いという信仰に結びつけようとした。死後の審判があり、死後にこそ永遠の命が存在するという考えは、もともとゾロアスター教から始まって、その後、キリスト教やイスラームにも広まったとされ、仏教の中にもある。日本ではスサノオ、オオクニヌシと幽冥界が結びつけられた」

 

 「国津神と出雲の重要性」では、日本のように神の信仰が現代まで続いてきている例は世界でもそう多くはなく、古代的な神が生き残ってきたという歴史が神道の背景にあると指摘し、著者は「つまり、文明以前の社会の神々の荒々しさ、ありがたさ、不思議さ、そういうものが仏教や儒教が広まってきて舌潰れないで残ってきたのだ。こうした土着神の系譜は隣国の韓国には巫俗(ムーソク)として残っているが、神社のようなものはあまりみられない。中国華人社会では道教の廟を拠点とする信仰として残っているが、日本の神道とは違い、神々が体系をなしているという意識は薄い。日本の神道の根強さは特別で、古代に国家神が堅固に基礎を据えられるとともに、国家神に敗北したはずの国津神が高い地位をもって位置づけられていたことと関わりがある」と述べます。

 

 「天孫降臨と国譲りの実態」では、天津神が大和朝廷系、国津神が全国の諸王、豪族の系統になぞらえられる筋書きであるとして、著者は「全国の王と豪族が大和朝廷にしだいに服属していく過程が国譲りとして記紀神話に描かれていると受け取れる。国をつくったのは地方の神々とその元締めの出雲だが、その出雲の勢力がアマテラスを掲げる大和朝廷にあっさり国を譲った。オオクニヌシがタケミカヅチ(鹿島)とフツヌシ(香取)に国を譲るという意思を示したということになり、あれほどの騒ぎが静かになったとすれば不思議な印象を受ける」と述べています。

 

 第5章「神仏習合の広まり」の「神道存続の背景にある構造」では、神道が長い年月を越えて今日まで存在してきた理由について、著者は「世界的にみてみると、古代の多神教的な神々はほとんど滅びている。とくに一神教が入った所では滅んでいる。古代ローマにも国家の神々の祭りがあったが、キリスト教の浸透でほぼ廃棄された。イスラームの広がった地域ではもちろん廃れている。ただ、インドでは古代以来の神々がヒンドゥー教として主流派の地位を保ち、イスラームの王朝の下でもそれはゆるがず、信仰者の数からみても世界でも有力な伝統宗教となっている。日本とインドは古代以来の多神教的な神信仰が持続していたという意味で似ている。ヒンドゥー教と神道は共通点が多いが、前者が長く主流派だったのに対して、後者は仏教が優勢な時期は従属的な地位にとどまっていた」と述べます。

 

 「神祇信仰の根強い存続」では、戦後はいったん大きく地位を落としましたが、現在は神社参拝者も多く、皇室神道は堅固に存続し、神道が政治的にも一定の影響力を及ばす存在になっていると指摘し、著者は「たとえば、初詣や結婚式、地鎮祭、初宮参り、七五三など相当数の神道行事に国民が参与している。そうした行事の中には結婚式のように明らかに近代になってつくられたものがある。しかし、神道行事の正統性は、すでに古代に基礎ができている。古代の律令制下で神祇官を設け、多様な行事を行っていた。開催ができなくなった時期もかなりあるが、それでも皇室、あるいは宮廷周辺の公家(貴族)の社会としては行っていた。祈年祭や月次祭、新嘗祭など、いずれも稲の祭りに関係がある」と述べます。

 

 こうした祭祀を中心に神祇祭祀が固められたわけですが、天武天皇・持統天皇の時期が転期になっていると指摘し、著者は「この時期には白村江の戦いがあり、新羅が強大になり、百済と日本が敗れて日本は朝鮮半島の勢力基盤を失った。中国や朝鮮からの攻撃を恐れて必死に防衛体制をとる。そこで、統一国家体制を固めようとする中で壬申の乱が起こり、天武天皇による国家体制ができた。天武・持統天皇や藤原不比等らが構築した体制のもとで『古事記』や『日本書紀』が編纂され、伊勢神宮が設けられ、国家祭祀の体系がつくられていった」と述べています。

 

 「国家の祭祀を全国におし及ぼす」では、明治維新のときにも、当初、指導部は国民を宗教的に統一しようとして無理な計画を立てましたが、神道国家の基盤となるものがないことに気づかざるをえなかったとして、著者は「キリスト教は、支配者や上層民とともに民衆を味方にしようとして、上下両面から国家に信仰を浸透させていく。近現代の韓国もそのようにしてキリスト教が浸透していった。戦後の韓国の政権は李承晩や金大中をはじめ、キリスト教徒の政治家が多かったが、他方で民衆にもキリスト教が広まっていった。日本の場合、これを恐れて国家が民心を掌握すべく、天皇崇敬と神祇信仰が動員されることになった。明治維新に先立ってそのための戦略をまとめたのが会沢正志斎の『新論』である。だが、明治初期の段階では、伊勢神宮や宮廷の祭祀は民衆にとってそれほど意味のあるものではなかった。それを民衆に広めて従わせようとしても、たいして広まらないのが実情だった」と述べます。

 

 「二十二社一宮制と第二の『神道』の成立」では、神道がいつから存在してきたかという点について諸説ある中で、全国の神社の組織化という点からは、平安時代の段階では二十二社一宮制というかたちで明らかに存在していたし、その前の奈良時代の幣帛運給制はすでに神社を組織化した神道組織の原型だととらえることもできるとして、著者は「古代以来の文献では、『神道』という言葉の意味も、特定宗教教説や宗教集団を指す意味では使われていないと論じられてきた。しかし、『日本書紀』の記述にすでにそうした意味が含まれているとみることもできる。平安時代に成立したという考え方は、神社の組織化が進んだという点を重視しているわけだが、これは神祇官の次代の理念にそった幣帛を送るシステムの再編成である。したがって、天武・持統朝から神道は存在するという考えは、こうした歴史経過によっても支持できると思われる」と述べます。

 

 「多様な八幡像」では、本地垂迹に関して、神に対する考え方を再確認しておきたいとして、著者は「神から仏へという神身離脱の段階は『もう神ではいたくない』ということで、神の地位はとても弱く、嘆いている状態だ。それが菩薩になると救いの神になることができ、仏教の崇敬対象の中でもかなり高い位になる。やがて本地垂迹の考えが入り、もともと仏であったものが神になって姿を現すこととされるようになる。『本』と『迹』でいえば、『本』が本物で『迹』が仮の物だという形だ。なぜ垂迹すると考えるのか。その背景には、衆生に近い所で衆生の苦しみに同ずるということがある。『和光同塵』といい、『和光』は光を和らげる、『同塵』は塵に同ずることをいう。仏では偉すぎて遠いので、神になってこの世の弱い衆生に身近な存在として現れるのだとする。衆生救済を尊ぶ大乗仏教の思想からすれば、これはその考え方に十分かなったものといえる」と述べます。

 

 「怨霊の祟りを恐れる」では、日本の古代、奈良時代から平安時代にかけては怨霊を恐れる信仰が大きな力をもったことが紹介されます。怨霊の祟りがたびたび宮廷社会で大きな問題となりましたが、早くは長屋王、聖武天皇の時代にさかのぼります。「熊野三山と遠隔参拝の興隆」では、神道は、一方では国家・地域祭祀があり、一方では地域を超えて参拝者を集める霊威神信仰があるとして、著者は「この両方が支え合って、全国の神々も存続してきたという関係にある。神仏習合によって、仏教がそこにうまく組み合わせられた。とくに霊威神信仰と結合することによって、神道と仏教が排除し合う関係にならなかった」と述べています。

 奈良・平安時代には国家祭祀がなお威力をもっており、神社祭祀の威信が高かったことで霊威神信仰の活性化をもたらした面もあるとして、著者は「仏教の影響力の増大にかかわらず、神祇信仰は一定の自立性を保って神仏習合システムの中で生きのびてきた。しかも、その中で地位を高めていく。仏教の勢いが強い時代にも神道はその基盤を維持し、それなりの地位を存続してきた。だからこそ近代になって、国家神道が成立する基盤になり、また一方で天理教や大本(教)が大きな勢力をもつ基盤になった。その背景には伊勢神道、両部神道、垂加神道の存在もある。神道の歴史の重要な要素だ」と述べます。

 

 第6章「中世から近世への転換」の「古代以来の神道システムの変遷」では、民衆の信仰が引き継がれていった一方で、日本では国家が長く神道祭祀を実行し、社会秩序の基盤として掲げてきたこと、そして、天皇が神道の奉じる神と関わり続けてきていることが指摘され、「2019年に天皇が代替わりしたが、天皇と神々が関係し、大嘗祭という儀礼、神と天皇が一緒に神聖な食事をするのを焦点とする真夜中の祭事が、中断はあっても、古くから現代まで生き続けている国はほかにないのではないか。それはなぜか」と書かれています。

 

 一方で田舎へ行くと、昔ながらの多様な信仰が生きのびており、それらはたいへん素朴な祭りであったりするとして、著者は「愛知県・静岡県の北、信州の南、奥三河とひとくくりにされる地域で、天竜川の上流の小集落ごとに行われ、『花』とよばれる霜月祭りは、夜を徹して男性が少年から大人まで踊っている。そこに鬼が出てきて男たちは鬼と一緒に踊る。女子供はずっとそれをみていて飽きない。鬼を先祖のように感じているのではないか。そうした祭りが今日に伝えられているのは稀有なことだ。それらが地域の神社・神職と関わってなされることも多い」と述べています。

 

 「国家祭祀の神と在野の神」では、天理教や金光教、大本(教)の信仰の中には天皇は出てこず、天皇とは異なる力ある神、根源的な神が登場すると指摘し、著者は「しかし、これは近代になってにわかにそうなったということではなく、そうした存在がもともと『古事記』『日本書紀』の中にも組み込まれているとみるべきだろう。国津神や出雲系の神々だ。なぜ『古事記』『日本書紀』がそういう神々を組み込んでいるのか。アマテラス系統で古代の国を治める体制を形づくったが、国津神や出雲系に対して『これらの神々も力ある神々だ』と存在を認めているということだ。日本の場合、宗教的には中央集権的に強く治める体制に、なかなかなれないところが中国と異なる。中国のように国家の中心に天(神)と王権を結ぶ儀礼があるシステムにしたものの、国家の儀礼に圧倒的に高い権威があり、官僚体制で帝国全体を治めるような体制にはなっていかない。封建制が長く続いた統治のあり方と、多くの神々が割拠し国家儀礼の権威が限定的なあり方が対応している」と述べています。

 

 「近代神道への儒教の影響という視点」では、14世紀から15世紀にかけて、日本では南北朝時代から応仁の乱にあたる時期に中世的な仏教の影響力が後退するとして、著者は「東アジアを俯瞰すると、中国では明朝から清朝へと儒教の影響が拡大し、官僚層の優位が高まっていく。宋学(朱子学、新儒教=neo-confucianismともよばれる)を身につけた儒教官僚が力をもつようになるが、やがてそれは儒教を基盤とする両班の支配する李氏朝鮮に及び、日本でも江戸時代に武士が官僚化し、儒教化していった。これが17世紀に徳川光圀が基盤をつくった水戸学につながり、19世紀に入ると後期水戸学が展開して、国家神道の元となる国体思想の一大拠点となる。明治維新とともに形成されていく近代の国家神道とは、東アジアで支配力を強める儒教の影響を受け、古代国家神道(律令神道)を再組織化しつつ、西洋キリスト教諸国に対抗しようとして形成されたものだ」と述べます。

 

 「近代神道への儒教の影響という視点」では、一条真也の読書館『儒教が支えた明治維新』で紹介した本をはじめ、中国宋学の日本の近代政治への影響に関わる考察を何冊かの書物にまとめている小島毅氏によると、近代の国家神道や国体論に対する中国の近世儒教の影響は、思想面、儀礼面など、さまざまにみられるといいます。著者は、「現在の皇室による田植えや蚕を飼う行事は由緒正しい厳粛なものとして報道されている。だが、昭和になってから始まったものもあるが、あたかも古代からあるかのように扱われている。実際に古代から行われていたのは中国で、儒教の書物の中に書かれている。彼岸の行事も現在の日本人の感覚ではまったく仏教的なものだが、韓国では儒教的で、史料にも残されている」と述べています。

 

 春分の日、秋分の日は第二次世界大戦以前、春季皇霊祭、秋季皇霊祭の日とされていましたが、これも儒教の影響とみることができます。宮中三殿の1つ、皇霊殿は明治維新のときにつくられました。著者は、「儒教の影響によるもので、中国では先祖を祀る宗廟をつくることが多い。日本では古くはこうした祭祀はみられず、天皇の先祖に対しても行われなかった。祖先への祭祀としては、遷宮の際に寺院で仏事を行っていた。平安時代から祖先の霊を仏式で祀っていた黒戸が明治維新に際して廃され、皇霊殿がつくられた。このように近代日本の国家神道は相当程度近世中国の影響を受けているが、それはどのような思想史的・宗教史的な経緯によるのだろうか」と述べています。儒教が日本の儀式に与えた影響については、儒教研究の第一人者である加地伸行氏とわたしの対談本である『論語と冠婚葬祭』(現代書林)で詳しく述べられています。

 

 「神道史上の『神皇正統記』」では、神道史上の重要な転換点の1つとして北畠親房が取り上げられます。それは、そもそも神道は神聖な国家と社会秩序のあり方に関わる側面が多い宗教だということと関わっているとして、著者は「『神皇正統記』は歴史書である。日本の国家秩序の根源に記紀神話による神聖な由来があることを示し、歴代の天皇がそれを守り受け継いだことを示す書物である。そもそもこの枠組みは『古事記』や『日本書紀』が持っている枠組みを引き継いでいる。『古事記』や『日本書紀』が聖典的な意義を持つ書物であるとすれば、『神皇正統記』はその枠組みを新たな歴史状況の下で再構成したものといえる」と述べています。

 

  天皇親政の「復興」を目指し、南朝の正統性を理論的にも打ち立てる必要があった14世紀の日本において、天皇による神聖国家の統治という宗教理念が新たに再構成される必要がありました。それは、東アジアにおける宋学、すなわち新儒教の興隆の影響を受けつつ、古代の神話的統治理念を刷新することだったとして、著者は「14世紀の『神皇正統記』のこの試みは江戸期の水戸学などに引き継がれ、19世紀中葉には天皇親政による国家統合の理念が急速に広まり、神聖天皇と国家神道による近代国家の形成という大変革へと人々を動かす原動力となる」と述べます。

 

 「南北朝の対立と北畠親房」では、鎌倉幕府執権北条氏の支配が終わり、後醍醐天皇が建武の新政を行い、それを足利尊氏が破って室町幕府が成立しました。そして、南北朝の対立となり、尊氏が味方をする北朝の朝廷が本流となりました。著者は、「吉野に逃げた後醍醐天皇の支持者たちが独自の朝廷を開くことになり、南北朝並立の時代が続いた。これによって、のちに南北朝のどちらが正統の皇統だったかという歴史解釈上の大問題が起きることになる。『神皇正統記』は明らかにその問題と関わる著作で、北畠親房は後醍醐側の重臣であり、『南朝こそが正しい』と主張した」と述べます。

 

 『神皇正統記』では「神皇」という言葉が用いられていますが、これは神道や皇道という言葉とも関わりが深いと指摘して、著者は「昭和前期の仏教では『皇道』という言葉が盛んに用いられたが、この言葉はすでに幕末維新期にも多用され、『尊皇』という明治維新の指導的理念と結びついて用いられた。この皇道という言葉につながるのが『神皇』だ。明治前期に設立された伊勢にある皇學館の名称も、國學院に先立って設立された皇典講究所の名称も、北畠親房の『神皇』に源流があるととらえることもできる」と述べます。

 

 「祭政一致は強調されない」では、親房は政治が天皇、祭事が中臣氏に分かれたことを批判的にとらえてはおらず、「祭政一致」は古代にはあったものの、今後そうあるべきものとはとらえていないと指摘し、著者は「これが近代では天皇親祭とされ、天皇自身が祭祀を行うことになり、宮中三殿が設けられる。神祇官にあったものを、神祇官を廃して皇居の中に神殿ができた。北畠はそれほど強く祭政一致を述べているわけではない。また、江戸時代の国学思想のように、仏教や儒教を排除しようとしているわけでもない」と述べています。

 

 そして、北畠親房の思想について、著者は「日本には神の道があるが、儒教や仏教も必要だという。日本の道をしっかり守らなければならないが、儒教や仏教はそれを助けているという見方だ。水戸学は儒教を土台とした国体論的な尊皇思想だが、親房の場合は仏教も含めて神儒仏のすべてを包括しようという思想になっている。実際、出家した親房を描いた絵もある。墓も室生寺の墓、賀名生にある神道風の墓の双方がある」と述べるのでした。

 

 「明治維新と吉田神道の廃止」では、明治維新においては、当初から王政復古・神武創業・祭政一致が唱えられ、神祇官が設けられました。律令制度のもとでは太政官と神祇官があり、政治を担う太政官と祭祀を行う神祇官が並置されていた。それほどに神道祭祀が重視されていたのだが、明治政府は神祇官を復興したものの、それはまもなく神祇省になり、のちに廃止されまし。代わりに宮中三殿ができ、天皇親祭が行われるようになりました。著者は、「明治国家は神聖天皇崇敬の儀礼と国体の教えを全国に広めようとした。これは教部省の体制にもとづくもので、数年間しか続かない。当時、増上寺に置かれた大教院では、仏像を動かしてそこに神を祀り、僧侶も神を拝むことになるという仏教界にとっては屈辱的な体制ができた。これは数年で瓦解するが、他方、『八神殿』はやがて『神殿』になり、天神地祇に関連する祭祀対象として宮中三殿に統合される」と述べています。

 

 神祇官以来の八神は、国民生活にあまり関係のないクニトコタチノミコトからイザナギ・イザナミに至るまでの多くは人々にはなじみの薄い神々でした。新たに設けられた宮中三殿では、全国の神々がまとめられ、それを天神地祇という日本古来の八百万の神々に結びつけたとして、著者は「現在は、宮中に賢所、皇霊殿、神殿があり、天皇親祭のかたちをとっている。明治維新のときにそれらが整備され、同時に吉田家は完全に排除された。1872年、宮中に祭殿が建立され、現在の大きな建物のあとになる宮中三殿は1889年にできた。皇霊殿も同様に明治維新後に新たに宮中に設けられたもので、小島毅が示しているように、中国にならって宗廟を造営し、日本でも皇室が先祖を統合的に祀るようになる。今も天皇家は四代前まではしっかり祀る。四代というのも、中国にならったもので、『礼記』などの規定にもとづいている」と述べています。

 

 「神道史の転換点に位置する人物」では、北畠親房と吉田兼倶は、神道の歴史の大きな流れの中で、それぞれ独自の仕方で重要な転換点を担った人物であるとして、著者は「神道が生きのびて現代の教派神道になったり、国家神道になったりする展開の重要な結節点に位置する人物たちといえる。『神皇正統記』の思想は、古代国家神道(律令神道)に新たな活力を与えることになり、その神国論や国体論は、天皇と神道による国家統治という理念に力を与え、江戸時代の垂加神道へ、あるいは水戸学、国学へと続いていく。そして近代の神権的国体論に展開する。その流れの中では、後期水戸学の果たした役割が大きく、宋学=新儒教の影響が大きい。国家秩序の根本に神祇祭祀を置くという古代律令国家のシステムの根拠となる記紀神話の神権的統治の理念を、宋学的な理論と制度を付与した帝国統治の理念へと展開させたものだった」と述べます。

 

 他方、吉田神道は仏教の影響が大きく、神仏習合の中から神道が力を強めていく傾向を後押ししたものであり、教派神道にも通じるとして、著者は「密教系の霊威神の系譜に位置づけることもできるものだが、古代の国家祭祀の中核にあった神祇官の制度を利用してもいる。神仏習合の宗教領域に接しているがゆえに、民間の宗教実践とも近いとともに、朝廷の権威を帯びた支配体系の中にも居場所をみいだすことができるものだった。北畠親房も吉田神道も、中世の仏教中心の宗教世界から脱皮して、近世から近代へと、国家レベルと民間レベルの双方において、神道が自立していく過程を媒介する働きをしたとみることができる」と述べるのでした。

 

 第3部「近世から近代の神道の興隆」の第7章「江戸時代の神道興隆」の「江戸時代の神社と天皇」の冒頭を、著者は「神道とは独立した神社や神道思想を中心としたものをいうだけではない。神仏習合の時代に、どのように神道が人々の生活に入っていったのかを考えることが重要だ。神仏習合の時代は組織的には仏教勢力が力をもっていたが、その中で神祇信仰にも力があった。これは密教の影響を受けた両部神道・伊勢神道などの教説にみられるとともに、八幡、稲荷、熊野、山岳信仰など、全国の神祇信仰についていえることだ。多くの人々にとっては、神仏習合の中での神祇信仰が身近なものであった。他方、国家や朝廷が神祇祭祀とどのような関わりをもっていたかについてもみていく必要がある。そもそも朝廷がアマテラスの祭祀をその権威の源泉としているとともに、全国の神祇信仰をそれに連なるものとして関与を続ける体制が古代につくられた。その後の時代、朝廷の祭祀も朝廷と全国の神祇祭祀の関係も盛衰があるが、まったくとだえるということはなかった」と書きだしています。

 

 「朝廷の神事の後退と復調」では、天皇自身が行う神事は毎朝御拝のような「内の神事」は続けられていましたが、四方拝、新嘗祭、大嘗祭などの「表の神事」、つまり朝廷の神的権威を示す意義をもって、京都の貴族が中心であるとはいえ外向きに行われる表の神事の多くは、応仁の乱以後、行われなくなっていたことが紹介され、著者は「朝廷の外に存在する伊勢神宮、石清水八幡宮、賀茂神社などの由緒ある大きな神社に奉幣使(勅使)を派遣するという行事も応仁の乱以後、とだえていた。1081年以来、年に2回、二十二社に向けて行われていた祈年穀奉幣も応仁の乱以後、行われなくなっていた」と述べています。

 

 江戸時代のはじめの時期を考えると、神道的な国家の祭祀が大幅に減退した状態になっていたと指摘し、著者は「戦国時代に神道的な国家儀礼の体制が崩れてしまい、他方で、一向一揆や法華一揆のような宗派勢力が力を誇示したり、キリシタン信仰が急速に広まっていった。もちろん主流の仏教勢力もなお大きな力をもっている。しかし、東アジアの伝統では国家の儀礼秩序が不可欠であったし、日本では朝廷が残っていること自身がそのことを証明するものでもある。すでに織田信長の天下統一以来、そして安定した体制へと移行する江戸時代には、国家の神聖儀礼秩序の再建が大きな課題であり、そこでは神道が新たに大きな役割を果たすことにもなった」と述べます。

 「天下統一と将軍権力の神聖化」では、江戸幕府の体制になって、東照宮が建立されるとともに国家儀礼が新たに体制を形成していくことになりますが、徳川家は家康が神格化された東照宮を尊ぶとともに、あわせて朝廷も崇敬したとして、著者は「日光例幣使は二つの神道的な儀礼的中心をつなぐものでもあった。家康の神格化が起こる前に、すでに信長は信長自身を神格化しようとしていた(朝尾直弘『将軍権力の創出』1994年)。1576年に信長が造営した安土城は、『天主』(天守閣)を設けている。『天主』はキリスト教信仰を思わせる言葉で、ゴシック建築と同じように天に向けて突き立っている。江戸時代の各藩の城郭は安土城がモデルになっている」と述べます。

 安土城天守閣の最上階の下には、儒仏道などの偉人たちの像が並べられていました。信長自身をその上位にある存在として位置づける意味合いがあったのではないかと論じられているそうですが、著者は「戦闘のための建物というより、寺院・教会にまさる権威を示す建物という性格をもっていた。信長には天皇を安土城や二条城に招く計画があったとされる。また、仏教宗派を従わせるというような意味合いを込めて、1579年には安土宗論という宗派論争をさせている。浄土宗と法華宗に宗論をさせ、法華宗の負けを宣言したものだが、これにより諸宗派を自己の権威に従属すべきものとしたとされる。さらに安土城内の総見寺において、自らを神として崇敬させることを意図し、誕生日を聖目とし、参拝を強制したという」と述べています。

 「朝廷の祭祀の再興」では、江戸時代を通して、朝廷の祭祀の意義が高まり、祭祀・儀礼の再興・強化が試みられていくとして、著者は「日本の朝廷にとって一番大事な祭礼は新嘗祭だ。新嘗祭は飛鳥時代の皇極天皇以来、長く続いてきたが、1463年、応仁の乱で京都の混乱に巻き込まれ、後花園天皇が行って以来中絶した。江戸時代に入って、徳川綱吉政権下で霊元上皇によって再興される。霊元上皇が神事復活に強い意志を示したという。新嘗祭の復興よりもまずは大嘗祭の復興が目指され、大嘗祭をしたのだからということで、新嘗祭も行うことになった。大嘗祭が200年ぐらい途切れたが、さらに50~60年経って、ようやく1740年以降に新嘗祭が正式に復活した」と述べています。

 徳川幕府が儀礼的な秩序による権力の神聖化という点で、まず行ったのは東照宮祭祀であるという指摘がなされます。著者は、「これは徳川家康の神格化であって、将軍の権威の裏付けとなるものだ。明治維新の際、強力に天皇の神聖化が行われるが、それに先立つものといえる。それに続き、だいぶ遅れるが、大嘗祭も復活し、新嘗祭も復活する。徳川吉宗の時代だ。江戸時代に将軍や老中などが国家秩序を立て直すときには、思想や儀礼の面でも改革を行っている。松平定信も「寛政異学の禁」といわれる政策を行い、朱子学以外にも学問を強く奨励した。徳川吉宗の目安箱なども民の声を聞くことに通じ、中国風といえる。中国の中央集権体制にならいながら、こういった儀礼の復活も行われた」と述べています。

 「儒家の影響を受けた神道教説」では、東照宮祭祀が興され、朝廷祭祀や外の神事が再興されていくことは徳川支配体制において、神祇信仰の意義が高まっていくことでもあると指摘します。他方、「徳川の平和」の到来とともに、武士の官僚化が進み、武士の教学としての儒学が興隆していきました。著者は、「林羅山は吉田神道の伝授を受けたが、儒家の立場にもとづく『理当心地神道』を唱えた。宋学の理気説にそって、神は理であり、心霊であるとするもので、神道説としての独自性は乏しい。また、『本朝神社考』や『神道伝授』を著し、排仏的な立場から神社縁起などを整理したり、中世神道から吉田神道に至る流れを紹介、解説した」と述べます。

 「儒学導入が神道の興隆をもたらす流れ」では、東アジアにおける官僚制帝国の趨勢を受け、また、現世の秩序の政治的統御への関心の増大を受け、統治者である武士層の精神的基盤として急速に儒学が広まったとして、著者は「その結果、江戸時代の初期に神儒習合の思想が広まり、武家や公家の一部に支持者をみいだしていく。徳川幕府の頂点では、家康から家光、さらには綱吉へと儒家登用が進み、林羅山ら林家の系譜が影響力を増していった。また、会津藩の藩主、保科正之が吉川惟足に学び、儒家神道の実践を進めていく。保科や吉川と接した京都の山崎闇斎は朱子学の本格的導入により、多くの弟子を育て崎門学派とよばれたが、儒学と神道教説とを習合した垂加神道を広め、自ら神道祭祀を実践するとともに朝廷の神道祭祀復興にも影響を及ぼすに至る。だが、江戸時代の初期には、もう一つ近代の国家神道の源流となるような思想運動が起こされている。徳川御三家の一つである水戸藩2代藩主の徳川光圀(1628-1700)による『大日本史』の編纂で、北畠親房を受け継ぎ、幕末の尊皇思想と国体論の興隆の大きな源流となった」

 「国学の興隆と神道」では、江戸時代の初期には儒学が興隆し、儒学思想を受け入れる中で神道や神祇信仰が重んじられるという思想系譜があったことが指摘されます。この系譜は幕末の後期水戸学に受け継がれ、尊王攘夷運動から倒幕運動へと展開し、下級武士が主要な担い手となった変革運動の思想的骨格を形づくるようになります。他方、江戸時代の中期には儒学の興隆に刺激されつつ反発し、日本の古典にこそ依るべき精神伝統の根があるとする「国学」の思想運動が発展してきます。本居宣長(1730-1801)は、三重県の松坂(現松阪市)の木綿商の家に生まれました。京都で古代の言語に通暁して儒教の古典を直接読むべきだとする荻生徂徠(1666-1728)の古文辞学の方法に学び、日本の古典をしっかり読むことによって、儒学や仏教などに歪められる前の日本的な精神文化に帰るべきことを説きました。

 『源氏物語』などの文芸については、宣長は重々しく理論化された教説が示す規範にしばられることなく、人間のさまざまな感情をそのままに表現し、それを通して人間生活の真実を受け止めていくことに価値があると説きました。それを「もののあわれ」を知るという、『土佐日記』以来、古典でしばしば用いられてきた言葉で述べましたが、著者は「芸術の価値を政治や道徳に従属させないという点で、現代人にも納得がいくような議論を先駆的に示したものともいえるが、同時にそれは仏教や儒教のような外来の思想体系の排除の意志と結びつく。宣長は人間の苦難や死など、説明がつかないものを教説や知性で納得できるようにしてしまう態度を否定した。死後の霊魂の赴く所についても、『古事記』のイザナミがそうであったように、『きたなくあやしき所』である黄泉国に行くのであって、それを『悲しきこと』として受け止めるしかないという。このように死後の救いを否定する考え方は儒学の中にもあり、江戸時代の町人の間ではしだいに多くの支持者を得ていくものだが、それを古典に依拠して説くのは独特である」と述べています。

 「平田篤胤と復古神道」では、秋田藩士の四男に生まれた平田篤胤(1776-1843)は、備中の松山藩士の平田家の養子となり、その後、本居宣長の長男である本居春庭の弟子となり、江戸で独自の国学説を展開したことが紹介されます。篤胤は当時、知られるようになっていた西洋の天文学やキリスト教の教説などにも触れ、国学的な枠組みを引き継ぎつつも、古典の記述を超えて体系的な宇宙観を構築していくことに力を注ぎました。また、死後の霊魂のゆくえについて知ることで心の安らぎを得ることの重要性を説きました。著者は、「本居宣長の没後の門人を自称する平田篤胤であるが、死後の世界についてまったく異なる展望を示し、仏教の救済の約束とは異なるものの、死後に向けての安心の信仰をも提示することとなった。これによって、学問運動としての国学が宗教運動としての復古神道へと展開することになる。篤胤は気吹舎という門人組織を形成したが、最初は町人中心だった門人組織はやがて神職や上層農民へと基盤を広げていった。とりわけ篤胤没後に多くの門人が加わり、信濃や美濃では多くの武士も加わり、尊皇運動に加わるようになった」と述べています。

 「神祇信仰の組織化の進展」では、本居宣長の思想の興味深い点は、死後に救われることを期待しないところだが、江戸時代の後期には、平田篤胤の復古神道が起こり、死後が大切にされ、心の落ち着きどころを求めて死後への信仰を強調するようになったとして、著者は「こうした思想は、民間信仰的なものを取り込みながら、現実の裏側に隠れた幽冥界という世界があり、二重構造になっているという理論化を行い、この世の近くにあの世があるとする独自の理論ともなった。こうして江戸時代後期には、仏教から独立した神道が個々人の救いに目を向けるようになり、神葬祭も行われるようになった。平田篤胤の弟子たちの気吹舎という組織は、幕末には3000人にも及ぶ人々が支えるようになったとされる。こうした人々は明治維新の変革を支える尊皇思想の担い手ともなった。これも江戸時代の後期の独立した神道の動きとして重要で、復古神道とよばれている」と述べるのでした。

 第8章「国家神道の時代の神道」の「律令国家神道という原型」では、本書が、神道の歴史において国家の祭祀が大きな役割を果たしてきたことを重視していることを再確認し、著者は「7世紀の終わりから8世紀のはじめにかけて律令国家神道、あるいは古代国家神道とよぶべきものが形成された。(1)国家的な祭祀の最高崇敬対象である天照大神を祀る伊勢神宮が成立し、(2)宮廷祭祀が行われる神祇官という組織と施設が形成され、(3)宮廷祭祀の組織化が進み、(4)それを畿内と全国の諸神社とを結びつける班幣の制度が整い、(5)神話的な国家の起源と皇室の歴史、また天津神・国津神の神々の系譜を記した記紀神話がまとめられた」と述べています。

 「幕末から明治維新への展開」では、幕末から明治維新に至る状況と国家神道との関わりを理解するためには、尊王攘夷論とそれと不可分の国体論に注目する必要があるとして、著者は「『尊王』は、天皇中心の国家体制をつくっていくということである。だが、それが新たな国家体制の形成につながる経緯については、儒学的な素養をもつ下級武士(志士)らの忠誠の意識の変容が基盤となった。藩主や幕府に対する忠誠から天皇への忠誠への転換が進み、その際、国体論が大きな支えとなった。江戸時代を通して、水戸学、垂加神道、国学などによって育てられてきた国体論であるが、それを具体的な政治目標と結びつけるについては、19世紀前半の後期水戸学の役割が大きかった」と述べています。

 国体論と結びついて形成された理念の1つとして、「祭政一致」あるいは「祭政教一致」というものがあるとして、著者は「これは神道の言葉というより、近世(江戸時代)の儒教が元になっている要素が大きい。しかし『祭』は神道と不可分だ。儒教が神道と結びついて『祭政一致』『祭政教一致』という理念も形成されていった。儒教と結びついた中国的な理念に『国家には中心的な儀礼がなければいけない』という考え方がある。これが日本では神道の祭祀になる。同時にそれを行うのは皇帝にあたる存在で、日本では天皇ということになる。さらに儒教的素養をもった官僚が、正しい『教』によって天皇を支え、あるべき国家秩序を形成していくという国家像だ」と述べます。

 「天皇中心の神道思想の形成」では、西洋近代国家に匹敵する国家統合を行うには、将軍や藩主に代わって天皇が国家の中核として強力に統合力を発揮する必要があり、そのために天皇が関わる国家祭祀を強化すると同時に、天皇が国家の教えの中心にもなるとして、著者は「つまり国家とは、それ自身が神聖な道徳的な秩序の元となるものだという考え方がある。これも中国的な理念の影響を受けていて、日本でも古代以来あるものだが、それが前面に出てきたのは明治時代であった。元号の『一世一元』は明治に始まる。中国では明の時代(1368-1644年)から続いてきた。強力な帝国的体制の下で、皇帝が精神文化の中心になり、儀礼を行い、儒教的な統治理念の中心となるという体制と結びついたものだ」」と述べています。

 

 中国の場合は、加えて科挙によって登用される士大夫が儒教の教えを身につけた官僚層として統治の責めを負うという重い伝統がありました。日本では江戸時代の後半になって、武士がその役割を担おうとします。著者は、「江戸時代の武士は将軍や大名に対する忠誠の下でそうした役割を自覚していくようになるが、幕末に入り西洋列強と対決する段階になって、国家が1つにまとまる必要に迫られた。そこでキリスト教を背景にあった西洋諸国やロシアに対抗できるような、国家的な祭政一致、祭政教一致体制をつくろうとする考え方が浮上していった」

 「国体」の理念が次第にその地位を固めていきますが、それを国民に伝え具体化するものとしては軍人勅諭や教育勅語の役割が大きいとして、著者は「これらは天皇が下した神聖かつ権威ある『教』として定着するようになる。また、神職養成機関として皇典講究所と皇學館が形成され、国体論的な『教』の形成が、神社神道と結びつけて進められていくようになる。学問的な正統性は得られないものの、国家神道の『教』の側面がある程度、整っていくことによって、祭政教一致体制が形を成していくことになる」と述べます。

 大正期以降、祭政教一致体制を「神道」「国家神道」とよぶ傾向が強まっていきました。これが戦後に「国家神道」としてとらえられるようになる概念の原型であると、著者が書いた戦後日本と国家神道: 天皇崇敬をめぐる宗教と政治』(岩波書店)の第I部にあります。著者は、「それは『国体』概念と不可分である。儒教とは異なる日本の独自の体制として万世一系の天皇を中心とした体制があり、それが『国体』だという理解が国民の間に広まっていく。『国体』の教学を掲げて、天皇が祭政一致の中心となり、国民もそれに参与していく体制を『神道』としてとらえるようになる。国家祭祀と天皇崇敬にもとづく社会秩序の教えを担うのは神聖な天皇で、明治国家はそれを打ち出そうとしたが、軍隊や学校などがそのための重要な場となり、それが明確に『神道』として意識されるには40年余りの経過が必要だった」と述べます。

 「宮中三殿と神聖天皇崇敬」では、近代国家神道においては、神聖天皇崇敬が大きな位置を占めるようになるが、それは天皇自身が神道祭祀の重要な担い手とされたこととも関わっているとの指摘がされます。わかりやすい例として宮中三殿があるといいます。原武史著『昭和天皇』によれば、天皇による祭祀は理念としてはあったものの、明治天皇は実は好まなかったとされます。著者は、「その前代の孝明天皇までは天皇自身が皇室祭祀に深く関わるということはあまりなかったから、守るべき伝統とは感じられなかったのかもしれない。伊勢神宮にある天照大神の御神体である鏡の写しが賢所にある。ここが江戸時代までの宮中行事で表に出ることはあまりなかった。鎮魂祭には登場するが、賢所は内侍所にある」と述べています。

 「祝祭日の制定」では、明治政府は祝祭日を定めましたが、これが神聖天皇に関わるものとなり、皇居で神道行事が行われる日となったことが紹介されます。著者は、「祝祭日は国民生活に国家神道行事が浸透するのに一役買うことになった。1870年(明治3年)の布告では大正月、小正月、上巳の節句、端午の節句、七夕の節句、中元・お盆、八朔田実の節句、重陽の節句、天長節が年中行事、国民の祝日とされた。年中行事、国民の祝日がこのままであれば、神道色や天皇崇敬の要素は乏しかっただろう。ところが、明治6年に国民の祝日はすべて、天皇関係の祭祀に結びつけられた」と述べます。

 「靖国神社と軍隊の役割」では、明治維新以後は戦争中までそこで招魂祭を行い、そこで神になった霊を御羽車に乗せて社殿に運んだことが紹介されます。暗い夜に行われる神秘に包まれた儀式で、昭和前期にはその様子がNHKラジオで全国に放送されました。「神道の祭祀施設としての靖国神社」では、江戸時代の後期に次第に広がっていった神道の葬式、すなわち神葬祭の運動の1つとみることもできる「招魂祭」が取り上げられます。著者は、「靖国神社や招魂社の招魂祭は、天皇のために戦って死んだ軍人・志士たちのためのもので、日本の神道史上、新たな儀礼の様式だ。幕末には招魂祭という死者のための儀式と並んで、楠公祭という楠木正成の命日に行うお祭りも催され、あわせて戦死者も弔うという形もあった。天皇のために死んだ人の代表として、明治天皇の葬儀の日の乃木希典の殉死以前は、楠木正成がたいへん重要だった」と述べるのでした。

 第9章「近現代の神道集団」の「国学者や神職の失望」では、「新国学」を掲げるようになった折口信夫(1887-1953)は、1937年に書いた「国学とは何か」で、矢野玄道の「橿原の御代にかへると思ひしは、あらぬ夢にてありけるものを」という歌を引き、「明治初年の神祇官設置も、祭政一致もたゞ名ばかりであった」と述べている(『折口信夫全集』第20巻、1967年、280ページ)ことが紹介されます。著者は、「地域の神社と日本の神々に親しみをもつ国学者や神職にとっては、維新政府の宗教政策は神社・神職が望むようなかたちでの神道の復興とはほど遠いものと感じられた」と述べています。

 「神官と教導職の分離」では、政府は1882年に神官と教導職を兼ねるのを認めないという布告を出し、神官が葬儀に携われないこととしたことを紹介し、著者は「これは葬儀を行い死後の運命についての教えを説くのは宗教者の役割だが、神官は宗教者ではないのでそれを認めない、神官の役割は『祭祀』を行うことなので、それに専念させるというものだ。これは国家が特定の宗教に公的な地位を与えることを避けるという、米国やフランス等の政教分離の考え方をある程度受け入れつつ、伊勢神宮をはじめとする神社に公的な地位を与えて国家神道を支えさせるための苦肉の策ともいえるものだった」と述べています。

 さらに、著者は以下のように述べています。
「神社神道を『宗教』ではなく『祭祀』の担い手として異なるカテゴリーのものとする。それによって、神社神道を国家的な祭祀体系に連なる組織として公的な地位を付与するというものだ。だが、その代償として葬儀や救済信仰活動に類することは『宗教』活動にあたるので関与できないことになった。明治維新前後はむしろこれからは神道が積極的に葬儀に関与する、つまり神葬祭が拡大していくという方向での動きもあったのだが、『神官と教導職の分離』以後は、官国幣社の神官は葬儀等を行うことができなくなってしまった。これは神社界の多くの人々にとってたいへん不本意なことだった。そのような認識をもつ人々は、戦前を通して神社界には少なくなかった」

 「神社神道の活性化」では、明治神宮の創建のプロセスによって、全国的な神社神道の活性化がもたらされた様子もうかがわれることが指摘されます。平山昇著『初詣の社会史』は、大正年代に神社神道のプレゼンスが増していくとし、1914年の昭憲皇太后の大喪や1915年の大正大礼(即位式・大嘗祭)における神道式儀式の詳細報道を挙げ、さらに北海道小樽の住吉神社の参拝者の急速な増大を例示しています。平山は続いて、このような神社神道のプレゼンスの増大は、とりわけ「上中流」階層が神社参拝に対して積極的な態度をとるようになったことと関わりがあるとしています。

 「神仏習合の信仰の系譜」では、1945年以後の現代においては、神仏習合によって保持されてきた日本の神々の活力は、新宗教によって受け継がれてきた面が大きいと指摘。教派神道の諸教団のほかに、仏教系でも修験道やシャーマニズム・霊能者との関連が深い諸教団が存在します。手かざしによる癒やしが主要な信仰実践となる世界救世教系や真光系の教団、生長の家やひとのみち教団系のPL教団のように心理的な癒やしや修養道徳的な実践が強調される団体も多いとしています。

 著者は「ただ、霊能的な要素が大きくても、霊友会系の諸教団や真如苑のように仏教を表に掲げている団体も多い。オウム真理教も仏教を表に掲げていたが、神道系の霊能信仰の影響も受けていた。天理教のように神道の神々への崇敬を継承している教団でも、戦後は自らを『神道』ではなく神道・仏教・キリスト教以外の『諸教』に位置づけている例もある。幸福の科学のように『エル・カンターレ』を本尊に掲げている場合、神仏習合の宗教伝統の系譜上にあるとはいえても、神道系とはよびにくい。こうした新宗教における『神道離れ』の傾向は、1970年代以降、いっそう顕著になったようにみえる。総じて、神仏習合系で神道に力点を置く新宗教教団の存在感は低下し、みえにくくなっている」と述べます。

 

 「娯楽文化の中の神道的なもの」では、アカデミックというよりはエンタテインメントに属す領域では、水木しげる(1922-2015)の『ゲゲゲの鬼太郎』(1960年の『墓場鬼太郎』以来)などのコミック作品が注目されるとして、「『ゲゲゲの鬼太郎』には、さまざまな妖怪が登場する。民俗宗教の世界を参照しながら描いた作品でファンも多い。妖怪は日本の神々が姿を変えたもので、地域住民たちが伝承してきた神秘感覚を伝えるものとして親しみ深い存在となっている」

 

 また、アニメの世界でも、日本の神々の表象が大いに力を発揮しているとして、著者は「2001年に公開された宮崎駿のアニメ『千と千尋の神隠し』は10歳の少女千尋が、八百万の神々が住む異世界に紛れこみ、少年ハクとともにさまざまな体験をし精神的に成長するという物語だ。宮崎駿の初期の作品『風の谷のナウシカ』は1982年から1994年にかけて発表されたコミック作品で、その一部が84年にアニメとして公開されている。ここでも目にみえない神や霊の働きへの感受性が大きな位置を占めている。2016年に大ヒットした新海誠の『君の名は。』でも神社が大きな意義をもつ舞台として用いられており、神道の『産霊』の信仰を示唆する『結び』の儀礼に特別な意味が込められていた」と述べるのでした。

20200122162902.jpg

トークショーで著者の島薗進氏と

 

 「おわりに」で、著者は「神道祭祀や神道思想についての紹介や解説ではなく、神道史を再構成することによって神道の理解を深めるという観点から書かれた『教養としての神道』であり、神道入門である。私は修士論文で折口信夫の神道理解の研究を試みてから、長く神道系の新宗教と国家神道の研究に取り組んできたが、本書ではそこで得られた知見をもとに『神道とは何か』を考え直している。その意味では50年間にわたる宗教研究、日本宗教研究の1つの帰結ということもできる」と述べています。

20210405173919.jpg

上智大学近くのレストランで著者と

 

 本書は、前神道の時代から古代・中世を経由して近代の「国家神道」までの流れやそれぞれの特徴が史料をもとにして具体的に述べられており、客観的な視点から行なわれる解説は大変興味深いものでした。特に近年注目されることが多い神道の成立時期についての学説に対して、以前から研究者の間では言及されることが多かった、当該学説における『神道』定義の特殊さを指摘し、古代律令国家において従前の神祇祭祀を継承するかたちで神道が成立したと指摘した点が素晴らしいと思いました。また、本書は神道史を古代から通史的に解説されることに重点が置かれていますが、これにより、例えば皇室儀礼が「なぜ、儒教の影響を受けたのか」などの点に歴史的な側面からアプローチ出来ていることが嬉しく感じました。

20191009133644.jpg

皇産霊神社の瀬津神職と

 

 じつは、皇産霊神社の瀬津隆彦神職に本書をプレゼントしたのですが、瀬津神職は儒教や仏教などの思想に影響を受けた、あるいは、どこに淵源があるかといった指摘だけに留まらず、影響を受けつつも採用されなかった点――すなわち神道の独自性にも十分な紙幅が割かれて解説が行われており、より神道に関する教養がより身につけられる内容になっていると感じました。島薗先生は第3部の最後に『今後神道の活力がどのように保持され、あるいは発展していくのだろうか』との問いかけを投げかけられておられましたが、機会がございましたら、是非先生の展望について窺ってみたいと思った次第でございます」との感想を寄せてくれました。