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ウルトラマンの伝言』

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No.2139


 『ウルトラマンの伝言』倉山満著(PHP新書)を読みました。サブタイトルは「日本人の守るべき神話」です。著者は1973年、香川県生まれ。皇室史学者。1996年、中央大学文学部史学科を卒業後、同大学院博士前期課程修了。在学中より国士舘大学日本政教研究所非常勤研究員として、2015年まで同大学で日本国憲法を教えました。12年、コンテンツ配信サービス「倉山塾」を開講、翌年に「チャンネルくらら」を開局。20年6月に一般社団法人救国シンクタンクを設立し、理事長・所長に就任。

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本書の帯

 

 本書の帯には、「ウルトラマンの『見せない演出』の行間にある〈現実〉への、瞠目の一冊である」という切通理作氏(文化批評)の推薦の言葉が紹介され、「過酷な現実を生きる勇気――皇室史学者が国民のヒーローと向き合う会心作」と書かれています。

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アマゾン「出版社より」

 

カバー前そでには、「君は強大な敵に、いかにして立ち向かうか? 日本は、巨大な力に苦しめられ続けてきた。闇に怯え、打ちひしがれ、夢や希望を無くしている時代だからこそ、民族の神話が必要なのではないか。本書は、過酷な現実を生きていくために、架空の物語からの伝言を読み解く書である。現実世界にウルトラマンはいない。だから、ウルトラマンを知らねばならない。そして、日本人としてウルトラマンを語ることに意義があるのではないか――。文明と狂気の世界を描き、そして神話へと至る『ウェストファリア体制』『ウッドロー・ウィルソン』に続く著者の三部作、ここに堂々完結」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

 本書の「目次」は、以下の構成になっています。
はじめに――過酷な現実にこそ神話を
序章 円谷英二と『ゴジラ』と『ウルトラQ』
 ──神話の創造
第一章 ウルトラマン
 ──異端を受け容れる正統
第二章 ウルトラセブン
 ──軍神の記憶
第三章 帰ってきたウルトラマン
 ──なぜ日本は敗戦国のままなのか
第四章 ウルトラマンエース
 ──史上最も成功した「失敗作」
第五章 ウルトラマンタロウ
 ──本格派だが異色作
第六章 ウルトラマンレオ
 ──たった1人でもお前を欲している間は死ねない
第七章 ウルトラマン80
  ──日本「特撮」の金字塔
第八章 ウルトラマンメビウス
 ──歴史の完結と新たな神話の創造
終章 なぜウルトラマンは
   自分の星でもない
   地球のために戦ってくれたのか
おわりに――明日のエースは君だ

 

 「はじめに――過酷な現実にこそ神話を」の冒頭を、著者は「本書は三部作の完結編である」と書きだしています。PHP新書・三部作の一作目は、『ウェストファリア体制 天才グロティウスに学ぶ「人殺し」と平和の法』でした。「いまこそ人類は17世紀の思想に立ち返れ!」と訴えた本で、日本人を取り巻く「野蛮な東アジア」のなかで戦争と平和の均衡をどう保ち、生き延びるを考察しています。「国」という概念すらない16世紀に生まれながら、「戦争にも掟(ルール)がある」という英知を著す信じ難い学者がいました。その名もフーゴー・グロティウス。彼の思想はのちにウェストファリア体制として実り、国際法の原型となりました。同書は、天才グロティウスが混沌のなかに見出した「法」をわかりやすく読み解いています。

 

 三部作の二作目は、『ウッドロー・ウィルソン 全世界を不幸にした大悪魔』でした。著者は、平和の伝道師のごとく語られるウッドロー・ウィルソンの正体は「大悪魔」だったと訴えます。自由主義・民主主義・国際主義による政治体制の変革を自国の使命と考える「ウィルソン主義」の提唱者として、第28代アメリカ大統領は「偉人」と見られています。しかし、「神の恩寵のしるしが現われはじめた」弁論部員時代からメキシコ、ハイチなど弱い者いじめを重ねた大統領一期目、無理難題を突き付けてドイツ、イギリスをキレさせた第一次世界大戦。従来の国際秩序を全否定し、思うように世界を改変しようとした十四カ条の平和原則。全世界を不幸に陥れたパリ講和会議。自らを神と一体化させ、地球上に災いを呼んだ男の狂気が次々と明らかになります。

20220529190841.jpg 本書より

 

 そして、三部作の三作目が本書です。著者は、「言うまでもなく、ウルトラマンは日本を代表するヒーローである。この『ヒーロー』をどう訳すか。『英雄』『人気者』『神のように頼れる存在』......等々。1967年5月14日日曜日、昭和天皇の御代、42年目である。齢7歳。翌日の新聞記事には『浩宮さま、初めてデパートへ』との見出しがある。学習院初等科2年生の浩宮殿下が、日本橋髙島屋で『怪獣図鑑』を手に取る姿がテレビで生中継された。全国の母親の中には前年からの怪獣ブームに抵抗を感じる者もまだ残っていたが、このニュースで障害は最終的に取り除かれた。今上陛下の幼き頃の文化的功績と言えば、大仰だろうか。ちなみに、特撮テレビ『ウルトラQ』と続く『ウルトラマン』は1966年が放映開始だ。当時、陛下は小学1年生。いわゆる「ウルトラマン世代」である」と述べています。

 

 序章「円谷英二と『ゴジラ』と『ウルトラQ』――神話の創造――」の「円谷英二――神話の創造主」の冒頭を、著者は「ウルトラマンを現代の『神話』とするならば、"創造主"は円谷英二である。事実、英二は生前から『特撮の神さま』と崇められた。円谷英二は1901年7月7日、福島県岩瀬郡須賀川町(現須賀川市)に生まれた。本名は英一。昭和天皇と同い年である」と書きだしています。1933年、彼のその後の人生を決定づける出会いがありました。アメリカの特殊効果撮影映画『キング・コング』です。当時の特撮映画世界の頂点『キング・コング』に衝撃を受けた英二は、そのフィルムを取り寄せ、1コマ1コマ分析し、研究したといいいます。

 

 英二が日本一の特殊撮影技師として脚光を浴びたのが1942年、41歳のときでした。特殊撮影のカメラマンとして関わった、真珠湾攻撃1周年記念の国策映画『ハワイ・マレー沖海戦』でした。著者は、「国策映画であるにもかかわらず、海軍は制作に非協力的であった。そんな海軍が提供した、たった1枚の写真から真珠湾攻撃を再現してみせたとの伝説が生まれた。当時、記録映画かと誤解されたほどだった。戦時中のそうした戦意高揚のための映画で大評判を得た英二は、戦後には公職追放の憂き目に遭う。英二その人は、別に政治的ポリシーはなく、いわゆるノンポリであった」と書いています。『キング・コング』のような映画を日本でも作りたいという英二の願いと、特撮映像を活かした新しい作品を模索する東宝の思惑のもとに、生み出されたのが『ゴジラ』でした。特殊技術を駆使した『ゴジラ』は1954年11月に公開され、大ヒットを記録しました。

 

 『ゴジラ』は日本特撮映画においては別格であり、ひいては文化史上においての金字塔ですが、配給当時は批評家から「特攻隊賛美」と酷評されました。新聞その他の論評でも、特撮には甘く本編には辛かったようです。著者は、「大人に不評だった原因は、『ゴジラ』が特攻隊賛美と言われるように、戦争の記憶を思い出させる作品だったからである」と述べています。ちょうど、太平洋マーシャル諸島にあるビキニ環礁でアメリカによる水爆実験が4度行われ、日本の漁船・第五福竜丸をはじめ1000隻以上の船が被爆しました。ゴジラは幾度の水爆実験で古代からの眠りを覚まされたという設定で、東京湾を荒らしまくります。著者は、「米軍に空襲されて10年も経っていないのだ。いやがおうでも、戦争の記憶を思い出させられる。そしてゴジラを倒すシーンは、特攻隊そのものである」と述べるのでした。

 

 「『ウルトラQ』――テレビで映画を流す!」では、映画『ゴジラ』と続編は大ヒット、円谷英二の特殊技術は手放しで賛美されたことが紹介されます。英二に「特技監督」の名称が与えられたのは、1955年公開の第2作『ゴジラの逆襲』においてでした。著者は、「英二は特技監督としてゴジラの映画以外にも多くの特撮映画を撮っている。たとえば、1959年に、東宝の制作1000本記念として『日本誕生』が作られた。『古事記』『日本書紀』に書かれる日本武尊を主人公とする物語で、三船敏郎が日本武尊を演じた。他にも『白夫人の妖恋』『空の大怪獣 ラドン』『地球防衛軍』『美女と液体人間』『宇宙大戦争』『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐』『ガス人間第1号』などなど」と述べています。

 

 わたしが生まれた年の1963年に設立された円谷プロは、円谷英二の特撮映画をテレビで流すことに挑戦しました。それが、1966年にTBSで放映された『ウルトラQ』です。第1話「ゴメスを倒せ!」に登場する怪獣ゴメスは、映画でのゴジラの着ぐるみを使ったことで知られています。「設定――ケムール人とラゴンがつなぐ世界観」では、『ウルトラQ』の第19話「2020の挑戦」に登場するケムール人と、第20話「海底原人ラゴン」のラゴンは、後番組の『ウルトラマン』に登場することを紹介し、著者は「これにより、『ウルトラQ』と『ウルトラマン』は同じ世界観になっている。もともと両作品はまったくの別作品だったのだが、同一世界の設定となった。今に至るまで『ウルトラシリーズ』と呼ばれる」と述べます。

 

 このようにウルトラシリーズの世界観は明確なわけですが、著者は「1979年に初放映のアニメ『機動戦士ガンダム』以降は、子供番組でも最初から詳細な設定を構築していくのが主流となっている。また、そうした設定の精密さが作品の完成度として評価される傾向もある。世界観が明確な作品が高く評価されるのは当然であろう」と述べています。また、「復興の時代、戦争の記憶」では、『ウルトラQ』には、ハッピーエンドか否かよくわからない、解決しない話ばかりであり、しかも意図的に解決しない話になっていることを指摘し、著者は高度経済成長期、日本人が健全な娯楽を求め、作り手はそれに忠実に答えた。そして、作品にメッセージを込めた。『ウルトラQ』は30分のテレビ番組でありながら、精巧な特撮と映画のような作りこみ方で、世界観を提示した作品となった。こうして『神話』が、はじまった」と述べるのでした。

 

 第一章「ウルトラマン――異端を受け容れる正統――」の「史上初の変身巨大ヒーロー」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「『ウルトラQ』は人気絶頂のまま、『ウルトラマン』へと続いた。「白黒特撮テレビ映画」で成功したTBSと円谷プロは、「カラー特撮テレビ映画」に挑む。作品の主軸には、怪獣を据えた。『ウルトラQ』が放送されると、人気が出たのは怪獣だった。カネゴン、ガラモン、ぺギラ、パゴス・・・・・・魅力的な個性は視聴者を熱狂させた。怪獣ブームは絶頂を迎える。さらに『ウルトラマン』では、人間が変身して怪獣と戦う巨大ヒーローが登場した。それまで、『ゴジラ』も『ウルトラQ』も『怪獣対人間』の作品だったから、変身する巨大ヒーローは画期的だった」と述べています。

 

 ウルトラマンは、人間が変身して巨大化して怪獣と戦うヒーローです。著者は、「それまでのヒーローでたとえるなら、ゴジラやキング・コングのような怪獣と戦う巨大スーパーマンか。ただそれだけではない。変身とフォルムも、ウルトラマンはそれまでのヒーローと大きく違う。アメリカの『スーパーマン』は、人間クラーク・ケントの顔をしたまま戦う。日本では『スーパージャイアンツ』(1957~59年放映)のヒーローがスーパーマンと同じように人間の顔のまま戦っていた」と述べます。ウルトラマンは、彫刻家でありデザイナーである成田亨によってデザインされました。成田によれば、仏像とギリシャ彫刻をアウフヘーベンする、すなわち、それぞれの要素を取り入れて発展させたのがウルトラマンであるといいます。著者は、「『ウルトラマン』以降、ヒーローは変身し、人間の顔を見せずに戦うのが主流となる。東映作品では悪役が顔を見せるのとは対照的に、仮面ライダーもスーパー戦隊でも、ヒーローは変身後は素顔を見せない」と述べています。

 

 デザイナー成田亨がウルトラマンで、唯一、良しとしなかったのがカラータイマーでした。カラータイマーは、赤く点滅して、ウルトラマンのエネルギーの消耗を知らせる丸いランプですが、著者は「成田のデザインではカラータイマーはなかった。しかし、地球上では3分しかエネルギーがもたないウルトラマンの特撮シーンを、3分で終わらせなければならない演出上の事情もあって、成田が不承不承妥協した。それが、胸に突起した状態で付与されたカラータイマーである。のち『平成ウルトラマン』と呼ばれるシリーズのウルトラマンは全員、カラータイマーは埋め込まれている。さらに、庵野秀明が企画し、脚本を担当する令和の『シン・ウルトラマン』では、カラータイマーがはずされたデザインだ」と述べます。

 

 今にして思えば、『ウルトラマン』は「タイトル勝ち」だったと言えるとして、著者は「前作が『ウルトラQ』で、しかも巨大なスーパーマンだから『ウルトラマン』である。さらに、主人公の『キャラ立ち』にも成功している。身長40メートルの巨大ヒーロー。3分間で人間がいかなる科学力を駆使してもかなわない巨大怪獣をスペシウム光線でやっつける......。設定がわかりやすい。ウルトラマンの代表的な必殺技はスペシウム光線である。スペシウムとは、監督の飯島敏弘が考案した、架空の物質である。垂直にした右手と、水平にした左手をクロスさせて放たれる。そして、単なるクロスではなく、右手のプラスエネルギーと、左手のマイナスエネルギーから生み出される」と述べています。

 

 「リアルさを捨ててでも子供に残虐描写は見せない」では、変身する巨大ヒーローが、毎回、巨大怪獣と戦うというコンセプトが決まったものの、単なる怪獣殺しの話にはしないと決めたことが紹介されます。著者は、「メインライター金城哲夫は固く心がける。加えて、監修の円谷英二、並びにメイン監督円谷一によって、『子供に残虐描写は見せるな』との方針も徹底された。その方針『ウルトラマン』の最終回、最強怪獣ゼットンとの戦いでも貫かれている。ゼットンの攻撃を受け、ウルトラマンが前のめりに倒れてしまう。しかし、次に映し出されたのは、ウルトラマンが仰向けに倒れている姿であった。矛盾するシーンのつながりに、編集の失敗だと指摘できる」と述べます。

 

 しかし、これは編集の失敗ではありませんでした。実は、2つのシーンの間にあった場面を意図的にカットした編集の結果だったのです。カットされた場面とは、ゼットンがウルトラマンの死体を蹴り飛ばすシーンだったのです。著者は、「残虐描写を見せない『ウルトラマン』は、能や歌舞伎の世界である。そのままを見せない想像力に訴える描き方であり、動きをそのまま再現しなくとも、想像力を働かせばわかる世界である。『機動戦士ガンダム』は、人間が残虐に殺されているわけではないが、人間型のロボットが残虐に破壊される描写が多い。人体を傷つける描写を回避して戦場の悲惨さを伝える、巧妙な表現である」

 

 一方、最近のアニメは残虐描写を見せるのに躊躇しないとして、著者は「怪物が人間を食するシーンをリアルに描く『進撃の巨人』はその典型であろう。『エヴァンゲリオン』『鬼滅の刃』も然り。ある種の型により見る者に想像力を働かせるのと、そのままリアルに見せるのと、どちらが優れた表現技法か。たとえるなら、今や古典となった特撮が歌舞伎なら、想像力抜きでそのままを見せている日本のマンガやアニメは、中国雑伎団か。歌舞伎の宙乗りと、中国雑伎団の演武を比較しても意味がないとも言えるが、いずれにしてもどちらが優れているというより、違うものであると解釈するのが妥当だろう」と述べるのでした。

 

 「ウルトラマンと政治――バルタン星人は人間の影」では、人間が光を浴びて進化した姿がウルトラマンであり、人間が科学を悪用し邪悪になってしまった姿がバルタン星人であると指摘し、著者は「そのバルタン星人を『子分の1人』と言い放ったメフィラス星人は手強い相手だった。作品中でウルトラマンと引き分け、倒されることなく帰還した。地球侵略を狙うメフィラス星人の手口は、インディアンから土地を奪ったアメリカ人そのものである。メフィラス星人は、最も純情な年齢にあるサトル少年を選んで『どうだね? この私に、たったひと言"地球をあなたにあげましょう"と言ってくれないかね』と語りかける」と述べています。

 

 メフィラス星人は友好的な口調で話しますが、一方で、バルタン星人、ザラブ星人、ケムール人を巨大化させて見せ、「バルタンもザラブもケムール人も、みんな私の命令で地球を攻撃することができる」と、有無を言わせぬ態度で脅してきます。著者は、「腕力には自信があるので実力行使も辞さないが、大人しく従うなら穏便に奴隷にするといった態度である。軍事力を使う直接侵略だけでなく、それ以外の方法による間接侵略である。間接侵略の要諦は、心を支配してしまうことだ。メフィラス星人は人間の心に忍び寄った。しかし、地球人は撥ねつけた。間接侵略されていなかったからだ。この時は」と述べます。

 

 ゼットンが登場する最終回「さらばウルトラマン」の脚本はメインライターの金城哲夫でした。最初の脚本では、ゾフィーがゼットンを倒す予定でしたが、地球人の自主防衛の話に変更しました。著者は、「『ウルトラマン』の最終回が放送されたのは1967年4月9日。折しも小笠原諸島の日本復帰に向けての交渉がなされているときであり、当時の日本政府は、沖縄返還も持ち掛けていた。金城の、『自分たちが弱いからこんな目に遭うのではないか』との思いが、『ウルトラマン』の終わり方に現れた。『ウルトラマン』が始まる前、岸信介内閣が1960年に締結した日米安保条約は、事実として日本の自主防衛を前提にしていた。高い視聴率に乗じて、『ウルトラマン』にそうした政治的メッセージを入れていたのではないかとの見方をする人もいる」と述べるのでした。

 

 第二章「ウルトラセブン――軍神の記憶――」では、『ウルトラQ』『ウルトラマン』に続く「ウルトラシリーズ」第三弾の『ウルトラセブン』が取り上げられます。「孤高の作品」では、制作当時の『ウルトラセブン』は完全に孤立している作品であるにもかかわらず、雑誌展開する中で同じ1つの話にされていったとして、著者は「『ウルトラマンとウルトラセブンの怪獣えほん』(大伴昌司監修・構成、講談社、1970年)や『怪獣ウルトラ図鑑』(大伴昌司、秋田書店、1968年)などに見られるように、ウルトラ怪獣とウルトラセブンの宇宙人が同時に掲載される影響もあって、当時の子供たちは、『ウルトラセブン』と『ウルトラマン』は1つの世界観であると理解していた」と述べています。

 

 「テーマは宇宙人の侵略」では、著者は「『ウルトラセブン』はどんな作品なのか。テーマは『宇宙人の侵略』ある。怪獣には意思がないが、宇宙人には意思がある。自然現象である怪獣には災害対策だが、宇宙人とは意思がある闘争である。『ウルトラセブン』全49話のうち、宇宙人が登場しないのは、2回。怪獣だけが登場するのが、第26話『兵器R1号』だけ。この回の殺伐さは後述する。他に第31話『悪魔の住む花』では、宇宙細菌ダリーが登場するだけで、やはり宇宙人は登場しない。この2話を除いて全話に宇宙人が登場し、地球人と抗争する」と述べています。ちなみに、わたしは日本のすべての特撮ドラマの中で『ウルトラセブン』が一番好きです。

 

 俗説では、ウルトラセブンとは「アメリカ第七艦隊」の意味だと言われました。本当はウルトラ警備隊の「七番目の隊員」という意味ですが、脚本家の市川森一が「ウルトラセブンは第七艦隊」と広めてしまったようです。のちに、市川はNHKのテレビ番組「私が愛したウルトラセブン」のシナリオを書きましたが、劇中で金城哲夫に「ウルトラセブンは第七艦隊に見える」と言わせています。第17話「地底GO!GO!GO!」は同じく沖縄出身の上原正三の脚本ですが、自らを犠牲にして仲間を救おうとした青年の名前を敢えて「薩摩」としたことを紹介し、著者は「沖縄人・上原の『日本人になりたくて仕方がない』思いの発露だ。沖縄人でも鹿児島人でもなく『日本国民』とするのが、国民国家の思想だ。沖縄人の上原が理想の人物に『薩摩』と名付けたのは、国民国家への憧憬だ」と述べます。

 

 この17話には、宇宙人なのか地底人なのか、よくわからないロボットのような敵が登場します。ユートムと呼ばれるその敵は地下都市を築いていました。著者は、「ダンとソガが地底に迷い込み、ユートムと戦闘になる。ユートムは地球人の敵で、侵略しようとしているに違いないと、ソガが地底都市ごと爆破する。地上に戻ったソガ隊員が敵の地底基地を爆破してきたと報告すると、キリヤマ隊長は笑顔で迎えるのみ。まさに"疑わしきは、決めつけて滅ぼせ"、である。なお、戦時国際法では『疑わしきは殺せ』が鉄則である。なぜなら、そうしなければ、自分が殺され、時に祖国が滅ぼされるかもしれないからだ。『ウルトラセブン』は、戦争のリアルを描いていた」と述べます。

 

 ウルトラセブンが地球上で人間として過ごすための仮の姿がモロボシ・ダンです。地球人の青年・薩摩次郎が仲間を助けるために自分のザイルを切って崖に転落したところを助けたセブンが、この勇敢な行動に心を打たれて彼の魂と姿をモデルにしたのです。地球ではダンの姿で過ごしており、セブンとしての能力が必要な場合は本来の姿に戻る。その際、ゴーグル状のアイテムウルトラアイを着眼して変身します。著者は、「ウルトラセブンは人間モロボシ・ダンとして生きている。全く同一の人格である。この点が、ウルトラマンとハヤタが異なる2つの人格が1つの肉体に存在していたのとは、大きく異なっている。ウルトラセブンは宇宙人としての正体を隠し、モロボシ・ダンの名を借りて地球人として過ごしている。地球人と宇宙人の『恒星間戦争』にあって、『なぜ地球人の側に立って戦うのか』との悩みに直面してしまうのである」と述べます。

 

 「ペガッサ星人の悲劇――野蛮な地球人」では、神話であったはずの『ウルトラセブン』は、「ウェストファリア体制」という現実の国際社会と同じ状況となると指摘し、著者は「『ウェストファリア体制』とは、主権国家ならば国家どうしは対等だとの考えである。『ウェストファリア体制』は、『ウルトラマン』には存在しない思考だった。『ウルトラマン』では、白人が有色人種を人間とは考えず、植民地にしていったのと同じように、人間を人間とは思わない宇宙人が登場するだけであった。ところが、『ウルトラセブン』では、地球はペガッサシティやキュラソ星と外交関係を持つ。主権国家ならば国家どうしは対等だと考える『ウェストファリア体制』になってしまった。そうなれば、地球人側に味方し、宇宙人と戦うウルトラセブンの立場は何なのか。超越した神ではない。一方に加担する当事者だ」と述べています。

 

 「ノンマルトの悲劇――我々の勝利だ! 海底も我々人間のものだ!」では、地球人が実は侵略者であったという衝撃的な第42話「ノンマルトの使者」が取り上げられます。『ウルトラセブン』全話の中でも最大の問題作とされる作品ですが、この中でウルトラ警備隊のキリヤマ隊長は、地球の先住者たちが住むノンマルトの海底都市に乗り込んでいきます。著者は「宇宙人の侵略基地なら放置するわけにはいかない。一瞬、『我々人間より先に地球人がいたなんて』と躊躇する。その2秒後『そんなバカな。やっぱり攻撃だ』と、海底都市にミサイルを何発も撃ち込んで破壊した」と説明します。

 

 キリヤマはたった2秒で疑問も苦悩も振り払い、任務だからとノンマルトを全滅させ、「我々の勝利だ。海底も我々人間のものだ。これで、再び海底開発の邪魔をするものはいないだろう」と高らかに宣言したのでした。著者は、「キリヤマの所業に、この時代の日本人は誰でも『鬼畜ルメイ』を思い出す。日米戦争末期、敗色濃厚の日本に対し、民間人殺戮をもいとわない無差別都市爆撃を立案・実行した人物だ。ノンマルトは『戦わない人たち』を意味する。ラテン語の軍神を意味する言葉『マルス』に否定の『ノン』を冠して『ノンマルト』である。『ノンマルトの使者』は、沖縄に帰るのを決めていた金城が、最終回の前に書いた作品であった」と述べるのでした。

 

 第三章「帰ってきたウルトラマン――なぜ日本は敗戦国のままなのか」では、「ウルトラシリーズ」第四弾『帰ってきたウルトラマン』が始まった翌日に放送開始された『仮面ライダー』の企画に『ウルトラセブン』で脚本を書いた市川森一が関わったことが紹介されます。市川は『仮面ライダー』でヒーロー・ドラマの定番コピーである「正義の味方」という言葉を決して使いませんでした。著者は、「1969年は学生運動が終わるきっかけとなった、全共闘による東大安田講堂事件などの記憶が生々しく残っているときだった。当局側も学生側もどちらも自分たちこそが正義だと言う。市川にとっては、どちらも全然正義ではない。"正義"などの言葉は全く空しい」と述べています。

 

 仮面ライダーについて、著者は「仮面ライダーは、ナレーションのフレーズどおり、『人間の自由を守るために戦う』のである。そして『仮面ライダー』における悪の組織ショッカーは、『人間の自由を犯すもの』と設定されている。人間にとって最も大事な自由を侵すから、悪なのだ。ただし、こうした暗い設定では人気が出ず、第13話で路線変更してしまう。仮面ライダーを演じた藤岡弘がケガを負ってしまい、主演交代を余儀なくされ、ライダー2号が第14話から登場する。ライダー2号の登場とともに、内容も人間の苦悩などは全く描かれず、完全に子供番組として作られる。その効果は視聴率に現れた」と述べています。

 

 『帰ってきたウルトラマン』といえば、現在、マクドナルドの「帰ってきたチキンタツタ」のCMに使われていますが、面白かったのは、この頃のウルトラシリーズの大前提は、コンビニエンスストアがないことだという指摘です。今では全国に約6万店舗(2019年)あるコンビニも、1983年ころでも約6000店舗しかありませんでした。ファミリーマートの実験店が1973年9月、セブンイレブンの1号店が1974年5月の開設です。著者は、「『帰ってきたウルトラマン』が放送された1971年前後は、家庭では妻が夫に敬語を使い、妻が家でご飯を作り家族で食べるのは当たり前で、"外食"はご馳走の代名詞だった時代であった。そんな時代の文化の産物である、昭和のウルトラシリーズには、コンビニが当たり前に身近にあると成立しない話が多い」と述べています。

 

 『帰ってきたウルトラマン』といえば、ウルトラマンが再び地球を去るときに少年と誓い合った約束である「ウルトラ五つの誓い」が思い出されます。「ウルトラ五つの誓い」とは、「一つ、腹ぺこのまま学校に行かぬこと、一つ、天気のいい日に布団を干すこと、一つ、道を歩くときには車に気をつけること、一つ、他人の力を頼りにしないこと、一つ、土の上を裸足で走り回って遊ぶこと」です。著者は、「この中の『他人の力を頼りにしないこと』に、市川森一は批判的だった。要するに、テレビのチャンネル権を握っている母親に媚びる話を作って、視聴率を稼ぐのがすばらしいのか、と。現在では、『帰ってきたウルトラマン』は、ドラマ性に優れた傑作と評価されている。しかし、ウルトラシリーズ第一期のファンから見れば、その人間ドラマこそが批判の対象であり、作品の世界観が分裂した駄作だと映ったのだ。また、制作者たちの軋轢が見え隠れする」と述べます。

 

 『ウルトラマン』の科学特捜隊、『ウルトラセブン』のウルトラ警備隊のように、『帰ってきたウルトラマン』にはMATという組織が登場。Monster Attack Teamの略というのが何とも間抜けな印象ですが、怪獣攻撃隊であるはずのMATがシリーズを通して倒した敵は、巨大怪獣3匹、等身大宇宙人3人、小型怪獣2匹、円盤3機だけでした。「地球人の防衛チームは弱い」との印象を植え付けたわけですが、このMATは自衛隊、弱いウルトラマンをベトナム戦争で苦しむアメリカに見立てられるとして、著者は「ウルトラマン(郷秀樹)とMATは固い絆で結ばれていた。現実の日米関係のように、騙し騙される関係ではない。また、アメリカは国益のために日本と同盟を結び従属させているだけだが、ウルトラマンは自分の利益のために戦っているのではない」と述べます。

 

 では、ウルトラマンは何のために戦ってくれたのか。ウルトラマンが地球人に一切の見返りを求めないことに謎を解く鍵があるはずだとして、著者は「現実の国際社会には、『自分の命を差し出して他人の国のために戦ってくれる国』など存在しない。その意味で、ウルトラマンは徹底して『非ウェストファリア的存在』なのである。作品がいかに現実の人間社会を描き、そこにウルトラマンを放り込んで人間的な試練を与えても、ウルトラマンは神話の世界の存在なのである」と述べるのでした。このあたりが本書の白眉だと思いますが、非常に興味深いですね。

 

 第四章「ウルトラマンエース――史上最も成功した『失敗作』――」の「三つの企画書と四つの設定」では、『帰ってきたウルトラマン』に続いて、新番組『ウルトラマンエース』を企画した市川森一は、ウルトラマンに始まるウルトラ兄弟たちを「キリスト者」に見立てたことを紹介します。市川は、切通理作のインタビューで、キリスト者とは「試される者」だと答えています。市川自身は、無教会派のキリスト教徒でした。市川は、『ウルトラセブン』で「カナン星人」「ペテロ」といったキリスト教にちなんだ名前の敵を登場させた。『ウルトラマンエース』でも「ゴルゴダ星」「バラバ」「サイモン星人」に重要な役回りを演じさせています。

 

 また、『ウルトラマンエース』に登場する巨大ヤプールが取り上げられます。巨大ヤプールとは、地球に送った超獣がウルトラマンエースにすべて倒されたため、自らの手で地球を侵略するべく全ヤプール人が合体・巨大化した姿です。ヤプール人の意識集合体ともいうべき存在ですが、著者は「ヤプール人の侵略とは超獣による直接侵略に留まらず、人の心への間接侵略であり、『聖書』における『試す者』に他ならない。あまりにも斬新すぎた。ちなみに、沼正三の長編SFかつSM小説『家畜人ヤプー』がヤプールの語源なのは明らかだろう」と述べています。

 

 『ウルトラマンエース』には、画期的な点がありました。それは、北斗星児と南夕子という男女が合体してウルトラマンエースに変身することです。『ウルトラマンエース』と同時期に、合体変身ものの番組『超人バロム・1』が始まりました。こちらは完全に子供番組で、小学生の男子2人が合体変身する設定でした。「男女合体変身」といういうのは空前絶後のアイデアなのですが、著者は「男と女がもう一度合体することによって、完全な姿に戻れる。そしてその姿がウルトラマンエースであるとするのが、市川の考え方であった。『ウルトラエース』の企画書では、仏教の菩薩も『性の超越者』であるとも強調されている。ウルトラマンエースは、あらゆる宗教・思想において普遍的な存在として企画された」と述べています。

 

 ヤプールが悪魔なら、ウルトラマンエースは神。『旧約聖書』によれば、神は自分の姿に似せて人間の男アダムを作り、アダムのあばら骨を取り出して人間の女イブを作ったといいます。『旧約聖書』の「創世記」に「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう』」(第1章26節)、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(第1章27節)とあり、また、「主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた」(第2章22節)とあります。無教会派のキリスト教徒だった市川は、『ウルトラマンエース』の北斗と南を『旧約聖書』のアダムとイブに重ねたのでしょうか。

 

 『帰ってきたウルトラマン』のMATは、『ウルトラマンエース』ではTACとなりました。TACとは、Terrible‐monster Attacking Crewのアクロニウムです。MATは上層部と世論の圧力にさらされ続けましたが、TACも同じです。ただし、隊長の竜が巧みな手腕でかわし続けるので、MATのように解散の危機に瀕したことは一度もありません。「兵器の性能は向上しても、弱さを印象づける」では、著者は、「『ウルトラセブン』が池田勇人内閣、『帰ってきたウルトラマン』が佐藤栄作内閣の防衛意識を反映した作品なら、『ウルトラマンエース』は田中角栄内閣のそれであろうか。池田内閣ほど防衛努力はしないが、佐藤内閣ほど自衛隊へのあたりは強くない。だが、一度でも失われた戦う心は取り戻せない。だから、武器が強くなっても、軍隊が強くなることはない」と述べています。

 

 「女に逃げられたヒーロー」では、『ウルトラマンエース』は途中から南夕子がいなくなって(夕子の故郷である月に帰って)から人気が出たという指摘がされます。著者は「当時の子供にとっては隊員が減ったのに加えて、北斗1人で変身するのもわかりやすかった。設定されていた、男女合体変身そのもののウケがよくなかったようだ。実際に子供たちが"ウルトラマンごっこ"をして遊ぶとき、男の子と女の子が2人1組で変身するのが実際にはやりにくかったのだろう。子供にとってわかりやすくなった分、視聴率が回復していく。第29話を含めて連続7回20%台を取った。その後はまた下がるのだが」と述べています。しかし、『ウルトラマンエース』は、最大のライバルと位置づけた『仮面ライダー』に視聴率で完全に負けました。『ウルトラマンエース』と『仮面ライダー』が同時期に放送されていた期間の45回分の平均視聴率を比較すると、『ウルトラマンエース』が18.9%であったのに対して、『仮面ライダー』は22.1%でした。

 

 第五章「ウルトラマンタロウ――本格派だが異色作――」の「売れる要素がすべて盛り込まれたヒーロー」では、爽やかで強いヒーローが、明るく楽しく、勧善懲悪のわかりやすい物語を展開し、親子が安心して見られる話を送り出した番組『ウルトラマンタロウ』は「売れる特撮の黄金パターン」を確立したとして、著者は「『タロウ』は、『格』を定着させた作品でもある。『帰ってきたウルトラマン』は『仮面ライダー』とほぼ同時期に始まり、『仮面ライダー』に苦戦する。そして、『ウルトラマンエース』は『仮面ライダー』と放送期間がかぶり、視聴率で敗北し、2番手に落ちていった。『ウルトラマンエース』が終了する約1カ月半前に、『仮面ライダーV3』が始まった。その約1カ月後に『ウルトラマンタロウ』が始まる。『V3』は平均視聴率(関東)が19.8%、『タロウ』は17.0%だった。単純な数字だけでは『V3』が『タロウ』を上回るが、その後は『ライダーシリーズ』の方が迷走する」と述べています。

 

 『ウルトラマンタロウ』では、ウルトラ兄弟の客演も印象的でした。「ウルトラ兄弟、父、母――神話から民話へ」では、ウルトラファミリーの誰かが登場する回が全部で15話であるとして、著者は「割合にすれば28.3%ほぼ3回に1回は、他のウルトラ兄弟が登場する計算になる。これは麻薬のように禁断の果実で、「兄弟が増えるにつれてウルトラマン1人1人の魅力が半減され、常に団体で出ていないと、間というか、場がもたなくなってきたのだ」った。これは人気シリーズの宿命で、『仮面ライダー』シリーズでも悩みである。『~タロウ』と同時期の『仮面ライダーV3』は第1話、第2話の前後編で前作の主人公である1号、2号を死なせる設定にした。ただし、後に2人を生き返らせ、客演回をつくる。番組後半では、仮面ライダー4号ことライダーマンをレギュラーとして登場させる。『~X』では終盤に4回、客演回。『~アマゾン』はあえて客演回なしで、『~ストロンガー』はシリーズ最終5話をかけて、最終回で全ライダーを集合させた。苦慮が感じられるが、客演率3割の『~タロウ』の方は、堂々としているとすら言える」と述べます。

 

 第七章「ウルトラマン80――日本『特撮』の金字塔」では、1975年3月28日の『ウルトラマンレオ』の最終回で、「ウルトラシリーズ」は幕を下ろしたことが紹介されます。アニメとSFXの挟撃にさらされて、日本特撮の雄である円谷プロは岐路に立たされていたのですが、この事情は東映も同じでした。『仮面ライダー』シリーズは「ウルトラシリーズ」ほど特撮に予算がかかる訳ではありませんでしたが、曲がり角に立っていたのです。果、「仮面ライダーシリーズ」は『~アマゾン』をもってNETでの放映を終了、『~ストロンガー』はTBSで放映されることとなります。本書には、「そこで番組枠が空いたNETが東映と企画した新たな特撮番組が、『秘密戦隊ゴレンジャー』である。『ウルトラシリーズ』にしても『ライダーシリーズ』にしても、人気回は客演回である。ならば最初から複数のヒーローを出しておけばよいではないかとの発想で、5人のヒーローがレギュラーの『秘密戦隊ゴレンジャー』だった」と書かれています。

 

 終章「なぜウルトラマンは自分の星でもない地球のために戦ってくれたのか」の「『我々は神ではない』」では、今でも伝説の超人と崇められているウルトラマンキングが一神教の想定する絶対神に近いと指摘し、著者は「ユダヤ教のヤハウェ―、キリスト教のゴッド、イスラム教のアラーのような、絶対的な力を有する存在だ。破壊された宇宙を一瞬で元に戻すような、圧倒的な力だ。それに対して、ウルトラマンたちは地球人に対しては圧倒的な力を持つ存在だが、同時に人間と同じように喜怒哀楽がある。仏教の仏たち、ギリシャ・ローマの神々、そして日本神話の神々のようだ。実に感情的で、人間らしい」と述べています。

 

 「共通の神話」では、著者はこう述べています。
「現実社会、特に国と国の関係、戦いのような複雑な事象に、神のような非現実的な存在を持ち込む野蛮に対し、1人の天才フーゴ―・グロティウスが文明の何たるかを創造し、人々に説き、やがて少しずつ人類は実現した。これがウェストファリア体制である。だが、ウェストファリア体制の歩みは遅々とし、脆く、拙く、瞬く間に1人の狂人によって粉々に砕かれた。1人の狂人とは、ウッドロー・ウィルソン。自分を絶対神と信じた、正真正銘の狂人である。ウェストファリア体制以前の十字軍など『自分がウルトラマンだと信じこんでいたバルタン星人』だったが、ウィルソンは『自分がウルトラマンキングだと信じて疑わないエンペラ星人』と言うべきか。エンペラ星人は己を闇の存在だと自覚していたが、ウィルソンは自分こそが光だと確信していた」

 

 文明人は2つの真理を心得ねばならないという著者は、「1つは、神話の世界観を現実に持ち込まないこと。もう1つは、神話の世界観を理解することである。神話とは何かを熟知しているものだけが、神話を現実に持ち込まない大人の文明人でいられるからだ」と述べています。では、神話とは何か。神と人の絆(つながり)を語る物語であるとして、著者は「もし、宗教学者が1000人いれば、1000の宗教の定義が争われるだろう。だが、あらゆる宗教は「つながり」を表す。Religionの語源は、レリギオ(つながり)である。社会学や心理学によれば、人は誰とも繋がらない無連帯(アノミー)に陥った時に、自殺するとか。どれほど近代科学技術文明が進歩しても、人と人とのつながりは求められる」と述べます。

 

 なぜウルトラマンは自分の星でもない地球のために戦ってくれたのか。この問いに対して、著者は「突き詰めれば、そこに価値を認めているから。守りたいという気持ちがあるから、以外に無いのではないか。そこにロウソクがあるとする。1000年以上前から燃えているロウソクである。1000年前に灯した火が今も燃えている。その火を、消してはならないと思うか、消しても構わないと思うか。いかなる理屈を並べて善悪を論じても、そこに価値を見出している以外の理由があるのか。価値を見出せない人間に、どのような理屈が通じると言うのか」と述べます。

 

 さらに、著者は「人間の思考――哲学は突き詰めれば、それを美しいと感じるか醜いと感じるかの審美眼に行きつく。何を真善美で偽悪醜とするかの根源は、そこに価値を見出すかどうか。そこにある1000年前の灯をこれからも守り続けることが美しいと感じるか否かの感性でしかありえないのではないか。言うなれば、ウルトラマンが地球人を守るのは、理屈抜きに地球人を美しいと価値を認めているからに他ならない。親が子供を無条件に愛おしいと感じるように。神話としての『ウルトラマン』は多くを教えてくれる。現実社会で巨大な力に押しつぶされそうな時こそ、神話に立ち戻り、己の守るべき価値とは何なのかを見つめ直すからこそ、何をなすべきかを思い出せるのではないだろうか。私はウルトラマンの伝言を『己の生き方を自分で考えよ』だと受け取っている」と述べます。

 

 そして、「おわりに――明日のエースは君だ」では、ウルトラシリーズにおいて、地球人は兵器が強くなっても、心が侵略されて弱くなったことを指摘し、著者は「結果、直接・間接の侵略に右往左往する。だが、それでも一貫しているのは、『地球は我々人類、自らの手で守り抜かねばならないんだ』とのキリヤマ、その前任者のムラマツが残した精神だ。『ウルトラマンメビウス』においては、この言葉の解釈をめぐり、議論が戦わされている。『自らの手で守り抜くとは、どういう意味か』と。力を得るには、何をしなければならないかを問い直すことからだ」と述べるのでした。本書を読んで、子どもの頃に夢中になって観た「ウルトラシリーズ」が日本の防衛問題と密接に関わっていることを知り、興味深く思うとともに、皇室史学者である著者の見識に深く尊敬の念を抱きました。