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日本習合論』

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No.2125


『日本習合論』内田樹著(ミシマ社)を読みました。著者の本はほとんど読んできましたが、本書は、一条真也の読書館『日本辺境論』で紹介した著者の代表作の続編とでもいうべき内容で、共同体、民主主義、農業、宗教、働き方などの問題点と可能性を「習合」的に看破しており、非常に興味深かったです。著者は、1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。東京都立大学大学院博士課程中退。神戸女学院大学を2011年3月に退官、同大学名誉教授。専門はフランス現代思想、武道論、教育論、映画論など。著書多数。第3回伊丹十三賞受賞。現在、神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰。

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本書の帯

 

 本書の帯には、「外来のものと土着のものが共生するとき、私たちの創造性はもっとも発揮される」「どうして神仏習合という雑種文化は消えたのか?」「『習合』は少数派が生きるための知恵と技――」「著者の新たな代表作」「続々増刷!!」「ミシマ社創業15周年記念企画」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

 帯の裏には、「本書は『頭が大きい』内田氏の頭の中身を体感できる本。『純化』好みの多数派の人びとには手に負えない本だ。―― 橋爪大三郎(毎日新聞2020.11.21)」「本書自体が生きた習合の実例であり、その豊饒さの証しになっているのだ。―― 大澤真幸(北海道新聞2020.11.22)」「【メディアで次々に紹介! ! 】共同通信インタビュー(2020.10.12配信)NHK『著者からの手紙』(2020.11.1)東京新聞(2020.10.31)週刊文春(2020.11.12号)等々・・・」と書かれています。

 

 本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「まえがき」

第一章 動的な調和と粘ついた共感

第二章 習合というシステム

第三章 神仏分離と神仏習合

第四章 農業と習合

第五章 会社の生命力を取り戻す

第六章 仕事の概念を拡大する

第七章 日本的民主主義の可能性

第八章 習合と純化

「あとがき」

 

 「まえがき」で、「習合」という1つの概念を手がかりにして、宗教から民主主義まで、日本文化の諸相を論じようという本書のアイデアについて、著者は「こういう大風呂敷話、僕は大好きなんです。以前「辺境」という概念を手がかりにして、やはり日本文化の諸相を論じたことがありました。それに続く久しぶりの『大風呂敷』です。『日本辺境論』にも書いたことですけれど、日本はユーラシア大陸の東の端です。もうこれより先には海しかない。だから、大陸・半島・南方から到来してきた制度文物はここに貯蔵される。捨てられないでいると、それがどんどん倉庫に積み上げられる。すると、いつの間にか『ハイブリッド』ができる。コーヒーと牛乳でコーヒー牛乳ができて、カレーと蕎麦でカレー蕎麦ができるように。先にあったものを排除しないで、その上に乗っかっているうちに、接合面が癒合して、混ざり合ったものができてしまう」と述べています。

 

 養老孟司氏によると、日本列島には三次にわたって別の土地からの集団移住があったといいます。この三つの集団のすべてのDNAが現代日本人には残っているという説を紹介し、著者は「ということは、かつて外見も違う、言葉も通じない、生活文化も違う異族同士が遭遇したときに、彼らは殲滅でも、奴隷化でも、逃亡でもなく、『混ざる』ことを選んだということです。別に熟慮の末ということではなかったのでしょうけれど、たまたま混ざったら、なんとか折り合いがついて、どちらも死なずに済んだ。それが成功体験として記憶され、種族の生存戦略として採択された......ということではないかと僕は想像しております」と述べます。

 

 「『雑種』は日本文化の本態である」では、日本文化の特徴が「雑種」だということは、すでに1956年に加藤周一が指摘していたと指摘し、著者は「これはもう日本文化論の中では定説として受け入れられていると思います。加藤の雑種文化論の根本的テーゼは、『英仏の文化を純粋種の文化の典型であるとすれば、日本の文化は雑種の文化の典型ではないかということだ』という一言に集約されます。ただし、そのことを加藤は比較文化論的な、第三者的視点からコメントしたわけではありません。西欧の圧倒的な文化的優位の下で自信を失って、毒性の強い劣等感に苦しんでいた敗戦直後の日本人に向けて『自信をなくすな』と叱咤することを主意としたものです。戦争に負けたからといって、日本文化のすべてを恥じて、すべてを棄ててまで西欧文化に拝跪する必要はない。日本文化のありのままをみつめて、それを深めてゆくことはできるはずだ、と」と述べるのでした。

 

 第一章「動的な調和と粘ついた共感」の「霊的にピュアなもの」では、著者は「明治維新から150年が経ち、宗教をめぐる状況が変わりつつあるような印象を僕は持っています。日本社会は久しく世俗的であったけれど、このところ再び宗教的なものになりつつある」と書きだし、「世俗の枠組みではその意味や価値が考量できないもの、儀礼や修行や瞑想や呼吸法や食物や衣服についての戒律などなど、『どうしてそんなことするの?』と訊かれても、うまく合理的な説明ができないもの、そういうものに惹きつけられる人が増えている。もちろん、経験的な根拠があっての話です」と述べます。

 

 村上春樹の小説に言及した著者は、「ロシアと中国はどちらも村上春樹さんの本がよく読まれている国です。でも、よく考えると不思議な話だと思いませんか。どうして、それぞれ一度は科学的社会主義を国是としていた国で、『必ず幽霊が出てくる小説』が多くの読者を惹きつけるのか? 僕はそれが村上文学が現代交においては例外的に宗教的な味わいを持つものだからだと思っています。村上文学には、世の合理的思考では説明できない異形のものたちが次々と登場します。『やみくろ』とか『ミミズ君』とか『羊男」とか『ワタナベ・ノボル』とか『カーネル・サンダーズ』とか『騎士団長』とか。それは世俗的な合理性が容認できるものではないけれど、たしかに、人間の生き死にに具体的に、直接的にかかわってくる』と述べます。

 

 村上春樹はユング派の心理学者である河合隼雄と対談したとき、『源氏物語』の中にある怨霊に代表される超自然性は現実の一部として存在したものかという問いを投げかけます。それに対して河合隼雄は「あんなのはまったく現実だとぼくは思います」と断言するのですが、その答えに小説家として深く納得した村上春樹は「それまで以上に『怨霊』のようなものを物語の中にじゃんじゃん登場させるようになった。何かの比喩や代理表象ではなく、まさにそのものとして」と、著者は述べます。

 

 また、著者は「僕はこういう感受性こそほんとうの意味で宗教的なものだという気がします。合理的、科学主義的に考える人は、人間がひどくリアルな妄想や幻覚に取り憑かれることは認めますけれど、それを『まったくの現実』だと認めることはありません。でも、それではある現象が『現実』か『非現実』であるかを識別する指標とは何なのでしょう。ある種の想念や感情がつよい現実変成力を発揮することは現実にいくらでもあります。たとえば、『幽霊』を見たと思った人が、その心的衝撃でショック死した場合、その『幽霊』には間違いなく現実変成力はあったわけです」と述べています。

 

 「現実と非現実の境界線をきちんと引くことがむずかしい」では、現実を相手にしている人間だけが現実的であるわけではないと指摘し、著者は「非現実的なものを相手にしている人間のほうもまた等しく現実的であり、ときにははるかに現実的である。認知的には『非現実』とみなされたものが、遂行的には「現実的」に機能することがある。だとしたら、『現実』と『非現実』の境界線はどこに設定したらよろしいのか。僕はそのような境界線をきちんと引くことはむずかしいだろうと考えています」と述べます。

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儀式論』(弘文堂)

  

 続けて、著者は「人間の理性が及ぶ範囲は限定的です。その外側は、人知をもっては知りえないもの、人知をもっては制御しえないものの領域です。ときどきその『外部のもの』が境界線を越えて、人間たちの世界に侵入してくる。逆に、人間がうっかり境界線を踏み越えて、『外』に迷い込んでしまうこともある。だから、『外部のもの』を迎え入れたり、押し戻したりするための、あるいは『外』に迷い込んだ人を呼び戻すための儀礼や戒律が伝統的に存在する」と述べています。この問題は、拙著『儀式論』(弘文堂)でも詳しく考察しました。

 

 どの宗教においても、儀礼や戒律の起源は遠い人類史の闇の中に消えています。どういう起源から発生したのか、わかりません。そういうときに「だからそんなものには意味がない」と言い切れる人と、「いや、そこには古代人には感知できたけれど、現代人には感知できない、何らかの働きがあったのではないか」というふうに留保をつける人がいるといいます。著者は、「後者を『霊的にピュア』な人というふうに類別したいとして、「人知によってははかり難いことによって僕たちの世界は充たされている。シェークスピアだって、そう言っています」と述べるのでした。

 

 「全体の7パーセントは『少数派でも平気』でいてほしい」では、集団の過半数が意気揚々と「退化の方向」に棹さしていることなどまったく珍しくないとして、著者は「ヒトラーのドイツだって、スターリンのソ連だって、毛沢東の中国だって、『そっちに行っちゃダメ』な方向に国民が目をキラキラさせて大行進をしていたし。だから、どんな時代のどんな社会でも、「今のわれわれの社会の多数派は、もしかして間違った方向に向かっているのではないか」というクールな点検が必要になる」と述べています。

 

 また、その異議申し立てが実は適切であったことがわかるのは、場合によっては100年経ってからということだってあるとして、著者は「だから、昨日今日の選挙結果がどうだったからというような理由で、『少数派であるのは、われわれが間違っているからだ』というような結論に軽率に飛びつかないほうがいい。正否がわかるのはずいぶん先の話です。『棺を蓋いて事定まる』というではありませんか。気長に構えたほうがいいですよ」と述べます。

 

 アメリカがいまも世界最強国であり続けていられるのは、国内につねに強力なカウンターを抱え込んでいたからであるとして、著者は「メインストリームがどれほど大きな失敗を犯しても、それに対して久しく激烈な反対運動を展開してきたカタンターが取って代わることができる。それが米国社会に復元力を提供してきた。米ソ東西冷戦で最終的にアメリカが勝利したのは、アメリカ国内には時の権力者を鋭く批判する強力なカウンター・カルチャーが存在したけれども、ソ連にはそれに類するものがなかったからだと僕は思っています」と述べます。

 

 中国もそうだといいます。著者は、「いまは中国には勢いがあります。けれども、国内に力強いカウンターが存在しない。メインストリームである中国共産党の一党支配体制が不調になったときに、国を復元するための備えがない。ですから、中国もかつてのソ連と同じように、一度傾き出すと、復元力が働かず、政治的カオスが訪れるリスクが高いと僕は思っています。そうなる前に『リスクヘッジ』という発想ができる指導者が出てくるといいのですが」と述べるのでした。

 

 「事大主義の再来」では、著者はあまり「和」を好まないと告白し、その理由として「『和』を過剰に求める人は、集団の他のメンバーに向かって『そこを動くな』『変わるな』と命ずるようになるからです。自由に運動しようとするもの、昨日までとは違うふるまいをしようとする人間が出てくると、たしかに集団は管理しにくくなります。だから『和を尊ぶ』人たちは、基礎的なマナーとして『身の程を知れ』『おのれの分際をわきまえろ』『身の丈に合った生き方を知れ』という定型句をうるさく口にするようになる」と述べています。

 

 著者が政治的なことについて発言したときに「それならあなた自身が国会議員になればいいじゃないか」と絡まれたことがあります。また、著者の知り合いは、ある有名ユーチューバーについて批判的なコメントをしたら、「そういうことは再生回数が同じになってから言え」と言われ、ある若手経営者について批判したら「そういうことは同じくらい稼いでから言え」と言われました。著者は、「全部パターンが同じなんです。批判したければ、批判される対象と同じレベルにまで行け、と。権力者を批判したければ、まず自分が権力者になれ」ということになる」と述べます。

 

 続いて著者は、「それはいくらなんでも没論理的ではないですか。『現状に不満』というようなことは現状を変えることができるくらいの力がある人間にしか言う資格がない。無力な人間には、そもそも『現状に不満である』と言う権利がない。こんな言明にうっかり頷いてしまったら、もう『現状を変える』ことは永遠に不可能になります。だって、今あるシステムの内部で偉くなろうとしたら、まずシステムを受け入れ、そのルールに従い、他の人たちとの出世競争に参加して、そこで勝ち残らなければならないからです」と述べています。

 

 「ミスマッチでいいんじゃない」では、共感主義者たちは「和」をうるさく言い立てると指摘し、著者は「異論を許さず、逸脱を許さない。みんな思いを一つにしないといけない、われわれは『絆』で結ばれている『ワンチーム』なんだ、と。でも、このときに彼らがめざしている『和』なるものは、多様なものがにぎやかに混在して、自由に動き回っているうちに自然に形成される動的な『和』ではありません。そうではなくて、均質的なるのが、割り当てられた設計図通りに、決められたポジションから動かず、割り振られたルーティンをこなすだけの、生命力も繁殖力も失った、死んだような『和』です」と述べるのでした。

 

 第二章「習合というシステム」の「『異物との共生』を可能にする習合システム」の望楼を、著者は「共感や理解を急ぐことはない。この本で言いたいのは第一にそのことです。僕が『習合』という言葉に託しているのは、『異物との共生』です。そのことのたいせつさが見失われているのではないか、異物を排した純粋状態や、静止的な調和をあまりに人々は求めすぎているのではないか。そんな気がします。それが社会が生き生きとしたものであることを妨げている。いくつかの構成要素が協働しているけれど、一体化してはいない。理解も共感もないけれど、限定的なタスクについては、それぞれ自分が何をしなければいけないのかがわかっている。そういうシステムのことを『習合的』と僕は呼びたいと思います」と書きだしています。

 

 『七人の侍』とか『荒野の七人』とか『ナバロンの要塞』といった、著者が子どもの頃に熱愛した映画を取り上げ、それぞれ一癖も二癖もあるスペシャリストのメンバーに言及しながら、著者は「共感主義的な集団においては、メンバーは何よりもまず集団とリーダーに対する忠誠心を求められる。能力は二の次です。まず忠誠心。そして、次に割り当てられた役割からはみ出さないこと。変化してはいけない、進化してはいけない、成長してはいけない、複雑化してはいけない。はじめからずっと同じキャラクターのままでいること。それが共感主義集団のルールです」と述べています。

 

 続いて、著者は「変わること、成長することを禁じられている。生き物なら息が詰まる。生きた気がしない。その不満の受け皿になるのが、粘ついた共感です。粘ついた共感によってチームがべたべた癒着することで『身動きができない』という負の経験を『みんなと一体化している』という喜びの経験に書き換えている」とも述べます。

 

 個々のメンバーは出自も属性も異にしていますので、同質性とか「オレたち同じだよね~」という一体感によってはつながることはできません。でも、集団として果たすべき仕事は果たします。そういう仕組みが習合であるとして、著者は「それはミトコンドリアのような生物の共生態から国民国家まで、極大から極小まで、あらゆるレベルにわたって観察することができます」と述べます。また、著者が主張したいのは、習合は社会集団が寛容で、かつ効率的であるためによくできたシステムではないかという仮説だといいます。

 

 特に、日本列島住民は古代から異物と共生することでこれまで「うまくやってきた」といいます。ならば、これからもその伝統を守ってゆけばいいとして、著者は「『あちらが立てばこちらが立たず』というときに『そこを枉げて、あちらもこちらも立てる』ということです。両立しがたいもの両方の顔を立てる。それについての技術知とでもいうべきものを日本列島住民は長い歴史をかけて獲得してきたはずです。そうじゃなければ『雑種文化』なんか成立するはずがない。僕はそう思います」と述べるのでした。

 

 第三章「神仏分離と神仏習合」の「なぜ政令一本で神仏分離ができると思ったのか」では、著者は「日本では久しく仏教と神道は癒合したかたちで存在していました。神社の中に寺院があり、寺院の中に神社があるという神仏の共生は6世紀に仏教が到来してすぐに始まりました。そもそも神道という土着の信仰がそれなりの体系性を持つことになったのは、仏教が伝来したときに、土着の信仰と儀礼を「仏教とは違うもの」として差別化する必要が出てきたからです。神道は仏教が到来したせいで宗教としてかたちをとった。そういうものです。『何かと違うもの』として記号は立ち上がり、意味は生成するわけですから。神仏の共生はそれからざっと1300年続きました。ところが慶応4年(1868年)、神仏分離令によって神仏は引き裂かれてしまう。1000年以上続いた宗教的伝統が、政令1つで途絶してしまった。前にも書いた通り、これは、日本人の宗教性を考えるうえで、非常に重要な、不思議な出来事だと思います」と書きだしています。

 

 「神仏分離を『廃仏』と解釈したのは現場」では、「『神仏分離』をただちに『廃仏』と拡大解釈したのはあくまで現場であり、そう解釈した地域もあったし、そう解釈しなかった地域もあったと指摘し、著者は「明治政府は『廃仏令と誤解されるような政令』を発しただけです。『うっかり暴走して廃仏運動をしても公権力からは罰されない』という心証を流布しただけです。だから、その政治責任を取る気はありませんでした。『政府は命じていない。誤った解釈をした現場の責任だ』と言い逃れる余地を残していた。昔も今も政府のやることは変わりません」と述べます。

 

 廃仏運動が熾烈だったのは鹿児島、宮崎、土佐、隠岐、松本などでした。著者は、「鹿児島では、県内の寺院がすべて廃滅され、ついに僧侶が一人もいなくなりました。水戸藩や津和野藩は国学がさかんで、幕末から廃仏運動のフロントランナーでしたから、廃仏運動がエスカレートした理由はわかります。けれども、その他の地域ではどうして廃仏運動が行われたのか、必ずしも理由が定かではありません」と述べています。

 

 「霊界のドラマ」では、たぶん民衆レベルで廃仏毀釈は、自分たちの現実とは直接かかわらない、霊的次元での戦いだと思われていたからではないかと想像するとして、著者は「つまり、明治政府はこの宗教政策を、世俗権力による宗教運動の弾圧・統制ではなく、天皇という一神教的な霊的権威による、多神教的な偶像崇拝の霊的浄化というドラマに仕立てて遂行したということです」と述べます。また、人々は、神仏分離を明治政府が合理的な政策判断に基づいて行った宗教政策だとは思わなかったと指摘し、著者は「そうではなくて、天皇神がその他の土俗神たちに対しておのれの霊的優位の確認を求めた『霊界のドラマ』であると、民衆はそう受け取った。神仏の境位で起きている話なんだから、われわれ世俗の身には関係ない、と。そう思ったから抵抗しなかった。抵抗できなかった。僕はなんだかそんな気がします」と述べるのでした。

 

 「国家神道が確立され、神社が減った」では、神仏分離によって、明治政府は現実世界に霊的秩序を持ち込んだと指摘し、著者は「一般の民衆にとって『霊的秩序』なんかには何のリアリティもありません。天皇陛下のほうが村の正一位お稲荷さんよりも上位神であると言われたら、そうか、そうなのか......と納得する他ない。反論するほどの知識もないし、『信仰の自由』というような概念は当時の民衆は知りませんから、『そうか、そうなのか』以外にリアクションのしようがない」と述べています。

 

 だから、霊的秩序を現実世界に持ち込んだせいで現に廃寺とか失職とかいうリアルな事件が起きているのですが、その出来事の当否について人間の側は判断することができないという不思議な事態が出現したとして、著者は「ただ、指を咥えて見ていることしかできない。京都府知事だった槇村は、五山の送り火も地蔵盆も盆踊りも全部禁止したんですよ。町衆が『ふざけるな』と言って強く抗議したっていいじゃないですか。でも、そういう『民衆の側からの伝統的な信仰を護る動き』は僕が見たかぎり報告されていない」と述べています。

 

 「霊的浄化の二段階」では、神仏分離・廃仏毀釈とは、天皇という一神教的霊的権威による多神教的な偶像崇拝の霊的浄化というドラマとして遂行されたことが強調されます。そして、この「霊的浄化」は2つの段階を経由して果たされたのではないかと推測します。第1段階が「分離」、第2段階が「格付け」です。第1段階で神と仏、土着の信仰と外来の信仰が分離された。そして土着の神々が単離された。これが神仏分離ですが、著者は「そのあとに、しばらくしてから第2段階が行われた。土着の神々を格付けして、格付け低位の神々を厄介払いするというプロセスです。これが神社統合である、と。そういうふうに経時的に並べると意味が少しわかる」と述べます。

 

 まず水と油を分離する。次に油を精製して、揮発性の高い石油と、純度の低いねばねばした瀝青に分離する。このように神社統合は「瀝青」をゴミとして捨てる工程だったと表現する著者は、「歴史的経緯を見てゆきます。明治政府は神仏を分離し、神社を政府の神祇官が統括するという仕組みにしました。そのときにすべての神社はその社格によって階層化されました。頂点に、神話上の神々や皇霊を祀る神社(天社)、その次に諸国の大きな神社(国社)、国家の功臣たちを祀る神社、そのさらに下に村ごとの氏神と祖霊崇拝のための神社(産土社)、そういうヒエラルヒーにすべての神社が整序された」と述べます。

 

 コストを負担できない神社は廃社するということになりました。それが明治40年頃の話で、神社を100パーセント官営のものとするためには神社の数が多すぎたのです。ですから、神道を興隆させるために神社を潰すということになったとして、著者は「その時期全国に神社は約20万ありました。このときの神社統合で3分の1、約7万社が廃社されました。どんな集落にも氏神の社がありましたし、それ以外にもたくさんの社があった。それを行政単位ごとに一村一社として、あとは潰すことになったのです。そして、これも意外なことですが、神社合祀がもっともさかんに行われたのは伊勢と熊野でした。伊勢と熊野といえば日本の神道の中心地です。そこで一番多くの神社が潰された。和歌山県下では神社数は6分の1に、三重では7分の1に減じました」と説明します。

 

 「本地垂迹説を受け入れる霊的感受性」では、著者は以下のように述べています。
「日本人は『無宗教』だからだという説明を僕は受け入れません。日本人は間違いなく独特の仕方で宗教的だからです。でも、それがどういうかたちをとるのかが定まらない。いまも日本人の多くは、クリスマスを祝った数日後にはお寺で除夜の鐘を撞き、神社に初詣に行きます。それを『あなたは多神教なんですか?』と真顔で訊かれたら、日本人はびっくりするでしょう。日本人のクリスチャンは人口の1パーセントですが、日本人の60パーセント近くがキリスト教式で結婚式を挙げます。『仏教徒』であると自己申告する人は人口の48・1パーセントですが、お葬式の91・5パーセントは仏式で営まれます」

 

 誰が見ても、「日本人においては、信仰と宗教儀礼の間に関連性がない」と言わざるを得ない気もしますが、だからといって、無宗教的であるわけではないという著者は、だって、こまめに神社仏閣に参拝するし、季節ごとの宗教儀礼だって怠らないんですから。だから『宗教的だけれど、その表出の仕方はランダムである』ということになる。つまり、超越的なものが『どこか』にあるということは受け入れる。でも、それがどういうかたちで表教されるかについては、あまり関心がない。『どういうかたちでも、別にいいです』と涼しい顔をしている。日本人が『本地垂迹説』という理説を抵抗なく受け入れたのは、その鈍感さも与っているのではないかと思います。『本地』とは、超越者の本来のあり方、『垂迹』とは神仏がこの世界に顕現するときのあり方のことです」と述べます。

 

 また、仏教の宣布の過程で、最初はまず日本列島古来の神々は仏教的なヒエラルヒーに統合されました。日本の神さまたちも「天部の仏神」とされました。でも、本地垂迹説を採用することによって、日本の土着の神々は如来や菩薩の「権化」であるということになったとして、著者は「インド仏教ではヒンドゥーの土着神たちはもともとの名前と姿を保持したまま仏教的な位階制に包摂されたのですが、日本はそうではなかった。かたちも名前も変わったのです。表象のされ方は違うが、本源においては同一者であるという話があらたに採用された。それが本地垂迹説です」と述べています。

 

 著者は、日本史学者の真木隆行氏の著書『神仏分離を問い直す』(法蔵館)の「中世における神仏習合の世界観」を参考にしながら、キリスト教で結婚式を挙げる際に祈るときの「神さま」と、神社で柏手を打つときの「神さま」と、お寺のご本尊に坐します「仏さま」の間に本質的な違いはなく、本源的には同一の超越性が、そのつどその場にふさわしいかたちに「権化」して登場すと。多くの日本人はそういうふうに考えているとして、同書の「神仏の違いは強いて言えば、神さまは『怒らせれば祟りが生じる』こと、『また、祖先神・氏神・産土神などを日頃から崇敬していた人々から見ますと、いざという時には自分たちを依怙贔屓してくれるという期待もあったでしょう。多めに供えをすれば、効果が増すという俗っぽい期待もあったでしょう」という箇所を引用します。つまり、神さまは身近で具体的で、仏さまは遠くて抽象的だというのです。

 

 「土着信仰の一掃」では、明治政府の神仏分離が一種の霊的浄化であり、それが二つの段階を経由したということが再確認されます。。第1段階で「土着神」と「外来神」が分離され、第2段階で「土着神」の格付けが行われた。その格付けが神社合祀として行われたわけですが、実際には神社合祀に先立ってもう1つ「土着神の浄化」とでもいうべきものが行われたと指摘し、著者は「民俗信仰への抑圧が始まるのは、明治5年頃からです。京都では五山の送り火や盂蘭盆や地蔵盆や盆踊りまでが禁止されたという事例を前に挙げましたが、同じことは日本中で行われました」と述べます。

 

 さらに、著者は以下のように述べています。
「正月の門松、立春の追儺などの行事に続いて禁止されたのが遊行の宗教者たちでした。六十六部廻国聖、普化宗の虚無僧、修験道の行者、山伏、梓巫女、狐おろし、玉占、口寄せ......そういう『旅するシャーマン』系の宗教者たちの活動が禁止されました。それはまた浄瑠璃・三味線などの習い事の禁止、集団をなして群飲浪費すること、博奕、劇場の建設の禁止、乞食取り締まりなどと並行して行われました。その政治的意図は明らかです。安丸良夫はこの消息をこう説明しています」

 

 著者は、日本思想史学者の安丸良夫氏の著書『神々の明治維新』(岩波新書)の「こうした民俗信仰や民俗行事・宴俗こそが、民衆の注意を家業からそらし、地域を疲弊させ、秩序を紊乱させる最大の原因と見なされたのである」という箇所を引用し、「『土着的なもの』に接合しなければ、国民的な規模での政治的エネルギーを喚起することはできない。そのことを古来から政治のテクノクラートたちは熟知していました。だから、日本古来の、もっとも深く日本人の深層に根づいた、もっとも純良な『土着』なものとは何かを名指すことができたものが日本の政治過程ではヘゲモニーを握ることができた」と述べています。

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『遊びの神話』(東急エージェンシー)

 

 「消された宗教の娯楽的要素」では、宗教というのは第一義的には「超越的なものと出会う経験」ですが、ふつうの人間は超越的なものの切迫をまっすぐに受け止め切れるほどの精神力・体力がないとして、著者は「ですから、それを中和し、希釈しようとする。世俗化することによって、超越的なものの切迫がもたらす緊張感や不安を受け入れ可能なレベルにまで切り下げる。そうすることによって、人間が棲息できる程度には汚れているが、人間が敬虔な気分になる程度には浄化された、どっちつかずの空間を創り出そうとする。だから、『聖地はスラム化する』(@大瀧詠一)という格言が成立するのです。巡礼や参詣はいまでも「観光」と不可分ですし、宗教儀礼も最後は必ず宴会で終わります。このあたりは、拙著『遊びの神話』(東急エージェンシー)のテーマと重なります。

 

 厳しい行を成就した後は、高揚感・全能感に領されていて、現実にうまくランディングできなくなります。だから、クールダウンする必要があるとして、著者は「車座になって、お酒を飲んで、歌って、笑うのは、深海から浮上したダイバーを『減圧室』で地上の気圧に順応させるようなもので、これも宗教的活動の一部なのです。でも、この宗教の娯楽的要素も、明治以後かなり意図的に抑圧されてきたような気がします。宗教活動の娯楽的要素を代表していた『師旦制度』の消滅がその際立った徴候です。ご存じの通り、『お伊勢参り』というのは江戸時代において、わが国最大規模の聖地巡礼であり、同時に最大規模の観光旅行でもありました」と述べています。

 

 ここで、著者は「御師」を取り上げます。御師という名称の宗教者は伊勢以外でも、日本中の主だった霊地・聖地には必ずいたとして、「御師というのは、聖地に巡礼に来た人たち(これを「旦那」と呼びます)を宿坊に受け入れ、寺社参拝や修行の先達となる人のことですが、この参拝者たちは同じ地域から『講』を形成して、連れだってやってきます。御師はその講と深い関係を結び、シーズンオフになると、その地域をめぐり、札を売ったり、加持祈禱を行います。この結びつきを『師旦関係』と呼びます。御師と旦那の関係は単なる『宿坊のオーナー兼現地コーディネイターと旅行客』の関係ではありません。もっと長期にわたる、濃密なものでした」と述べます。

 

 参加者数から言えば、間違いなく前近代最大の宗教的イベントであった伊勢詣がある種の観光旅行だったように、聖地巡礼と観光は不可分のものでした。でも、不思議なのは「観光」というのが近代になって日本語の語彙に入った「外来語」だということだとして、著者は「『観光』という文字そのものは漢語です。中国古典にある『観国之光(国の光を観る)』すなわち、『他国の風景や文物の美を観る』という一文に由来するそうです。でも、こんな文字列を僕たちは日本の古典では目にしたことがありません。それだけ日本語としての歴史は浅いということです。事実、『観光』の語は大正時代にtourismの訳語として採択されたものです」と説明しています。

 

 明治時代に西周や加藤弘之や福沢諭吉が、欧米語の訳語を片っ端から漢字2字で造語した理由は、ふさわしい語がやまとことばになかったからだと指摘し、著者は「philosophyもphysicsもindividualも、それにふさわしい日本語がなかった。だから、『哲学』『物理』『個人』の語が作られた。でも、『観光』は違います。tourismにふさわしい行為は1000年前から行われていたんですから。しかし、それは『なかったこと』にされた。明治時代以降に、それまで日本人が知らなかったtourismという新しい概念が欧米から輸入されたという話になった。聖地を訪れ、美しい光景を味わい、ついでに美食や遊興に耽るということをまるで日本人はこれまで一度もしたことがなかったかのように歴史が作られた。僕は『観光』という言葉一つのうちに、明治政府の宗教統制の意図せざる余波を感じるのです」と述べています。

 

 続けて、著者は以下のように述べています。
「聖地を訪れ、そこで先達に導かれてある種の霊的経験をして、それから美味しいものを食べたり、温泉に入ったり......というのは明らかに日本人にとってはきわめて親しみ深い、そして長い伝統のある『宗教活動』でした。でも、この宗教活動を担っていた御師や修験者たちは伝統的な神仏習合の実践者たちでした。だから、彼らの社会的価値を否定するときに、彼らが担ってきた伝統的な『観光事業』もなかったことにされた。伊勢御師は幕末には1500人を数えたのが、ゼロになりました。御師が消えて、宿坊がなくなったせいで、伊勢詣での人数は以後激減することになったのでした。皮肉なことですけれど、天照大神を祀る伊勢神宮を日本最高の聖地に定めたことによって、参拝者が減ったのでした」

 

 「150年を経て蘇る『動く宗教性』」では、江戸時代までの日本人の宗教活動のかなりの部分は「動く宗教者」によって担われていたと指摘し、著者は「伝統的に、日本では宗教者と芸能人は旅をするものでした。巫現も、白拍子も、遊女も、楽人も、山伏も行者もみな『旅する人』たちでした。明治政府の宗教統制でこの『旅する人たち』が徹底的に排除された。それは別に彼らがとりわけ反政府的であったとか、反権力的であったからではありません。一所に定住せず、旅するものたちだったからです。国民を移動させないこと。それが近代国家における民衆管理の要諦でした」と述べています。

 

 さらに、著者は神社本庁に言及し、「このところ、神社本庁傘下の神社の脱盟のニュースがいくつか続きました。富岡八幡宮も宇佐神宮も、脱盟のきっかけは宮司後継問題で神社本庁と合意できなかったことです。神社本庁が神道政治連盟・日本会議と深い関係にあり、加盟している神社が改憲署名の拠点となっていることに批判的な神社が神社本庁から脱盟した事例もあります。讃岐の金毘羅さんは神社本庁の不祥事を嫌って脱盟しました。これらは人事問題や政治的偏向や組織腐敗への反発が表向きの原因ですが、僕は深いところでは明治政府による宗教の近代化に対する150年遅れの抵抗ではないかという気がするのです」と述べるのでした。

 

 第四章「農業と習合」の「政治とマーケットは社会的共通資本の管理をしてはいけない」では、政治は「よりよき世界」をめざした活動であり、経済は「より豊かな世界」をめざした活動であるとして、著者は「初発の動機は、いずれも向上心や善意や冒険心です。悪くない。ぜんぜん悪くない。でも、歴史が教えるように、めざした目標がどれほど立派でも、複雑系においては、予測もしない結果が出てくる。必ず予測もしなかった結果が出てきてしまう。よりよき世界をめざした政治活動が戦争やテロや民族浄化をもたらしたことも、より豊かな世界をめざした経済活動が恐慌や階層分化や環境破壊をもたらしたことも、ともに歴史上枚挙に暇がありません」と述べています。

 

 続けて、著者は「それでもいい、何か劇的な変化がほしい。それがないと退屈で死んでしまう......というのがたぶん人間の『業』なのでしょう。僕にだって、その気持ちはわかります。だから『止めろ』とは言いません。でも、お願いだから、社会的共通資本にだけは手を付けないでほしい。政権交代したら電気が止まったとか、株価が下がったので医療機関がなくなったとかいうことでは困る。そういうものはとにかく定常的に維持されなければならない。だから、政治とも市場ともリンクさせない」と述べるのでした。

 

 第五章「会社の生命力を取り戻す」の「職場は明るいほうがいい」では、どうして、「明るい職場」になりにくいのかという問題を取り上げ、その理由をこう述べます。
「それは企業の経営者と企業の所有者=出資者が分離しているからです。株主は事業内容には基本的に興味がありません。自分が買ったときよりも株価が上がっていること、極端に言えばそれだけが関心事です。株券を売った瞬間に会社との関係は切れます。だから、その会社がかつてどういう理念をもって起業されたのか、この先どうなるのかなどは正直『どうでもいいこと』なんです。株を買った翌日に最高値を記録したので、そこで売り抜けた株主、『会社と一日しか縁がなかった株主』が一番クレバーな投資家だったということになる」

 

 そういう人にとって、会社で働く人たちが笑顔かどうかなんて、どうでもいいことです。蒼ざめて、疲れて、死にかけた奴隷労働者だって、最少の人件費コストで雇用できて、利益率を高め、株価を押し上げる材料になるなら、株主から見れば「よい労働者」であると指摘し、著者は「従業員の生活の安定、労働の再生産、社風や技術の継承は、経営者にとっては重大なミッションですけれど、これらはいずれも『会社を継続する』ためのものであって、『利益をもたらす』ものではありません。でも、経営者はこちらのほうを優先的に配慮しなければならない。だから、株主と経営者、資本と経営の間ではめざすものが違っている。これもまた『相性が悪い』んです。ここでも他の場合と同じように、『相性の悪さ』は時間意識のずれから生まれます。今、ここに会社が存在して、健全に活動し、順調に収益を上げていることを望む点では株主も経営者も変わりはありません。変わるのは、それがどれくらい継続することを願うかにおいてです」と述べます。これは、まったくその通りであると思います。

 

 「ステイクホールダー資本主義へ」では、AIの導入で、1つの業界が短期間にまるまる消える可能性があるとして、著者は「数百万という規模で失業者が発生する。そのときに、『AIの導入くらいのことで雇用がなくなるような先のない業界に就職した本人の自己責任』として放置すれば、失業率が跳ね上がり、治安は悪化し、福祉や教育や医療などすべてのセクターで制度疲労が起こり、市場は減し、アメリカの資本主義そのものの存立基盤が危うくなる。常識的なエコノミストなら、それくらいのことは予測できます」と述べ、さらに「これからあと資本主義はどう変わってゆくのか。雇用形態はどう変わってゆくのか。『会社』というものがどう変わってゆくのか。どういう政治的介入があるべきなのか、具体的に語ることは困難ですが、劇的な変化が迫っていることは間違いありません。そのときに、どういう方向に着地したらよいのか、その『希望』だけははっきりとした輪郭を持ったものであるほうがいい。僕は『コモンの再構築』、ステイクホールダー資本主義へのソフト・ランディングが現実的な政策ではないかと考えています」と述べるのでした。

 

 第八章「習合と純化」の「土着とは『死者とのつながり』」では、著者が『徒然草』の現代語訳をしたことが紹介されます。作家の池澤夏樹氏が個人的に選んだ日本文学全集の一巻として、酒井順子氏が『枕草子』、高橋源一郎氏が『方丈記』、著者が『徒然草』という巻を編んだのです。そのときの体験を、著者は以下のように書いています。「800年前に書かれたものが読めて、微妙なニュアンスもなんとなくわかるというのは、母語話者の特権だなということをしみじみ実感しました。僕と吉田兼好は長い歳月で隔てられていますけれども、日本語アーカイブを共有している。兼好は彼の時代まで列島住民が口にし文字に記したすべての日本語の蓄積を滋養にして彼の日本語を操っている。僕はそれから800年後の日本語を操っている。僕がアクセスしている日本語アーカイブに収蔵されている言語資源は兼好の時代より増えたものもあるし、減ったものもある。でも、同じアーカイブを使い回ししていることに変わりはありません」

 

 続けて、著者は「僕たちはそれぞれの集団に固有の文化的な土壌から滋養を汲み出して生きています。それは植物と土壌の関係と同じです。それぞれの土壌には固有の特性がある。だから、そこから芽を出した植物は、固有のかたちや色合いや手ざわりを示す。同じ土壌から生えてきた草なら、1000年前の草と今の草の間には相通じるものがあって当然です。僕が『土着』と呼んでいるのは、そのような『死者とのつながり』のことです」と述べています。

 

 「なぜ、仏教でも儒教でもなく、神道だったのか」では、どうして近世の終わり頃から、国家を近代化するためには、儒教・仏教ではなく、キリスト教でも道教でもなく、神道でなければならないという考え方に人々がなじむようになったのかという問題を取り上げ、著者は「日本仏教や日本儒学の知的な深みは決して国学に劣るものではありません。だから、もし宗教を一元化しようとしたら、それは儒仏神の三者からの択一だったはずなんです。仮に最終的に神道を選ぶことが政治指導者にとって既決事項であったとしても、それでも『なぜ儒仏ではなく神でなければならないのか』をそれなりに正当化する必要はあったと思うんです。でも、明治政府にはこの『それなりに』がない。『これからは神道でゆく。終わり』なんです。儒・仏・神三教の優劣を学的に論じた上での結論ではないのです。政治的既決事項なんだから『学的に』なんていう知的装飾は不要だったのかもしれません。でも、僕は気になる。繰り返し言いますけれど、僕は『起きてもいいはずのことが起こらない』と気になるのです」と述べるのでした。

 

 「神道の卓越性を論じないことによって証明する」では、幕末にもっとも読まれた時事論である会沢正志斎の『新論』(執筆されたのは1825年、刊行は57年)が紹介されます。著者は、「幕末憂国の志士でこれを読んでいないものはいないと言われたくらいの「王政復古の実践的指導理論の書」です。正志斎は水戸学の人ですから、もちろん日本人は儒仏を廃して神道を選ぶべきだと論じているのですが、仏教は最初から『邪説』として提示されます。問答無用で穢れた外来種として扱われる。どうして邪説なのかはあまりに自明なので説明されていない。正志斎によれば、邪説が入る前の古代、『人々は朝廷を天神の如く仰ぎ、孝を以て君に事え、同心一志、ともにその忠を輸くしたので、風俗は慎み深かった(風俗以惇矣)』ということになっています」

 

 『新論』は、原初わが国は純良で、清潔であったという話から始まります。そこに応神天皇の御代に孔子の学が伝わりますが、「その教えは天命・人心をもととし、忠孝を明らかにし、天帝に仕え祖先を祭ることを教えたもので、天照大神の不朽の教えと大同小異である。(與天祖之彝訓大同)」(原田種成、『会沢正志斎・藤田東湖』、明徳出版社、1981年、15頁)とされました。著者は、「儒教は先祖の訓とだいたい同じだからよろしい、と。これはちょっと意外な基準による儒教評価です。でも、仏教ははじめからダメなんです」と述べます。

 

 それは本居宣長も同じです。著者は、「宣長はご存じの通り、儒教、仏教に対する神道の卓越性を基礎づけて、国家神道に至る理路を示した人です。でも、その宣長も儒仏神の三道を比較して、その優劣を学的に論じるということをしてはいません。でも、正志斎の『ダメなものはダメ』というよりはもう少し手順が込み入っています。宣長によれば、いくつかの理説を並列して、その優劣を論じるというふるまいそのものが『漢意』だからです。だから、ことの理非を言い立ててはいけない。そういう理屈っぽいのこそが儒仏の弊風なのであり、そういうことをしないのが『大和心』である、と」と述べています。

 

 「道の善悪是非をこちたくさだせる」ことそれ自体が儒仏の作法であるわけですから、「儒仏の善悪是非」を論じたら、「漢意」に屈したことになるとして、著者は「宣長のいう『漢意』とは『漢国の風儀を好み、かの国を尊ぶことだけをいうのではない。おおく一般に、あらゆることの善悪を議論し、ものごとの道理をさだめるといったこと、これらすべてみな漢籍の趣である、そのことをいうのである』(『うひ山ぶみ』、白石良夫訳注、講談社学術文庫、強調は内田)。ですから『どうして儒仏ではなく神でなければならないのか?』、『どうして1000年以上続いた神仏習合を止めなければならないのか?』、『どうして日本人が1000年以上修してきた宗教が「日本のもの」ではないということになるのか?』というような問いは問われてはならないということになります」と述べます。

 

 しかし、例外的に儒仏神の三道を学的に論じた書物も実は存在したとして、近世の日本知識人の中で際立って合理的な考え方をする人に富永仲基という人がいたことを紹介。東洋史学者の内藤湖南は、仲基を「日本で第一流の天才」と称しました。仲基は『翁の文』(1746年)という書物で儒仏神の三道を論じていますが、著者は「三つの宗教の特質を客観的な視座から比較したという点では、江戸時代においてもおそらく例外的なものではないかと思います。ただし、仲基の宗論の結論は神仏分離論とはぜんぜん方向違いなんですけれど。仲基は人間の知性はそれぞれの地理的・歴史的条件によって規定されると考えます。思想・思念には歴史があるから、それが発生してきた文脈を知らないと、それが何であるかを言うことができない。そういうきわめて近代的な考え方を仲基はその学術的方法の基礎とします。もちろん、宗教もそれが成立する歴史的条件がある。いくつかの歴史的条件が整ったことによって宗教は成立する。ですから、歴史的条件が変われば、宗教は変容し、興隆し、消滅する。きわめて近代的な考え方です。その上で、儒仏神はどれも今の世には合わない。歴史的な存立条件を失ったので、今の人はそれ以外の『誠の道』を求めるべきだというのが仲基の結論です」と述べます。

 

 また、富永仲基について、著者はこう述べています。
「儒仏は国が違う。神道は時代が違うというのが仲基の論です。神道というものは実は昔からあったものではない。密教の影響下に両部神道というものができたが、これは『儒仏の道を合せて、よきほどに加減して作りたるもの』である。その次に『本迹縁起』というものができたけれど、これは仏教者が作ったものです。それから『唯一宗源』というものが出てきて、儒仏の道を離れて、ただ純一の神道を說いた。その後『王道神道』というものが出てきた。どれも時々の歴史的条件に応じて、先行する体系を改変したものです。『翁の文』には、「そのことを知らず、愚かなる世人はこれを誠の道だと思い違え、互いに是非を論じて争うありさまは気の毒でもあり、笑止でもあり、おかしくもある」と書かれており、にべもありません。

 

 仲基の言う「誠の道」というのは、「唯物ことそのあたりまへをつとめ、今日の業を本とし、心をすぐにし、身持をたゞしくし、物いひをしづめ、立ふるまひをつゝしみ、親あるものは、能これにつかふまつり」というものです。著者は、「要するに市民として常識的に生きなさいということです。いささか拍子抜けしますが、僕はこれは実に健全な態度だと思います。仲基の宗論は、結論は違いますけれど、客観的な立場から三教を論じるという点では、『三教指帰』の手法を踏襲しています」と述べています。

 

 「宗教史でも神仏分離の理由を議論しない」では、一条真也の映画館「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」で紹介した映画で再現された伝説の討論会が言及され、著者は「三島由紀夫が『天皇』という言葉が『日本の底辺の民衆にどういう影響を与えるかということを一度でも考えたことがあるか』と全共闘の学生たちを挑発したときに『天皇』という文字列で言おうとしていたのは、『原初の清浄に帰還する』というアイディアのことだったと僕は思います。『かつて一度も現実になったことのない過去』という不思議な言葉づかいをエマニュエル・レヴィナスはしたことがありますが、三島がこのときに口にした『天皇親政』という統治のかたちもそうなのかもしれません」と述べています。

 

 でも、実際には、天皇自身が強権的なリーダーシップを発揮して、中間的な権力装置を介在させず、直接人民と結びつこうとした例は、後醍醐天皇の建武の新政を除くと、日本の歴史にはほとんど存在しないと指摘し、著者は「その後醍醐天皇の親政にしても、これを『原初の清浄』と形容することには無理がある。なにしろ、後醍醐天皇は遊行無縁の人々をそのクーデタのために動員したからです。内裏には、覆面をし、笠をかぶった、出自も知れぬ聖俗いずれともつかぬ異形の人々が闊歩していた。たぶん日本の歴史上もっとも出自の知れない異物が無秩序に混在していたのが後醍醐の天皇親政期です。これを『帰還すべき原点』とすることは三島だって考えてはいなかったでしょう。だとしたらいったい三島はどこに還るつもりだったんでしょう」と述べています。

 

 「習合論者は戦わない」では、「原初の清浄に還れ」というのは、世界中のすべての社会の「浄化論」に共通する文型であると指摘し、著者は「反ユダヤ主義も黄禍論も移民排斥も民族浄化も在日コリアンへのヘイトも、排除される集団はそのつど違いますけれど、用いられる文型は同じです。外来種である『こいつら』が入り込んできたせいで、われわれの社会は汚され、収奪され、壊説され、疲弊している。『こいつら』を排除して、純粋状態に戻れば、われわれの社会は甦る。全部同じ構文です。そして、この『浄化論』『原点帰還論』『初期化論』が声高に叫ばれるときに、人々は節度を失って、過剰に暴力的になるのも世界どこでも同じです」と述べています。

 

 続けて、著者は以下のように述べています。
「化学的に不安定な状態が一気に安定状態に移行するプロセスを『爆発』と呼びます。一気に『原状に戻る』ときに巨大なエネルギーが放出される。どうやら人間社会もそれと同じように作られているようです。原初の、シンプルで、同質的な状態に一気に戻ろうとするときに社会は激烈な政治的エネルギーを放出する。だから、多くのカリスマ的な政治的指導者は『混淆状態』から『純粋状態』への化学的単離によって巨大な政治的エネルギーを解発できるということを直感的に察知しています。僕が「習合」ということにこだわるのは、『原初』とか『純粋』とかいうアイディアが嫌いだからです。ほんとうに寒気がするほど嫌いなんです。だから、『習合』という対案を提示しているのです。それによって『純血』をめざす政治的熱狂を抑制したいのです」

 

 さらに、著者は「僕が神仏習合が好きなのは、それが実に複雑な構造物だからです。奈良時代、地場の神さまは最初「天部の仏神」として仏教的位階制に組み込まれましたが、本地垂迹説を採り入れてからは如来・菩薩と同格のものだということになりました。さらに、天皇制の正統性を仏教的に基礎づけるために、天皇家の祖神である天照大神は大日如来の垂迹神であるというご都合主義的な神話があとづけで作られた。話がどんどん複雑になる。僕は「話がどんどん複雑になる」のが好きなんです。好き嫌いですから理屈はありません。でも、「話を簡単にしよう」と言い出す人間がだいたい何かを排除したり、何かを破壊するのに対して、「話を複雑にしよう」と言い出す人間は何も排除しない、何も破壊しない。習合というのは破壊しないこと、排除しないこと、両立し難いものを無理やり両立させることだからです。

 

 「純化は自らの死を速める」では、かつて神仏分離は短期間に、暴力的かつ熱狂的に行われましたが、その逆方向の神仏習合への回帰は150年かけて、非暴力的に、穏やかに、ゆるめると今進行しているとして、著者は「純粋なものに戻る運動はいわば進化のプロセスを高速で逆走するわけですが、反対に、異物を取り込む運動は、それを咀嚼し、消化吸収し、分子レベルで同化するために、かなり長い時間を要する。純化は速く、習合は遅い。だから、『今すぐ』に何か大きな社会的変化を実現したいと願う政治的イデオローグたちは絶対に習合的手法を採りません。必ず、『原点回帰』を呼号する」と述べ、さらには「僕が習合というありかたにこだわるのは、社会を持続的に住みやすいものにしてゆく方法はそれしかないと思うからです。浄化や純血化や初期化や原点回帰はたしかに強い政治的エネルギーを解発しますし、それまで盤石だと思えていたシステムを瓦解させることもできる。でも、それによって僕たちはあまりに多くのものを失ってしまう。『原初の純粋状態へ戻れ』論は破壊力が強すぎる」と述べるのでした。

 

 「日本のポップスは70年代に世界のポールポジションをとった」では、日本の国歌『君が代』は、『古今和歌集』収録の「詠み人知らず」の長寿祝歌に、明治3年イギリス人の軍楽隊教官ジョン・ウィリアム・フェントンが西洋的な旋律をつけたものを、明治13年にドイツ人音楽家のフランツ・エッケルトが改作したものであると紹介し、著者は「日本人の多くが、おそらく「日本固有の歌」と思い込んでいるこの歌曲は150年前にイギリス人とドイツ人の手で作られたものです。これはいわば『習合』の精華です。だから、僕は『君が代』という歌曲はすぐれて『日本的』だと思うのです」と述べています。

 

 フェントンが作曲する前、『君が代』は薩摩琵琶『蓬莱山』の歌詞の一部だったことを紹介し、著者は「でも、日本の国歌なのだから薩摩琵琶の旋律で歌うべきだというふうに明治の人たちは考えなかった。ヨーロッパ的旋律に『古今和歌集』を載せるほうが日本的だと直感したのです。そうやって、20世紀に入ってからも、日本のミュージシャンたちは日本固有の叙情や音韻をジャズに載せ、ハワイアンに載せ、ラテンに載せ、カンツォーネに載せ、ロックンロールに載せてきた」と述べます。

 

 ここで、著者は「はっぴいえんど」を名前を出します。4人の日本ポップスの巨人たちによって始められたバンドです。ソングライターの大瀧詠一、ドラマーの松本隆、ギタリストの鈴木茂、飽くことを知らないイノベーターである細野晴臣(細野はその10年後にテクノ・ポップのトリオ、Yellow Magic Orchestraを結成することになる)がメンバーですが、著者は「はっぴいえんどは疑いの余地なく日本のロックを成熟期に導いたグループであった。とはいえ、彼らが実際に活動していた時期(1969-1972年)には人気のあるグループではなかった。その点でも、アウトサイダーでありながら、次世代に続く多くの扉を開いたヴェルヴェット・アンダーグラウンドに比較することが可能だろう」と述べます。

 

 また、著者は「はっぴいえんどは曲を作り、ライブ活動をし、プロデュースをするかたわら、さまざまなミュージシャンの熟練したバックバンドを務めた。(・・・)その要求の高さによって、またその野心によって、とりわけ細野と大瀧による忍耐強い作業によって(この二人はやがて実に多様な領域でもっとも高く評価される作曲家となった)、はっぴいえんどは後に『ニュー・ミュージック』と呼ばれることになるものの先陣を切ることになったのである」と解説します。

 

 さらに、著者は「日本のロック音楽作品の中で、その際立った独創性によって世界性を獲得したのは『ロックの旋律に英語詞を載せた』作品ではなく、『ロックの旋律に日本固有の叙情と音韻を載せた』作品だったということです。世界中のさまざまな文化圏がロックンロールを受容し、それぞれの土着の音楽的感性との『習合』を試みましたけれど、この記事によれば、『同時代に世界のポップスのポールポジションを制していた』のは日本語によるロックだった。僕にはこの一連のエピソードは日本文化と習合について本質的なところを衝いているもののように思えるのです」と述べるのでした。まさか、本書の最後が「はっぴいえんど」が登場して驚きましたが、大瀧詠一の大ファンであるわたしにとって、それは「幸せな結末」でした。

 

 「あとがき」では、著者が本書を通じて提言したかったことは「話を簡単にするのを止めましょう」であるとし、「もちろん、そんなことを言う人はあまり(ぜんぜん)いません。これはすごく『変な話』です。だから、多くの人は『そんな変な話は聴いたことがない』と思うはずです。でも、それでドアを閉じるのではなく、『話は複雑にするほうが知性の開発に資するところが多い』という僕の命題については、とりあえず真偽の判定をペンディングしていただけないでしょうか。だって、別に今すぐ正否の結論を出してくれと言っているわけじゃないんですから。『というような変なことを言っている人がいる』という情報だけを頭の中のデスクトップに転がしておいていただければいいんです。それ自体すでに『話を複雑にする』ことのみごとな実践となるのですから」と書かれています。非常に著者らしい物言いですね。本書は多くのヒントを与えてくれましたが、著者の新しい代表作と呼ばれるに値する一冊であると思いました。