No.2121 社会・コミュニティ 『思いがけず利他』 中島岳志著(ミシマ社)

2022.04.14

わたしは「ケア」について考え続け、サービス業をケア業へと進化させる方法を模索しています。そんな中、『思いがけず利他』中島岳志著(ミシマ社)を読みました。「利他」は「ケア」に通じるキーワードです。東京工業大学で「利他プロジェクト」を立ち上げた著者は、1975年大阪生まれ。大阪外国語大学卒業。京都大学大学院博士課程修了。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。専攻は南アジア地域研究、近代日本政治思想。2005年、『中村屋のボース』で大佛次郎論壇賞、アジア・太平洋賞大賞受賞。著書に『パール判事』『秋葉原事件』『「リベラル保守」宣言』『血盟団事件』『アジア主義』『下中彌三郎』『保守と立憲』『親鸞と日本主義』『利他とは何か』など。ミシマ社からは『現代の超克』(若松英輔との共著)、『料理と利他』(土井善晴との共著)を刊行。

本書の帯

 本書のカバー表紙には丹野杏香氏による2人の人間と5個のリンゴが描かれたPOPなイラストが使われ、帯には「It’s automatic!? 誰かのためになる瞬間は、いつも偶然に、未来からやって来る」「哲学者、ミュージシャン、落語家、書店員、市井の人たち……皆が話題に!!」「ミシマ社創業15周年企画」とあります。

本書の帯の裏

 帯の裏には、「意思や利害計算や合理性の『そと』で、私を動かし、喜びを循環させ、人と人とをつなぐものとは?」と書かれ、本屋「Title」店主の辻山良雄氏の「人の社会に隠されたある秘密を、そっと小声で伝えるような本。ほんとうに面白い」というコメントの他、「各界から注目! 続々紹介!」として、本書を取り上げたメディアが紹介されています。

 本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」
第一章 業の力――It’s automatic
第二章 やって来る――与格の構造
第三章 受け取ること
第四章 偶然と運命
「おわりに」

 「はじめに」の冒頭を、著者は「コロナ危機によって『利他』への関心が高まっています。マスクをすること、行動を自粛すること、ステイホームすること――。これらは自分がコロナウィルスにかからないための防御策である以上に、自分が無症状のまま感染している可能性を踏まえて、他者に感染を広めないための行為でもあります」と書きだしています。

 いまの自分の体力に自信があり、感染しても大丈夫と思っても、街角ですれ違う人の中には、疾患を抱えている人が大勢いるだろうとして、著者は「恐怖心を抱きながらも、電車に乗って病院に検診に通う妊婦もいる。通院が不可欠な高齢者もいます。一人暮らしの高齢者は、自分で買い物にも行かなければなりません。感染すると命にかかわる人たちとの協同で成り立っている社会の一員として、自分は利己的な振る舞いをしていていいのか。そんなことが一人一人に問われています」と述べます。

 「利己的な利他?」として、コロナ危機の中で、フランスの経済学者ジャック・アタリの「合理的利他主義」という考え方に注目が集まったことが紹介されます。著者は、「アタリは、利他主義という理想への転換こそが、人類のサバイバルの鍵であると主張します。自らが感染の脅威にさらされないためには、他人の感染を確実に防ぐ必要がある。利他主義であることは、ひいては自分の利益となるというのです。つまり、利他主義は最善の合理的利己主義に他ならないというのがアタリの主張です」と説明しています。また、「利他の扉を開く」として、著者は「私は利他の本質に『思いがけなさ』ということがあると考えています。利他は人間の意思を超えたものとして存在している」と述べるのでした。

 第一章「業の力――It’s automatic」では、著者が「利他」という問題を考える際、その核心に迫っていると考える落語「文七元結」が紹介されます。中国で伝承されてきた話をベースに、三遊亭圓朝(初代)が創作した人情噺の大ネタです。詳しくは、Wikipedia「文七元結」の「あらすじ」をお読みいただきたいですが、わが娘を犠牲にしてまで赤の他人に金を恵む。この常人では到底不可能な事をしてのける長兵衛がどういう動機で金を恵むかについて、演者により様々な解釈があるそうです。

 6代目三遊亭圓生、5代目古今亭志ん生は娘は傷物になっても死ぬわけではないがお前は死ぬという、見殺しにしては寝覚めが悪いからと嫌々ながらに金をやる。林家たい平や柳家喬太郎もこの流れです。対して林家彦六(8代目正蔵)や柳家小三治 は五十両のために主への忠義を通して死のうとする文七に感じ入り、所詮自分には縁のなかった金と諦めて女郎屋に借りた金を返さないと覚悟を決めた上で与えてしまいます。金に対する未練がみじんもない点に特徴があるというわけです。

 著者は「文七元結」について、「ポイントは、五十両と共に起動する『利他』です。父を助けようとする娘、長兵衛を助けようとする女将、文七を助けようとする長兵衛、そして近江屋の主人。利他的贈与が連鎖し、五十両が循環することで、みんなに幸福がもたらされます」と述べます。また、立川談志が、長兵衛の贈与を「美談」とすることを拒絶したことを紹介。長兵衛が文七に共感し、青年を助けたいという良心を起こして五十両を差し出すという解釈を退ける談志は、人間はみんなが正義や義勇心に満ちあふれた存在ではないと考え、「人間の業を肯定してしまうところに、落語の物凄さがあるのです」と述べています。

 ここで、著者は「親鸞の『悪人正機』」として、「人間は煩悩によってできている。だから欲望や怒りなどから解放されることがない。常に迷いの中に生きていくしかない『どうしようもない存在』である。阿弥陀仏は、そんな人間の醜さを照らし出す。しかし、その光によって、私たちは自己の『悪』に自覚的になり、反省的契機をつかむことができる。そんな仏の光に照らされた人間こそ、救いを得ることができる――。これが親鸞の『悪人正機』の考え方です。ここから自力の限界と他力の救いという考え方が導かれます」と述べています。

 人間が自身の限界や悪に気づいたとき、「他力」がやって来ます。「他力本願」というと、「他人まかせ」という意味で使われますが、浄土教における「他力」とは、「他人の力」ではありません。「阿弥陀仏の力」です。著者は、「『仏力』というように言い換えたほうが理解しやすいかもしれません。自力に溺れている者は、他力に開かれません。自分の力を過信し、自分を善人だと思っている人間は、「自力」によって何でもできると思いがちです。

 一方、「自力」の限界を見つめ、自分がどうしようもない人間だと自覚する人間には、自己に対する反省的契機が存在します。この契機こそが、他力の瞬間であるとして、著者は「私たちは絶対的な仏の存在に照らされ、深い反省と共に、仏の光に包まれる。親鸞が見つめ続けたのは、この瞬間に他なりません。私たちは、このとき真の念仏に出会う。何かを求めて念仏(「南無阿弥陀仏」)を誦えるのではなく、念仏が阿弥陀仏からやって来て、私たちの口から発せられるのです」と述べます。

 「『聖道の慈悲』と『浄土の慈悲』」として、著者は2つの「慈悲」について説明します。「聖道の慈悲」というのは、「いいことをしよう」「いい人になろう」「かわいそうだから施しをしよう」というもので、自力の利他です。しかし、著者は「これにはどうしても限界があります。一時的で徹底しないもの(=「この慈悲始終なし」)です。これに対して『浄土の慈悲』は、他力の利他です。自分はどうしようもない人間で、本質的な悪から逃れることのできない存在です。そのことを認識したとき、私たちに念仏がやって来ます。私たちは他力に導かれ、死後に浄土へ行きます。そして、浄土で仏になり、仏業によって衆生を救済します。これが『浄土の慈悲』です」と述べます。

 わたしたち衆生には、「自力」を超えた「他力」の働きかけがやって来るとして、著者は「私たちは、その力を受けて生きています。『他力』を受けるためには、自己が『煩悩具足の凡夫』であることを自覚しなければなりません。自分の『罪業深重の業』を認識することで、仏業を受容することができるのです。人間が行う利他的行為は、この他力が宿ったときに行われるものです。意思的な力(=自力)を超えてオートマティカルに行われるもの。止まらないもの。仕方がないもの。どうしようもないもの。あちら側からやって来る不可抗力なのです」と述べています。

 「不可抗力的に機能しているもの」として、著者は「人間は仏に照らされ、自己の愚かさに気づく。この『悪』の認識を持つことで、他者への『懇(ねんご)ろの心』を抱くようになる。親身になって相手に接するようになる。仏の業に導かれた逆説の中に、利他的行為が発生する」と述べます。親鸞はそんな人間の摂理を見つめた人であったと指摘し、著者は「自己がどうしようもない人間だという認識を持った人間こそが、他者に親身になることができる。世界を愛することができる。落語を抱きしめることができる。いや違います。私たちはその瞬間に、世界に抱きしめられるのです。そして、落語に抱きしめられている。ここに現れるのが『いのち』への根源的な共感であり、そこにやって来るのが仏の慈悲です。他力に押されて行う行為こそが『利他』であり、そこにのちの幸福との因果関係は存在しません。それは因果の外部にある行為であり、理屈のつかない行為です」と述べます。

 第二章「やって来る――与格の構造」では、「親鸞『教行信証』のスタイルが表すもの」として、『教行信証』の本文の大半は、親鸞以前の仏典や仏教者の著述の引用で構成されていることが紹介されます。引用と引用の間には、親鸞自身の言葉が添えられています。まるで引用文同士の懸け橋になるように。著者は、「なので親鸞の書いた本を読んでいるというよりも、いろんな仏典の引用集を読んでいる気分になります。引用された仏典の時代背景はまちまちです。文体も統一されていません。本の流れをつかむことが難しく、どうしても引用が切り替わるたびに、突っ掛かってしまうのです」と述べています。

 なのに、なぜ『教行信証』は難しいのでしょうか。なぜ引用ばかりで構成されているのでしょうか。それは親鸞が「言葉の器」になろうとしていたからだとして、著者は「親鸞にとって、『教行信証』を書く自分は、先人の言葉をつなぐ触媒にすぎません。言葉は私のものではなく、私にやって来て留まっているもの。自分がオリジナルの何かを表現できるというのは、賢しらな自力に他なりません。言葉は常に過去からやって来るもの。そして、その背後にある浄土からやって来るもの。だから、『教行信証』は『言葉の器』になった自分を、そのままの形で表現するという方法がとられました。『教行信証』は、その内容以上に、そのスタイルが思想であるような書物です」と述べます。ちなみに、拙著『儀式論』(弘文堂)も『教行信証』と同じスタイルで書かれているように思います。

 「与格」というものがあります。ヨーロッパ諸語などの文法で、主に間接目的語を示す格のことですが、「与格的主体を取り戻す」として、著者は「『文七元結』の長兵衛の行為は、与格的です。その行為は、意思の外部によって引き起こされた『衝動』であり、『業』としか言いようのないものです。立川談志は、この長兵衛の非合理性に人間の豊かさを見出し、晩年までこの噺を演じ続けました。談志が追求した落語の本質は、人間の与格性なのだと私は思います。――『ふいに』『ふと』『つい』『はたと』『やにわに』『たまさか』……。日本語には、『思いがけなく起こること』を意味する言葉が、多く存在します。この語彙の豊かさが、利他的世界と密着していたのだと思います」と述べます。

 不二一元論を説いたインドの宗教思想家・シャンカラは、人間には利他を行うことなどできないと言いました。「利他は、人間の意図的行為ではない。人間の中を神が通過するときに現れるものである」と説いたのです。著者は、「利他的になるためには、器のような存在になり、与格的主体を取り戻すことが必要であると私は思います。数学者や職人のような『達人』は、与格的な境地に達した人たちであり、そこに現れた自力への懐疑こそ、利他の世界を開く第一歩ではないかと思います」と述べています。

 第三章「受け取ること」では、「利他と利己のパラドクス」として、近年、大手企業は「社会的貢献」を重視し、様々な取り組みを行っていることが取り上げられます。著者は、「例えばSDGsという言葉を、最近よく目にします。これは「持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals)」のことで、貧困、紛争、気候変動、感染症のような地球規模の課題に対して、2030年までに達成すべき目標が設定されています。企業はこのSDGsにコミットしていることを強調し、自社の取り組みをアピールしています。どうでしょう? この取り組みを見ていて、『なんと利他的で素晴らしい企業なんだろう』と心を動かされるでしょうか。もちろんほとんどの取り組みは素晴らしい事業で、実際、大きな貢献を果たしていると思います。SDGsにかかわり、行動を起こすことはとても大切なことです」と述べます。

 しかし、著者は「どこかで『何かうさん臭いな』という気持ちを持ってしまうことはないでしょうか。結局のところ、企業のイメージアップのために『社会的貢献』を行っているだけで、それって企業の利潤追求の一環だよね、という冷めた見方を、私たちはどこか心の片隅に持っていないでしょうか。正直なことを言うと、私はそう思ってしまいます。特に『社会的貢献』の成果を、CMや広告でことさら強調されると、どうしても企業の『利己性』を感じてしまいます」と述べ、さらには「利他的なことを行っていても、動機づけが利己的であれば、『利己的』と見なされますし、逆に自分のために行っていたことが、自然と相手をケアすることにつながっていれば、それは『利他的』と見なされます」と述べています。わたしも同意見です。

 「利他が支配に変わるとき」として、著者は「ギフト」という言葉を取り上げます。「ギフト」という単語には2つの意味があり、1つは「贈り物」、そしてもう1つは「毒」だと述べられています。わたしたちは贈り物を貰ったとき、まずは「嬉しさ」を感じますが、次第に返礼をしなければいけないという「負い目」を感じることがあり、それは「負債」のように心の錘になります。この両者の間に何が起きているのでしょうか? 著者は、「それは与えた側がもらった側に対して『優位に立つ』という現象です。もらった側が、十分な返礼ができないでいると、両者の間には『負債感』に基づく優劣関係が生じ、徐々に上下関係ができていきます。これが『ギフト』の『毒』です」と述べます。

児童養護施設からのお礼の色紙

 この「毒」は、溜まれば溜まるほど、相手を支配し、コントロールする道具になっていくとして、著者は「『贈与』や『利他』の中には、支配という『毒』が含まれていることがあり、これが『利他』と『利己』のメビウスの輪となっています。自分の思い通りに相手をコントロールしようとする『ギフト』は、『利他』の仮面をかぶった『利己』ですよね」と述べています。ちなみに、ブログ「こころの贈り物」に書いたように、わが社は児童養護施設のお子さんたちに七五三や成人式の晴れ着をプレゼントしましたが、わたしたちは、けっして一方的に児童養護施設のお子さんたちに贈り物をしたのではありません。わたしたちも素晴らしい「こころの贈り物」をいただきました。そして、お互いが「こころの贈り物」を贈り合う行為を「ケア」というのです。

 また、「『統御』ではなく『沿うこと』」として、著者は「『支配』や『統御』の問題は、利他と深くかかわるケアの場面で先鋭化するように思います」と述べ、「2000年4月に施行された介護保険法では、介護施設での身体拘束は原則禁止とされています。しかし、拘束をしなければ本人の安全が守れないと判断された場合には、必要最低限の身体拘束が認められています。『切迫性』『非代替性』『一時性』の3点が要件とされていますが、基準は明確なものではなく、施設運営の効率化という側面から、身体拘束が採用されているケースがあります。これはケアの中に『統御』が介在するもので、認知症患者にとっては、『支配されている』『服従させられている』という感覚になり、症状の悪化を引き起こす可能性があります。もちろん施設の事情もあり、苦渋の決断という側面もあると思いますが、人間の尊厳を損ねてしまうことは否めません」と述べています。

 さらに、「弔いと利他」として、わたしたちの日常は、多くの無名の死者たちによって支えられていると指摘し、著者は「私たちは、そのことに気づき、その受け手となることで、利他を起動させることができます。つまり、死者を『弔う』ことこそが、世界を利他で包むことになるのです。私たちは、死者と出会い直さなければなりません。そして、その存在や行為、言葉の上に私たちが暮らしていることを自覚しなければなりません。死者と対話し、自己の被贈与性に思いを巡らせるとき、そこに『弔い』が生じ、『利他』が起動します。私たちは死者たちの発信を受け取り、まだ見ぬ未来の他者に向けて、発信しなければなりません。歴史の静かな継承者となることこそが、利他に関与することなのではないかと私は考えています」と述べています。この考えには、心から共感をおぼえました。拙著『唯葬論――なぜ人間は死者を想うのか』(三五館、サンガ文庫)のメッセージにも通じます。著者は、死者の存在が立憲主義という政治問題と深くかかわっているのではないかと考え始め、のちに「死者の立憲主義」という議論を展開することになります。

 第四章「偶然と運命」では、「私が私であることの偶然性」として、現代日本の行きすぎた「自己責任論」に最も欠如しているのは、自分が「その人であった可能性」に対する想像力ではないかと指摘し、著者は「それは自己の偶然性に対する認識とつながり、『自分が現在の自分ではなかった可能性』へと自己を開くことになります。『ハーバード白熱教室』で知られるマイケル・サンデルは、『実力も運のうち――能力主義は正義か?』という本を出しています。普通は『運も実力のうち』と言いますが、この本のタイトルは逆で『実力も運のうち』となっています」と述べています。

 「おわりに」では、「他力本願」とは、すべてを仏に委ねて、ゴロゴロしていればいいということではないとして、著者は「大切なのは、自力の限りを尽くすこと。自力で頑張れるだけ頑張ってみると、私たちは必ず自己の能力の限界にぶつかります。そうして、自己の絶対的な無力に出会います。重要なのはその瞬間です。有限なる人間には、どうすることもできない次元が存在する。そのことを深く認識したとき、『他力』が働くのです。そして、その瞬間、私たちは大切なものと邂逅し、『あっ!』と驚きます。これが偶然の瞬間です」と述べます。

 また、著者は「重要なのは、私たちが偶然を呼び込む器になることです。偶然そのものをコントロールすることはできません。しかし、偶然が宿る器になることは可能です。そして、この器にやって来るものが『利他』です。器に盛られた不定形の『利他』は、いずれ誰かの手に取られます。その受け手の潜在的な力が引き出されたとき、『利他』は姿を現し、起動し始めます」と述べるのでした。

 著者の中島氏は、わたしより1回り下の気鋭の政治学者ですが、本書の内容は非常に共感できました。特に、「弔い」こそ「利他」であるという考えには強い感銘を受けました。著者は、わたしのグリーフケアの師である島薗進先生と親しいとのことで、島薗先生と『愛国と信仰の構造~全体主義はよみがえるのか』(集英社新書)という対談本も出されています。ぜひ一度、お会いしてみたいです!

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