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スタート!』

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No.2119


 『スタート!』中山七里著(光文社文庫)を読みました。読書家として知られるゼンリンプリンテックスの大迫会長が、「お勧めの本です!」「一読してみて下さい、下手な事は言わずにいますが、面白いの一言!」とのメッセージをLINEに送って下さったオススメ本なのですが、メチャクチャ面白かったです!

 

 アマゾンの「内容紹介」には、「伝説的映画監督の大森が、新作『災厄の季節』を撮る! 若き助監督・宮藤映一も現場に臨むが、軽薄なプロデューサーや批判を繰り返す外部団体など周囲には難敵ばかり。軋轢に抗いながらの映画作りが進む中、スタジオで予期せぬ事故が発生! 暗雲立ち込める状況で、完成に漕ぎ着けられるのか――。映画への情熱と、どんでん返しの妙が織りなす、一気読み確実のミステリー!」と書かれています。映画の製作現場を舞台としたミステリーなのですが、いま話題の芸能界の「枕営業」とか、映画製作者による「キャスティングを餌にした女優への性加害」などのテーマが込められており、非常に興味深く読みました。2012年に出版された小説というから驚きです。

 

 著者は、1961年生まれ、岐阜県出身。『さよならドビュッシー』にて第8回「このミステリーがすごい!」大賞で大賞を受賞し、2010年に作家デビュー。著書に、『境界線』『護られなかった者たちへ』『総理にされた男』『連続殺人鬼カエル男』『贖罪の奏鳴曲』『騒がしい楽園』『帝都地下迷宮』『夜がどれほど暗くても』『合唱 岬洋介の帰還』『カインの傲慢』『ヒポクラテスの試練』『毒島刑事最後の事件』『テロリストの家』『隣はシリアルキラー』『銀鈴探偵社 静おばあちゃんと要介護探偵2』『復讐の協奏曲』ほか多数。作品が映画化されたものに、「さよならドビュッシー」(2013年)、「ドクター・デスの遺産‐BLACK FILE‐」(2020年)、そして一条真也の映画館「護られなかった者たちへ」で紹介した2021年の映画があります。

 

 『スタート!』を読むと、ストーリー以外の部分でも映画についての蘊蓄が多く、なかなか勉強になります。たとえば、脚本について、「脚本は建物に喩えれば設計図だ。施工にどれだけアクセントをつけても出来上がる完成品は設計図から外観が変更することはなく、同様にどれだけ演出に心を砕いても脚本の世界観から大きく逸脱することもない、映画の出来は脚本七割といわれる所以だ」(P.20)と書かれています。一方、キャスティングは映画の出来の二割を決めるそうです。なるほど、納得できますね。

 

 また、この作品中に登場する「災厄の季節」という映画は製作委員会方式を取っていますが、「製作委員会というのは複数の企業や団体が資金を出し合って映画を製作するもので、日本独自のやり方だ。出資比率の一番大きなところが幹事会社になって全体の意見調整を行い、その収益も出資比率に基づいて配分される。もちろん利点はある。共同出資なので一社当たりの負担が少なく資金調達が容易になる。通常はテレビ局や出版社、ビデオ会社など業界がらみの会社が参加するのだが、それぞれ放送権、関連書籍の出版権、ビデオ化権を持つので自社の売り上げにつなげることができる。製作委員会の中にマスコミが入っていれば、広告宣伝も安価で効果的に打てる。しかし欠点もある。脚本の内容やキャスティングの決定は合議制であり、一社でも反対すればプロジェクトは前に進まない。各社に稟議書を回すので多くの決裁と時間を要する。すると、いきおい作品の内容は誰もが受け入れられる当たり障りのないものになりやすい」(P.22)と書かれています。

 

 映画「災厄の季節」は、度重なる事故や事件に見舞われます。マスコミも面白おかしく報道しますが、最初は「宣伝になる」と余裕を持っていたプロデューサーも、「話が深刻になり始めると潮目が変わる」と困惑します。社会的に弾劾されるまでになると観客よりむしろ興行側が拒否反応を起こすようになるというのです。いわゆる上映自粛というもので、作品自体が反社会的でなくとも、政治的な側面がクローズアップされて興行主が怯んでしまいます。古くはジョン・フランケンハイマーの「ブラック・サンデー」(1977年)、比較的最近では「ザ・コ―ヴ」(2010年)などがありましたし、別の理由で「Mishima」(1985年)も上映されませんでした。話題性を考えればヒットしそうな作品でしたが、興行側が自粛してしまったので、日本国内の興行成績は惨憺たる有様でした。

 

 「ブラック・サンデー」は国際テロリストとイスラエル軍特殊部隊との攻防を描いた純然たるアクション大作にもかかわらず、諸般の政治事情から日本では上映中止となりました。「Mishima」は主人公である三島由紀夫の遺族の申し出と思想的な問題からやはり公開されませんでした。クジラの街、和歌山県・太地町の入り江(コーヴ)でひそかに行われているイルカ漁をとらえた衝撃のドキュメンタリーである「ザ・コーブ」はアカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を獲得していながら、その内容から抗議活動が活発になり上映中止や延期が相次ぎました。こういうのは「低俗番組」を放映するというなという意見に似て、観たくないなら観なければいいという考え方もありますが、映画興行の世界ではそう簡単に割り切れません。

 

 これらの上映中止となった作品は海外で収益を稼いでいたからまだ傷は浅くて済みました。もし、これが邦画であったら目も当てられない結果になっていたでしょう。日本映画は外国の映画祭で賞を獲らない限り、マーケットは国内に限定されます。どんな製作形態を採ろうが、上映中止や延期になってしまえば収益は見込めず、製作費は丸々損失に計上されてしまいます。また、上映中止の要件が政治的な背景に留まらないことも「映画興行は水もの」としている原因です。主役の途中降板、更には出演者が犯罪者に堕ちることによってお蔵入りした映画は枚挙に遑がありません。最近では、女優に対する悪質な性加害が明るみとなった榊英雄監督や園子音監督の映画が上映中止になったことは記憶に新しいところです。

 

 映画監督という仕事についても、「映画監督は見た目ほど優雅な仕事ではない。むしろ現場のどの仕事よりも激務だ。役者の演技は言うに及ばず、脚本の内容、照明の当て方、各々のカットのショットサイズ、衣装の選定、果ては小道具まで全てのチェックを行う。当然そこには予算と期間の縛りがあり、更にスタッフ同士キャスト同士の軋轢を回避しながら撮影を進めるという人心掌握術も求められている。神経的な疲労度もそうだが、体力が人並以上でなければ務まるものではない」(P.242)とあります。

 

 また、監督の助監督の違いについても、「監督の仕事とは詰まるところ決定の連続だ。キャスティングに始まり、脚本、ロケ地、演技、カット、編集――その諸々について決定を下して1本の作品を完成させていく。だからこそ、その1つ1つの決定に責任がついて回る。一方その補佐役である助監督も激務ではあるが、責任がない。何がしかの失敗があったとしても監督の段階で是正されることがほとんどだからだ」(P.263)と書かれています。

 

 映画撮影の現場においては三灯照明を駆使して撮影に臨みますが、それでも自然光に勝るものはありません。特に太陽が地平線に隠れた直後の数十分、いわゆる「マジック・アワー」というものがあります。これはスタジオで再現することも、CGで作成することもできません。本書には、「自然光をかんがえればロケ撮影が一番なのは言うまでもない。しかし、自然派撮影スケジュールを考慮してくれない。望み通りの天気を維持してくれる保証もない」(P.177)と書かれています。

 

 また、完璧主義者の映画監督が晴れ待ちやら雨待ちをするというのは半ば伝説となった感がありますが、完璧主義をさらに押し進める監督はその自然すらもコントロールしたい欲望に駆られるらしいとして、本書には「いい例がフランシス・F・コッポラで、彼の撮った『地獄の黙示録』は世界中で大ヒットしたもののロケ地を襲ったハリケーンや思惑通りにならない天候でスケジュールと予算は大きく狂わされた。この1件でロケ地撮影に懲りたのか、コッポラは次回作の『ワン・フロム・ザ・ハート』では全編をスタジオ撮影でやり通し、全てのライティングを自らの監視下に置いた」(P.177)と書かれています。

 

 あと、本書に登場した「完璧な映画」という言葉が心に残りました。「災厄の季節」でメガホンをとる巨匠・大森宗俊は完璧な映画を目指しています。しかし完璧な映画などというものは映画監督の見果てぬ夢だと喝破するカメラマンの小森千寿は、「完璧なテーマを表現するための完璧な物語、その物語を構築するための完璧な脚本、音楽、芝居、衣装、録音、照明。そして百人が百人とも溜息を吐く完成度......そんな物がひょいひょいできる訳がない。できたとしても百年に1本あるかないかじゃないのか」(P.179)と言います。

 

 その百年に1本と言われるような映画を主人公の若き助監督・宮藤映一は指折り数え、「確かに少ない。だが、それも当然だと思う。そんな映画はスタッフやキャストを含め、映画製作の様々な要素が奇跡的に融合した上で映画の神様が微笑んだ時に誕生する。それはもはや人智を超えた出来事のようにも思えるのだ」(P.179)と考えるのでした。ちなみに、わたしにとっての完璧な映画とは、ブログ「小倉紫雲閣で『風と共に去りぬ』を観る」で書いた、映画史上に燦然と輝く不朽の名作「風と共に去りぬ」を挙げたいと思います。この作品は「差別」とか「多様性」などの観点からの批判を持ってしても、その価値がまったく褪せない究極の名作であると確信します。本作に登場する「災厄の季節」も人権派の弁護士からいろんな横槍が入りましたが、屈せずに見事に完成するのでした。

 

 最後に、映画「災厄の季節」が完成し、すべての事件も解決した後、映一は以下のように考えるのでした。
「映画とは何だろう、と思う。2時間足らずの架空の物語、たかだか1800円の娯楽。その娯楽のために数億もの資金が動き、数十人のスタッフと十人程度の俳優たちが我が身を削る。汗臭く、埃の舞うスタジオで人工の暑さと寒さに苛められ、理不尽な要求に耐え続ける。だが、そういて完成したフィルムの全てが観客の祝福を受ける訳ではない。作品の良し悪しに関わりなく、空席だらけの観客席に空しい光を放ちながら早々と打ち切りを決められるフィルムも多く存在する。半年に亘ってスタッフとキャストの心血を注いだ結晶も、クズフィルムとして忘却の彼方に追いやられる。それは果たして生産的な行為と言えるのだろうか。そして、そんなものを作り続けていくことにどんな価値があるというのだろうか」(P.362)

 

 しかし、この小説のラストシーンは、映画への愛情と信頼に満ちた感動的なものでした。映画製作に関するさまざまな豆知識が得られることも本作を読む楽しみですが、何よりも「映画愛」が強く訴えられているところが素晴らしいです。これまで、本当にチョイ役ながら2本の映画に出演し、現在は製作準備中のグリーフケア映画の原案者として映画作りに関わっているわたしですが、本作を読んで、またより一層、映画が好きになりました。すべての映画関係者に読んでほしい極上のエンターテイメントです。紹介して下さった大迫会長に感謝いたします。