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至高の三冠王者 三沢光晴』

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No.2115


 『至高の三冠王者 三沢光晴』小佐野景浩著(ワニブックス)を読みました。ソフトカバーで540ページの大著で、一条真也の読書館『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』で紹介した本の著者の最新作です。著者は1961年、神奈川県横浜市鶴見区生まれ。幼少期からプロレスに興味を持ち、高校1年生の時に新日本プロレス・ファンクラブ「炎のファイター」を結成。「全国ファンクラブ連盟」の初代会長も務めました。80年4月、中央大学法学部法律学科入学と同時に(株)日本スポーツの「月刊ゴング」「別冊ゴング」の編集取材スタッフとなります。83年3月に大学を中退して同社に正式入社。84年5月の「週刊ゴング」創刊からは全日本プロレス、ジャパン・プロレス、FMW、SWS、WARの担当記者を歴任し、94年8月に編集長に就任。99年1月に同社編集企画室長となり、2002年11月からは同社編集担当執行役員を務めていたが、04年9月に退社して個人事務所「Office Maikai」を設立。フリーランスの立場で雑誌、新聞、携帯サイトで執筆。コメンテーターとしてテレビでも活。06年からはプロレス大賞選考委員も務めています。

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本書の帯

 

 本書のカバー表紙にはリングスーツの紐を結ぶ三沢光晴の写真が使われ、帯には「幼少期、アマレス時代、2代目タイガーマスク、超世代軍、三冠王者、四天王プロレス......自然体でプロレスに心身を捧げた男の青春期!」「さりげなく命懸けという生きざま」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

 帯の裏には、「プロレスに殉じた三沢光晴の強靭な心を解き明かす!」「天龍源一郎/谷津嘉章/越中詩郎/ターザン後藤/川田利明/田上明/小橋建太/秋山隼/本田多聞/渕正信/百田光雄/佐藤昭雄/和田京平/渡部優一(足利工業大学附属高校レスリング部同期生)/ジャイアント馬場/スタン・ハンセン/ザ・グレート・カブキ」と書かれています。

 

 カバー前そでには、「本書は、純プロレスを貫き、プロレスファンを魅了した、三沢光晴を分析・検証するものである。それは〝三沢光晴〟というフィルターを通して、80年代、90年代の全日本プロレスを描くことでもある。また、三沢の一生涯を描くのではなく、あえて1998年5月1日の東京ドームにおける川田利明戦までに焦点を絞った。なぜかは最後まで読んでいただければご理解いただけると思う。(著者より)」と書かれています。

 

 本書の「目次」は、以下の通りです。

「はじめに」

第1章 足利工大附属レスリング部

第2章 全日本プロレス若手時代

第3章 2代目タイガーマスク

第4章 低迷期とヘビー級転向

第5章 萌芽

第6章 三沢の飛躍と超世代軍の躍動

第7章 四天王プロレス

第8章 至高のプロレス

第9章 エピローグ

「おわりに」

 

 一条真也の読書館『2009年6月13日からの三沢光晴』『三沢と橋本はなぜ死ななければならなかったのか』で紹介した本、あるいは「四天王プロレス『リングに捧げた過激な純真』」というサブタイトルがついた『夜の虹を架ける』で紹介した本などをすでに読んでいましたので、三沢光晴について知識はある程度ありました。本書に書かれている内容の多くもすでに知っていることが多かったですが、それでも知らないことも多々あり、興味深く読みました。

 

 格闘技色の強かった新日本出身のプロレスラーと違って、全日本プロレス出身であった三沢のことを、多くのプロレスファンは受け身の上手い純プロレスラーだと思っていました。わたしも、そうでした。しかし、本書の第2章「全日本プロレス若手時代」の「受け身とシュート」には、シューターとしての三沢について言及されています。三沢がグランドの技術を発揮したのは2001年4月18日のZERO―ONE日本武道館大会で力皇猛をパートナーにU.F.O.の小川直也&村上一成(現・和成)と戦った時だとして、著者は「小川に対してスッと片足タックルに入ってグラウンドに持ち込み、逆に小川が片足タックルを仕掛けてきたら、サッと引いて、首根っこを押さえつけて潰し、フロント・ネックロックで完全に封じてしまった。そこがあの試合の最大の見せ場だった」と書いています。

 

 小川組との試合後に、普段は使わない先方に出たことについて、著者は三沢に聞いたそうです。すると、三沢は「使わない戦法っていうかね、まあ体の動くままに・・・・・・みたいな感じだったよね。言い方は悪いかもしんないけど"そんなに技術にこだわらなくていいのかなあ"みたいな。"倒しゃあ、いいんでしょ?"みたいな(苦笑)。"あんまり華麗さは必要ないんでしょ?"みたいなもんだよね」と、さらりと答えたそうです。その姿に、著者は「さり気なくキラーな三沢」を感じたといいます。

 

 第4章「低迷期とヘビー級転向」の「一騎打ちで長州力に抗う」では、初代・佐山タイガーの殻を破ってヘビー級とジュニア・ヘビー級の二刀流で戦った三沢タイガーが、「タイガーマスク」の原作のイメージを壊さない華麗なファイトにこだわったために、長州力率いるジャパン・プロレスとの対抗戦には不向きだったことが指摘されます。著者は、「ジュニアの小林、保永、その後にカルガリー・ハリケーンズとして全日本に上がるようになったヒロ斎藤とはタイガー流のファイトでも噛み合ったが、長州力などのヘビー級の選手とぶつかると一方的に攻め込まれるシーンが多かったのだ。

 

 若手時代に佐藤昭雄に相手の良さも引き出して攻防する試合作りを学んだ三沢は、後年になってジャパンとのスタイルの違いを「簡単に言えば"攻め"と"受け"の違いだよね。向こうは"やったもん勝ち!"みたいなところがあったじゃん。でも向こうが最初ガンガン来ても、それを凌ぎきれば、意外と勝機が多かったなっていうのはあるよ。どう来られたにしても、凌げる自信を持っていたし。ただ俺自身、ちょっと体重が増えてきたっていう微妙な時期で、体も今ほど大きくなかったから、受けるダメージは大きかったかもしれないけどね」と語ったそうです。三沢タイガーのジャパンとの最大の闘いは1986年3月13日、日本武道館における長州力との一騎打ちでした。結果はリキラリアットが炸裂して12分20秒、長州の勝利でした。この試合から何日かして著者が三沢と食事したとき、三沢は「長州さんは俺に何もやらせようとしなかった。ああいう詩合は2度とやりたくないよ」と語ったとか。

 

 その長州力に次ぐジャパンプロレスのナンバー2が谷津嘉章でした。ジャパン勢が全日本を離脱して新日本にUターンしたとき、谷津は全日本に残って、ジャンボ鶴田とタッグを組み、「五輪コンビ」と呼ばれました。谷津は、三沢や川田の高校時代のレスリングのコーチであり、三沢タイガーのマスクを脱がせた張本人でもありました。第6章「三沢の飛躍と超世代軍の躍動」の「マスクを脱いだ三沢! 仕掛け人は谷津!?」では、三沢が不慮の事故で亡くなった後、ディファ有明での献花式に参列した谷津の「何万人ものファン(2万5000人)が集まって、凄いなあと。遺族の方々は辛いでしょうけど、早く逝っちゃうとレジェンドとして残るよね。少年の時代からあんなに好きだったプロレスで、そのリング上で逝ったっていうのは本望だったと思いますよ」というコメントが紹介されています。

 

 また、谷津は「体は限界に達していたって聞いたけど、あの試合じゃガタガタになるわ。それも試合が歌劇なだけじゃなくて、全日本プロレスの流れそのままに複雑でしょ。しかも彼は社長として、責任感を持って、休まずにやっていたわけでしょ。若手に飯食わせながら、自分で団体をやってたわけだから、俺が知っている頃の三沢とは全然違うよね。あんなに責任感の強い男だと思わなかったもんな。自分で独立して、選手を抱えて、好きなことをやって、神様になったわけだから......こんな言い方をしたら遺族の方々には申し訳ないけれども、プロレスラーの三沢光晴としてはサクセスですよ」とも語っています。

 

 三沢タイガーがマスクを脱いだのは谷津の仕掛けもあったでしょうが、天龍源一郎が全日本プロレスを退団し、新興プロレス団体であるSWSを設立したことへの危機感が背景にありました。「絶えぬ引き抜き騒動の中で」では、退団した天龍に代わって、鶴田のライバルとなった三沢がトークショーで天龍について発言したことが紹介されています。時が時だけに天龍に関する質問が多く、当時としてはターザン山本が編集長を務める「週刊プロレス」が天龍のバッシングを展開して「全日本の裏切り者」とする空気がありました。しかし、三沢は「僕自身は、天龍さんに裏切られたという気持ちは全然ないですね。天龍さんは悩んだ末に決めたんだろうし、周りの人がとやかく言っても始まらないですから。反対に僕は、これからも頑張ってほしいという気持ちが強いですね」と、きっぱりと言ったそうです。著者は、「下手をすれば、全日本ファンからも反感を買いかねないのに、風潮と真逆の自分の意見を堂々と言えるのが三沢光晴という人間なのだ」と述べています。

 

 本書では、川田利明にもインタビュー取材しています。川田といえば高校のレスリング部から全日本プロレスを通じて三沢の後輩でしたが、三沢が全日本を離脱してNOAHを設立したとき、全日本に残留しました。三沢と川田の間には、1991年11月21日の最強タッグの大阪大会後の酒の席で、川田が三沢を殴って右目に2試合欠場するほどの怪我を負わせた事件がありました。当時は伏せられたその事件について著者が質問すると、川田は「もう、その話はいいでしょ?」と苦笑しながらも、当時の状況を説明しました。飲んでいる席で若手やリング・スタッフがいる前で三沢に何かを言われた川田がカチンときて「先に帰ります」と店を出ましたが、バッグを忘れてきたのに気づいて店に戻ると、「お前は、生意気なんだよ!」と、三沢に殴られたそうです。みんなの前で殴られた川田が殴り返して喧嘩になり、結果、三沢が怪我をしてしまったのでした。もっとも、川田が殴ったときの三沢は小橋建太によって後ろから羽交い絞めにされていたそうですが......。

 

 「鶴田を10年ぶりにギブアップさせた新必殺技」では、三沢が鶴田をギブアップさせるという歴史的瞬間について書かれています。時は、1991年9月4日、場所は日本武道館。この年、新日本プロレスでは8月7日から11日に「G1クライマックス」が初めて開催され、武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也の「闘魂三銃士」が藤波辰巳(現・辰爾)、長州力を押しのけて勝ち進み、橋本と武藤を連覇した蝶野が優勝して劇的な世代交代を印象付けました。著者は、「この全日本の9・4日本武道館でも世代交代を象徴するようなシーンが生まれた。なんと鶴田が三沢のフェースロックにギブアップしたのである。鶴田のギブアップは81年10月9日、蔵前国技館においてリック・フレアーに挑戦したNWA世界戦60分3本勝負の2本目に足4の字固めに屈して以来、実に10年ぶり。三沢は日本人レスラーとして初めて鶴田からギブアップを奪ったのだ」と書いています。

 

 それにしても、三沢光晴・川田利明・田上明・小橋建太の全日本プロレス「四天王」による激闘は過激でした。第7章「四天王プロレス」の第7章「全日本プロレスの武器は口コミ」では、「95世界最強タッグ」の公式戦で同点首位となった三沢&小橋組と川田&田上組が優勝決勝戦で激突したことが紹介されています。そのとき、全日本の総帥にしてTV解説者であったジャイアント馬場は「この4人の闘いに解説はいらん。勝因も、敗因も......もう何もない。この4人の戦いは世界一だと思うなあ」と語りました。試合は予想通りの激闘となりましたが、27分4秒、小橋が田上にムーンサルト・プレスを決め、三沢&小橋は史上初の3連覇をやってのけたのです。

 

 95年は多団体時代のしわ寄せだけでなく、阪神・淡路大震災、大規模なテロ事件が発生しました。本書には、「日本全体が不穏な空気に包まれて、興行成績が危ぶまれた年だったが、最終戦の日本武道館は超満員1万6500人の大観衆で埋め尽くされ、1年の積み重ねを見せつける盛況ぶりだった。今はいなくなってしまったが、ダフ屋の数も半端ではなかった。『全日本のプロレスにはハズレがない』という意識がファンに定着した結果だと言ってもいい」と書かれています。阪神・淡路大震災といえば、発生の2日後に、川田と小橋による三冠戦が大阪府立体育会館で行われました。大会の開催が絶望視されていた中での激闘は、地震で大きなダメージを負った人たちに大きな勇気を与えてくれました。わたしは新日本プロレスのファンでしたが、この頃の全日本プロレスは本当に素晴らしかったと思います。

 

 三沢は天才プロレスラーでした。特に、受け身の技術が天才的だったと言われています。第8章「至高のプロレス」の「四天王プロレスへのそれぞれの思い」では、渕正信が三沢の天才的な受け身の技術について、「三沢は首......正確には首筋の下で撮る受け身が凄かったんだよ。昔のレスラーはスラムでもなんでも背中で受けていたけど、三沢はジャーマンでもバックドロップでも首筋の下で受けていたんだよね。映像を観ればわかると思うけど、バネがあるからパーンとここで受けた後に一回転して、座り込んだような形からダウンするシーンがかなり多いはずだよ。あんなの普通じゃできないよ。ここ(首筋の下の部分)をクッションにするから頭をモロに打つよりいいんじゃないかな。三沢のここは本当に柔らかかったからね。それに回転して力を逃がしていたんだろうね。最後のほうは川田や小橋も首で受け身を取っていたよね。俺はなるべく背中や横で受けるようにしていたけど」と語っています。

 

 渕の話を聞いてもわかるように、三沢の受け身はまさに命懸けでした。その受け身の天才であった三沢の死は不幸な事件でした。2009年6月9日、東京スポーツの取材に応じた三沢は「もうやめたいね。体がシンドイ。いつまでやらなきゃならないのかなって気持ちも出てきた。」と打ち明けていました。それから4日後の6月13日、三沢は広島県立総合体育館グリーンアリーナで行われたGHCタッグ選手権試合に挑戦者として出場。試合中、王者チームの齋藤彰俊の急角度バックドロップを受けた後、意識不明・心肺停止状態に陥りました。リング上で救急蘇生措置が施された後、救急車で広島大学病院に搬送されましたが、午後10時10分に死亡が確認されました。46歳没。翌14日、広島県警察広島中央警察署は、三沢の遺体を検視した結果、死因をバックドロップによって頭部を強打したことによる頸髄離断であると発表しました。しかし、本書の著者である小佐野氏は、三沢が受けたバックドロップ自体は危険なものではなく受け身もとれており、三沢の死は事故であったという見解を示しています。いずれにせよ、故人の御冥福を心よりお祈りいたします。