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ケア宣言』

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No.2108

『ケア宣言』ケア・コレクティヴ著、岡野八代+冨岡薫+武田宏子訳(大月書店)を読みました。「相互依存の政治へ」というサブタイトルがついています。ケア・コレクティヴ(The Care Collective)は、ケアをめぐる世界的な危機に取り組むことを目的に、2017年にロンドンで活動を開始した研究者・活動家グループです。本書の著者は、アンドレアス・ハジダキス(消費研究者)、ジェイミー・ハキーム(メディア研究者)、ジョー・リトラー(社会学者)、キャサリン・ロッテンバーグ(北米研究者)、リン・シーガル(心理学者)の5人。

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本書の帯

 

 本書の帯には、「ケアを貶める政治を越えて、ケアに満ちた世界へ」と書かれています。帯の裏には、「コロナ禍は、ケア実践やケア労働の重要性と、それを疎かにしてきた社会のあり方をあらわにした。家族、コミュニティ、国家、経済、そして世界と地球環境の危機を解明し、ケアを中心に据えた対案を構想する」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

 本書の「目次」は、以下の構成になっています。
 序章 ケアを顧みないことの支配
第1章 ケアに満ちた政治
第2章 ケアに満ちた親族関係
第3章 ケアに満ちたコミュニティ
第4章 ケアに満ちた国家
第5章 ケアに満ちた経済
第6章 世界へのケア
「謝辞」
「文献案内」
訳者解説(岡野八代、冨岡薫、武田宏子)

 

 序章「ケアを顧みないことの支配」の冒頭は、「この世界は、ケアを顧みないこと[無関心、無配慮、不注意、ぞんざいさ]が君臨する世界です。コロナウイルスの大感染は、合衆国、イギリス、そしてブラジルといった国々を含む多くの国で、このケアのなさが継続していることを明るみに出しただけといってよいかもしれません。これらの国々では、まさにリアルな、差し迫ったパンデミックが襲ってくるというかなり以前からの警告を軽視し、むしろ遠くの、あるいは実際には存在していない脅威に対する大規模な軍備に膨大なお金を無駄に費やし、結果、すでに豊かな人たちにお金を流し込んだのです。このことによって、Covid―19の危険に最も晒されている人々、すなわち、医療関係者、ソーシャル・ワーカー、高齢者、健康に不安を抱えている人たち、貧しい人々、受刑者、そして不安定雇用の下にある人たちが受けた支援や援助は、取るに足らないものだということがはっきりしました。他方では、彼女たち・かれらを保護する最善の方法について、共有されてしかるべき多くの教訓は、ほとんど無視されてきました」と書きだされています。

 

 差異を注視し、ケアのより広範な形を育むための空間は、急速に縮減してきましたが、ハンナ・アーレントの有名な言葉を使うならば、組織的なレヴェルの凡庸さが、日々の生活のなかでのケアのなさにまで浸透しているといいます。本書には、「たくさんの難民の溺死や、身近な通りにホームレスが今までになく増えているといった大惨事について耳にすることは、もはや日常となりました。『ケアしない』という行為のほとんどは、無思慮のままおこなわれます。私たちのほとんどは、必要なケアなしに他者が放置されているのを見て、実際に喜んでいるわけではないし、残酷で破壊的な衝動をもっているわけでもありません。しかしながら、ケアする能力、実践、そして想像力に課せられた制限に対し、私たちが異議を申し立て損ねていることは、確かなのです」と書かれています。

 

 この『ケア宣言』の中で、著者たちは、ケアを前面にかつ中心に据える政治の必要に迫られていると論じます。しかしながら、ケアという言葉によって、彼らは単に「直接手をかける」ケア、すなわち、他者の物理的、感情的なニーズに直接手当てをするときに人々がなしていることだけを意味するのではないとして、「もちろん、ケア実践のこうした役割は、重要で、かつ急務であることには変わりありません。しかし、『ケア』とはまた、生命の福祉と開花にとって必要なすべての育成を含んだ、社会的な能力と活動でもあるのです。とりわけ、ケアを社会の主役の位置に立たせることは、私たちの相互依存性を認識し、抱擁することを意味しています」と述べています。

 

 この宣言の中ではしたがって、「ケア」という用語を、家族ケアや、ワーカーたちがケア・ホームや病院で、そして先生たちが学校で実践している直接手をかけるケア、そしてその他のエッセンシャル・ワーカーたちによって提供されている日々のサーヴィスを含む、広範な意味で使用しているとして、さらには「それだけでなく、以下のようなケアも意味されています。すなわち、様々なモノを貸し出すライブラリーの運営、つまり協同組合的な代替案である、連帯経済の構築に関わる活動家たちによるケアや、住居費を低く抑えたり、化石燃料の使用を抑え緑地を拡大させようとしたりする政治的な政策などです。ケアは、政治的、社会的、物質的、そして感情的な条件を提供するという、個人的かつ共同的な私たちの能力であり、そうした条件によって、この地球に生きる人間とその他の生物のほぼすべての生命が、この地球とともに生きながらえ、繁栄することが可能になるのです」と述べています。

 

 親業や看護といった、より慣習的にケアとして理解されてきた実践も、ケアの与え手とケアの受け手(つまり、わたしたちのすべて)の双方が支援を受けないかぎり、適切に遂行できないと指摘し、本書には「適切なケアは、能力としてであれ、実践としてであれ、ケアが育まれ、平等主義的な形で共有され、そして資源を与えられなければ、起こりえません。ケアは、単に『女性たちの仕事』ではないし、さらに、搾取されたり、価値を貶められたりすべきではありません。したがって、私たちは、ケアの危機の本質を診断することから始め、社会的なケアのなさが、生の多くの異なる局面をいかに構造化し、ケアのなさが定着してしまったのかを、詳らかにしようと思います。その後、私たちは解決策を提案し、相互につながりあうケアの複数の形態をめざして、過去の事例、現在の数々の提言、そして未来の可能性に拠りながら、ケアに満ちた構想を描きます。未来の政治を育むことを望むなら、このようにケアが幾重にも依存しあっていることを再考することは、今日の政治にとって欠かせません」と述べます。ケアの問題は、フェミニズムとも深く関わっているのです。

 

 「ケアのない世界」では、Covid―19があらゆるニュースのトップ記事となる以前から、避けることができた惨事が毎日のように世界を覆ってきたとして、「ヨーロッパをめざしながら地中海で溺死する難民たち、[インドの]ニューデリーといった都市を包む毒性の強いスモッグ、合衆国で殺される無防備な黒人の男女、南米だけでも毎年数千件にも上る女性を狙った(無視しえない数のトランス女性も含む)フェミサイドなどがそうです。気候危機は、もはや切迫したものというよりも、私たちの眼前で起こっていることで、今や温暖化や、野生動植物を死滅させる森林災害や洪水はありふれたことになりました」と書かれています。

 

 極端な気候変動はあまりに頻繁で、あるコミュニティの最も傷つきやすい人々――合衆国の貧しい有色の人々のコミュニティであれ、グローバル・サウスの低地の国々であれ――には、例外なく、最も深刻な影響を与えていると指摘し、「こうした現象はすべて、相互に関係しています。というのも、すべては、社会のあらゆるレヴェルでの、市場に誘引された、ケアの欠如とつながっているからです。確かなことは、新自由主義的な経済成長の政策が、これほど多くの国で今や支配的になると、『経済を成長させる』ことに内在する、ケアに反する実践が、市民の福祉を保障することよりも優先されてきたということです。こうした条件のもとで乱立する多国籍企業が成長し、世界を犠牲にしてまでも、一握りの人々を豊かにするという課題を追求しつづけています」と書かれています。

 

 このようなグローバルな規模の深刻なケアの欠如は地球そのものの危機をも作り出していると指摘し、「多くの経済学者や環境学者は長い間、経済成長の永続化は、環境の許容能力と居住可能な地球を維持することとは全く相容れないと論じてきました。たとえば、有名な1972年のローマ・クラブによる報告書『成長の限界』に始まり、近年では、アン・ペティファー『グリーン・ニューディールの提唱』やケイト・ラワース『ドーナツ経済学が世界を救う』などがそうです。地球大の新自由主義的経済は、人々よりも利益を重視し、終わりなき奪取と化石燃料の消費に頼り、未曽有の規模での環境破壊を引き起こしてきました。ナオミ・クラインの最近の著作が論じているように、地球が燃やされているのです」とも書かれています。

 

 「ケアで粉飾される市場」では、古代アテネのアゴラから、産業時代の商人や生産者たちまで、市場経済や実際の市場には何らかのケアが常に介在してきたことが指摘されます。しかし、新自由主義的な資本主義は、「小さな政府」を掲げる冷酷な市場といった経済モデルを推し進め、あらゆる領域を市場目線で測ろうとする点で、これまでにないものであるとして、「植民地的な、この種の市場合理性は、近年における史上最悪の形となったケアのなさのいくばくかについて、責任があります。トマ・ピケティといった経済学者たちは、これまでになく広がりつづける所得の不平等は、決して偶然ではなく、むしろ、新自由主義的な資本主義の根本的な構造上の特徴であり、現在も指数関数的に広がりつづけているということを明晰に証明しました。そもそもの設計からして、新自由主義は、[経済以外のことは]ケアしないのです」と述べます。

 

 さらに本書には、以下のように書かれています。
「『日常のケア・ニーズ』という掛け声のもとでつくられた市場の増殖は、ケア・ドットコムでのペット・ケアやベビーシッターから、セルフ・ケアや『ウェルネス』産業のブームにまで拡大し、伝統的には市場ではなかった健康や教育といった領域にまで市場の論理を植えつけることで、私たちの共同でおこなわれるケアの資源やケアする能力を根こそぎにするのです。国民国家それ自体が、ヘルスケア、教育、住宅といった公的に給付されるべき基本的なサーヴィスの多くを手放しながら、そうしたサーヴィスを維持していくことを人々の責任感に委ねることで、グローバル市場の最悪の所業を後押ししているのです」

 

 「ケアに足りない親族」では、「もし、家族があなたを拒絶したり、あなたが家族を拒絶したりしたら、何が起こるのでしょうか。もし、民営化されたケア・サーヴィスにお金を支払う余裕がなかったとしたら、どうでしょう」と読者に問いかけ、「現在のケア・レジームの帰結とは、せいぜいのところ、ケアを最も必要としている人を無視するか、孤立したままにするかであり、悪くすれば、防げたはずの病気や死を招くのです。自分自身と自分に最も身近な親族のケアだけを担うべきだとする新自由主義的な主張はまた、偏執的な形での『自分自身のケア』にもつながり、近年の世界中で台頭する極右ポピュリズムが誕生する土壌の1つとなっています。こうしたことが、地球大のケア不足から伝統的な家族頼りへという円環を生み、私たちがここで概観している異なる領域すべてが、切り離して考えられないほど密接に関連していることの背景となっているのです」と述べます。

 

 「解決に向けて」では、「ユニヴァーサル・ケア」が取り上げられます。ユニヴァーサル・ケアとは、そのいかなる形式・実践においてもケアが、わたしたちの第一の関心事であり、単に家内領域だけでなく、その他のあらゆる領域、すなわち親族からコミュニティ、そして国家から地球に至るまで優先されることを意味します。本書には、「ユニヴァーサル・ケアという意識を第一に考え、それに向かって努力すること、そしてその意識を常識へと変えることは、ケアに満ちた政治、充実した生、そして持続可能な世界を育てあげていくために必要です」と書かれています。

 

 本書では、わたしたちが共に相互依存していることを認め、ケアとケア提供の核心に、遍在する両義性を迎え入れなければならないと訴えています。また、ケアが平等主義的な方法で配分されること、すなわち、ケアは非生産的であるとか、生来的にまずもって女性の仕事であるかのようにみなされないこと、さらには、有償であったとしても、貧しい、移民の、あるいは有色の女性たちにほとんど任せておけばよいなどと思われないことが約束されなければならないとして、「ケアの重層的な喜びと負担が社会全体で共有されると約束することが、めざされるのです」と述べられています。

 

 第1章「ケアに満ちた政治」では、政治理論家であるジョアン・トロントが、「配慮すること(caring for)」と「関心を向けること(caring about)」、そして「ケアを共にすること(caring with)」を区別していることが紹介されます。「配慮すること」には、直接ケアをするという物理的な側面が含まれています。「関心を向けること」は、他者への感情的な没入や愛着を示しています。そして「ケアを共にすること」は、この世界を変革するために私たちがいかに政治的に動員されるかを描いています。本書には、「しかし、ケアには様々な形状があり、その現れは多様であるということを考えると、これらの区別はケアの能力と実践のすべてを十分に言い表せているわけではありません。また、ケアやケアを担うことには、パラドックスや相反する感情、そして矛盾が内在しているということについても、これらの区別は説明していません」とも書かれています。

 

 「依存とケア」では、ケアにまつわる多くの皮肉の1つである「実際には富裕層こそが最も依存的であり、彼女たち・かれらは、数え切れないほどの個人的な仕方で、お金を支払う見返りにサーヴィスを提供してくれる人たちに依存している」という皮肉を紹介し、「確かに、彼女たち・かれらの地位や富は、ナニー、家政婦、料理人、執事から、庭師、そして世帯の外でそのあらゆるニーズや欲求に応える多くのワーカーたちに至るまで、常に支援と注視を提供してくれる人々がどれほど多くいるのかを、部分的に反映しています。それにもかかわらず、超富裕層が自分たちの行為能力について疑いを挟まず、自らをケアしてくれる人たちを支配し、つまり、解雇したり後任を雇ったりする能力をもっているかぎり、この深く根ざした依存は隠蔽され、否定されたままなのです。さらにいえば、裕福な者たちは、依存を、ケアワークの微々たる稼ぎに頼っている人々の経済的従属と同義とみなし、依存の意味をすり替えることによって、ケアしてもらうためにお金を支払っている相手に、自らの依存を投影します。他方で、ケアされなければならないニーズを自らももちつづけているということを、認めることを拒んでいるのです」と述べています。

 

 「ケアの相反する感情」では、英語のケア(care)という語は、古英語のカル(caru)に由来し、それはケア、関心、不安、悲しみ、嘆き、そして困惑を意味することが紹介されます。「ケア」という言葉には二重の意味があるのです。このことが反映しているのは、あらゆる生物のニーズや傷つきやすさに対して十分に注意を払うこと、そしてそれゆえ脆さに直面するということは、やりがいのあることであると同時に、極度の疲労を伴いうるという現実であるとして、「たとえば、直接手をかけるケアを通じて、それがどれほど報われるものであろうとも、私たちを最もひるませ、時に最も不快で恥ずかしいと思わせるかもしれないもの、すなわち、死すべき、肉体をもった自己という人間の一側面を、私たちは目の当たりにすることにもなります」と書かれています。

 

 第2章「ケアに満ちた親族関係」の「差異を横断するケア実践」では、ケアに満ちた親族という考えを、その限界にまで拡張するならば、軍医が戦地で傷ついた敵の戦闘員をケアすることにまで及ぶとして、「ある意味では、『私たちと同じような人々』を殺そうとしている人々にも目を向けることほど、私たちのケアをめぐる想像力に対する大いなる挑戦はないでしょう。とはいえ、ケアという実践は、国際法をはじめ、ヒポクラテスの誓いと呼ばれる医療倫理において大切にされており、多くの主な宗教の倫理的な枠組みによって支えられています。このことから、現存のケア実践のなかに複数性を見出し、今日浸透しているような委縮した形態を超えてもっと広範な意味においてケアを考えるためには、主流から遠く離れたところを探そうとしなくてよいことがわかります」と書かれています。

 

 第3章「ケアに満ちたコミュニティ」では、本当に人間らしく成長するためにわたしたちには、ケアに満ちたコミュニティが必要であるとして、「必要なのは、私たちが開花できるための、地域に根ざした環境です。そこでは、互いを支えることができ、帰属のためのネットワークが生み出されます。つまり、私たちの能力を支えると同時に、相互依存性を育むようなコミュニティを創造するために、協力して活動できるような諸条件が必要なのです」と書かれています。また、「ケアに満ちたコミュニティの創造には、特徴的な4つの核があると論じていきます。それらは、相互支援、公的な空間、共有された資源、そしてローカルな民主主義です」と指摘しています。

 

 「ケアに満ちたコミュニティは、民主的なコミュニティである」では、ケアを本当に生み出すことのできる制度形態とそのネットワークは、私的な利益ではなく、供給の社会的なあり方に基づいており、そこでは計画と生産の段階に利用者が加わるということが指摘され、「必要な社会基盤を共有し、その地域性とサーヴィスの質を計画する際に、より大きな役割をコミュニティに果たさせ、国家と地方レヴェルの関係性を、協調的な意思決定(あるいは「共同生産」)を深めるようにつくりかえていくことが、ケアする能力のあるコミュニティを創造する際の鍵を握っています。同様に重要なのは、その過程でまた別のことがおこなわれているということです。すなわち、そうしたプロセスは、民主主義をも深めているのです」と書かれています。

 

 第6章「世界へのケア」の「広がりゆく相互依存」には、以下のように書かれています。 「グローバルな領域においてケアが顧みられないという問題に取り組むということは、『相互依存の政治』、すなわち、私たちは相互につながりあった複雑な世界のうちに生きているという逃れることのできない事実に、私たちを立ち返らせることになります。これは、国境を越えて急速に蔓延したCovid―19のパンデミックによって、突如として破壊的な形で明らかになってきました。結局のところ、国家レヴェルでの――資本家の富を保護するか、あるいはヘルスケアワーカーに関心を向けるかといった――様々な国家の優先事項によって形づくられた異なる決定が、ウイルスのグローバルな広がりにも、私たち自身の生きる可能性にも影響を及ぼしてきました」

 

 同時に、グローバルなロックダウンによって逆説的にも、どうしたらより良い世界をつくりあげることができるのだろうかという可能性の片鱗を、突如として垣間見ることになったとして、本書は「私たちは、国家間で設備を共有し、大気の質が改善され、地域的な相互扶助が実践され、そして労働時間が短縮されたのを、目撃してきました。私たちはまた、直接手をかけるケアやその他の形態のエッセンシャルワークの価値が、感謝とともに認められたことも目にしてきました。要するにパンデミックは、私たちの生の網の目を維持するのにきわめて重要な多くの本質的な機能に、劇的に、そして悲劇的に光を当てたのです。それはまさに、看護師や医師、配送業者、そしてごみ収集作業員の労働です。しかし、このパンデミックはまた、国境を越えた連携や協働がいかに、命に関わるほど重要であるのかもあらわにしてきました」と述べるのでした。

 

 「訳者解説」の「本書について」の冒頭は、「『ケア宣言』は、ロンドンに拠点を置く複数の研究者である、アンドレアス・ハジダキス(経済学)、ジェイミー・ハキーム(メディア研究)、ジョー・リトラー(社会学)、キャサリン・ロッテンバーグ(北米研究)、リン・シーガル(心理学)ら5人が2017年から始めた読書会のなかから生まれた。彼女たち・かれらは、ケアをめぐる世界的危機の実態とその原因を解明し、いかに私たちがその危機に応えるべきかといった難題に応えようと、上記の様々な研究分野を専門としながらも、共通の危機感から読書会を立ち上げたのだ。こうした背景からも了解されるように、分野を異にするとはいえ、彼女たちは共通してジェンダー、フェミニズム、そして新自由主義に強い関心をもつ研究者たちである」と書きだされています。

 

 「むすびにかえて――ケアを顧みない日本政治のなかで紡がれる、ケアする人々の連帯」では、「本書を読み終え、私たちが住む日本社会を、そして政治を直視すると、何が見えてくるだろうか。2020年2月の大型クルーズ船内での深刻な感染に始まる、これまでの政府のコロナ対策で明らかになったのは、本書が冒頭で指摘するように、『すでに豊かな人たちにお金を流し込み』、本当に必要な人にどうしたら資源を届けられるのかという『最善の方法について、共有されてしかるべき多くの教訓は、ほとんど無視されてきた』ことだ。この間、経済再生担当大臣がコロナ対策を指揮しつづけ、たとえば、一時給付金の原則世帯主への支給など、以前より問題が指摘され教訓を学んでいたはずのことすら、くりかえされたのだった。今、解説を書いている間もなお、医療従事者、介護・介助・保育に携わる人たちの疲弊をよそに、そして世論の強い反対にもかかわらず、2020東京オリンピックは開催されようとしている」と書かれています。

 

 この最後の一文に、わたしは強く、強く共感しました。マルクス主義関係の出版物が多い印象のある大月書店の本を初めて読みましたが、「ケア」と政治の問題を深く掘り下げており、勉強になりました。わが社は「サービス業」から「ケア業」への進化を企んでいますが、「ケア」とは経済やビジネスの問題だけでなく、政治にも関わる問題であることを再認識した次第です。本書に1つ不満があるのは、各章の本文を書いた文責が明らかにされていないことです。5人の共同執筆というのは分かるのですが、どの部分を誰が書いたかぐらいは明示すべきであると思います。「訳者解説」でさえ、3人の訳者の連名で書かれていますが、これも文責を明らかにしたほうがいいでしょう。執筆のコミュニズムというのは、読者にとっては不誠実では?