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ぎょらん』

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No.2095


 『ぎょらん』町田そのこ著(新潮社)を読みました。一条真也の読書館『52ヘルツのクジラたち』で紹介した本屋大賞受賞作の作者が書いた葬儀小説です。北九州市立文学館の今川英子館長から教えられた本ですが、一読して驚愕しました。著者の町田氏は、あまりにも葬儀の現場をよく知っている、いや知り過ぎていたからです。その上で、珠玉の物語が紡がれているのですから、もう完全に参りました!

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本書の帯

  

 本書のカバー表紙には、接写されたイクラのような魚卵の写真が使われ、帯には「祝! 本屋大賞」「『52ヘルツのクジラたち』で大賞を受賞した作家が紡ぐ、喪失と再生の物語」「この作品を読まずして町田そのこは語れない。大絶賛の声、続々!!」と書かれています。

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本書の帯の裏

  

 帯の裏には、「感動と絶賛の声、続々!!」として、「読みながら何度も涙腺が緩んだ。これは温かくて、悲しくて、そして力強い。別れと救いの物語である。――書評家 大矢博子さん」「堰を切ったように感情が溢れ、どうしようもなくなった。小説を読んで、あれほど嗚咽してしまったことは後にも先にもない。この物語は、人の心の奥底に語りかけてくる。――MARUZEN&ジュンク堂書店 新静岡店 小川英則さん」「人が死ぬ瞬間に遺すという赤い珠『ぎょらん』。口にしたものは、死者の最期の願いが見えるという――。その存在を追い続ける三十路のニート・御舟朱鷺は、ようやく働き始めた葬儀社で珠を知る人々に出会うが......」「『R―18文学賞』で三浦しをん氏、辻村深月氏に大絶賛されデビューした著者による珠玉の連作奇譚」と書かれています。

  

 アマゾンの「内容」には、こう書かれています。
「人が死ぬ瞬間に遺す、いくらのような赤い珠。口にしたものは、死者の最期の願いが見えるという―。十数年前の雑誌に一度だけ載った幻の漫画『ぎょらん』。作者の正体も不明ながら、ネット上では『ぎょらんは本当に存在する』という噂がまことしやかに囁かれていた。三十路のニート、御舟朱鷺は、大学一年のときに口した友人の『ぎょらん』に今も苦しんでいると語るが......。とある地方の葬儀会社で偶然に交錯する、『ぎょらん』を知る者たちの生。果たして『ぎょらん』とは一体何なのか。そして死者の願いは、遺された者に何をもたらすのか――。『R―18文学賞』大賞受賞作家が描く、妖しくも切ない連作奇譚」

  

 本書には、「ぎょらん」「夜明けのはて」「冬越しのさくら」「糸を渡す」「あおい落葉」「珠の向こう 側」という6編の連作小説が収められています。それらの物語は、人が死ぬ瞬間に遺すという赤い珠「ぎょらん」を中心に展開していきますが、「ぎょらん」にはそれを口にすると死者の最期の願いが見えるという力があるとされています。主人公である御舟朱鷺という三十路のニート男性は天幸社という葬儀社に就職し、葬儀に関わっていきます。

  

 その中で葬儀に関わるさまざまな人たちの人生が絡み合っていきますが、そこには「ぎょらん」によって死者の最期の願いを知ることで、死者に対する後悔や想いを救ってほしいという希望と知ることへの怖れが存在しているのでした。また、この物語は死者への後悔の気持ちに対して「赦し」を得られれば、新しい生き方をすることができるかもしれないという希望と再生の物語でもあります。最後に収められた「珠の向こう側」のラストでは、「ぎょらん」の本当の正体(意味)が明らかにされますが、それまでの物語を思い出していくと、これまでとはまったく違った見方ができる非常に興味深い物語でした。

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最期のセレモニー』(PHP研究所)

  

 6つの物語の中に登場する葬儀の感動エピソードは、わが社の葬祭スタッフの体験集である『最期のセレモニー』(PHP研究所)に収められた実話の数々を連想しました。本書では、天幸社を舞台として、葬儀の様子や亡くなってからの一連の描写が描かれています。その描写の中での葬儀に関わる言葉ややり取りが非常にリアルです。また、実際にその現場にいないとわからないような事柄が非常に多く、よほど綿密に取材をしたか、著者自身が葬祭という仕事に実際に関わったのではないかと感じました(その後、ネットニュースで著者が実際に葬儀社で働かれていたことを知りました)。たとえば「施行」とか「発生」とか「1級葬祭ディレクター」などという単語が出てきますが、これは完全に業界用語です。「幕張」などという単語も登場します。千葉県の地名ではありません。葬祭業界の専門用語です。「冬越しのさくら」には、以下のように書かれています。

  

 幕張。それは、真っ白の幕で部屋を覆い、室内を儀式に相応しい空間に変えるという意味合いを持つ。自宅葬が主流だった昔は葬儀担当者の腕の見せ所といわれたそうだけど、斎場葬が多くなった昨今は出来る者が減った。知識として知っていても、実際に作ったことはないという人の方が、最早多数ではないだろうか。しかし、わたしはこの作業がとても得意だったりする。わたしの師が、神業とも呼べるような素晴らしい幕張の腕を持っていたからだ。師――サクさんは自分の持っている知識や経験を、余すところなく教えてくれた。
 二間続き、十六畳の部屋は二時間半ほどでぐるりと幕で覆うことができた。手のひらで幅を計ってヒダを作った白幕の上から、裾が薄紫の水引幕でドレープを作って重ねる。鴨居も幕を巻き、角にはシャンデリアと呼ばれる飾り幕を作った。脚立から降りて室内を見渡して、よし、と小さく声に出す。イメージ通りに仕上がっている。後からやって来る生花屋と花祭壇を作れば完璧だ。
(『ぎょらん』「冬越しのさくら」)

  

 この最後に「生花屋」という言葉が出てきますが、わたしは「〇〇屋」という呼び方が嫌いです。ですから、八百屋とは呼ばずに青果店、散髪屋ではなく理髪店、ラーメン屋ではなくラーメン店と呼びます。「〇〇屋」というと、どうもその職業を見下している印象があって苦手なのです。特に、「葬儀屋」という言葉には葬祭業に対する根強い偏見がそのまま表現されているようで反発をおぼえます。世の多くの小説には葬儀の場面が登場しますが、葬祭業者を「葬儀屋」と呼ぶ作品がほとんどです。中には重松清氏のように「葬儀社の人」と丁寧な言い方をする作家もいますが、大半の作家にそのような配慮はありません。

  

 では、この『ぎょらん』ではどうかというと、「葬儀屋」という言葉も何度か出てきます。しかし、それは天幸社に勤務する葬祭スタッフが自身のことをそう呼ぶだけで、この小説に葬祭業に対する偏見は感じられません。それどころか、葬祭スタッフに対する温かいまなざしをさまざまな場面で感じることができました。葬祭業に対する偏見を描いた映画に一条真也の新ハートフル・ブログ「おくりびと」で紹介した本木雅弘主演の日本映画があります。この作品が第81回アカデミー賞の外国語賞を受賞して以来、葬儀という崇高な仕事に携わる葬祭スタッフへの見方が変わった気がしますが、本作『ぎょらん』が映画化されたとしたら、「おくりびと」に劣らない素晴らしい感動作が生まれるように思います。

  

 「おくりびと」といえば、故人が「いしぶみ」という小石を握っている場面がありましたが、もしかするとこの「いしぶみ」が著者の町田氏にインスピレーションを与え、「ぎょらん」が生まれたのではないかなどと想像しました。難を言えば、「ぎょらん」がイクラのような魚卵を連想させること、そして死者が口に咥えていたり、手に握っていたり、身体に付着していた「ぎょらん」を生きている者が口に入れると故人の想いがわかるという設定には無理があるように思いました。何よりも不衛生ですし、気持ち悪いです。魚卵の生臭いイメージが遺体そのものを不浄な存在としてしまう危惧もあります。ここは、魚卵ではなく真珠、「ぎょらん」ではなく「しんじゅ」だったら良かったというのが正直な感想です。

  

 映画「おくりびと」といえば、 一条真也の読書館『納棺夫日記』で紹介した青木新門氏の著書が原案であるとされていますが、著者は富山にある冠婚葬祭互助会の葬祭部門に就職し、遺体を棺に収める「納棺夫」として数多くの故人を送ってきましたちなみに「納棺夫」とは著者の造語で、現在は「納棺師」と呼ばれています死をケガレとしてとらえる周囲の人々からの偏見の目に怒りと悲しみをおぼえながら、著者は淡々と「おくりびと」としての仕事を重ねていきます。そして、著者は「毎日、毎日、死者ばかり見ていると、死者は静かで美しく見えてくる。それに反して、死を恐れ、恐る恐る覗き込む生者たちの醜悪さばかりが気になるようになってきた。驚き、恐れ、悲しみ、憂い、怒り、などが錯綜するどろどろとした生者の視線が、湯灌をしていると背中に感じられるのである」と記しています。このような死者への敬意に満ちた真摯な態度は、『ぎょらん』にも見られます。「珠の向こう側」で、天幸社に勤務する石井という女性が主人公の御舟朱鷺に次のように言います。

  

 「ねえ御舟くん、天幸社に入ってもう一年半ほど過ぎたんだったわね。何度も、ご遺体と接したと思う。彼らに触れた時、厳かな気持ちにならない? 私はね、なるのよ。覆しようのない現実を前にすると、『死』というものによって私はこの人のいた世界と確実に断絶したんだな、と思う。そうすると、絶望に近い感情を覚えるわ。誰かが死を迎える度、世界は一度終わっている。私はこの人のいた世界からすっぽりと切り離されてしまった。とても、厳粛な気持ちになる」(『ぎょらん』「珠の向こう側」)

  

 『ぎょらん』には、葬儀の本質についても書かれています。天幸社の相原という女性スタッフの言葉で、「置いていかれた人が思う存分泣き、故人を思い、その死と向き合うためのもの。葬儀は残された者のためにあるのだ。遺族が救われれば、それはそのまま故人への供養になる。哀しみを乗り越えるための空間と時間を作りだし、手助けするのがわたしたちの仕事。わたしはそんな仕事を一生のものにしたいと思ったのだった」と書かれています。この石井という女性の考える葬儀の本質論は間違いではないのですが、葬儀は残された者のためにだけあるというのは違和感をおぼえます。やはり、葬儀は亡くなった人と残された人の両方のためにある儀式だと思うからです。

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葬式は必要!』(双葉新書)

  

 彼女の考える葬儀の本質は、葬儀の持ついくつかの側面の1つです。拙著『葬式は必要!』(双葉新書)でも紹介しましたが、一般に葬儀には、①社会的な対処、②遺体の対処、③霊魂の対処、④悲しみの対処⑤さまざまな感情の対処の5つの役割があるとされています。①社会的な処理に関しては、わたしたちはみんな社会の一員であり、一人で生きているわけではありません。その社会から消えていくのですから、死の通知が必要です。社会の人々も告別を望み、その方法が葬儀なのです。もともと人間の死には、生理的な死と社会的な死の2つがあり、その2つが組み合わさってはじめて1つの死が完成するのです。生理的な死は病院が、社会的な死は葬祭業が担当します。

  

 ②遺体の対処に関しては、生命を失った体を放置できないという厳然たる事実があります。人間は呼吸を停止した瞬間から遺体となり、たちまち腐敗していきます。旧石器時代においてすら、すでに遺体に対して何らかの措置がなされた形跡が見られることからいっても、土の中に埋めるとか、火で燃やすとかの遺体の処置は人類の発生とともにはじまったとされています。③霊魂の対処に関しては、葬儀が死者を生者の世界から分離し、新しい世界に再生させるための通過儀礼であるということです。古今東西の葬儀に宗教が関わるようになったゆえんです。死者の霊魂をどのような手段で新しい世界に送り込むのか、死者の霊魂をどのように受けとめ、どんな態度でのぞむかということです。すなわち、葬儀とは霊魂のコントロール技術であると言えるでしょう。

  

 ④悲しみの対処、⑤さまざまな感情の対処に関しては、残された人間の問題となります。先に⑤の「さまざまな感情」を説明すると、怒り(どうして私を置いて死んでしまったのか、など)、恐れ(きちんと葬儀をあげないと祟られるのではないか、など)といった負の感情を指します。そして、最も重要であると考えられる④悲しみの対処に関しては、残された人々の深い悲しみや愛情の念を、どのように癒していくかという対処法のことで、「グリーフケア」ということです。通夜、葬式、その後の法要などの一連の行事が、遺族にあきらめと決別をもたらしてくれます。愛する者を失った遺族の心は不安定に揺れ動いています。そこに儀礼というしっかりした形のあるものを押し当てる「不安」をも軽減することができます。

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愛する人を亡くした人へ』(現代書林)

  

 映画化が決定した拙著『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)にも書きましたが、死別はさまざまな不安を生みます。親しい人間が消えていくことによって、これからの生活における不安。その人がいた場所がぽっかりあいてしまい、それをどうやって埋めたらよいのかといった不安。残された者は、このような不安を抱えて数日間を過ごさなければなりません。「こころ」が動揺していて矛盾を抱えているとき、この「こころ」に儀式のようなきちんとまとまった「かたち」を与えないと、人間の心はいつまでたっても不安や執着を抱えることになります。これは非常に危険なことです。人間はどんどん死んでいきます。この危険な時期を乗り越えるためには、動揺して不安を抱え込んでいる心にひとつの「かたち」を与えることが大事であり、ここに葬儀の最大の意味があると、わたしは考えます。

  

 死別の悲嘆にもさまざまな種類がありますが、「ぎょらん」の冒頭で、朱鷺の妹である華が愛する人の葬儀に参列する場面が登場します。亡くなった彼は会社の先輩で妻子がいました。つまり、華は不倫相手を亡くしたのです。放心状態のまま葬儀から帰った彼女が入浴するシーンが出てきます。

   

 彼は私の前だけでは、素顔をみせてくれた。私の方が十も年下なのに、小さな子どものように甘えてきたり、わがままを言ったり、そしてセックスはいつだって貪欲で激しかった。荒々しく私を組み敷いて快楽をむさぼる彼はまるで獣のようで、捕食されているような気すらした。あの逞しい胸も腹筋が薄く浮いた腹も、私の中をめちゃくちゃにかき回した指先も、もう形を失って永遠に動かない。甘い囁きも、もう二度と私の鼓膜を揺らさない。
「......っぷっは! げっほ......っ」
 鼻の奥がじんと熱くなって、無意識に吸っていた。大量のお湯が流れ込んできて噎せかえりながら浴槽から体を起こす。涙と鼻水で顔をぐじゅぐじゅにしてしばらく咳込んだ。
 彼が死んだなんて、信じたくない。もう一度会いたい。あの腕の中でもう一度、愛してるって囁いて欲しい。名前を呼んで、可愛いって言って欲しい。私を愛してたって、信じさせて欲しい。
 浴槽の縁に縋りつくようにして、泣いた。
(『ぎょらん』「ぎょらん」)

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グリーフケアの時代』(弘文堂)

  

 わたしは、2018年より上智大学グリーフケア研究所の客員教授を務めていますが、同研究所所長の島薗進氏、特任教授の鎌田東二氏と3人で『グリーフケアの時代』(弘文堂)という本を書きました。そこでは、さまざまなグリーフについて考察していますが、その中に「公認されない悲嘆(disenfranchised grief)」というものがあります。不倫相手と死別した華の悲嘆がまさにそれなのですが、悲歎者が実際に経験している死別に伴う悲嘆でありながら、社会的な公認(第三者による公認)が得られにくい悲嘆のことですdisenfranchisedとは、「権利を奪われた」という意味ですが、disenfranchised griefの分類として、①故人と悲嘆者の関係が公認されにくいことによるもの:恋人、婚約者、同性愛のパートナー、ペットの喪失など②死別そのものが公認されにくいことによるもの:流産、死産、重篤な精神疾患や慢性疾患の家族をなくした時、自殺、遺体が見つからない時など③悲嘆者の悲しむ能力が公認されにくいことによるもの:幼児、認知症患者、精神障害者など。以上にように分類されますが、まさに小説や映画のテーマの宝庫であると言えるでしょう。

 

 さて、『ぎょらん』に描かれた葬儀はどれも心に沁みるセレモニーですが、出棺の際にクラクションを鳴らす場面だけは違和感がありました。 一条真也の新ハートフル・ブログ「禮鐘の儀」でも紹介したように、2013年10月2日にオープンした、サンレーグループの「霧ヶ丘紫雲閣」で初めて「禮鐘(れいしょう)の儀」が行われました。これは、葬儀での出棺の際に霊柩車のクラクションを鳴らさず、鐘の音で故人を送る新時代のセレモニーです。現在は90店を超えるすべての紫雲閣で行われています。わが社は、昨今の住宅事情や社会的背景を考慮し、出棺時に霊柩車のクラクションを鳴らすのではなく、禮の想いを込めた鐘の音による出棺を提案しているのです。

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これが禮鐘です

  

 現在、日本全国の葬儀では霊柩車による「野辺送り・出棺」が一般的です。大正時代以降、霊柩車による野辺送りが社会全体に広まり、現在に至るまで当たり前のように出棺時に霊柩車のクラクションが鳴らされています。このクラクションを鳴らす行為には、さまざまな説があります。出棺の際に故人の茶碗を割る慣習(現在ではほとんど行われていないが、地方によっては必ず行われている)や、車輌を用いた野辺送りが一般的になる以前では、遺族・親族・有縁の者が葬列を組んで鐘や太鼓の音と共に墓地まで野辺送りを行っていた風習の名残りなど諸説があります。

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クラクションは鳴らしません

  

 出棺時に鳴らされる霊柩車のクラクションには意味はありません。一般的には"別れの合図"や"弔意を表す為の弔砲がわり"や"未練を断ち切るための音"などとして認識されています。たとえば、船舶における汽笛は出航時や帰港時、航海中の安全の為に鳴らします。また、船舶にはマリンベル(号鐘)と呼ばれる鐘が必ず設置されています。これは日常的には時間を知らせる為に使用されています。緊急時における使用もありますが、航海中に死人が出た場合の"水葬"を執り行う際にもこの号鐘が鳴らされます。

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代わりに、鐘を3回鳴らします

  

 「禮鐘の儀」で使用する鐘は、宗教にとらわれない鰐口を使います。古代の日本では、神社にも寺院にもともに鰐口が吊るされていました。その後、時代が下って、神社は鈴、寺院は釣鐘というふうに分かれていったのです。ですから、鰐口は神仏共生のシンボル、さらには儒教の最重要思想である「禮」の文字が刻まれた「禮鐘」は神仏儒共生のシンボルとなります。また、独自のオリジナル出棺作法として、3点鐘(3回叩く)による出棺とします。これは、「感謝」「祈り」「癒し」の意味が込められています。

 

 葬儀やグリーフケアはわたしの専門ですので、いろいろと書き連ねてきました。でも、『ぎょらん』という小説が大変な名作であることは間違いありません。わたしは『ぎょらん』を読んで、3回泣きました。1回目は、葉子という中学生が親友の女の子に書き残したタイムカプセルの手紙を読んだとき。2回目は、朱鷺が引きこもった本当の理由がわかったとき。そして、3回目は、朱鷺の母親が亡くなる直前に言い残した「実はわたし、うれしかった。あんたが、葬儀社に入ったこと。きっと、同じ苦しみを背負うひとに出会い、救い救われ、生きていける、って。あんたが選んだ道は、間違ってない。大丈夫」という言葉に触れたときでした。この言葉を読んだとき、静かな感動で胸がいっぱいになり、もともと弱いわたしの涙腺が決壊しました。わが社の紫雲閣の全スタッフに読んでほしいと思いました。これほど、葬儀というハートフル・エッセンシャルワークに携わる者たちに勇気と志を与えてくれる小説は過去に存在しません。古今東西における葬儀小説の最高傑作であると思います。このような素晴らしい作品を書いて下さった町田そのこ氏、この名作をご紹介下さった北九州市立文学館の今川英子館長に心より感謝申し上げます。