No.2058 論語・儒教 『儒教が支えた明治維新』 小島毅著(晶文社)

2021.07.31

 『儒教が支えた明治維新』小島毅著(晶文社)を読みました。素晴らしい名著でした。著者は、1962年生まれ。東京大学文学部卒業。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。東京大学大学院人文社会系研究科教授。専門は中国思想史。東アジアから見た日本の歴史についての著作も数多くあります。著書に『増補 靖国史観――日本思想を読みなおす』 『朱子学と陽明学』(以上、ちくま学芸文庫)、『近代日本の陽明学』(講談社選書メチエ)、『父が子に語る日本史』『父が子に語る近現代史』(以上、トランスビュー)、『「歴史」を動かす――東アジアのなかの日本史』(亜紀書房)、『足利義満――消された日本国王』(光文社新書)、『儒教の歴史』(山川出版社)など。

本書の帯

 本書のカバー表紙には、孔子と夏目漱石が半身ずつのイラストが描かれています。帯には、「なぜ日本は近代化に成功したのか。」と大書され、「日本に伝わった儒教は武家の間に広まり、その教養の水脈は、吉田松陰、西郷隆盛、伊藤博文……と受け継がれ、日本の近代化を用意した。東アジアの中の日本という視点で論じる、あたらしい明治維新」と書かれています。帯の裏には、「明治維新が近代化を達成できたのは、陽明学的な志士たちが(松陰の刑死、西郷の反乱などで)早くに退場し、朱子学的な能吏が(大久保暗殺はあったにせよ)政府中枢を占めたことにあるかもしれない。――本文より」と書かれています。

本書の帯の裏

 カバー前そでには、以下の内容紹介があります。
「中国や韓国は儒教によって国が統治され、儒教は服装や冠婚葬祭のやり方まで、社会のすみずみに行きわたっていた。日本では、朱子学や陽明学は、武家の間に広まり、その儒教的教養の水脈は、水戸光圀、大塩平八郎、吉田松陰、西郷隆盛、伊藤博文……と受け継がれ、日本の近代化を用意した。中国哲学の専門家が、東アジアの中の日本を俯瞰して論じる、あたらしい明治維新論」

 本書の「目次」は、以下の通りです。
「はしがき」
1 明治維新を支えた思想
朱子学・陽明学の日本的受容と幕末維新
   ――現代の鑑としての歴史に学ぶ
中国生まれの志士的思想
江戸時代の儒教受容――岡山をめぐって
保科正之とその同志たち――江戸儒学の黎明期
東アジアの視点からみた靖国神社
2 朱子学、日本へ伝わる
日本的朱子学の形成――文化交渉学の視点から
日本の朱子学・陽明学需要
五山文化研究への導論
夢窓疎石私論――怨親差別を超えて
3 東アジアのなかの日本
日本古代史の見直し――東アジアの視点から
日本と中国
豊臣政権の朝鮮出兵から考える日本外交の隘路
東北アジアという交流圏――王権論の視角から
中華の歴史認識――春秋学を中心に
「あとがき」

 「はしがき」の冒頭を、著者はこう書きだしています。
「明治維新とは何だったのか? 私たち日本で暮らす者にとって、これは重要な設問のひとつである。最も流布している模範解答は、古代以来の旧体制から離脱して西洋風の近代国家を作るために行った一連の変革だったというものだろう。国民的作家とされる司馬遼太郎が『坂の上の雲』(1968年~1972年に産経新聞に連載)などで表明したのもこの見方である。折からその当時は『明治100年』ということで、自民党政権(佐藤栄作内閣)が大々的なキャンペーンを張り、明治維新を賛美していた」

 続いて、著者は「だが、本当にそうなのだろうか?」として、近年、学界では種々の見解が提起され、通説化しつつあることを紹介します。たとえば、「明治時代に学校制度が容易に普及浸透したのは江戸時代にその基盤ができていたから」(辻本雅史氏の見解)、「江戸時代の学問環境や手法が志士たちの政治議論の土壌になった」(前田勉氏の見解)、「明治時代になってからも儒教は社会に浸透した」(渡辺浩氏の見解)、「明治維新は偶然が重なって成功してしまった革命」(三谷博氏の見解)、「江戸幕府には西洋流の外交手腕を具えた優秀な人材がいた」(真壁仁氏の見解)、「西洋近代科学の受容は長崎の蘭学ですでに高い水準に達していた」(広瀬隆氏の見解)などです。著者は、「『江戸時代に近代思想の萌芽が見られる』という学説は、古くは丸山眞男が唱え、近くは苅部直氏が力説している。また、一般書籍としては、薩長藩閥政府の独善を非難し、『明治維新』という創られた偶像を壊すための本が陸続と出版されている」と述べています。

 本書はそれらと観点を共有しつつ、少し違う角度から眺めた明治維新論だといいます。すなわち、時期を江戸時代にかぎることなく、もっと前から見ることによって、日本の歴史の中で儒教が果たしてきた役割を整理する本です。著者は、「13世紀に宋から伝わった禅宗には、教養の一環として朱子学についての知識が入り込んでいた。17世紀、江戸時代にいたって日本の朱子学は禅宗寺院から自立する。すぐ引き続いて儒教の中から朱子学を批判する思潮も誕生する。教育施設(藩学など)が設立され、19世紀には儒教の教義内容が武士の間に広く浸透して国政改革への志を育んでいた。明治維新はこれを思想資源としている」と述べます。

 また、著者は「思想資源」という語について、「ある思想が醸成するに際して使われた材料」という意味で使いたいとして、「その点で『源流』や『影響』という語とは異なる。前者は時間軸を上流から下流にたとえた必然的展開を、後者は既存のものにあとから外来物が付加したさまを思わせるからだ。そうではなく、思想資源とは当該思想が生成するにあたり不可欠だった材料・形質のことである。したがって、私は『明治維新は儒教教義による政変だった』とまで主張するつもりはない。表向きそれはあくまで日本古来の神道による王制復古であり、実質的には西洋列強を模倣した国家の構築だった。しかし、遣唐使以来の中国からの文明移入の歴史を通観したときに見えてくるのは、『また同じようなことをしていた』という感想である。そして、いま、『世界標準(global standard)』という怪しげな用語によって進められている社会の転換もまた、いつか来た道に思えてならない」と述べるのでした。

 1「明治維新を支えた思想」の「朱子学・陽明学の日本的受容と幕末維新――現代の鑑としての歴史に学ぶ」の「『理』と『気』を結びつけた世界観」では、朱子学において、世界を成り立たせる原理として「理」というものを考える(そもそも、「原理」という日本語がこの影響を受けている)ことを紹介し、著者は「理それ自体には姿形はない。世界の存在物は、理に基づき、理を内在させるようにして、できている。存在物を構成しているのは陰陽五行の多種多様な組み合わせで、その元になっているものが『気』である。気は中国古代からある考え方だったが、それを理と結びつけて説明し、精緻な世界像を描き上げたところに、朱子学の意義があった。そして、他の物と同様、人間も気の集まりであり、理を内在させていると、朱子学では考える。理の具体的な内容は、親への孝、君主への忠といった倫理的徳目であり、それらは人為的に誰かが勝手に決めたものではなく、自然界の法則と同じである。ある人物が不孝や不忠なのは、彼が邪気(欲望など)の妨げに遭って自身に内在している本来の理を見失い、そこから逸脱していることに原因があると、朱子学では説明する。したがって、朱子学の思想史的特質は、漢代の儒教よりも個々人の内面の修養を重視することにある」と述べます。

 「朱子学の行き詰まりと陽明学の誕生」では、紆余曲折ののち、朱子学は王朝体制を支える役割を担うようになりますが、古今東西の通弊で、思想の教案化と硬直化による活力減退が訪れました。著者は、「15世紀末には多くの心ある士大夫が、この壁にぶちあたって悩んでいた。明のなかばのことである。王守仁(号は陽明)は、はじめ篤実な朱子学者として修行し、そのことに悩んで放蕩にも走り、権力者に逆らって僻地に左遷され、そこで一つの大きな悟りを得た。『私はこれまで朱子の教えに遵って、修行により理を追い求めながらも、得られずに煩悶してきた。だが、理は私たちの心に内在しているのであり、外界にあるわけではないのだ』。朱子学自体がそもそも内面重視の教説だったはずなのだが、陽明学はさらにそれを押し進め、個々人が自分の心の本来のありかたを取り戻すことを強調する」と述べます。

 「日本に朱子学を伝えた禅僧たち」では、朱子学・陽明学ともに、仏教の中の禅の思想と深く関わっているとして、著者は「時に禅に学び、時に禅を批判し、また時には禅のほうが朱子学・陽明学からヒントを得ながら、中国近世の思想史は展開していた(この他に道教の動向も密接に絡むのだが、日本への直接的影響は薄いので、ここでは省略する)。日本に朱子学・陽明学が伝わったのは、禅仏教導入の一部としてであったのは、こうした事情に由来している。栄西禅師は2回宋を訪れているが、それはちょうど朱熹が活躍していた時期であった。もっとも、二人に面識はない。栄西によって臨済宗が移入されてからのち、13世紀から14世紀にかけて、同じように宋で禅を学び日本にそれを伝えたり、もともと宋の禅僧が来日して活躍したりすることが続いた。朱子学は彼らによって日本に伝えられる。言い換えれば、日本の儒者が栄に留学して朱子学を学び、それを持ち帰ったわけではない。ここが、中国や韓国の朱子学と日本の朱子学受容との決定的な相違点であった。本場中国でも、そしてモンゴル帝国時代に政治的な力関係もあって北京に行かざるを得なかった韓国の高麗王朝でも、朱子学の担い手は儒教を生活信条とする士大夫だった」と述べます。

 「江戸時代に禅宗から独立した朱子学」では、日本では禅宗の僧侶が、留学中のいわば副専攻として朱子学を修得し、故国に伝えていたことが指摘されます。そのため、儒教の根幹をなす”礼”の実践が根付くことはありませんでした。具体的には、冠婚葬祭のやりかたです。著者は、以下のように述べています。
 「禅僧は仏教式のそれを中国から伝えただけで、朱子学風の儀礼を実践することはなかった。もっとも、加地伸行氏が『儒教とは何か』(中公新書、1990年)で強調するように、中国仏教の冠婚葬祭自体、もともとは儒教流儀のものであった。江戸時代、朱子学はようやく禅宗寺院を離れて教育・研究されるようになる。藤原惺窩・林羅山・山崎闇斎といった17世紀の朱子学者たちは、もともと禅宗寺院で学んだ経験を持っている。彼らが弟子を育てるようになってはじめて、朱子学は禅宗から自立する。そして、すぐに伊藤仁斎や荻生徂徠のように、朱子学に疑問を感じて独自の教説を唱える思想家が登場するにいたる」

 「討幕運動の精神的柱となった陽明学」では、朱子学の変種である陽明学も、(学者が訪日したわけではなく)書物を通じて知識として広まったことが紹介されます。著者は、「中江藤樹は、最初は朱子学を学習していたが、やがてこれに疑問をいだき、晩年(といっても彼は40歳で亡くなっているので30代で)陽明学と出会ってこれに傾倒する。つまり、彼自身、王陽明同様に、また仁斎や徂徠と同じく(時期的には藤樹が先輩だが)まず朱子学を学び、そののちそこから離れるという道を歩んでいる。幕末の吉田松陰にしろ西郷隆盛にしろ、江戸時代の儒学が持つこうした性格の体現者であった。ふたりとも陽明学に心酔したといわれ、井上哲次郎『日本陽明学派之哲学』(1900年)以来、幕末を代表する陽明学者として語られてきた。さらに、(これも井上らの筋書きだが)陽明学が本来持っている革新的な傾向が、彼らが担った倒幕運動の精神的背景となったとされた」と説明しています。

 「維新を可能にした朱子学対陽明学の単純図式」では、日本がアジアの中で最も早く西洋風近代国家への脱皮を果たせた背景には、たしかに陽明学的な精神の存在があったとして、著者は「”倒幕”という大それた発想、鎌倉幕府以来の武家政権の仕組みを武士自身が壊していこうとする運動は、陽明学思想に親和的であった。しかし、それは『彼らは陽明学者だから進取革新の気風に富んでいた』わけではなく、『社会改革への志を持っていた人たちだから陽明学に心酔した』というべきであろう。具体的な”礼”の世界を持たず、ただ観念的に思想を語ってきた日本の朱子学・陽明学の受容が、『体制護持=朱子学、変革運動=陽明学』という単純な図式で幕末維新期を捉えることを可能にしてしまう状況を作り上げていたのだ」と述べます。

 「現代の鑑としての幕末維新」では、明治国家が近代化を達成できたのは、陽明学的な志士たちが(松陰の刑死、西郷の反乱などで)早くに退場し、朱子学的な能吏が(大久保暗殺はあったにせよ)政府中枢を占めたことにあるかもしれないとして、著者は「三島由紀夫は1970年の割腹事件に際して、陽明学者の大塩中斎(平八郎)に自己投影していたふしがある。彼は東大駒場キャンパスで全共闘と対話しているが、私は、これは両者が陽明学的心性を共有していたからだと解釈している。三島には、学生たちに自分と同じ匂いを感じとる嗅覚が具わっていたのだ。事のよしあしはさておいて、全共闘とは幕末の倒幕派志士たち同様に”陽明学”だったのだと私も思う。彼らが敵とみなす体制は、”朱子学的”な官僚体制だった。そして、それは50年の時を経ても彼らの気質として持続しているのではなかろうか」と述べています。

 「中国生まれの志士的思想」の「『論語』の広がり」では、著者は「志士」という言葉を取り上げ、「志士――幕末期の若者たちが、自分もそうありたいと憧れた生き方である。西暦2世紀、後漢の孟子注釈者趙岐は『志士とは義を守る者』といい、それから1000年後、宋の論語注釈者朱熹(朱子)は『志士とは志ある者』とする。高い志を持って義を守る人物、それが志士であった。『論語』や『孟子』は古くから日本で読まれていた。『論語』は、『古事記』に応神天皇のとき、百済からもたらされたと書かれており、それは史実ではなかろうというのが現在の歴史学界の通説だが、かなり古くから貴族たちの間で読まれていたことはたしかであった」と述べています。

 また、18世紀の国学者上田秋成の『雨月物語』には、西行法師のせりふとして「『孟子』を積んだ船は神々の怒りに触れて海に沈み、日本には辿り着かない」とありますが、一条真也の読書館「『孟子』の革命思想と日本」でも紹介したように、実際には平安時代の宮廷に持ち込まれていました。著者は、「いわゆる国風文化なるものも、こうした漢籍の素養を基礎としてはじめて華開いたのである。ただ、それは京都の上流階級の間での話にすぎず、『論語』と『孟子』は日本列島に暮らす大多数の人々とは無縁の書物であった。したがって、「志士」ということばもまったく重要ではなかった」と述べています。

 19世紀はじめ、頼山陽は『日本外史』に『太平記』に見える児島高徳のせりふを収録しました。著者は、「『日本外史』という本は、平安時代の源平両家興隆以来の武士の歴史を描いている。当時の武士が、自分たち武士の歴史を学習した書物である。また、このころ、朱子学の普及にともない、『論語』『孟子』も貴族(公家)や僧侶の独占物ではなく、武士や裕福な農民・町人によって読まれるようになっていた。当時の若者たちは、かくして、天皇陛下のために悪者を懲らしめる『志士』の姿に自己投影するようになる」と述べています。

 「庶民の目線で中国思想を解釈」では、『春秋』の本文を解釈する学術を「春秋学」と呼ぶことが紹介され、「春秋学は、時代による変遷を経ているが、朱熹によって大成された朱子学において大義名分論が力説されるにいたる。君主は常に尊く、中華の文明は守られねばならない。春秋学の中で培われていた『尊王攘夷』という考え方が、朱子学の中で特に強調される」と説明されています。尊王攘夷の志士の一人である吉田松陰は、「草莽崛起」を説きました。それについて、著者は「上流階級の支配層に任せるのではなく、民と呼ばれてきた普通の人々が政治意識にめざめ、天皇を中心とする日本本来の国の姿(「国体」といわれる)を取り戻すために立ち上がることを力説したのである」と述べます。

 松陰が『孟子』の講読会を主催していたことは有名です。上田秋成は『雨月物語』で西行法師の口を借り、日本の国柄は革命にそぐわないから、革命を是認する『孟子』は神々の意に沿わないと説いていましたが、幕末には、こうして、庶民が立ち上がって世の中を変革することが主張されるようになります。「やむにやまれぬ 大和魂」から若中暗殺計画を企て、松陰は政治犯として処刑されました。著者は、「その思いは弟子たちに受け継がれ、長州藩を中心とする討幕運動が成就する。だが、彼らはそれを『革命』とは呼ばなかった。儒教で『革命』とは王朝交替を意味する。天皇の政治復権にすぎない以上、この用語はふさわしくない。当初『御一新』といわれていた体制変革は、やがて『維新』と表現されるようになる」と述べます。

 「維新」の出典は『詩経』の周の王家を讃える詩句です。「維」は発語の辞で特段の意味はありません。訓読でも「これあらたなり」と読みます。したがって、いわゆる熟語ではないのですが、この2文字が「革命」とは異なる意味、(大化)改新とか(建武)中興とかと同類の表現として、政府によって採択されたことを指摘し、著者は「出典としては『詩経』なのだが、この句を引用している『大学』という本が、朱子学における必読入門書の役割を果たしていたことが、この語が選ばれた大きな理由であろう」と述べています。

 「中国文明の影響」では、尊王攘夷運動の思想的淵源として、儒学(儒教・漢学)と並んで国学があることが紹介されます。著者は、「国学では、日本が天照大神の神勅によって万世一系の天皇を君主として上に戴く万邦無比の国体をそなえており、八百万の神々に守護された優れた国であるとする。もともとは、中国起源の儒教やインド起源の仏教に対抗して、日本の特殊性と神聖性を主張する文脈で登場した考え方であった。だが、19世紀なかばには蘭学を通じて日本でも知られるようになってきた西洋文明を敵視するものとなり、特に幕末には断固たる鎖国維持を唱える人々の間で信奉されるようになっていた」と説明します。

 17~18世紀になると、契沖や荷田春満・賀茂真淵といった、公家文化とは一線を画す人たちが登場しました。著者は、「真淵はそれまでの『古今和歌集』を尊重する伝統に対して『万葉集』の再評価を提唱した。その弟子を称する本居宣長は、『源氏物語』の新しい注解を著した他、『古事記』を神典とする歴史観を打ち立て、『漢意』を排除して『大和心』もしくは『和魂』を提唱した。とりわけ、宣長没後の門人と自称する平田篤胤の一派は、対外的な政治的危機に敏感に反応して、天皇を中心とする形で外国の影響をしりぞけ、日本の独自性・純粋性を守ろうと志す。尊王攘夷派の志士には、平田派国学の出身者が多い」と説明しています。

 しかしながら、国学者たちの発想は決して「日本古来の伝統」ではなかったことを指摘し、著者は「そもそも、天照大神が日本を自分の子孫が永遠に統治することを宣言したという神勅(天壌無窮の神勅)は宣長が再評価した『古事記』には載っておらず、『日本書紀』にのみ見える挿話である。『日本書紀』は正規の漢文で書かれているため、宣長から『漢意』と指弾されていた。彼の評価は客観的にも正しい。『天壌無窮』という語は、その発想も、そしてまたその表現(漢字表記)も、中国文明の影響抜きにはありえないからである。『万世一系』もまた、秦の始皇帝が、子々孫々、皇帝として世界を統治しつづけることを宣言した発想に由来する。中国や韓国では王朝交替があり、万世一系が曲がりなりにも実現しているのはたしかに日本だけだった。その意味で、国学派が言うように、日本は特殊である」と述べます。かくして、幕末の志士たちを鼓舞した用語の多くが、大陸伝来の思想に根ざしていました。本居宣長や吉田松陰の「やまとだましい」は精神論の次元で使われるにとどまり、志士たちは「志士」と呼ばれる時点で、実際には儒教の言説空間すなわち「漢意」に絡めとられていたのでした。

 「江戸時代の儒教受容――岡山をめぐって」の「儒学の大義名分を広めた明治維新」では、神武天皇が即位したとされるのは、『日本書紀』の紀年によると、西暦では紀元前660年に当たる年であることが紹介されます。著者は、「19世紀末に歴史学者那珂通世が、これは辛酉革命説という古くからの考え方に基づいて、『日本書紀』を編纂したころの学者たちが算定した虚構であると断定いたしました。そもそも紀元前7世紀には、日本にはまだ中国から文字も暦も伝来しておりません。ですから、その年の元旦に神武天皇が即位したというのは、歴史的にはまったく考えられないわけです。ところが、江戸時代に儒学の大義名分思想を基に、将軍といえども天皇の臣下にすぎないとする非現実的な思想観念が発生、流行いたします。そしてこれが、教育を通じて一般的な常識となってまいります。明治維新というのは、この摩訶不思議な教説がもたらした復古的な革命運動であったというのが、私の明治維新理解です。幕末の志士たちは、この復古的な革命運動という思想にかぶれた若くて青い連中であったのです」と述べます。

 「池田光政が取った神儒一致」では、神道というのは江戸時代まで仏教と不可分離のものであったと指摘し、著者は「神道はそもそも日本古来存在していたものではありません。先述のように、江戸時代に生まれた考え方が幕末期に大々的に宣伝され、明治国家によって正式に採用された歴史認識によって、日本に大昔からあった信仰体系だとみなされるようになったものです。江戸時代には、仏教徒になれというお触れが全国に出ているぐらいですから、仏教が圧倒的な力を持っています。神道なるものは、その仏教と不可分離の関係を持っていました。普通それを神仏習合と言っております」と述べます。

 「習合」というと、もともと別個の二つのものがあとから一緒になったような感じがします。でも事実はそうではありません。神仏習合というのは特殊な形態ではなく、仏教伝来以来ずっと日本の宗教のあり方であったと指摘し、著者は「光政は、その神仏をあえて分離します。神道と仏教は別のものであると。ただし、いまも言いましたように、神道というのは、それまで歴史的に独立して存在しておりません。そこで、どういう形でその神道なるものを作り上げていったかというと、これが神儒一致という考え方です」と述べます。

 神儒一致について、著者は「例えて言うなら、仏教という売り上げナンバーワンの企業がある。儒教と神道はどっちがどっちだかわかりませんが、2位と3位である。この2位と3位のものが連合して、あるいは合併して、第1位の仏教に対抗しようとした、それがこの神儒一致という動きです。これは室町時代までは原則的に見られません。ないと断言はできませんが、盛んになるのは江戸時代になってからです。江戸時代における儒学思想の受容ということで言うと、仏教から独立した形で儒教が受容されるようになる、あるいはそれが日本古来のものと考えられてきた神道と連合戦線を組む、一致すると考えられるようになる、これが大きな特徴です」と説明します。

 「中国儒教の影響を受けた宗教政策」では、儒教も神様を祀ることを指摘し、著者は「いちばん尊いのが天の神で、この他に地の神や、皇帝の祖先や孔子など、もともと人であった神もいます。これらの神々を祀る施設が全国にあって、これを国家が統制しているのです。やしろという漢字(社)やほこらという漢字(祠)は、もともと、中国で儒教の施設の名称でした。日本では古来、神道の施設にもともと儒教の用語であったこれらの漢字をあてはめたのです。神儒一致という江戸時代の考え方は、こうした背景があって登場したともいえるでしょう」と述べています。

 「殉死の禁止は儒教による文明開化」では、江戸時代初期の儒教の受容の中で特徴的な話が紹介されます。それは寛文三名君のあとの二人、保科正之と水戸光圀にかかわる話で、殉死の禁止ということです。著者は、「殉死の禁止は、儒教による文明開化だと私は考えています」と述べ、保科正之や徳川光圀はお触れを出して殉死を禁止しましたが、これは儒教を学んだからだと推測しています。儒教の本場である中国の場合、孔子が生きていた時代よりも昔、殷の王様の墓からは大量の殉死者の骨が出てきます。著者は、「骨が出てくるのでこれは殉死者だろうと考えられているわけです。つまり、王様が死ぬと、その王様に仕えていた人たちが一緒に、殺されていたのか自ら死んでいたのか、とにかく墓に埋められるという慣習がありました。それに対して、孔子の時代になりますと、そうした生身の人間ではなく、身代わりの人形として俑を埋めるようになります。秦の始皇帝陵の兵馬術もそういうものです。孔子が殷の時代の殉死のことを知っていたかどうかはわかりません。けれども、儒教の文脈では、王様の墓の中に、仕えていた人間そっくりの人形を埋めることすら孔子様は批判していました。ましてや生身の人間を殉死させるなどということは人道的にとんでもないことだというのが、この『孟子』という本が書かれて以来、儒教の中にずっとある考え方です」と述べています。

 「士道の核を成した儒学」では、著者は「鎌倉時代や室町時代にももちろん儒教はありました。あるいは、もっと前の律令制度というのも吉備真備らの努力で当時の中国の儒教を受容したものでした。しかし、それは政府の中枢で学ばれるものに限られていて、鎌倉時代以降実権を握っていた武士たちの間に儒教が本格的に広がるのは江戸時代になってからです。そのときに、侍たちの生きる道である士道、さらにそれに武の字をつけて武士道と呼ばれるようになるわけです。この士道の核を成す倫理道徳として儒教が使われるようになっていくのです」と説明しています。

 やがて、侍というのは殿様個人に仕えるのではなくて、もっと大きい公のもの、公共のものに仕える者、奉仕する者であるという観念が広がったとして、著者は「この日本列島の中での公的機関、つまり日本国なる国の最も中核になる存在としての天皇が浮上してくるわけです。一方で、水戸藩での『大日本史』の編纂とか、頼山陽の『日本外史』というような歴史書、その他中国の儒教の本、武市半平太のせりふで紹介した『近思録』などという本が読まれるようになると、そうしたものによって、天皇を中心にして日本を考えなければいけないという思想が出来上がってきます。これは江戸時代もかなり遅くなってからだと考えられていますが、幕末期には、侍たちのそうした素養、教養というのは儒教を中心とするものになっていくわけです」と述べます。

 「保科正之とその同志たち――江戸儒学の黎明期」の「好学大名と江戸儒学の黎明」では、水戸の徳川光圀、金沢の前田綱紀、会津の保科正之、それに岡山の池田光政の四人は、儒学を愛好した名君として後世並び称され、いまも日本史の教科書に列挙されていることが紹介され、著者は「元和偃武により大名同士の内戦が終結し、島原の乱が平定され、援明出師もしないことになって、武士は戦う機会を喪失した。軍団総師である各地の大名たちは為政者としての性格を強めていく。その際、経済や文化を振興するために積極的に学ばれたのが、朱子学であった。好学大名たちは競って優秀な儒学者を招聘する。朱舜水は儒教の本場から渡来したスターとしてもてなされたのであった」と述べています。

 「東アジアの視点からみた靖国神社」の「靖国神社問題は国内問題」では、わが国には「過去を水に流す、死者をムチ打たず、墓を暴かず」という文化があることを指摘し、著者は以下のように述べています。
「これに対して中国は『死者にムチ打ち、墓を暴く』文化です。かつて南宋という国がありました。その国が金という異民族に攻められたとき、秦檜という南宋の政治家が妥協し、和平を結んだ。これは売国行為だと激しく非難され、この人と夫人の銅像を造っていまなお中国人は唾を吐き続けています、これが中国の文化です」

 「靖国は日本古来の思想に根差しているか」では、そもそも靖国神社は日本古来の神道教義に由来しているのか。またその慰霊方式、英霊の祀り方は日本独自の伝統に根差しているのかといった問題が取り上げられ、著者は「私はそうではないと考えます。これが私の『靖国史観』という本の中で言いたかったことです。靖国神社は儒教、朱子学の教義を源流とする施設で、その意味では中国伝来であるということです。大原氏が言うように、中国文化とは違う日本文化、死んだらその人の生前の業績のあれこれ、マイナス面のあれこれを指摘しない、死んだら水に流すという文化が靖国神社だということではまったくないのです。むしろ真逆です」と述べています。

 日本では江戸時代までは、つまり明治維新という事件が起こるまでは、「怨親平等」という考え方が重視されていました。怨親平等について、著者は「これは仏教の教理の中にあるものです。その象徴として取り上げられるのは鎌倉にあります円覚寺です。円覚寺は蒙古襲来の戦死者を敵味方の区別なく、すなわちわが祖国を守って戦死した鎌倉武士のみならず、侵略軍であった蒙古軍の人たち、といってもモンゴル人は極少数で、ほとんどが中国人、韓国人だったわけですが、そうした中国や韓国から日本列島に攻め込んできて日本で戦死した人たち、あるいは船が沈没して溺死してしまった人たちも一緒にお祀りして供養する、菩提を弔うために創建された寺院です。そして、これが、これこそが日本古来の文化なのです。その意味では死んだら水に流すわけです。侵略軍だった蒙古軍の人たちもかわいそうに亡くなってしまったんだから一緒にお祀りして供養しましょう。怨みは水に流しましょうというわけです。その意味では大原氏の言うことは正しいのかもしれません。しかし、靖国神社は怨親平等ではありません。その点で、靖国神社が日本古来の文化に根ざしているとは言えないのです」と述べます。

 死者を神として祀る慣習はもともと「御霊信仰」と呼ばれるもので、早良親王とか管原道真のように怨みを呑んで亡くなった人の霊、祟り神を鎮めるために神として祀りました。著者は、「やがて祟り神ではなく英雄、優れた人を神として祀るようになります。代表例が豊臣秀吉の豊国大明神や徳川家康の東照大権現です。この人たちは徳を讃えられて神になる。怨霊ではない。そして明治維新のときには歴史上の忠臣たちも神格化します。過去にさかのぼって天皇のために尽くした忠臣たちも神になっていきます。代表が湊川神社の楠木正成です。藤田東湖の『文天祥の正気の歌に和す』の詩の中にもこの正成の桜井駅での別れの故事が引かれておりましたが、正成は明治政府にとって讃えるべき武士、天皇のために忠義を尽くした武将です。そこで湊川神社を大々的に造りました。楠木正成は靖国の英霊と同質です。そもそも藤田東湖が『楠木正成は英霊だ』と言ったわけですから、靖国神社に祀られる英霊の原型になった人です。天皇陛下のために戦って命を落とした軍人です」と述べます。

 「国賊の誕生」では、忠臣と逆臣を区別するという考え方は「怨親平等」の精神と相反し、「怨親差別」であるといいます。『夢中問答』を書いた夢窓疎石はこの言葉を使い、怨親を差別することなく、つまり敵味方を平等に扱うべきだとして、安国寺の建立を進めました。これに対して、平等に反する「怨親差別」の考え方が強くなって来るのが江戸時代のなかばぐらいからでした。著者は、「『過去を水に流す』ことを勧めて安国寺でどちらも供養しようと言ったわけですが、江戸時代に朱子学の影響でこれとは相反する考え方が主流になってしまいます。そして、明治維新後にそれを制度化したのが靖国神社なのです。つまり、これは『古事記』や『日本書紀』にはまったく見られない発想です。思想資源は朱子学です。もちろん国学も忘れることはできないわけですが、私は、国学も朱子学の影響を受けて誕生したものだと思っておりますので、その意味では間接的にそちらルートでも朱子学を起源とすると言えるわけです」と述べています。

 記紀、特に『日本書紀』はそもそも中国儒教思想の影響下に編纂されたとして、著者は「自分たちの歴史を漢文で書こうなどというのは日本にもともとない発想です。それから律令を日本は導入いたしますが、律令というのも『礼』に基づいて中国で作られるようになったものです。ですので、律令を支える思想も儒教に由来しています。平安時代に編纂された『延喜式』は、律令の運用法規として定められたものですが、その中に、朝廷が認めた全国の神社リストがあります。『延喜式』に載っているので、式内社と呼ばれているものです。これは神社を序列化し、国家が公認するという考え方によっているわけですが、この発想も中国の儒教の影響と考えられます。ですから、神道というのは制度的にはそもそも儒教思想が入っているということになります。また、神道の教義には道教の要素も見られます。要するに、中国思想の影響下に形成されたもので、決して日本古来の慣習がそのまま発展したものではありません」と述べます。

 江戸時代までは神道は仏教と厳密な区別がなされてこなかった、いわゆる神仏習合でした。明治政府は神仏分離を行いました。つまり、儒教による仏教打倒政策の一環とでもいえるのが靖国神社だということになります。著者は、「自分の命を犠牲にして勤王することに酬いるべく、『礼記』のいう『死をもって事に動むればすなわちこれを祀る』のです。ですから、王である天皇は彼らを英霊として祀らねばならないのであります。靖国神社の教義が朱子学に由来すると、私が考えるのはそのためです」と述べるのでした。

 2「朱子学、日本へ伝わる」の「朱子学の土着化と王権理論の変質」では、日本の朱子学展開史を中国や韓国と比較した場合の最大の特徴は、初期段階においてそれが禅僧を担い手としていたことであると指摘されます。それは、日本の体制宗教がこの時代においても(後の江戸時代においてさえも)仏教であり、また、政治体制が武家政権の下での世襲封建制であって科挙官僚制を採用しなかったこと等に由来しているとして、著者は「17世紀を迎え、江戸時代にはいると、この様相は一変する。徳川家康が政治顧問として林羅山を招聘したことは、かつて言われていたように朱子の体制イデオロギー化というわけではないにせよ、画期的であった。羅山は慣例に遵い僧形の道春という名で将軍家に出任していたけれども、彼自身はこの段階でもはや仏教を信奉しておらず、中身は儒者、しかも博士家の連中とは異なり、純然たる朱子学者だったからである。彼は妻帯もし、世襲で子孫にその地位を継がせている」と述べています。

 地方の大名の中には、より積極的に朱子学を受け入れ、仏教に代わる教学として位置づけようとする動きもありました。著名な事例でいえば、土佐の山内家で執政をしていた野中兼山は母の葬儀と墓制を朱熹の『家礼』に遵って実施しました。著者は、「17世紀末になると、好学大名と総称される保科正之・池田光政・徳川光圀・前田綱紀らが現れ、神儒一致を唱えて朱子学式の葬送儀礼の実践を企てた。大名レベルではないものの、他にもこのころ『家礼』を実践しようとした人たちがいた。こうした土壌の中から、将軍や大名たちと関わりながら、山崎闇斎・新井白石・室鳩巣のような朱子学者たちが登場する」と説明しています。

 闇斎は神儒一致論(垂加神道)でしたので、その墓はふつう神式とされていますが、発想は儒教なかんずく朱子学に基づいていました。鳩巣にいたっては、特に許しを得て、儒式の墓所を江戸郊外に与えられました(大塚先儒墓所)。朱子学が五山文化の1つの要素としてのみ存在していた16世紀以前とは異なる局面の始まりであるとして、著者は「江戸時代を通じて、朱子学はついに国民的レベルでの体制教学にはならなかった。人は死ねば菩提寺に葬られる。いかに朱熹の『四書集註』が広く読まれようと、この点に関しては如何ともしがたい。朱熹の教説は四書の注解として道徳的訓戒の役割にとどまり、その世界観、特に人の生死に関する仏教批判は江戸時代の日本で一般的な習俗の基盤とはならなかった」と述べています。

 18世紀末、蒲生君平という人物が歴代天皇の墓を考証する『山陵志』を著しました。著者は、「すでに一千年来、王家の菩提は仏教が弔うことになっており、このころにはかの俊芿を中興の祖とする泉涌寺が菩提寺的役割を担っていた。ところが、蒲生のこの著作などが契機となって、それまで放置されていた古代の王墓への関心が高まる。そして、ついには『天皇』号の復活とともに、旧い伝統の復興と称して神道式の葬儀や陵墓が営まれるようになる。それは神仏習合と仏法王法相依に拠ってたっていた王権理論に変質を迫り、明治維新という「近代」に接合する動きであったが、その淵源は仏教とは異なる王権理論を再構築しようとする17世紀における朱子学自立運動にあった。近代天皇制の成立は、五山文化の一要素として受容された朱子学の展開史としても捉えられる」と述べるのでした。

 「日本の朱子学・陽明学受容」の「漢唐訓詁学」では、著者は以下のように述べています。
「儒教は、漢(紀元前202~紀元後220)の時代に教学として大成しました。そう申し上げると、『儒教は孔子に始まるのではないか』と思われる方が多いと思います。もちろん、孔子は儒教の開祖とされるわけですが、私の言葉遣いとして、孔子のころはまだ儒家でありまして、儒教という名にふさわしい形に整備されるのは漢代になってからと考えております。史料上も『儒教』という言葉が出て来るのはもっと後で、漢代でもまだ出て来ません。西暦5世紀ぐらいになってから『儒教』という言葉が出てまいります。道教、仏教がそのころ成立していて、そういう名称で呼ばれるようになったのと並べて『儒の教え』、すなわち『儒教』という用語が生まれます。その儒教は漢代に大成しましたが、その中身は孔子が編纂したとされる経書です。歴史的事実としてはそうではありませんが、儒教の中では孔子が編纂したことになっています。彼らは経書の解釈を通じて理想の国家像を提起し、漢の時代には、実際の国政を左右する力をもつようになっていました」

 「江戸時代における朱子学の自立と陽明学」では、日本で儒者として朱子学を自立させた第一世代・第二世代の特色として、藤原惺窩や中江藤樹は、朱王折衷、つまり朱子学と陽明学の両方混ざったような所説を述べていると評価されていることを紹介し、著者は「これも意図的に混ぜ合わせたというよりは、そういう形で日本では理解されていたのです。中江藤樹が陽明学と出会ったのもそういう流れです。一方、林羅山は朱子学一尊を説いていましたけれども、その姿は僧侶でありました。こういう状況の中で、朱子学者という立場を純粋に守ろうとしたのが山崎闇斎です。彼やその弟子たちは、『朱子家礼』という本の実践に努め、日本古来の神道を結びつけて、儒式であると同時に神道式でもあるようなお墓を造るようになります。この『朱子家礼』という本は、異説もあるのですが、朱熹が編纂したと考えられます。朱熹が編纂した家の中での礼法、家の中での礼というのは、具体的には『朱子家礼』に書かれているのは冠婚葬祭です。中でも日本で重きを持ったのは葬と祭、つまり、葬式と祖先祭祀です」と述べます。

 そもそも日本には古来から仏教式ではない葬儀、仏教式ではないお墓がありました。これは律令の中で定められているやり方等に従ったものであると指摘し、著者は「そもそも律令というのは儒教の礼儀を法文化したものでして、漢唐訓詁学の影響を受けています。つまり、一言で言えば儒教式だったわけです。日本古代の制度で仏教式のものもありますが、一方で儒教式のものもあったわけですから、江戸時代における神道と儒教は一致するという主張は、実はもともと源流を同じくする二つの流派が、あらためて互いに似ているということを言っていたに過ぎないのではないでしょうか。元をたどれば同じだからです。山崎闇斎たちが『神道式だ』と言っている日本古代の神道式というものは、もともと中国の儒教の影響を受けてつくられたもので、そこに朱子学の『朱子家礼』を学んで新しく儒教式という看板が持ち込まれたときに、『日本古来の神道式のものと似ている』と主張されたわけですが、似ているのは当たり前なのです。羅山や闇斎らが神儒一致を強調したのは、その当時において日本においての主流勢力は仏教だったからです。仏教への対抗意識から、いわば2、3位連合、2位と3位で一緒になって対抗しようということだったのではないかと思います」と述べています。

  さらに、著者は荻生徂徠(1666~1728)という巨人を取り上げ、以下のように述べています。
「独学で身を起こした人で、彼も学んでいたのは朱子学です。そして、朱子学の知識によって綱吉の側近の柳沢吉保に召し抱えられます。彼は、晩年、朱子学を方法的に批判し、江戸儒学の一大流派と言われる古文辞学を樹立します。このようにして江戸時代の中期ともなると、朱子学は禅寺から独立し、それぞれの門流、つまり、林家はのちに正学と呼ばれる朱子学、順庵の系統は彼ら自身の系統、伊藤仁斎は仁斎学、荻生徂徠は徂徠学、中江藤樹は藤樹学というように、それぞれの門流ごとに世代間継承がはっきりすることになります。19世紀ともなりますと、もともとは中国の朱子学で使っていた尊王攘夷などという物騒な言葉が、日本でも朱子学を勉強する人たちの間に広く浸透します。吉田松陰が唱えた『草莽崛起』ということばを借りれば、まさに草莽にまで尊王攘夷という語が定着しました。尊王攘夷を主張して、幕府の大老や老中の暗殺を企てたり、西洋人を殺傷したりする物騒な連中が登場し、幕府を倒して明治維新を成就することになるわけです」

 「五山文化新研究への導論」の「『鎌倉新仏教』と五山」では、栄西の名で臨済宗全体を代表させる語り口が学校教育の現場で浸透していくのは、「鎌倉新仏数」という観念が成立したことによるところが大きいだろうとして、著者は「周知のように、平安仏教と異質な新しい仏教の宗派として、通常次の六つが『鎌倉新仏教』としてもてはやされてきた。そして、そのそれぞれに一人ずつの開祖を割り当てる形が採られた。すなわち、浄土系新興宗派として、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗の三つ、天台教学の脱密教化運動として生まれた日蓮の法華宗(現在の呼称では日蓮宗)、そして、新来の禅仏教として栄西の臨済宗と道元の曹洞宗とである。そもそも、この「鎌倉新仏教」なる概念自体、西欧における16世紀の宗教改革になぞらえて、鎌倉時代を仏教革新時代ととらえる一つの仮説にすぎなかった。そのため、そこではキリスト教におけるプロテスタンティズムとの比較により、『個人の魂の救済』とか『政治権力との距離』とかいったところに高い価値を賦与し、それによって、政治的・社会的に旧体制を支えていた平安仏教との差異化が図られた」と述べます。

 浄土系では三宗派のうち特に浄土真宗を重視することとなり、また、『歎異抄』の公開出版や、1917年(大正6)刊行の倉田百三『出家とその弟子』の影響力もあって、近代社会でも意味を持ちうる教説として、親鸞が再評価されるようになりました。天台宗の改革派であった日蓮についても、幕府から弾圧された経験が反権力的でよろしいと、プラス価値で評価されるようになりました。禅系統においては、幕府権力と距離を保ち、「只管打坐」を説いた曹洞宗の道元の教えが注目されました。その象徴が、和辻哲郎の「沙門道元」です。この論考は、1926年(大正15)に刊行された『日本精神史研究』に収録されることで一躍有名になりました。臨済宗では林下の大徳寺で活躍した反骨の僧侶一休が、江戸時代以来の庶民的人気もあって高く評価されることになります。

 3「東アジアのなかの日本」の「日本古代史の見直し――東アジアの視点から」の「日本の源流、ヤマト」では、「天皇」という称号が使われはじめたのは、天武天皇(在位673~686)と持統天皇(天武天皇の皇后で、後に即位。在位686~697)の時代であると説明されます。それまでヤマト政権の王は「大王」と呼ばれていましたが、このころから「天皇」という称号が使われるようになったと考えられているといいます。また「日本」という国号は、702年に派遣された遣唐使使節団が中国にはっきり宣言しており、中国の歴史書『旧唐書』に「このたび国号を日本と改めた」と、記載されています。

 年号については、大化の改新(645年)で知られる「大化」が最も古い年号とされていますが、実際には、「大宝」(701年が元年)が最初という説もあるとして、著者は「『大化』から『大宝』の間は年号のなかった期間もありましたし、『大化』は後代の人間がつけたのではないかというのです。私もそうだろうと考えています。現在に至るまで絶えることなく年号が続いているのは『大宝』からです。また、大宝律令も大宝元年に完成しています。したがって、7世紀の終わりから8世紀初めまでには、『天皇』『日本』といった呼称と、年号、それに律令とがそろったと考えられるわけです。この四つのことは、ヤマト政権が当時の東アジアの国際基準で一人前の国家になったことを意味します」と述べています。

 また、教科書が書き換えられた例として、著者は聖徳太子を取り上げます。「聖徳太子」とせずに、「厩戸王(聖徳太子)」と表記するものが出てきましたが、著者は「どういうことかというと、『聖徳太子』は彼が亡くなった後に贈られた称号で、彼個人の名前は『厩戸』であると。したがって、『厩戸王』という、より正確な表記を、という判断ですね。『聖徳太子』という一人の人物の功績として語られてきた事業も、彼一人によるわけではないので、この時のヤマト政権全体の事業として記載されています。遣隋使の派遣、憲法十七条と冠位十二階の制定などです。さらに、聖徳太子が『三経義疏』(仏教経典の注釈書)を著したとされていたことも、実際には別の人たち、ことによるとこれらは中国伝来の書物かもしれないともいわれています。とはいえ、聖徳太子は日本に仏教を広めた偉大な人として信仰の対象となっている存在です。信仰は信仰として、史実とは別の次元で仏教信者さんたちの間では大事にされていいのではないでしょうか」と述べています。

 「日本と中国」の冒頭を、著者こう書きだしています。
「西暦1世紀に後漢の光武帝からもらったとされる『漢委奴国王』の金印、3世紀の邪馬台国女王・卑弥呼と魏との外交、5世紀のいわゆる倭の五王による中国の南朝への遣使、そして7世紀初頭の遣隋使。これら古い時代については、いまもその具体相はよくわからないことが多い。遣唐使時代になると、両国の文献に見える記録も増えてくる。ただ、彼我の記述を比べると、日本では国内向けに対等外交を標榜していたが、現地中国では朝貢使節団として扱われていたことがわかる」

 「日宋貿易の規模は遣唐使を上回る」では、1368年に明朝が成立すると、儒教原理主義的な国際秩序観に基づき、日本に対しても「貿易したいなら朝貢せよ」と要求してきたことが紹介されます。著者は、「当時、日本は南北朝時代。最初は南朝方の懐良親王が、つづいて北朝方の足利義満が、明に朝貢して『日本国王』の称号を許された。これは後世とやかく言われる『国辱行為』ではなく、新しい国際秩序に対処した政治判断による『開国』とみなすべきである。以後、中断することもあったが、16世紀なかばまで、室町幕府(のちには中国地方の大名・大内氏)と明との間には、朝貢使節団の派遣という形式をとる勘合貿易(政治的には「遺明使」)が行われ、見方によっては遣唐使以上に大きな役割を果たした」と説明しています。

 「東北アジアという交流圏――王権論の視角から」の「儒教的王権論による歴史認識」では、中国で発明された漢字が、東北アジアの文化交流圏に広まり、それぞれの国家の歴史を記録する手段となったとして、著者は「朝鮮半島では新羅による統一後、高句麗・百済と鼎立した三国時代の歴史書がいくつも編まれたが散逸し、現存する最古のまとまった歴史書は『三国史記』(1145年完成)である。日本では、『帝紀』『旧辞』と呼ばれる記録(文字で書かれていたなら当然漢字表記)を基に、8世紀はじめに編纂された二つの歴史書が現存している。いわゆる記紀である。このうち『古事記』(712年完成)は、稗田阿礼が暗記していた内容を太安万侶が漢字を用いて表現したとされている。ところが、この書物には中国が登場しない。朝鮮半島の国々が出てくるにすぎない。そもそも、推古天皇以降は具体的な記事内容がなくなる。一方、『日本書紀』(720年完成)には、推古天皇の時の遣隋使派遣のことがきちんと記載されている。しかし、本章冒頭で紹介した、それより600年前の倭国朝献のことは載っていない」と述べています。

 それだけではありません。3世紀の卑弥呼も5世紀の倭の五王も、記紀には現れません。著者は、「現在でも彼らの対中外交を中国側の文献史料に基づいて研究しているのは、そうした事情による。ただ、倭の五王を記紀記載の天皇と同定する研究は古くからあり、倭王武が雄略天皇だというのは、考古学的な証拠もあっていまでは定説となっている。実は、卑弥呼については『日本書紀』編纂者たち自身が、ある人物のことであると考え、記録上の操作を行っていた。神功皇后である。神功皇后は応神天皇の母で、彼を妊娠中に夫の仲哀天皇が崩御したため、70年間(!)にわたって政務を取り仕切っていた。『日本書紀』がこう記録した一つの理由は、彼女の活躍時期を『三国志』に載る卑弥呼およびその後継者の壱与が魏に遣使した年代に合わせるためだった。そして、神功皇后を新羅征討の主役として描き、海外との交流を切り拓いた人物に造形したのである」と述べます。

 「中華の歴史認識――春秋学を中心に」の「中華の歴史的形成」では、中華の類義語に中夏・華夏・中国などがあることが紹介されます。現存する古典籍の中で最初に登場するのは「中国」で、『詩経』生民篇や『書経』梓材篇といった経書にも見えます。著者は、「これらの中で唐代には中国という語が最も一般的で、同義であることを示す場合の述語として他の語を説明するための語として使われていたということである。『中華』の場合にも、唐初に編纂された律におけるこの語について、『唐律疏義』に『中華とは中国である』という。ここでも説明対象(中華)に対する説明用語として「中国」が用いられている。『唐律疏義』はさらに続けて、『親しく王の化を被って自ら中国に属し、衣冠や威儀のありさまが整い、孝や悌が習俗として根づき、礼や義が個々人に浸透している状態をもって、中華という』と解説している。すなわち、領域的に『中国』の中にあり、かつ儒教が重んじる倫理道徳が実現している社会を『中華』と称するというのだ」と述べます。すなわち、「中華」とは礼治社会=ハートフル・ソサエティのことだったのです! 

礼を求めて』(三五館)

 続けて、著者は「日本では、高校で教えられる日本古代史の事情等によって、唐という王朝国家が律令体制であったと見なす傾向がある。しかし、厳密にいえば、律令よりも重要なのは礼であった。すなわち、律や令という法典には、それらの背景をなす理念として、当時の儒教が構想していた礼による統治という考え方が存在しており、律の刑罰体系もこれに即して定められていたのである。律における『華』語は、前掲の疏義が礼という語を用いて説明しているように、単に領土の範囲を示す空間的・量的な概念ではなく、そこに暮らす人々の生活規範のありようを含意する、価値的・質的な語彙なのであった」とも述べています。このように、中華とはどこまでも「礼」を求める社会のことだったのです!

 「あとがき」で、著者は「儒教というものは、日本国内で広く知られているようでいながら、偏った見方・誤解が蔓延している。教科書レベルの『孔子・孟子が説いた教え』とする理解は、まちがいとは言いきれないのでまだよい。しかし、『中国・韓国の哀れな現状を見れば明らかなように、近代社会にそぐわない封建的な思想』という、明治の福沢諭吉が唱え、昭和の司馬遼太郎らが継承した説は、事実誤認も甚だしい。近年もさる米国人がこれと同類の本を出版して大変な人気となったのは、嘆かわしいとともに、私たち儒教研究者の非力を思い知らされるできごとだった。これではいけない……。それが本書出版を思い立った動機である」と書いています。

 2018年は「明治維新150年」の年でした。しかし著者は、2018年は618年の唐建国から1400周年、1268年の明建国から650周年でもあるとして、「中国の歴代王朝のなかでも唐と明の二つが正規の外交関係(朝貢)によって日本と深く関わり、文化的に大きな影響を与えたことは本書で述べたとおり。明治の脱亜入欧はそれまでの中国との長い交際の性格を変えるものだったが、それが容易に可能になったのは日本が唐や明から受容した儒教の考え方のおかげだった。遣唐使時代の留学生や遭明使時代の禅僧たちは、仏教や儒教を伝えることで日本の伝統文化を作り上げてきた。中国だけではなく、韓国からも文化の伝来があった。このことをきちんと認識していない人たちが唱える嫌中論・嫌韓論は、ことわざにいう『天に向かって唾を吐く』ものである。本書の内容は専門家の間では基礎知識のレベルにすぎないが、広く社会で認知されることを希望する」と述べるのでした。本書は「日本人にとって儒教とは何か」を知る上でまことに参考になる名著でした。何よりもスリリングで面白かったです。

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