お探しの書名・著者名・キーワード等を入力して下さい

Title

論語入門』

Category

No.2054


 『論語入門』加地伸行著(幻冬舎)を読みました。6月16日に刊行されたばかりの新刊で、「心の安らぎに」というサブタイトルがついています。著者は1936年生まれ、京都大学文学部卒業。高野山大学・名古屋大学・大阪大学・同志社大学・立命館大学を歴任。現在、大阪大学名誉教授。文学博士。中国哲学史・中国古典学専攻。著書(編著などを除く)に「加地伸行(研究)著作集」三巻として『中国論理学史研究』『日本思想史研究』『孝研究』ならびに『中国学の散歩道』(研文出版)、『儒教とは何か』『現代中国学』『「論語」再説』『「史記」再説』『大人のための儒教塾』(中央公論新社)、『沈黙の宗教――儒教』『中国人の論理学』(筑摩書房)、『論語 全訳注』『孝経 全訳注』『論語のこころ』『漢文法基礎』(講談社)、『論語』『孔子』『中国古典の言葉』(角川書店)、『家族の思想』『〈教養〉は死んだか』(PHP研究所)などがあります。わたしは、7月7日に大阪で著者と対談させていただきます。

20210623164254.jpg

本書の帯

  

 本書の帯には、「リーダーとは何か?」「死といかに向き合うか?」「人生を学びなおす――第一人者が説く孔子の英知」「理不尽の世をどう生きるか?」「小人⇒知だけの人」「君子⇒知と徳の人」と書かれています。

20210623164312.jpg
本書の帯の裏

  

 帯の裏には、「人間には、己れの幸福だけを考える人と他者の幸福を考える人という二種類がいる。そして、他者の幸福を考える人の中にも二種類あって、知識だけを蓄えることに終わっている人と、知識に終わらないで、さらに徳を磨いている人がいる――孔子はそれを小人と君子に分けているのです」と書かれています。

  

 カバー前そでには、以下のように書かれています。

●世界で読まれ続ける二大古典

●解釈できた上での素読

●農民の孔子が大夫に

●人が自分を認めないとき

カバー後そでには、以下のように書かれています。

●「巧言令色」「朝令暮改」とは

●個人主義の欧米と家族主義のアジアと

●『論語』とiPS細胞との一致点

●鬼謀か鬼滅か――東北アジアの死生観

  

 本書の「目次」は、以下の構成になっています。

1  『論語』を深く読む

2  『論語』の急所

3  『論語』で見ると違ってくる世界

4  ことばに見えてくる歴史

附篇「鬼誅か鬼滅か
   ――東北アジアの死生観」

「あとがき」

  

 1「『論語』を深く読む」の「日本は知識偏重」では、「『知識の集積』はコンピューターが」として、学校では「たくさんのことを覚えること」に重きを置いていることを指摘し、著者は「一番多く覚えた人がもっとも優秀な人間とされます。しかし現代では、知識を蓄えてきた人間の仕事を、代わりにしてくれるものが発明されました。それはコンピューターです。コンピューターは、膨大な量の知識を際限なく溜めることができます。今はインターネットが百科事典の代わりをしているのですから、そうなると『覚える』だけの知識で良いのか、ということになってきます」と述べています。

  

 もちろん知識があることはとても大切なことですが、それだけではなく、知った上で、「自分に何ができるのかと考えて行動すること」、それが今この時代に突きつけられているとして、著者は「『知識を集積する』という勉強の仕方は、コンピューターが代わりをしてくれるため、今の時代には合わないのです。コンピューターがより発展していくと、肉体労働や介護など、今、人間が働いている職業の多くはロボットに奪われる、という推測があります。それは、ある程度当たっていると思います。そういう意味でも、『学ぶ』ということの本質は何なのか、人として自分に何ができるのかと問うことが、今の時代にこそ求められているのです」と述べます。

  

 「知識そして道徳の実行」では、知るという「知識」と実行するという「道徳」と、この二つは両方とも「学ぶ」ということばの中に入るということであると示されます。知識として溜めるだけではなく、自分が実行してこその「学」です。これが「学」ということの本当の意味なのです。この「知識」と「道徳」と、この両方を学ぶということが大切だと説いたのが孔子という人物です。孔子は、一般の人のことを「民」と言いました。そして、民はそういうことを学ぶ必要はないのだと説きました。

  

 なぜ、民は学ぶ必要がないのでしょうか。著者は、「孔子が生きていた時代の『民』とは、商業や工業などに従事する人は少なく、ほとんど全員が農民です。農民は、一生懸命働き、自分たち一族の畑が豊作で、家族・一族が平和に暮らすという日常を送り、自分や自分たちの幸せだけを考えれば、それで楽しく満足して生きていけたのです。現代の様子とはまったく別の形でした。しかし世の中には、自分の幸せだけではなく、他者の幸せのために働きたいという人が存在します」と述べています。

  

 他者の幸せのために働きたいという人たちが選んだ道は、その当時としては、為政者(政治家や官僚)になることでした。為政者は、自分の家族や一族を越えて、一般の人々の幸せを実現することが任務だったからです。それだけに、この為政者になるには、知識だけでなく道,徳も備えなければならないと、孔子は強く訴えていたとして、著者は「すなわち、知識も道徳も備えた為政者になるために勉強しなさい、という願いで今日まで残されてきたものが『論語』です。『論語』は、『人のために何かをしよう』と志を持っている人間が読むべきものなのです」と述べます。

  

 「古典を読む」として、著者は、孔子が教えた課目の一つである「礼楽」を取り上げます。礼楽を学ぶときには、文章の書きかたも必要です。それは古典を読んで学びました。著者は、「当時の重要な古典に、『詩』(詩経)とか『書』(書経)とかという本があって、それと礼楽とをセットにして学んだのです。楽は、儀式のときに演奏され、その楽に合わせて礼式に基づく動作をし、身体を進退させていました。ですから『詩書礼楽』という熟語となっていました」と述べます。

  

 大きな会合では、その儀式のとき人々はどんな順序で並ぶのかとか、席の座りかたとか歩きかた、あるいは応答のことばなどなど、重要なこと(礼)がたくさんあります。著者は、「特に、儀式においてはことばづかいが必須でしたから、書きかたを学ぶことはとても重要でした。それもただ書けばいいのではなく、書く文章の中に『詩』とか『書』とかなどの古典のことばをできるだけ多く踏んで書きます」と述べるのでした。

   

 「世界で読まれ続ける二大古典」では、「知恵としての古典」として、著者は「古典と言いますと、なんだか古臭いもの、自分からは遠いところに在るもののように感じる人もいるでしょうが、実は現代にこそ必要なものなのです」と述べています。また、「世界の二大古典」として、「残ってきた多くの古典の中で、これからも世界で読み継がれていくであろうと私が思うものは2つあります。1つは、中国、朝鮮半島、日本、ベトナムの北部、台湾も含めた東北アジアの地域にある1冊、もう1つは、欧米にある1冊です」と述べます。

  

 東北アジアにおける1冊は『論語』であり、欧米地域における1冊は、言うまでもなく『新約聖書』であるとして、著者は「やはり、この二冊はこれからも、古典としての生命を保っていくことでしょう。イスラム教における『コーラン』もありますが、欧米地域という意味では『新約聖書』が残ると考えています。私の個人的な意見としては、『論語』と『新約聖書』との2冊を挙げたいと思います」と述べるのでした。

  

 「孔子の一生とは」では、「不遇の人・孔子」として、著者は「今は認められなくとも、いつか自分を認めてくれる人がもし現れたとき、そのときにすぐ活躍できるように、常に自分で自分を鍛えて、準備をしていなければなりません。孔子は、『人は来なくても、いつか声がかかったときのために、自分は勉強して準備しているのだ』と言っているのです。これが、この『学びて時に之を習う』という文章の背景にある思いなのです」と述べています。孔子が指導者として活躍したのは3年ほどと短い間でした。しかし、たとい3年であっても、古代の当時の制度から見て、農民という一般的な身分から、為政者という高い地位に就けたのはなぜか。

  

 その理由は孔子の母親の存在にありました。著者は、「孔子の母親は、人々の生活におけるさまざまな儀式を執り行う役目を担う〈儒〉という宗教集団の一員でした。例えば、階段を上る場合には、上りかたや足の運びに決まりがありました。お供えをする場合にも、どういうときに杯をどこへ置くのかなど詳しい決まりがあります。そうすると、そういった儀式の決まりを記録しておかなければなりません。記録は当然、文字――中国では漢字で書きます。すなわち、儒という集団は文字を知っていたのです。当時、それは強力な武器でした。為政者になるための条件の一つは、文字を知っているということでした。母親が儒だったことから、孔子は、幼いときから、文字を覚えていったようです。また、〈儒〉が担当する礼儀作法もしぜんと覚えたようです。孔子の武器は文字を知っていたことと、礼儀の基本を身につけていたことだったのです」と述べています。このあたりは、一条真也の読書館『孔子伝』で紹介した白川静の名著に詳しく書かれています。

 

 2「『論語』の急所」の「学びて時に之を習う。」では、「『つねに』と読む」として、「学びて時に之を習う。亦説ばしからずや」ということばには、「学」「時」「習」と、重要な文字が3つあると指摘し、著者は「中でも最も重要なのは『時』です。これを中心とすると、孔子が何を言いたかったのかがよくわかります。孔子は、勉強することは当たり前であると考えていました。弟子たちに対しても、そういう考えかたで接していたことでしょう。ですから、孔子が最も言いたかったことは『時(つね)に」です』と述べています。

  

 また、「手がしぜんと動く」として、〈書く〉ということにも同じことが言えると指摘します。著者は、「書くという行為には、作文を書く、日記を書く、手紙を書くなどいろいろあります。これも毎日書いていないと、書けなくなってしまいます。不思議なことに、どんなに簡単な文章でも、書いてさえおればそれが習慣となって、上手に書けるようになります。しかし、書かないでいると、簡単な文章さえ書けなくなってしまいます。ですから、何でもいいからまずは書くことです。他人の悪口でもいいので、書くことを習慣にすることが大切です。書けなくなったが最後、書かねばならない場面に出会ったとき、書こうと思っても書けなくなってしまっています」と述べています。これはブログを毎日書き、読んだ本の書評や観た映画のレビューなどを毎日のように書いているわたしには、深く共感できる言葉でした。

  

 「知識より動作で覚える」では、「『礼』をまず学ぶ」として、孔子が学生たちを相手に霊について教えたことが紹介されます。著者は、「この『礼』というのは実際の動作です。孔子は、学生に対して『礼』をしっかりと身につけさせました。なぜならば、孔子の塾(学校)は、若い学生たちの就職のための学校だったからです。孔子の晩年のころには、全国から学生が集ってきました。卒業のときに、孔子が推薦状を書き、卒業生は、この推薦状を持って各国の官僚(実は同時に政治家)になりました」と述べています。

  

 ですから、学生たちは入塾して一生懸命に勉強をするために、遠くからでも訪れてきたのです。その勉強の中でも、文字を覚えること、古典を学ぶこと、そして「礼」を身につけることがとても大切でした。著者は、「中国社会は、『礼』の世界です。古代の共同体の中で共に暮らすためには、同じような習慣を持たなければなりません。その習慣化したものが『礼』でした。したがって、『礼』をきちんと学んでいないと社会に通用せず恥をかくことになったのです」と述べます。

  

 「礼」を学ぶにあたって、まず教えられる動作はお辞儀です。著者は、「私に言わせれば、現代の若者のお辞儀の仕方では、古代中国の官僚試験には受かりません。ほとんどの人が首を曲げてお辞儀をしているからです。これは間違いです。首を曲げてのお辞儀は、死んだときの姿勢です。テレビドラマを観ればわかると思いますが、死んだという演出はどれも首をがくっと曲げています。ですから、相手に向かって、首を曲げるということは、『死んでお詫びをします』という詫びる場合の姿勢を示しています」と述べています。

  

 また、「『拱手』の礼」として、著者は「お辞儀の仕方にはいろいろあって、相手が偉い人の場合、頭を深く下げます。しかし、首筋を伸ばして上半身を倒してゆくと、バランスを崩して前へ倒れそうになります。それを防ぐために、両手を組んで前に伸ばす『礼』が生まれました。組んだ両手が、前倒しのときのブレーキの役割を果たしているわけです。この動作を『拱手』といいます。倒せば倒すほど、敬意を表すことになり、それを『最敬礼』といいます。相手が偉ければ偉いほど、『拱手』が必要です。中国のドラマを観ていると、この姿勢がよく出てきます。そのお辞儀の仕方の意球は敬意の表現にあります」と述べます。

  

 拱手では両手を重ねますが、男性は右手を上、女性は左手を上にしてさらに左横のほうが脇腹に少し引くのが正式の動作です。その背景には、女性はそれほど長く、頭を下げる場面がなかったことがあるのでしょう。男性は「拱手」をすれば、きちんとした挨拶ということになったのです。著者は、「このように『礼』は、共同で生活するときのためにできたものです。それを決まった形式として表して、お互いそうすると決めておけば、その意味をお互いに理解することができるからです。また、相手と喧嘩していないということを表現するとき、姿勢できちんとした『礼』を示すことができればよかったのでした。日本では、例えばデパートの女性店員が、似たような挨拶をしています。拱手ですと、両手を前に突きだすことになりますので、控えて、両手で自分のおなかを押さえる形にしています。日本風に調整した形と言えそうです」と述べるのでした。

  

 「礼を守る」では、「歩き方の作法」として、儀式の場合の歩き方が示されています。著者は、「例えば、相手に向かって歩いていくときです。向こうに誰かがいて、その人に向かって歩いて行かなければなりません。そのとき、大股で歩いたならば、相手はどういう気持ちになるでしょうか。おそらく、ずかずかと歩いてくる姿を見て、無遠慮だなという印象を受けるでしょう。俺に対して敬意を払っていない失礼な奴だと思われてしまいます。また、儀式に参加するために集まってきた人々も、自分の前をすたすたと歩いていく人の姿を見て、その人をどう思うでしょうか。自分が軽んじられていると思うにちがいありません」と述べます。

  

 ですから、相手や周囲の人々、特に、相手が目上の人だった場合ならば、大股ではなくて、小股で歩かなければいけないとして、著者は「敬意を表す小股歩きは、足と足との間をあけないことです。左右の足を運ぶときに、間をあければあげるほど、大股になってしまい、敬意がないことになるからです」と述べ、さらには「正しい歩きかたは、小股で足と足との間をあけないことなのです。ただし、そういう歩きかたをしますと、ゆっくりとなりますから、時間がかかります。しかし、それで最高敬意を表すことになりますから、目上の人に対するときには、そのように歩きます。それが正式な歩きかたなのです」と述べます。

  

 「一族の中で『礼』を学ぶ」として、著者は「こうした儀礼的な『礼』が、なぜ長い間守られ続けてきたのでしょうか」と問いかけ、「それは、『礼』を守っていると、恥をかかないので楽だったからです。こういう風に歩けばよろしい、こうすればよろしいということを知っていれば、どんな場面に直面しましても、対応できるのです。長い生活の中で覚えてゆくものですから、一族の間で行われるいろいろな儀式に参列して、しぜんに覚えてできるようになります。『拱手』にしても、首を真っすぐにするというのも簡単なことです。それさえ守ればいいわけで、覚えてしまえば楽なものです」と述べています。

  

 日本の軍人が上官に向かって敬礼をするとき、首を絶対に曲げていません。軍で厳しく教えられたからでしょう。今日でも、警官や自衛官の礼には、それが生き続けています。著者は、「階段の昇り降りのときは、こうです。まず左足を挙げて1段上ります。次は、右足を挙げて、先に出した左足とそろえます。その次は、まず右足で上り、次に左足を挙げて右足にそろえます。これを『聚足』と言って、階段の昇り降りのときの作法となっています。ズカズカと片足ずつで昇降するのは不作法なのです。例えば、神社において、神主が本殿の階段を上下するとき、この作法をきちんと守っていますので、注意して見てください。因みに、神社関係はもちろん、仏教関係におきましても、その神官や僧侶の作法・礼式には、儒教の『礼』や作法の影響が非常に大きいと思います」と述べるのでした。

  

 「礼楽はリーダーの心得」では、「礼」という〈正しい行為〉を学ぶことは、学習の重要な柱であったことが示されます。そして、より正確に身につけるために、実際に動作をしながら学んでいったとして、著者は「さらに必要だったのが『楽(音楽)』でした。ずっと後には、音楽は娯楽となりましたが、古代ではそうではありませんでした。お祀りしている神々や先祖等に対する敬意や捧げものとしての音楽であり、また式典において一斉に『ここでは礼をします』『ここでは座ります』というときに、合図として音楽を演奏したのです。その演奏のことを『音楽』とは言わず、『礼楽』と言いました。これは、『礼』とともにある演奏であり、だから『礼楽』(礼と楽と)となり、現在の演芸や音楽会のときのような、楽しむための演奏ではなかったのです。また、楽は、礼のためだけではなく、多人数が一斉に行動する場合にも使われています」と述べています。

  

 「儀式により異なる礼楽」として、礼楽は大集団になればなるほど規則も多く複雑になっていくので、実際に学ばなければできるようにはならないと指摘し、著者は「孔子の門を叩いた人々が、これを熱心に学ぶのは、将来、孔子から推薦状をいただいて就職したあと、あらゆる分野で指揮官になるからです。その場合に礼・楽を知っていなければ全然相手にしてもらえません。それで一生懸命学習したのです。つまり、礼楽は、全体の指揮をとるときや、大きな儀式に参列するときに、心得ていなければならない必須の教養だったのです。お葬式、結婚式などなど、さまざまな儀式において、どういう礼楽を用いるかが違っていました。それも高級官僚の場合、中級の場合、庶民の場合と、皆礼の仕方が違っていましたから、そのすべてを心得ていなければならなかったのです」と述べます。

  

 「礼楽」というのは、今の音楽とはちょっと違って、礼を行うときに演奏をする「楽」ということで、セットになっています。著者は、「儀式の進行のとき、楽の演奏の中で礼を行って、そしてその順序の或る段階で祝詞のような、荘重なことばを述べるのです。そういうマナーとしての礼楽を学習したのです。娯楽としての礼楽ではありませんでした。古代の共同体社会に招いては、マナーを心得ていることは、非常に重要でした。ですから、幼いときから学びつつ、正式には孔子の学校のようなところへ行き、読書などとともに本格的に学んだのです」と説明するのでした。

  

 次に、「人 人知らずして慍らず。」が取り上げられます。「君子や小人とは」では、著者の『論語 増補版』(講談社学術文庫)の執筆時のエピソードが披露されます。『論語』の訳文はほとんどできていたそうですが、「君子・小人」だけが訳せなかったといいます。著者は、「この訳語を探すために10年かかりました。そしてあるときに、ついに適訳ができたのです。孔子は、知性だけの人を『小人』、そして、知性と徳性とを兼ね備えた人を『君子』と呼んでいると考えるに至ったのです。そこで、訳語として、『小人』は知識だけだから『知識人』、『君子』は知識と道徳とを身につけた人だから『教養人』ということばを当てはめました。現代中国語の『教養人』の語感がそれだったのです。日本人は教養と聞くと、知識の多い人と思うでしょうが、それは間違いです」と述べます。

  

 『論語』の人物観を著者の言葉で言い表すならば、「人間には、己れの幸福だけを考える人と他者の幸福を考える人という2種類がいる。そして、他者の幸福を考える人の中にも2種類あって、知識だけを蓄えることに終わっている人と、知識に終わらないで、さらに徳を磨いている人がある」ということです。孔子はそれを小人と君子とに分けているのです。さらに著者は、「知識人(小人)と知識・人格との両者に勝れている教養人(君子)との分別をする。これは、『論語』全体の大筋です。もちろん大事なことは他にもたくさんありますが、まずこのことを理解しなければ、『論語』の世界の全体は見えてこないでしょう」と述べています。

  

 「人間的魅力のある人」では、「二種類の人間」として、『論語』の中で説かれている中心は人間というものに対する見方であることが示されます。孔子は、人間には大きく分けて2種類あると言っています。著者は、「人間を2種類に分ける見方は、いつの時代にもあります。例えば、マルクスは人を搾取する側と、搾取される側とに分けました。古ぼけた分類ですが。孔子は、自分の幸せだけを考える人と、ときには自分の幸せを犠牲にしてでも他者の幸せを考える人、この2種類の人間がいると考えました。世の大半の人は、自分の幸せだけを考える人です。それが普通です。それはそれでいいのです。なぜなら、生命を保ってゆくことは生物の本能であり、生まれつき利己的なのが生物の本性ですから」と述べています。

  

 ところが、ときには自分の幸せを振り捨てても、他の人の幸せを考えたいと思う、志のある人が確実に存在します。孔子は、人(他者)の幸せを考えようとする人を「士」と呼びました。著者は、「他人の幸福のために働くことができる職業は限られていました。ほとんどの人は農業をして、自分の家族が食べていくだけで精一杯です。では、他者の幸福を考えることができる職業は何かと言うと、前にも指摘しましたように行政をする人、すなわち官僚しかなかったのです。これは時代の制約です。当時は官僚になる以外に、他者の幸福を考えることはできなかったのです」と述べます。

  

 「人の上に立つ人間」として、著者は「道端で誰かが倒れているとき、倒れた人を見捨ててやりすごしていくような人では困ります。やはり、ぱっと引き起こしてあげるだけの情がないといけません。孔子は、これを『徳』ということばで表しました。『徳』ということばは、本来『得たもの』『しだいに身につけたもの』という意味です。『徳』は『得』です。人格的なものを身につけることは、訓練で磨けるはずだと言うのです。もちろん、訓練というのは、体育におけるようなものではありません。人間とは何か、人の幸せとは何か......と問い続ける心を豊かに養ってゆくことです」と述べるのでした。

  

 「まず礼の知識を学ぶ」では、孔子の学校へ行って勉強をする目的は、大きく分けて2つあり、その1つが、推薦状をもらって政治家や官僚という当時の為政者になることだったとして、著者は、「こうした推薦状をもらうためには、その基本としてきちんと礼を身につけることです。当時の社会では〈礼〉が非常に重要視されていたのです。なぜならば、孔子のころに限らず、中国のどの時代、どの地域でも宗族(同じ血で結ばれた人々の共同体。血縁共同体)があり、この宗族すなわち一族は、〈法〉ではなくて〈礼〉によって結ばれていましたから、その重要性がきわめて大きかったのです」と述べています。

  

 また、「一族を結ぶ礼」として、遠い遠い古代社会でも、一族しか信用できなかったわけだから、血のつながる者の団結が重要なことであったと指摘し、著者は「一族すべてが集まったら1000人単位ですが、普段は100人単位、50人単位で暮らし、いざとなったら全員が集まります。そういうグループの中で、その関係を保ったりお互いの生活を守ったりするためには規約が必要でした。それが礼でした。お葬式も、結婚式も礼です。それ以外のことでも、あらゆる行事は礼に基づいて行われました。これに違反することは許されません」と述べます。

  

 特に最も重要だったのはお葬式でした。お葬式の場合、参列をするときの服装も決まっています。喪主がどういう服を着る、一族と言っても、喪主から血が遠くなるにしたがって、喪服がだんだん簡略になっていって、血がつながっていない者は、平服です。著者は、「ですから、血のつながっていない者が喪服を着て行ったりしましたら、それは一族の喪服を着ている人々に対して僭越(出しゃばり)、分不相応ということになり、礼に反することでした。お葬式に招ける服装は、それほど厳しく、故人との関係によって違っていたのです」と述べています。

  

 著者は、現代日本の一般的な葬儀についても述べます。現在では、一族以外の方の葬儀に参列するときにも喪服を着用するのが一般的となっています。ですから、その葬儀の関係者と、そうではない他者との区別がつきません。参列者はすべて黒色。しかし、これは欧米流であって、儒教方式ではありません。儒教では関係者以外の者は、平服を着用するのが〈礼〉です。著者は、「このように礼が重んじられたのは、礼を身につけ守ってさえおれば、安心して生きていけたからです。知らないと恥をかき、知っていれば恥をかかずに済む、そういう社会だったのです。礼は、家のお葬式から始まって、国家や大きな組織に至るまで細かく定められておりました。この礼を十分に知らないと、社会人としては通用せず、就職もできなかったのです」と述べるのでした。

  

 「次にその上の教養を」では、「現代日本の学校教育は小人教育」として、「小人すなわち知識人」とし著者の訳を引用し、孔子にとって、就職のみを目的とする人間は「小人」だったことが示されます。著者は、「そうした知識人だけではだめだということを、孔子は何度も何度も言っています。知識人は、勉強すれば誰でもなれるからです。その次に大事なことは、人間としての心得であるとか、優しさとか、他人に対して謙遜する気持ちとか、道徳的なものを持つことだと言っているのです。そこに、学ぶ第2の目的があります。『君子』は、知識に加えて道徳を身につけていく者のことです。そういう人間を教養人と言います。知識人と教養人とは違います。残念ながら、日本の学校教育は知識人を作ることに終わっているのです。ほとんど教養人を作ってはいません。ですから、今の日本の教育体系では、自分で教養人になっていくほか方法はありません。もちろん学校では教養人になれとは言っているのでしょうが、それはそう言っているだけで、実際には何をしているのでしょうか。何もしていないのが現状です」と述べるのでした。

  

 次に、「辞は達するのみ」が取り上げられます。「『達意』の文」として、孔子が「辞は達するのみ」と言ったのは、「ことば」すなわち「意」(自分の思いや考えなど)は「達する」(相手にしっかりと伝える)ことが大事だということであると指摘し、著者は「達意の文とは、きちんと重要なこと、言いたいことを言っている文のことです。それもあれこれごたごたと言うというのではなく、適切なことばを使ってずばりと言うということです。これはなかなかできないことです。やたらと長かったり、あるいは、中身はなく、表面を美しく飾る、すなわち美辞麗句で飾ったりする人は多いのですが、びしっと適切なことばで言える人、達意の文を書ける人は、なかなかいません」と述べています。

  

 「仁には差がある」では、「『仁』の愛とは」として、著者は「『仁』という字を見ると人偏は『人』を表しています。立っている姿です。右側の旁は、実は敷物です。敷物が2枚あるということは、敬意を表しているということになります。さらに、生活次元で考えますと、敷物が厚くなるということは、より暖かくなることです。2枚の敷物を敷くと暖かいことから、相手への敬意という意味から、愛情の強さという意味に転化していきました。『仁』というのは、もともと、敷物を2枚敷いて暖かくしているというだけの意味であり、難しい意味ではなかったのですが、転用して愛情を表すことばに進化してゆきました。それを進めていった人が孔子なのです」と述べています。

  

 それでは、愛するとは何のことでしょうか。日本人や中国人の場合、愛する対象をと問われると、まず家族と答えることでしょう。そこがキリスト教の広く人々を愛する「博愛」と違うところであると指摘し、著者は「儒教では、普通の人間としての当たり前の考えかたで『愛』を捉えています。『仁』という文字で表された『愛』は、すべての人を博く愛するということではなくて『愛する厚さは、相手によって変わり、上下がある』ということです。また、「親しい者への愛」として、著者は「まず、万人でなくて個別的に自分が1番愛する人を決めます。儒教では、親に対する愛情を最高とします」と喝破します。

  

 親を最高にして、その次に愛するのが兄弟としましょうか。しかし兄弟に対する愛は、親に対する愛よりも少ないのです。おじさん、おばさんだったらもっと減ってゆきます。遠い親戚だったらさらに減ってゆきます。ここまでは肉親です。そこから先は、友人、血縁関係のない友だちへの愛です。相手は血縁者が第1、そして非血縁者となりますと愛情の量が減ってゆくのです。しかし、限界があります。最高の愛から量としてはどんどん減ってゆき、その愛は知り合いまでです。そこから先の知らない人は愛の対象にはならないのです。

  

 愛するということは、自分との関係においてのみ愛するというのが儒教の基本です。キリスト教のように、万人に広く愛を、というような考えはありません。そこが、キリスト教と決定的に違うところであると指摘し、著者は「儒教的世界(日本はその影響下にあります)におきましては、人を愛するその第1条件は、自分と親しいかどうかです。愛情の最高対象を親として、以下、血縁関係に入り、その愛情量がだんだん減っていって、血縁はないけれども親しい友人までを愛する。そして関係ない人は愛と関係ない、それが人間の正直な姿とするのです」と述べるのでした。

  

 「愛と同じく、悲しみにも差がある」では、著者はこう述べます。
「愛の反対は悲しみです。となりますと、悲しみの最高は、最高に愛している人の死すなわち親の死が1番悲しいということになります。そして血の関係が遠ざかるにしたがって、すなわち兄弟の死、叔父叔母の死となってゆきますと、悲しみがしだいに減ってゆきます。さて我々は、愛や悲しみをいろいろな形で表現しますが、それを物で表すとなりますと、その代表はやはり服装です。仮に、親が亡くなったとします。親の死に対する悲しみが1番だから、その時に着る喪服は、一番悲しいものを着ます。親戚の人の喪儀のときに着ていく喪服は、親のときに着ていく喪服と違うものになります。その違いは、関係が遠くなるのに従ってだんだん平服に近づいてくるということです。平服というのは普通の衣服です」と述べています。

  

 「平服に喪章という『礼』」として、儒教では、血縁者でない人が、もし喪主やその家族と同じ服装をしましたらかえって失礼となると指摘し、著者は「喪主と同じように悲しむというのは僭越(でしゃばり)だからです。故人との血縁関係の深さでどういう喪服を着るかは、礼として決めてあるのです。ですから、血のつながらない人は、平服に喪章を着けるだけでいいのです。もっとも今は喪章を着ける人が少なくなりました。中には間違えて、喪服の上に喪章を着けている人がいますが、それは間違いであることを知ってほしいと思います。喪章は喪服の代わりなのですから。お葬式だけではなく、結婚式も同じであって、当事者との関係の濃さによって式礼服も決まっています。それも礼です。喪儀と結婚とは、人間にとってもっとも根源的なものなので、特にその場合の礼が重んじられているのです。そういう意味で、礼とは、人間の感情表現と言ってもいいでしょう」と述べるのでした。くのくだりには目から鱗が落ちる思いがしました。

  

 次に、「過ちて改めず、是を過ちと謂う。」が取り上げられます。ここでは、「過」という字の意味が明かされます。残骨に祈りを捧げるために行う儀式も、すべて形になって残っているとして、著者は「まず、儀式を行うためには器を捧げる台(一の形)が必要です。その台を捧げるので、相手に差し出す高さに据えるものが要ります(丁の形)。その台の上に器を載せます(亍の形)。さらに、その台を倒れないように支えるために、足を両方に付けました。その形から、『示』の文字になりました。これが『示(礻)』(しめすへん)になりました。そこから禍という文字ができました。この文字は『そういうことが起こらないように』という意味がこめられた文字なのです」と述べています。

  

 次に、「其の位に在ざれば、其の政を謀らず。」が取り上げられます。「老荘思想の実践は」では、「儒教と老荘と」として、著者は「儒教の根底にあるのは、人間は動物であるから教育をして、人間らしい生きかたができるようにしなければならないという人為的な考えかたです。一方、老荘思想では、そうした人為的な考えかたをすると、人間社会において序列ができて、人間に縦の関係(上下関係)ができてしまうとしています。その立場の根底にあります考えかたは、人間は横の関係(すべて横並び)であるというものです」と述べています。

  

 「孝と共同体と」では、「共同体の中の『孝』」として、親孝行の「孝」ということばは実は誤解されていると指摘し、著者は「もし若者に親孝行とはと尋ねますと、或る人は『親に恩返しをすること』と答えました。それも単純に家事を手伝うといったことのようです。しかし、この孝が、共同体それも農業共同体で生まれてきたことが最も重要なところです。この共同体は、人類が集団生活をしてきた中で、最も重んじてきた組織です。しかも今も昔も、この共同体の根本に在るものは血縁です」と述べています。

  

 特に昔は、血縁で繋がった共同体は、人間が集団生活をする上での中心的な考えかたというより、毎日の生活そのものが血縁者中心の集団であり、誰もが実感として持っていたものであるとして、著者は「彼らを守ってくれるものは、共同体でした。人間も動物も、自分を守ってくれるものを求めますが、最後に頼るのは必ず共同体――家族共同体、一族共同体、血縁共同体でした。この共同体の中に在ることで身を守っていました。それは、一族しか頼りにならず、他は敵とみなしていたからです。そういう意味で、無償の孝が存在する一族の団結は、共同体の基本の基本なのです」と述べます。

  

 「出て行く先は『共同体』の外」として、「悌」という言葉は目上の人に対して従うという意味であると説明し、著者は「これは社会性です。兄弟という意味もありますが、元来は目上の人に従うということを指します。そうしますと、従うことばかりに見えますが、そういう単純な意味ではありません。共同体、それも血縁共同体のルールとして教えているのです。好むと好まざるとにかかわらず、中国(延いては日本も)という、家族(一族)共同体が中心となってできている社会の中で成長し生活してゆくためのルールの基礎という意味です」と述べるのでした。

  

 「家族主義の弱体化」では、「原始時代から続く家族主義」として、現代人が、国や社会に頼ろうとするのは、日本の伝統的な血縁共同体という、日本人に合うものを忘れてしまった結果、他に頼るものがなくなってしまったからであると指摘し、著者は「その大きな原因はキリスト教が徹底的に家族主義を潰したことにあります。彼の社会においては、個人の上に唯一絶対神の神がいらっしゃいます。その神の下に、個人でばらばらの人間がいるという考えかたを築いてきました。イスラム社会も同じです」と述べています。

  

 では、インドはどうでしょうか。著者は、「インド人は、自分以外は無関係という考えかたを貫いています。インドの人々は、国家一族も信用しません。何も信用せず、生まれたときから〈無〉です。誰にも頼らないし、お葬式も形ばかりで、人が亡くなったらガンジス川のほとりで焼き、川に棄てるだけです。或る意味では凄い国だと思います。我々東北アジアの中国、朝鮮半島、日本、台湾、ベトナム北部等は儒教文化圏です。儒教文化圏は、血縁を一番大切にしています。中でも、今も中国が一番大切にしています。韓国もそうだったのですが、最近は急速な近代化につれて、なぜかキリスト教徒が増え、儒教文化が少し変わってきています」と述べます。

  

 「個人主義と利己主義と」では、「『論語』は東北アジアに共通」として、著者は「『論語』が生まれてから、長い年月をかけ、不要なものが削り取られ、今日にまで残っているのです。ですからこれは、中国人だけのものというより、『論語』が広がった地域、東北アジア全体に共通したものとなっていると考えるべきです。『新約聖書』も、元来はユダヤ教徒だったイエス・キリストが説き起こした一部の民族の話だったのですが、今はあまねく広がって、世界中のさまざまな民族が読んでいます。それと同じことなのです。ですから、『論語』の中に書かれていることは、中国人の考えかたと限定しないで、広く東北アジアの人々の基本的なものと考えることが肝要です」と述べるのでした。

  

 3「『論語』で見ると違ってくる世界」の「個人主義の欧米と家族主義のアジアと」では、欧米のキリスト教文化圏と儒教文化圏との大きな違いは、どちらが正しいとか古いとかということではなく、欧米が個人主義であるのに対して、儒教文化圏は家族主義だということであると指摘し、著者は「儒教文化圏では血のつながりを大事にします。我々アジア人は家族主義でずっときました。欧米の人は個人主義でずっときました。たまたま、欧米人が近世・近代という世界の或る時期に力を持ったため、全世界に欧米のありかたを広め、個人主義が家族主義よりも上であるかのような形になってしまったのです」と述べています。要するに、個人主義は狩猟民族の思想であり、家族主義は農耕民族のものです。我々は農耕民族です。ですから、個人主義は合わないというのです。

  

 附篇「鬼誅か鬼滅か――東北アジアの死生観」では、〈会話の成り立つ言語〉を武器にして、人間は歴史を創り、その上に文化・文明を作ってきたとして、著者は「そして他の動物と決定的に異なるテーマを抱き、それについて真剣に議論してきました。その最大テーマは、〈死〉です。人間以外の動物は、他の動物に襲われ死に直面すると闘うか必死に逃れようとします。しかし、その危険が去りますと、すぐ日常生活にもどります」と述べ、さらに「しかし人間は違います。死に対して共通言語を使ってさまざまな解釈を与えてきました。世界各地においてそういうことが起こっていました。そして何万年、何千年と過ぎてゆくうちに、死に対して納得のゆく解釈が各地において定着してゆきました。その解釈が人々の気持ちを納得させることができましたとき、その解釈を多くの人々が支持してその考えに従うようになりました。そのようにして生まれた〈死の説明者〉、それが宗教です」と述べています。

  

 著者は、「宗教とは、死および死後の説明者である」と喝破します。そして現代にまで生き残った宗教は次の3種と断じています。
(1)中近東を原点とするユダヤ教・キリスト教・イスラム教という一神教、(2)インドの宗教、(3)儒教、です。これらは、どのように死を説明したか。著者は、「(1)は、神を信ずる者は、死後、その神の在す天国に召され、神とともに永遠にそこに居ることを許される、と。(2)は、解脱して仏となるのが最高だが、そう簡単に解脱できないので、解脱できるまでは、下位の六道(六つの世界)の中を経回る。このめぐることを輪廻という。そこで、生前の在りかたによって、六つの世界というランキングのどこかへ行き先を定められ、そこへ行く。そして解脱できるまで転生し続ける。しかし、努力してゆけば、いつの日か解脱でき、極楽に召されるとします」と説明しています。

  

 そして、儒教は、死をこう説明しました。「子は親の遺体である」と。「遺体」は儒教のことばで「遺した体」という意味であるとし、著者は「すなわち、死はいつの日か訪れてきますが、もし子どもがいましたら、己れの生命(精神)そして生命体(肉体)は、子へ移っていますから、己れが死を迎えたとしましても、己れの精神・肉体は子に移っているので安心とするのです。たとい死を迎えたとしても、己れは子の形で生き残っている、という考えかたです」と述べています。また、「では、子がいない人はどうなるのか、あるいは結婚しなかった人はどうなるのか、という問題がありますが、それはどうなるのでしょうか。儒教は、その答をちゃんと準備しています。すなわち、儒教の一族主義(家族主義)という在りかたです」と述べます。儒教は、人間の生きて有るときの、有るべき有りかた、すなわち道徳を説くものとする儒教観は、残り半分が不足しています。その残り半分とは、儒教の宗教性であり、〈死の説明〉なのです。

  

 それでは、生と死との間は、どのように繋がっているのでしょうか。著者は、「儒教(おそらくは古代中国人の一般意識)では、こう考えていました。人間が生きているとき、精神面を動かす元となっているものを『魂』、肉体面を動かす元となっているものを『魄』としました。生きているときは、この魂魄が一致協力して機能しています。しかし、死後は両者が分裂し、魂は天上へ、魄は地下へと行きます。そこで、ある儀式を行いますと、魂は天上から魄は地下からもどってきて、合体しますと、死の世界から生の世界へと復帰することができます。その合体をするためには、和供え物を十分にし、きちんと儀式を行います」と述べています。

  

 こうして、亡き人との出会いを木主を通じて行う儀式が、儒教にとって重要な儀式となりました。この木主や墓という死者とのつながりは根強く残ってゆきます。もちろん日本でもそうです。著者は、「ですから、インドから中国へ仏教が渡ってきましても、この儒教的死者儀礼を切り捨てることができず、中国仏教・日本仏教は、インド仏教の輪廻転生観と同時に儒教の死者儀礼を受け入れざるをえなかったのです。そのため、例えば日本仏教は、輪廻転生を説くと同時に儒教的死生観をも受け入れるという矛盾を抱えつつ、今日に至っております。それでいいのです。我々は日本人なのですから、矛盾を抱えて平気です。大切なことは、この世で生きる気構え、心構えなのですから」と述べるのでした。

  

 最後に、著者は社会現象にまでなった『鬼滅の刃』に言及しています。『荘子』庚桑楚(人名)篇の「顯明の中に〔おいて]不善を為す者は、〔その悪〕人〔をまともな人々が]得て之を誅す。幽間の中に〔おいて]不善を為す者は、〔その悪〕鬼〔をまともな鬼たちが〕得て之を誅す」という言葉を紹介し、「誅」とはその罪により死刑にすることであると説明します。そして、著者は「ここから『鬼誅』ということばが生まれました。『鬼滅』ではありません。すなわち鬼の世界の人々が、悪鬼を誅するのです」と述べるのでした。じつは、拙著『「鬼滅の刃」に学ぶ』(現代書林)を加地先生に献本させていただき、「鬼滅」について1時間以上も電話でお話したことがあります。その内容は、本書に書かれていることと同じでした。「礼」について詳しく書かれた本書の最後の最後に「鬼滅」が登場して、なんだか嬉しかったです。加地先生、素晴らしいご著書を本当にありがとうございました。