No.1965 オカルト・陰謀 | 歴史・文明・文化 『スーパーナチュラル・ウォー』 オーウェン・デイヴィス著、江口之隆訳(ヒカルランド)

2020.11.08

 『スーパーナチュラル・ウォー』オーウェン・デイヴィス著、江口之隆訳(ヒカルランド)を読みました。「第一次世界大戦と驚異のオカルト・魔術・民間信仰」というサブタイトルがついています。版元のヒカルランドはアクの強いスピリチュアル本を出している印象で、なんとなくスルーしていました。しかし、このたび矢作直樹氏とわたしの対談本である『命には続きがある』(PHP研究所)の文庫化が決まって矢作氏と再対談することになり、その話題探しもあって、同氏の著書も刊行しているヒカルランドの本を読もうと思いました。そこで、テーマに関心を惹かれた本書『スーパーナチュラル・ウォー』『SS先史遺産研究所アーネンエルベ』『トランプ時代の魔術とオカルトパワー』の3冊を求めました。いずれも、海外でベストセラーになったオカルト研究書です。まずは、本書を読んでみると、非常にスリリングな内容で、読書中はずっと気分が高揚していました。いやあ、こんなに面白い本にはなかなか出合えません! 

3冊並んだヒカルランドのオカルト翻訳書

オカルト翻訳書の3冊の背

 著者は、ハートフォードシャー大学教授(社会史)。魔女、魔術、幽霊、民間療法、グリモワール(魔道書)について幅広い研究を行っている。著書に『世界で最も危険な書物グリモワールの歴史』(宇佐和通訳、柏書房)などがありますが、同書もきわめて興味深い本です。訳者の江口氏は日本を代表する魔術研究家。フォロワー数6万人超のTwitterアカウント「西洋魔術博物館」を主宰。魅惑的な西洋魔術の世界に関するウィットに富んだ情報発信で幅広い層の人気を呼んでいます。

本書のカバー表紙の下部 

 本書のカバー表紙には第一次世界大戦の塹壕内の兵士の写真などが使われ、「愚かな妄信か、愛する人を守るための最後の命綱か」「全世界で死傷者1800万人超――未曾有の大災厄から生まれた無数の伝承・呪物で紡ぎ出す、かつてない”戦争民俗学/戦争社会史”の名著」と書かれています。

本書のカバー裏表紙の下部

 カバー裏表紙には『戦時中の幼きイエスのシスター・テレーズの介入』(バイユー、1920)の表紙の写真が使われ、「第一次世界大戦期ヨーロッパで、数々の『迷信』や『呪術』が復活し、世を賑わした。護符、占い、予言、霊媒、魔術儀式、まじない、都市伝説―現代総力戦の幕開けの時代、〈超自然的なるもの(ザ・スーパーナチュラル)〉に人々はなにを求めたのか? 空前の大量死と社会変動に対峙するなかで、オカルトパワーの約束に魅入られた人々の驚くべきストーリーを明らかにする」と書かれています。

アマゾン「出版社より」 

 さらに、アマゾンの「出版社より」のコーナーが素晴らしく、「第一次世界大戦とミリタリー、オカルト、占い、フォークロア……近代性と超自然の分かちがたい結びつきに光を当てる!」として、「1914~1918年にかけて戦われた第一次世界大戦は、主戦場となったヨーロッパを中心に全世界に1800万人を超える死傷者をもたらした未曾有の大災厄でした。潜水艦、飛行船、毒ガス、機関銃など最新兵器も投入された現代総力戦の嚆矢としても知られており、参戦した国々に大きな社会変動ももたらしました。このかつてない戦争と対峙するなかで大流行をみたのが、ノストラダムスの大予言、天使や幽霊の出現、占星術、数秘術、心霊術、護符、呪術等々のさまざまな占いやオカルト、民間信仰でした。
“迷信”や”魔術”を克服し、理性と科学技術の現代へ進もうとしていた当時の世界において、超自然的なるものに人々は何を求めたのか。本書では、膨大な資料をひもときながら、当時の興味深い実相がつまびらかにされていきます」と書かれています。

アマゾン「出版社より」

 また、「護身と生還への願いが生んだ戦争民俗(ウォー・フォークロア)の大総覧」として、「本書の読みどころのひとつは、戦時下で生まれたさまざまな護符、お守り、おまじないなどのさまざまな戦争民俗(ウォー・フォークロア)、戦場民俗(ミリタリー・フォークロア)です。日本でいえば『千人針』にあたるような護身・幸運グッズが、第一次世界大戦下ヨーロッパでも無数に生み出され、戦場の兵士や本国の人々、双方のあいだでおおいに広まりました。有名な四葉のクローヴァーから、馬蹄やウサギの足などの現地特有のラッキーアイテム、現代でもよく見られるチェーンレターなどの事物、さらには植民地出身兵士たちのそれぞれの信仰に由来するお守りまで……それらの品々はWWⅠ時代だけにとどまらない、より広範な時間軸におけるそれぞれの国・地域の信仰・民俗文化を教えてくれることでしょう」と書かれています。

アマゾン「出版社より」

 さらに、「〈超自然〉をとおして戦争をみることで浮かび上がる、当時の社会のさまざまな課題 」として、「戦時下で生まれた数々の伝承・呪物が教えてくれるのは現地の文化習俗だけではありません。そこからはまた、当時の社会のさまざまなテーマや課題が透けてみえます。愛国主義とプロパガンダ、フェイクニュースの止まらない拡散、戦争とオカルトとメディア、ジェンダーと占い、予言・占い・護符の商業化、占い業界と当局の知恵くらべ、戦争とトラウマ、精神世界と知識人、それぞれの思惑で戦死者の魂に群がる宗教界・オカルト界・学術界……これらの事例からは、現代のわたしたちにとっても示唆深い洞察をもたらすにちがいありません」と書かれています。

 本書の「目次」は、以下の通りです。
「凡例」
「序文」
第1章 驚異に満ちた戦争
第2章 予言の時代
昔の予言、今の予言
あふれでる現代の予言者たち
星を眺めて
アルマゲドンと新たなる世界秩序
ドイツ皇帝の数字:666
第3章 ヴィジョン体験、霊、
       そして霊能者たち
天上のしるしと聖なる出現
マリア出現
白い仲間
とりつかれる場所、とりつかれる人々
心霊術と戦争
戦場の霊たち
心霊戦
予知
第4章 占いさまざま
占いという仕事
魔術代行
占い師掃討キャンペーン
女性の問題
看板に偽りあり
魔女術取締法
ウォー・ストーリーズ
第5章 戦場の幸運
不運を回避する
流行するお守り
卵膜の売買
クローヴァーの戦い
あちらこちらに鉤十字
動物の魔術
小さな神々を製造する
第6章 塹壕の信仰と護身のお守り
防弾聖書
天国からの手紙
カトリックの武器庫
諸聖人と聖人崇拝
ニューソートと防弾思考
世界的信仰
第7章 余波
「訳者あとがき」
付録1「本書関連地図」
付録2「本書関連年表」
「原注」
「図版出典一覧」
「事項索引」
「人名索引」 

 「序文」の最後、著者は「人々がいまだ魔女を恐れているさなか、ヨーロッパはどうして脱魔術化ができようか?」と問い、「たしかに第一次世界大戦はウェーバーが描いた技術的かつ官僚体制的社会の極致そのものであったかもしれない。空爆、飛行船ツェッペリンの空襲、潜水艦、毒ガス、戦車が登場する争いにあって、魔術にどのような必要性があったのだろうか? 魔女術の実在を人々が信じ続けていたという事実は、1914年から1918年のあいだに語られるべき別の歴史があるというひとつのしるしにすぎない。人の心のより深いところにある謎やさらに別の領域に関する歴史もまた歴史である。本書をお読みいただければ、超自然が戦争体験に関して多くを教えてくれること、また戦争が超自然体験に関して多くを教えてくれることをご理解いただけるだろう」と述べます。

 第1章「脅威に満ちた戦争」では、魔女術と魔術の専門家たちは、過去そして現在も「迷信」が不合理で無知で虚偽の信仰活動を示す言葉として広く使われていることを意識していることを指摘し、著者は「宗教改革後はプロテスタントがカトリックの儀式と神学を貶める用語となった。かようにいろいろな意味を背負った言葉であるから、前後関係を明確にして過去にどのような意味で理解されていたのか、どのように用いられたのかを知る必要がある。筆者は、本書で探求する信仰や活動が退行や妄信を示すものという見解を有していない。本書を読み進めば判明するが、お守りを携帯したり幸運の儀式を行う人々、占い師のもとに通ったり幽霊を見たと主張する人々はしばしば高等教育を受けており、自分の行動や経験を自己分析する思慮深い人物であった。およそ「迷信深い」人々ではないのである」と述べます。 

 第2章「予言の時代」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「第一次世界大戦の開戦は驚くに値しなかった。ベルギーの詩人にしてエッセイストであるモーリス・メーテルリンクが1916年に書いているように『たしかに、理性的に考えれば大なり小なり予見されていたのである。しかし理性がその実現を信じてはいなかったのだ』。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、英国とフランスでは世界大戦の必然を論ずる書物が山ほど執筆されている。当時英国では定期的に独仏露によるスパイ疑惑や侵略の噂が広まっていた。一般大衆の恐怖心をさらに煽ったのが急成長しつつあった『侵略もの』や『未来小説』である。そして20世紀初頭になるとこの種の物語の悪役はおもにドイツがつとめていて、来るべき戦争の予兆を感じさせるのである」 

 また、一部の人々にとって、黙示録は第一次大戦の暗喩ではなかったとして、著者は「第一次大戦こそ黙示録に描かれたこの世の終わりそのものであった。それは人類がほぼ絶滅に瀕する一方、キリストの地上への再臨と素晴らしき未来すなわち新たなる千年紀の前触れでもあった。人類のほんの数パーセントすなわち選ばれし者が生き残り、新たなエルサレム、地上の神の王国に住むことになるのである。キリスト教神学ではヨハネ黙示録は長らく無視されるか静かな論駁の対象にすぎなかったが、ドイツの宗教改革や英国の清教徒革命のような深層的大変動が何世紀もかけて千年王国待望論を土台とする逸話や民話の類を生み出してしまい、それらが民心のかなりの部分を掌握してしまったといえる。第一次世界大戦も例外ではなく、福音主義系キリスト教や西洋オカルティズムに織り込まれていた千年王国待望論を再発火させてしまったのである」と述べています。 

 第一次世界大戦前のヨーロッパでは、予言者たちが大戦の勃発を予言しました。多くの者は、開戦の年を1913年と予言しましたが、結局、翌年の1914年に開戦しました。戦争予言の強烈さと数の多さに深く心を悩ました一部のオカルト関係者は、開戦遅延には重要な原因があったと示唆しました。大戦予言の編者ザリンスキ伯爵夫人は、「強大なオカルト的な力が介入して惨事を防ごうとしたが、1年遅らせるのがやっとだったのではないか」と1917年に記してましたし、電気技師にして「思念力」の提唱者であったF・L・ローソンは「平和のために戦う精神ワーカたちの祈りの力で開戦が遅れた」と信じていました。ちなみに、ものみの塔協会(エホバの証人)の創始者チャールズ・テイズ・ラッセルは聖書の記述を参考に膨大な時間を費やして世界の終わりのときを計算し、それを1914年と算出しています。

 ヨーロッパの戦時千年王国待望論をもっと声高に表現したのは急成長を遂げた神智学運動でした。神智学協会は1875年、神秘家ヘレナ・ブラヴァツキー(1831~91)によって創立されましたが、著者は「西洋のオカルト伝統と東洋の宗教とりわけ仏教とヒンズー教を混合した信仰体系であり、その叡智と秘密知識はエジプトとヒマラヤに住むマハトマと呼ばれる謎の霊的指導者たちから得たものとされていた。カルマと転生は神智学教義の中核であったため、神智学協会の戦争観もまたその影響を大いに受けていた」と述べています。1914年の時点で、神智学協会の全世界の会員数は2万5000名足らず(英国内に2905名)でしたが、文化に及ぼす力はかなりのものがありました。ブラヴァツキーの死後、協会の指導者層は千年王国待望論をはっきりと打ち出すようになったといいます。 

 世界教師を歓迎するための神智学系新組織「東方の星」団も立ち上げられ、クリシュナムルティが会長に就任しました。著者は、「大戦という大変動は、物質に対する精神の勝利を示していて、世界教師の到来が近いことをあらわすものとされた。そして新たな霊的時代が英国にて開幕するのである。大戦は大いなる宇宙的運動、善の力と悪の力の必然の戦いと解釈された。ときに善はホワイト・ロッジ、悪はブラック・ロッジと称されることがある。両陣営の超自然的『知性』は霊的維持を目的として男女の思念と欲望を引き出すと信じられていた。大多数の神智学協会会員はマハトマ以外の超自然的あるいは半神的存在の役割を真剣に受け取っていなかったが、たとえばA・P・シネット(1840~1921)などはブラック・ロッジの性質と歴史、その目的と戦争における役割などを描いている。シネットにとって、戦争に代表される危機は国家が背負うカルマをはるかに超える存在であった。大戦の宇宙的意義を理解するには、有史以前、何百万年も前に始まったアトランティスという偉大な時代を理解する必要がある」と述べます。

 さらに、オーストリアとドイツのオカルト界にあってもうひとりの指導的人物をあげるとするなら、ルドルフ・シュタイナー(1861~1925)であるとして、著者は「かれはシュタイナー学校運動の創始者であり、『この戦争はドイツの霊的生命に対する陰謀である』と公の場で繰り返し主張していた」と述べます。シュタイナーは正式には神智学協会会員ではありませんでしたが、1902年には協会の初代ドイツ支部の指導責任者を務めています。ドイツの神智学協会はシュタイナーの熱心な指導の下で繁栄しましたが、同時にかれはブラヴァツキーの教義のさまざまな面を再構成し、再解釈するという作業も行っていました。結果として、シュタイナーはクルシュナムルティを拒絶し、1912年に同志とともに人智学協会を創立し、すぐに会員およそ3000名を集めています。著者によれば、人智学協会の目的は「霊的世界の真の知識を基礎として、個人と社会の両者に宿る魂の生命を育むこと」でした。同会本部はスイスのとある村落に所在しましたが、シュタイナー自身は大戦中オーストリアとドイツで多くの時を過ごし、独自のメッセージや見解を広めていました。この戦争は宇宙的霊的戦闘が地上に顕現したものであり、「各国が互いに相争うとき、人類を通じて働く魔物と霊たちの世界」であるというのです。 

 そして、戦時にあって国家が率先して予言を武器に士気を高める。この件は長い歴史があり、フランスもドイツも英国も戦時中は洗練された宣伝機関を有していたことを指摘し、著者は「戦時中の予言はどれも偏向が著しく、いずれかの国を一方的にほめたたえる、あるいはけなしまくる代物ばかりだが、交戦各国の当局が予言文書の作成に関わった、あるいはどこかに委託した形跡はほとんどないのである。たとえば英国では全国戦争目的委員会なる組織が1917年に設置されているが、多数の聖職者が参加して英国の霊的優位と神より授かる敵国打倒の宿命に関して愛国的レトリックを駆使していた。しかし予言と占星術師たちが同様の協同関係にあったという証拠がまったくない」と述べるのでした。

  第3章「ヴィジョン体験、霊、そして霊能者たち」の冒頭を、著者はこう書きだしています。
「大戦中、兵士やその家族と恋人が経験した奇怪なヴィジョン体験や感覚が無数に報道され、ときに『砲火の下の怪異』とか『戦争と怪奇』といった描写をされている。戦争は常に幽霊を見た話や出会った話、虫の知らせの話を生み出してきたが、第一次世界大戦の戦中戦後ほど軍人の超自然体験に関心が寄せられた時期もなかった。もちろんこれは20世紀初頭、科学的関心と宗教的関心の両者が形而上学および神秘方面に集中したという異常事態に起因する部分が大であろう。さらに一般大衆が生命の霊的側面に関する証拠を受け入れる姿勢にあったことも一因である。超自然方面と一般大衆の親和関係、さらにそこからどのような解釈が生まれていったのか、それを理解するためにはまず心霊術運動を知ることが肝要となる」 

 「天上のしるしと聖なる出現」として、著者は、戦争の両サイドで天使たちが活発に活動していたことを報告しています。カトリックにあっては、守護天使という概念は正式な神学でも民間レベルのそれでも強力なものだったからです。著者は、「守護天使は敬虔なカトリック教徒を守護するのであるから、戦場にあってもそれは同じはずなのである。たとえば1916年のドイツの絵葉書では、まさに発砲しようとしているライフル兵を肩越しに見守る有翼の女性が描かれていて、『戦士の守護天使』という題名が添えられていた」と述べます。また、プロテスタント神学の主流では、守護天使という概念はカトリックの迷信とされてきましたが、福音主義系プロテスタント会派は歓迎していたとして、著者は「守護天使は神の遍在の表現、人事への変わらざる介入のあかしとされたのである。実際、戦場における天使の出現にもっとも夢中になった国は英国であった」と述べます。 

 1914年8月、英国遠征軍はモンスの戦いで迅速なる撤退を余儀なくされました。それはこの先の軍事的試練と士気低下を予感させる最初のつまづきでした。この戦闘に関する新聞記事に大いに感銘を受けた作家アーサー・マッケンは「弓兵」という短編を書き上げています。後に、マッケンは「日曜の午前中、食事とミサのあいだに読むにはひどい代物ばかりだった。ウィークリー・ディスパッチ誌で読んだのはモンスからの撤退戦の地獄絵図だった……苦痛と死と苦悶と恐怖の炉を7回熱したようなもので、その灼熱の真っ只なかに英軍がいるのだ」と回想しています。

 マッケンの短編は9月29日の『イヴニング・ニュース』紙に掲載されました。本書では、「絶望的な戦いのさなか、ある兵士が『塹壕の向こうになにかが整列しているさまを見た。その周囲に光が輝いてる。弓を引く男たちのようだった。叫び声があがると、矢の雲がドイツ軍に向かって歌うような音を立てて飛んでいった』。聖ジョージがアジンコートの弓兵の霊を呼び出して援軍としたのである。『歌い飛ぶ矢の雨のおかげで空が暗くなった。異教徒の群れは溶けて消えた』。ほどなくこの短編を転載したいという教区雑誌からのリクエストもあり、弓兵の話は紙面や口頭によって徐々に広まっていった。そして伝播の過程でフィクションではなくて実際にあった出来事と思われるようになったのである」と紹介しています。 

 翌年、聖ジョージ祝祭日の前後に弓兵の新ヴァージョンが登場しました。マッケン自身の言葉では「噂の雪だるまが転げ落ちはじめ、以来ずっと転がり続けて」どんどん大きくなり、「ぞっとするような大きさになってしまった」のでした。本書には、「単純な弓兵の話はたっぷりと装飾され、さらに再構成されて戦場で天使を目撃したという実話になっていった。登場する霊も天使のみならず甲冑騎士、モンスから退却する兵士を包む神秘の雲と多種多様である。オカルトや心霊術の業界もこの件にはなみなみならぬ関心を寄せていて、そういったヴィジョン体験をした兵士の談話を集められるかぎり集めて雑誌等に掲載した。全国紙も地方紙も議論に参加し、検証可能な証言を求める旅を開始した。この種の証言をまとめた小冊子が山ほど出版され、その大部分がヴィジョン体験を神の介在の疑問の余地のない証拠としていた」と書かれています。 

 また、「マリア出現」として、著者は「フランスのルルド、ドイツのマーピンゲンといった聖母マリアを祀る祠への巡礼の列は、出征兵士の無事を願う家族と恋人たちでふくれあがっていた。ルルドの泉を霊的に管轄するタルベ司教は、対独戦においてフランスを支援するよう聖母マリアに公的に要請していた。聖母マリアが例外的な国難に際して出現することは数世紀にわたって定期的に報告されている。ゆえに第一次大戦中に新たなマリア出現の主張が何度となくなされたとしてもなんら不思議ではない。イタリアの教会や雨では、雲に乗った聖母子が限下の戦場で戦うイタリア軍兵士を加護する絵柄のお札が無数に奉納された」と述べています。 

 戦場におけるマリア出現は開戦初期に繰り返されています。これについて、著者は、明らかに自国の正義を確信する愛国的宗教心の発露であり、また戦争の早期終結への期待を示すものであったとして、「戦局が進むにつれ、天上の予兆もヴィジョンも戦闘地域ではあまり見られなくなっていった。ゆえに戦時中もっとも影響力を発揮したマリア出現が戦場からはるか後方で発生したのも不思議ではなかったといえる。1917年5月、ファティマというポルトガルの小さな村で10歳の羊飼いの少女ルシア・ドス・サントスが聖母マリアに出会ったと主張している」と述べています。 

 次は、幽霊です。「とりつかれる場所、とりつかれる人々」として、幽霊は長らく文学的主題、暗喩、舞台装置として大変人気があり、その勢いのまま1914年を迎えたと指摘し、著者は「戦争を扱う詩人や小説家の一部がすでに作品のなかで死と死後の世界に取り組んでいたという事情もあった。後方で回復につとめていた詩人ジークフリート・サスーンが1916年6月の日記に記している、「幽霊というものがほんとうにいるのであれば――そして自分はその事実あるいは幻覚を否定する準備ができていないのだが――幽霊がいるのであれば、かれらはこの戦線に永遠にとどまるだろう」と書いたことを紹介し、サスーンの友人であり同じ大隊の将校だったロバート・グレイヴズが、著書『すべてにさようなら』でベテューヌにて知人だったチャロナー二等兵の幽霊を見た話を書いていることも紹介しています。 

 戦場は幽霊で満ち溢れていて当然であるとする一般的感覚ないし想定が昔もいまも存在するとして、著者は「軍隊が動員された場所は比喩的にいっても死と死者の光景、音響、臭いに祟られているからである。まだ生きている者たちは腐敗が進行する死者とともに時を過ごし、塹壕は分解する死骸と部位との奇怪な友情で満ちていた。フランス人将校ルネ・ニコラは塹壕で同居していた3人の死骸との滑稽な立ち位置を語っている。ひとりは後方宙返りの途中のような姿勢だった。部下の兵士たちが塹壕から突き出た足の部分に水筒を引っかけていた。「かれらはこちらに不快感を与えるのをやめず、さらに笑わせにくるのである」。しかし宗教心に篤い者にとっては、この黙示録的環境は聖書に描かれるこの世の終わりと死者の復活を思わせるものであった」と述べています。

 ゆえにカナダ軍野戦砲兵隊とともに西部戦線で戦った英系アメリカ人兵士コニングスビー・ドウソンは「たしかに自分がいまいるこの場所は幽霊が出るに違いない」と書いています。しかし死者の肉体的残存物と非常に近しい関係にあるという事実、さらに死者の大量生産が毎日続くという支離滅裂な状況が、文化的あるいは心理的な幽霊の創造を事実上禁じていたと指摘し、著者は「第一次世界大戦の幽霊たちは人につくのであり、場所にはつかなかった。かれらは日常的物理的環境にあって生と死の永続的近接性を確固たるものとすることを要求されなかった。しかし信仰としての心霊術は生から死へ移行する際の明確なロードマップを提供している。それは世間に広まった正統的宗教の死後観に対する挑戦でもあった」と述べます。 

 「心霊術と戦争」として、心霊術信奉者は大多数の人類が理解している形での死を受け入れないと指摘し、著者は「ある意味において、心霊術は幽霊の創造を不可能にしていたといってよい。大衆文化における幽霊は死者の霊ないし魂であるが、心霊術信奉者は伝統的な死の概念を完全に否定しているのである。肉体的生活と霊的生活は連続体であって、魂が地縛的領域から霊的領域へと移行するとされる。霊媒は定期的な双方向通信を可能とする電報の役割を果たす。霊が出現するとすれば、それは交霊会が行われる室内のことであって、実質的に霊媒を牧師役とする宗教儀式の一部であった」と述べます。 

 心霊術擁護者がときにおおげさな主張をして心霊術運動の成長を宣伝するように、批判側もまた心霊術の拡散と影響を過大に評価して対策の必要性を説いていたことを紹介し、著者は「カトリック教会は心霊術を迷信とし、心霊術が鼓舞する先にあるものは悪魔崇拝であるとまで非難していた。死者は最終秘蹟を授かり、平安のうちに休んでいるのである。死者との交流は祈りと司祭の典礼の業務範囲であった。1898年、〔ローマ教皇庁の〕検邪聖省は『心霊術活動を禁ずる。それが悪魔との交渉を除外し善なる霊のみを対象とするとされるものであっても例外は認めない』と布告している」と述べています。 

 第一次世界大戦の頃になると、英国国教会の主流派は神意や奇跡といったものを教義から抹消していたことを紹介し、著者は「死後の世界などは教義や礼拝、対外宣伝においても降格扱いされていた。ゆえにいざ開戦となったとき、国教会の長老たちが心霊術を非難したのは驚くにあたらない。文字で攻撃し、あるいは説教壇から舌鋒鋭く批判するおなじみの光景ともいえた。オクスフォードの司教は心霊術信奉者を「おそらく狡猾な悪魔に騙されている犠牲者であろう」と述べている。しかし教区民からかつてない規模で大量の死者が出ているという現実は、下級聖職者である教区牧師や牧師代理にとっては由々しき事態であった。かれらは遺族のみならず死者を慰める役も要求されるようになったのである。遺族は死者のその後の様子や精神状態を知りたがるようになり、死後世界へ焦点を合わせる必要性が生じている」と述べます。 

 心霊術は非難の対象ではありましたが、霊媒たちが遺族を慰めるにあたって一定の役割を果たしたのは明白です。交霊会は劇場と宗教礼拝とセラピーの混合物として機能していたと指摘して、著者は「アーサー・コナン・ドイルや著名物理学者サー・オリヴァー・ロッジ(1851~1940)といった有名人が発表する霊媒の話は、死など存在しないという確信がもたらす強力な、そして吸引力のある慰めの表現となった。コナン・ドイルはもともと交霊会現象や死者との交信に関して十分な懐疑心を抱いていたのだが、大戦で次々と家族を亡くしたために懐疑心もぼろぼろになっていた。まず義弟がモンスにて戦死し、1918年には弟も戦死している。最大の痛手は最愛の息子キングスリーがソンムで負傷して病床に伏し、それも手伝って1918年に肺炎で亡くなったことであろう」と述べています。

 1916年3月、ドイルはオカルト雑誌『ライト』に『気絶中の魂の位置」というテーマで寄稿し、「個人的には、死をもってわれらの個別性の消滅とすることを否定する論点は、心霊調査がめたらす事実以外にはまったく知らない。しかしこれらの事実はきわめて強烈であるため、他の論点をすべて圧殺するしかないのである」と、自身の固まりつつある心霊術的確信を述べています。その4年後、一連のキングスリーとの霊界通信を行ったのち、ドイルは「死後のメッセージから得られる安らぎ」と記し、愛する者たちの霊的世界が「霊媒ひとり分」しか離れていないと受け入れるなら、この「拷問を受けている世界」にどれほどの慰めがもたらされるかと述べました。 

 物理学者のオリヴァー・ロッジロッジは長らく心霊術現象に関心を抱いていましたが、それがきわめて個人的なものになるきっかけは1915年9月、フランドルにおける息子レイモンドの戦死でした。著者は、「ロッジと妻は一連の交霊会に参加して息子の霊と交信し、その会話が息子の名前を題名とする1916年の書物の出版へとつながった。決して安価な書物ではなかったが、『レイモンド』は売れ行きもよく、戦闘地域にいる兵士のあいだにまで出回っている」と紹介しています。ちなみに、戦時中に交霊会に出席した人間の総数を査定することは困難ですが、数十万人、あるいは数万人が霊界通信を希望して霊媒を頼ったという俗説は「単純に不可能といってよい」と、著者は述べています。 

 かなりの数の人間が自宅でテーブル・ラッピング等の交霊会を行っていたという説もありますが、具体的証拠はほとんどないとして、著者は「世間一般では霊媒体質は生来の特殊体質であって、本から学んで練習できるものではないと考えられていた。戦時中もそれ以前も、ウィジャ盤が大量生産されて市場に広く出回っていたという事実はあるが――宣伝文にいわく『その神秘の挙動はいかなる力によるものなのか、懐疑論者もびっくりして夢中になること必至』――そもそも一般家庭にあっては希少な存在であり、アメリカ以外の国で広く知られるようになるのは1920代以降の話である」と述べています。

 また、「予知」として、著者は「英仏両国の戦争心霊研究の主要分野として、塹壕あるいは海上における危険や死をテレパシー的あるいは霊視的に予知した例の検証があった。霊媒行為を別とすれば、予知関連の研究は数十年にわたって心霊研究者たちの重要分野であった」と述べます。英国では、全国紙や地方紙が敵的に軍人の母や家族が「愛する者の死」を予知したことが報じられました。著者は、「この種の談話の多くはいわゆる『虫の知らせ』であり、直観的というか、未来に対して不吉な感情を抱くといったものである。戦場ではこの種の感情はときに『ザ・コール』と称される。すなわち死が近づいているという感覚であり、兵士たちのあいだでもっともオープンに語られ、故郷への書簡にも記された心霊現象であろう」と述べます。 

 戦時予知の第二カテゴリーとして、当時の文芸作品でもよく登場する「危機的出現」ないし幻像と呼ばれるものがあるとして、著者は「これらは覚醒時に経験する『真実を語る』『嘘をつかない』幻覚である。危機に瀕した人間精神が意図的あるいは非意図的にテレパシー的送信を行って自己の危機的状況をヴィジョンとして家族に伝えることが可能か否か、心霊研究者たちは探求を試みている」と述べています。1917年、一般向けの科学雑誌数誌が1915年3月のプシェミシルの聖母マリア出現に関して技術的解説を掲載しているます。それによれば、ステレオプティコン(スライド2枚を用いて3次元効果を出せる幻燈機の一種)を飛行機に搭載して低空の雲に聖母像を投影したのではないかというのです。実行者はオーストリアの科学者たちで、使用された画像はチェンストホーヴァ修道院にある有名な聖画だったと推測しています。 

 狙いは包囲されたオーストリア軍の士気を支えることとして、著者は「また塹壕の兵士たちが目撃する霊的出現の類は、カルシウムとリンから生じる不気味なウィル・オー・ザ・ウィスプ(鬼火)、すなわち発光性ガスであり、その材料は戦場に無数に散乱する腐敗肉片であるという意見もあった。より納得のいくものとしては、死の近接と確信による幻覚という心理学的解説が当時からなされていて、以来延々と研究が続いている。塹壕戦がもたらす疲労、感覚喪失、知覚過敏などにより、兵士が知覚の歪みと一時的精神異常を経験する一方、母国で待つ人々は肉親を失う恐怖や実際に失うことで精神的に影響を被り、ストレスや懸念によって奇怪な体験をするのである」と述べます。

 そして、心霊術に対する関心は、戦後に発生した死者崇拝というコンセプトの確証として用いられてきたとして、著者は「しかしそれは儀礼化した英国国教会と国が後援する記念事業の産物という面のほうが大きいのである。今日でも英国国民は、政治的およびメディア的圧力と王室のご臨席を通じて第一次世界大戦戦死者の追悼行事への参加を求められている。しかし大戦が超自然に関する既存の概念に新たな表現をもたらしたのは事実であるし、心霊術と心霊調査は霊的出現と死後生を理解するための現代用語を提供したのであった」と述べるのでした。 

 第4章「占いさまざま」では、「魔女術取締法」として、「第一次世界大戦中、心霊術運動を一番慌てさせたのは1736年の魔女術取締法であった。それは制定当時にあっては啓蒙的な司法の結実であり、1604年制定の呪術および魔女術取締法を破棄して魔女術を再定義することにより、英国国内の魔女裁判を正式に終了させた法律であった。それまで魔女術は悪霊などと交渉する術として実行者は死刑の対象とされていたが、1736年以降は魔女術はサタン的犯罪ではなく詐欺の一種となったのである。また魔女術取締法は魔術や占いの実践によって大衆を騙す者たち全員を抑え込もうとする意図を有していた」と述べます。

 また、「ウォー・ストーリーズ」として、著者は「霊媒、骨相学者、霊視者、サイコメトリスト、手相術師、カード占い師、水晶球見者など、起訴された占い師たちの裁判記録等に目を通していくうちに、かれらが顧客になにを伝えたか、なぜそれを伝えたかが明確なパターンとして浮かび上がってくる。占い師たちが語る言葉は、占いや心霊の力の応用というよりは、基本的な心理学的判断にもとづくものである場合が多いといえる。夫や息子が軍隊にとられて連絡が途絶えがちになると、多数の女性は最悪の事態を恐れて占い師を頼ったのである。この場合、占い師はまずその場にいない家族はさいわいまだ生きていると告げる。さらに戦場からの帰還に関して心が慰められるような言葉を語ることもある」と述べています。

 第5章「戦場の幸運」として、「不運を回避する」では、13がフランスでは伝統的にラッキーナンバーとされていたことを紹介し、著者は「第一次世界大戦時に流行した無数の『幸運の絵葉書』にも描かれていたし、ペンダント型のお守りとしても人気があった。しかし英国と北米では13という数字に対する恐怖は『トリスカイデカフォビア』、すなわち『恐怖症』という専門用語まで生まれるほど深刻に受け取られていた」と述べます。また、一定の行動やシンボル、数字などを避けることで不運を回避するという発想は、第一次世界大戦の代表的な塹壕迷信の根底に存在していたとして、著者は「すなわち1本のマッチで3本の煙草あるいはパイプに火をつけると、3人の喫煙者のうちひとりが死ぬという迷信である。この発想は第二次ボーア戦争(1899~1902)の戦場で生まれたものらしいが、実際に広く浸透するのは第一次世界大戦のときであった」と述べています。

儀式論』(弘文堂) 

 拙著『儀式論』(弘文堂) では、人間の幸運を開くためのさまざまな儀式を紹介しましたが、本書でも儀式について言及されており、著者は「幸運、運命、ジンクスといった概念と、それらに影響を及ぼすための儀式は、決して悠久のかなたより伝わるものばかりでなく、また過去の痕跡として残ったものでもない。20世紀前半に出現したテクノロジーは新たな危険と独自の環境を生み出し、それゆえの独自のフォークロアと儀式も生産したのである。自動車の出現により、車体と乗員を保護するための新たなマスコットが創造されている。潜水艦は従来の航海実技を改変する新奇な環境を提供し、Uボートの乗組員のあいだに新たな信仰と儀式をもたらした。第一次大戦中の空中戦の開始、離陸するとすぐに迫りくる死の意識、そして一対一のドッグファイトが持つ孤独感は、儀式に頼ってでも生命を守りたいという強烈な心理文化を生み出したのである」と述べています。 

 第6章「塹壕の進行と護身のお守り」の冒頭を、著者は「両陣営とも、世界大戦を十字軍と称する宗教関係者の発言が見られた。フランスとイタリアのカトリックたちであろうが、ロシア正教の司祭やアメリカの福音主義者、ドイツのルーテル派であろうが、その点は一緒であった。第一次世界大戦は邪悪と戦うキリスト教の現代的闘争であり、各国の命運は黙示録の言葉で描かれた。両陣営とも、自陣営こそ堕落したキリスト教ヨーロッパを浄化する神聖な任務を与えられたと主張していた」と書きだしています。 

 また、「防弾聖書」として、著者は「第一次世界大戦を象徴する物品のひとつが、敵の弾丸あるいは榴散弾の破片で穴が空いた聖書である。今日でもそういった聖書が交戦各国の個人蔵あるいは博物館収蔵品として何十冊も残っている」と紹介し、「弾丸をくいとめて生命を救う聖書という戦場ストーリーは、およそ新しいものではない。17世紀半ばの英国内乱でも報告されているし、アメリカの南北戦争でも防弾聖書の話が出回っていた。しかし第一次世界大戦に動員された膨大な戦闘員の数、飛び交う銃弾の量、そして胸ポケットに入れられる何千万冊もの聖書を考慮すると、数百人の兵士がこの方法で命拾いしたというのは統計学的にあり得る話であろう」と述べています。ちなみに、わたしは一条真也の新ハートフル・ブログ「書肆ゲンシシャ」で紹介した別府の古書店において、初めて防弾聖書の現物を見ました。

 さらには、「ニューソートと防弾思考」として、著者は「ヨーロッパに展開された膨大な軍隊、その家族たち。かれらの圧倒的大多数のキリスト教信仰を代表するものはプロテスタント、カトリック、正教会であったが、他にも19世紀に発生してキリスト教を標榜する小規模団体がいろいろあって、それぞれ第一次世界大戦に対して独自のスタンスを有していた。たとえばエホバの証人やキリスト・アデルフィアン派は平和主義と良心的拒否によって注目を集めていたし、セブンスデイ・アドベンティスト派の兵士は土曜日の軍務を拒否して軍法会議にかけられている。心霊術教会は悲嘆にくれる遺族にカタルシスを提供していた。ニューソート運動は第一次大戦に関してはほとんど注目を集めていないが、その信仰と活動はとりわけ軍人のニーズに適合していた。ニューソートは科学的戦争のための科学的宗教として大いに宣伝されたのである」と述べています。 

 さらに、「世界的信仰」として、第一次大戦で戦った数百万人の兵士にとって、戦闘中に携帯するもしくは詠唱する聖典はクルアーンであって、聖書ではなかったとして、著者は「聖書と同様、一部のイスラム教徒はクルアーンに護符的効能を発生させていた。T・E・ロレンスは戦友にしてベドウィン・アラブの指導者アウダ・アブー・ターイに関してこう記している。『13年前、かれは120ポンドもの大金で護符の効能を有するクルアーンを買い求め、以来一度も負傷していない。実際、死神はかれの顔も見たくないのであり、仕返しにかれの兄弟や息子や部下を殺してまわった』。問題のクルアーンはグラスゴーで印刷された実に安っぽい版だったのだが、『アウダのあまりの真剣さゆえに、かれの迷信を笑う者はだれもいなかった』」と述べています。 

 数世紀にわたり、イスラム文化圏の兵士たちは護身のお守りとして「タウィーズ」を身に着けていたとして、著者は「これは首に巻いたり肩に貼ったり、腕に巻き付けるもので、コーランの一節を収めるペンダントカプセルあるいは革袋である。後年、第一次大戦の見本市ともいわれるようになる東アフリカにあって、1903年の段階でスワヒリ語圏イスラム教徒がクルアーンの20章1節を戦闘時の護身の護符として着用している記録がある。準備として香煙で燻蒸するそうである。オスマン帝国が聖戦を呼びかけている関係上、フランス軍としては自陣営のイスラム教徒兵士の扱いは慎重であった。北アフリカで戦うかれらの信仰、儀式、宗教活動などを尊重するしかなかったといえる」と述べています。 

 第7章「余波」として、著者は、歴史家たちは大戦中の超自然依存を語るにあたり、「非近代の雪崩現象」「きわめて非近代的な迷信過多」といった手垢のついた引用を用いて説明してきたことを指摘します。しかし大戦が短期間の、いわば「再魔術化」の先触れとなったという発想には問題があるとして、「魔女術と魔術の歴史家たちは、19世紀までに魔術が科学と理性に屈したとする観点を次第に拒否するようになり、科学と超自然、信仰と合理、近代と魔術のあいだで生じてきた偽りの対立を指摘するのである」と述べています。本書で紹介されたヴィジョン、出現、予兆、予言、占いそして魔術信仰などは、第一次世界大戦につながる数十年間でも十分に見てとれるものであり、その後の年月でも姿を現し続けました。また、「戦争に行った男たちの多くは伝統的な魔女術と魔術の文化で育っており、戦争から戻る先はいまだ人々が超自然的な力を恐れる共同体であった」と書かれています。

 大戦中、英国では心霊術系組織の会員数に目立った増加はありませんでしたが、戦後の20年間は着実に増加しています。アーサー・コナン・ドイルやオリヴァー・ロッジのような人々が1920年代を通して効率よく心霊術を普及させていった結果でした。心霊術の一般公開に関しては、少なくとも都会では新たなプラットフォームが登場したとして、著者は「ロンドンではロイヤル・アルバート・ホールのような場所で数千人を集めて行う大規模交霊会が流行していて、スター霊媒師が死者と語り合うさまをファンが熱心に見つめる図式であった。こういったイベントとホーム・サークルのあいだには、心霊術のさまざまな教義にそれほど詳しくないが、セラピーとしての死者接触という基本概念は直接知っているという人口層が存在した」と述べています。

 カトリック系出現の領域でいえば、西ヨーロッパのマリア出現は戦時中よりも戦後のほうが数が多いことを指摘しつつも、著者は「もっとも19世紀中はマリア出現はかなり定期的なイベントであったことも留意すべきであろう。1932年から1935年にかけて、ベルギーではこの種の出現が伝染病の如く広がり、さらに聖痕、血を流す磔刑像、奇跡的治癒などの報告が相次いだ。最初はフランスとの国境近くにあるワロン地方のボーレンという小さな村で発生している。同村の児童たちが聖母マリアの出現を30回以上目撃したと主張している。ワロン地方は第一次大戦中に戦場となり、ドイツに占領された経験があるため、この地方の住民がヒトラーの台頭に対して抱いた懸念が連続的奇跡として表出したという説も提唱されている」と述べています。

 1933年から1940年にかけてドイツで相次いだマリア出現も、同様の神経的緊張の産物という説明がつくかもしれないという著者は、「さらなる出現がマーピンゲンの祠といった有名な場所で目撃されたが、新顔の女性幻視者たちによるマリア出現報告がヴェストファーレン、ニーダーザクセン、バイエルンといった地方で相次いでいる。ナチスが権力を掌握すると、ゲシュタポはこの種の幻視者たちをすぐに逮捕あるいは抑圧している。聖母マリアの訪問を受けたと主張していたニーダーザクセン州ヘーデの少女4名は精神病院に送り込まれた」と述べています。 

 第一次大戦時に始まった戦時伝聞と「迷信」の学術研究は、次の大戦ではさらに発展し、民間信仰表現のプロパガンダ的価値もきわめて体系的に利用されたとしています。著者は、「1950年にはアメリカ空軍がランド研究所に超自然思想の軍事的価値の評価を依頼している。研究所が提出した報告『心理戦を目的とする迷信の利用』は、第二次大戦の経験を踏まえ、またドイツから押収したナチスの公安関係文書も利用している。報告書の著者ジーン・ハンガーフォードが指摘しているように、『敵側の非合理的信仰を利用する』試みが戦時宣伝省によって散発的に行われていた」と述べています。 

 英国が占星術に「弱い」点はゲッベルスも気づいていたと指摘し、1942年4月28日のゲッベルスの日記には、「できるだけ早く占星術プロパガンダを始める必要がある。特にアメリカと英国でのそれには、そこそこ期待できる」と書かれていたことが紹介されます。著者は、「かれもまたノストラダムス戦争に参加していた。1939年1月、かれは第三帝国の内部で占いや予言関係の出版を禁止する一方、あちこちにばらまくためのノストラダムス予言のフランス語版の製作を命令している。バトル・オブ・ブリテンすなわち英国本土防空戦が始まると、ノストラダムスがすでに1940年にロンドンが破壊されると予言しているとの英語放送を流している」と述べています。数年後、ゲッベルスはこの戦略を再び取り上げ、「ゆえにわれわれはオカルト哲学の有名証言者たちを総動員している。ノストラダムスもまた引用されねばならない」と、1942年5月19日の日記に記しています。 

 最後に、著者は「超自然信仰と活動の連続性に関していえば、第一次世界大戦は護符とお守りの商業主義化を固めた点で影響があった。さらに魔術的な分野に機械化を組み込んだり、来世観を世俗化したり、心霊分野の心理学化を招くなどしたといえる。戦時下の新聞は、同時代における神的介入や世界の解釈との関連を再形成するうえで重要であった。戦間期の新たな危機と社会発展、とりわけ大恐慌はそれなりの役割を果たしたといえるが、第一次世界大戦とその遺産こそスーパーナチュラルなものが深淵なまでにモダンであることを確証したといえるのである」と述べるのでした。本書には驚異的な事実がたくさん紹介されており、人間がシンボルを操る「儀式的存在」であることを改めて痛感した次第です。 

 わたしは、もともと第一次世界大戦に強い関心を抱いていました。第一次世界大戦には、人間の「こころ」の謎を解く秘密がたくさん隠されているような気がしてなりません。毒ガスはもちろんですが、それ以外にも、飛行機・戦車・機関銃・化学兵器・潜水艦といったあらゆる新兵器が駆使されて壮絶な戦争が行われました。「PTSD」という言葉この時に生まれたそうですが、わたしは「グリーフケア」という考え方もこの時期に生まれたように思えてなりません。それは人類の精神に最大級の負のインパクトをもたらす大惨事だったのです。21世紀を生きるわたしたちが戦争の根絶を本気で考えるなら、まずは、戦争というものが最初に異常になった第一次世界大戦に立ち返ってみる必要があるでしょう。その意味でも、本書から多くのヒントを与えられました。限りなく知的好奇心を刺激する名著です!

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