No.1928 宗教・精神世界 | 歴史・文明・文化 『わかる仏教史』 宮元啓一著(角川ソフィア文庫)

2020.08.13

 コロナ禍で帰省できず、お墓参りができない方も多いでしょうが、先祖供養は大切です。この機会に、仏教の歴史を学ぶのはいかがでしょうか?
『わかる仏教史』宮元啓一著(角川ソフィア文庫)を再読しました。著者は1948年生まれ。東京大学文学部卒。博士(文学)。インド哲学、仏教学を専門とし、2009年に中村元東方学術賞を受賞。現在、國學院大学文学部(哲学科)教授。『仏教かく始まりき』『ブッダが考えたこと』『仏教誕生』『日本奇僧伝』など多数の著作があります。

本書の帯 

 カバー図版には、狩野一信「五百羅漢図 第57幅 神通」部分(増上寺蔵)が使われています。帯には「インド、中国から日本まで」「仏教のすべてを歴史から徹底整理!」と書かれています。

 カバー裏表紙には、以下の内容紹介があります。
「上座部か大乗か、出家か在家か、実在論か唯名論か、顕教か密教か――。ひとくちに仏教といっても、その内実はさまざま。国と時代を超えて広められた仏の教えはいかに枝分かれし、豊かな思想の森をつくりあげたのか。インドに花開いたブッダの思想が中国において整理され、やがて日本に根づくまでをインド哲学の第一人者が徹底解説。空海、法然、親鸞ら国内の名僧も簡潔に位置づけ、流れがわかって疑問が解ける仏教入門の決定版!」

 本書の「目次」は、以下のようになっています。
「はじめに」
I  仏教誕生
1.仏教が生まれたころ
2.ゴータマ・ブッダの生涯
3.ゴータマ・ブッダの仏教
II  初期仏教
III 部派仏教
IV 大乘仏教
1.初期大乘仏教
2.中期大乘仏教
3.大乘仏教の哲学
4.密教と後期大乘仏教
V  チベット仏教
VI 中国仏教
1.仏教の伝来
2.南北朝時代の仏教
3.隨唐時代の仏教
4.宋代以後の仏教
VII 日本仏教
1.はじめのころ
2.平安仏教
3.鎌倉仏教
4.室町時代から安土桃山時代の仏教
5.江戸時代の仏教
「おわりに」
「参考文献」

 I 「仏教誕生」の1.「仏教が生まれたころ」には、「解脱へのあこがれ」として、「輪廻を救いのように考える人びとは、再生ということだけに注目しています。ところが、インド人は、再死に注目したのです。人生は苦しいことばかり、そしてその苦しみのはてに死が待っている。今生ではいつかは死ななければならないとはいえ、死ぬのはたった一度のことでもいやなことだ。輪廻ともなれば、再死につぐ再死で、無数回、死の苦しみを味わわなければならない。おお、なんといまわしいことか。インド人はそのように考えたのです」と書かれています。

 3.「ゴータマ・ブッダの仏教」では、「どうやって目覚めるか――戒定慧の体系」として、「六師外道のうちの幾人かは、善悪の超越、価値のニヒリズムを表明しています。しかし、出家になりたての初心者に、いきなり善も悪もないと教えてしまいますと、その人はなにをしでかすかわかったものではありません。ゴータマ・ブッダは、出家となってまだ日の浅い人びとには、善を行い、悪をやめよと厳しく説きました。このあたりは、かれのわりあい独自の考えではなかったかと思われます。かれは、善を行えば心は落ち着くが、悪を行えば心が乱れるといっています。心が乱れていては、修行に集中することがむずかしくなります」と書かれています。

 また、「慈悲は修行の手段」として、「そもそも修行の目標は、根本的生存欲を断つことです。そこにいたるためには、心が乱れていてはいけません。したがって、生きとし生けるものにたいして、敵愾心をもったり、乱暴なことをしていては、心の平安はいつまでたっても得られません。慈しみ、慈悲という心の姿勢をよく保っていれば、心が乱れることがありません。すなわち、慈しみ、慈悲というのは、それ自体が目的なのではなく、あくまでも、修行をよりすみやかに完成させるための手段であると、ゴータマ・ブッダは考えたのです」と書かれています。

 さらに、著者は以下のように述べています。
「成道後のゴータマ・ブッダにあっては、『捨』は完全なものであり、『慈』も『悲』も『喜』も、すべて、意味のない世界をあたかも意味があるがごとくに生きるための方便にほかなりませんでした。つまり、ゴータマ・ブッダは、慈悲の問題を、きわめて実際主義的(極言すれば便宜主義的に)とらえていたのです。時代が経過するにつれ、慈悲は、根本的生存欲の否定という問題と切り離されて独り歩きし、肥大化していき、ついには大乗仏教の『満ちあふれる慈悲』へと展開していくのですが、この過程は、いうまでもなく、ゴータマ・ブッダという仏の行跡がどんどん神話化して伝えられていく過程と軌を一にしているのです」

 IV「大乘仏教」では、「非僧非俗の法師たちについて」として、法師は非僧非俗だと指摘したうえで、著者は「簡単な戒を受けた(出家見習いの沙弥程度)という意味では非俗の出家なのですが、僧にあらず、つまり出家の集団特定の寺院に属するものではないのです。我が国でも、教信沙弥、蓮胤を号した鴨長明、死ぬまで権勢を振るった清盛入道や後白河法皇、西行法師、兼好法師、観阿弥、世阿弥など、みなそうした自由なライフスタイルを取った法師たちが無数に現れ、日本の歴史・文化の形成に多大な貢献をしました」と述べています。

 また、著者は「ブッダの教えの口伝を担う出家たちが厳しい戒律の下で集団生活をしながら必死にけっしてまちがうことの許されない暗記に励まなければならないのにたいして、書伝(文伝)で済む大乗仏教の徒たちは、集団生活をしなければならない必要がまったくありませんでした。ですから、インドの地にあって『大乗教団』がなかったというのは、しごく当たり前のことなのです。大乗経典の写本に異読・異本が目立つのはまさにこのためなのです」とも述べています。

 続けて、著者は以下のように述べています。
「大乗教団が成立したのはチベットにおいてでした。7世紀前半にはじめてチベットを統一したソンツェンガンポ王は、新しい国の建国理念を大乗仏教に求め、そこで大乗仏教教団を初めて設立させた、というしだいです。口伝と書伝(文伝)とがいかに異なったものであるのか、これをしっかり認識しておきませんと、とんだ迷路にはまることになりますので、ご注意を」

 さらに、著者は「供養」について、「供養というのは、花や香や水や食物などを、尊敬する人に供えてもてなすことをいいます。ですから、供養の対象は、どうしても、具体的な姿かたちをもった人物であるほうがよいということになります。大乗仏教運動は、すでに述べましたように、讃仏運動の盛り上がりの上にできあがってきたものですから、この運動の担い手たちにとって、そうした思いはきわめて強かったと想像できます。この思いの強さが高じて、ついにそれまでの禁を犯して、堰を切ったように仏像を作製しはじめたのではないでしょうか。ですから、仏像作製開始の理由は、理屈を超えた信心の情念の問題だったといってよいのではないでしょうか」と述べるのでした。

 1.「初期大乗仏教」では、「空について」として、「ことばが世界を創るというヴェーダの宗教以来のインドの伝統的な生命感覚が讃仏乗と大乗仏教の生命感覚の引き写しだということがわかれば、ことは簡単です。空(中身が空っぽ)を意味する『シューニヤ』という語は、『膨脹する』を意味する動詞語根『シュヴァー』の過去受動分詞形『シューナ』(ことばが膨脹してできたシャボン玉状態の森羅万象)の形容詞形です。つまり、一切はみな中身が空っぽの空だということは、ことばが世界を創った、創る力があるとする生命感覚の持ち主からすれば、しごく当たり前のことなのでして、そうではない生命感覚、つまりことばと森羅万象とは別物であるとする実在論を生命感覚として生きている者には、どうでもよいことであるとともに、空論者からとやかく論難されるいわれのない話なのです」と書かれています。

 VI「中国仏教」の1.「仏教の伝来」では、「伝統思想に合わせる――格義仏教」として、「『空』とか『涅槃』とか『縁起』といったような概念は、中国にはそれまでまったくなかった概念です。しかし、中国には、老荘(老子、荘子)の思想が古くから行われていました。この老荘思想は、浮世離れした思想で、遁世を基本とする仏教と雰囲気が似ていないでもありません。そこで、中国の人びとは、仏教を老荘の思想を利用して説明したり、それを手がかりとして理解を深めようとしたりしました。たとえば、般若思想における『空』を、老荘思想における『無』でもって理解したり説明したりしたのです。こうしたありかたの仏教を『格義仏教』といいます」と書かれています。

 2.「南北朝時代の仏教」では、「鳩摩羅什の活躍」として、「格義仏教を批判した道安は、より正しい仏教を中国に確立するために、西域のクッチャ(亀茲国)からクマーラジーヴァ(鳩摩羅什)を呼び寄せる活動をしました。鳩摩羅什は大いに活躍し、たくさんの仏典を漢訳しました。かれの訳語はわかりやすく、その文体はきわめて流麗で、それまでの仏典の訳風を一新しました。そこで、かれ以前の訳は『古訳』、かれ以降の訳は『旧訳』といわれ、区別されます(玄奘以降の訳を「新訳」といいます)」と書かれています。『西遊記』で知られる唐の僧・玄奘三蔵は、天竺(インド)から持ち帰った膨大な『大般若経』を翻訳し、262字に集約して『般若心経』を完成させました。そこで説かれた「空」の思想は中国仏教思想、特に禅宗教学の形成に大きな影響を及ぼしました。東アジア全域にも広まりました。

中国・西安の大雁寺で玄奘の遺徳を偲ぶ

 「空」を「無」と同義にとらえる格義仏教の影響は、『般若心経』の解釈に多大な影響を与えました。2017年4月8日、ブッダの誕生日である「花祭り」の日、わたしは『般若心経』の自由訳を完成させ、その後、『般若心経 自由訳』(現代書林)として上梓しました。これまで、日本人による『般若心経』の解釈の多くは間違っていたように思います。なぜなら、その核心思想である「空」を「無」と同意義にとらえ、本当の意味を理解していないからです。「空」とは「永遠」にほかなりません。「0」も「∞」もともに古代インドで生まれたコンセプトですが、「空」は後者を意味しました。また、「空」とは実在世界であり、あの世です。「色」とは仮想世界であり、この世です。わたしは、「空」の本当の意味を考えに考え抜いて、死の「おそれ」や「かなしみ」が消えてゆくような訳文としました。

 また、「その後の中国仏教」として、著者は「明代には、儒教のほうで王陽明が実践を重視する「知行合一」の新しい儒学を説きましたが、そこには仏教の影響が濃厚であるといわれます。清朝は、朱子学を重用したため、仏教にはわりあい冷淡でありましたが、とくに弾圧したわけではありません。中華民国時代に、仏教は近代化を図って教学研究、啓蒙活動がさかんになりましたが、中華人民共和国になって、事実上封殺され、今日にいたっています。とくに文化大革命の時代には、仏教は壊滅的ともいえる打撃を受けました。その後、仏教は少しばかり名誉を回復しましたが、仏教も含め、宗教全般は国家の厳しい監視のもとに置かれています」と述べています。

 VII「日本仏教」の1.「はじめのころ」では、「聖徳太子は日本仏教の祖」として、太子が仏教を積極的に受容したと指摘し、さらに
「それは、仏教を精神的支柱にして強力な中央集権国家にわが国を急速に仕立てるためでもありましたし、また、仏教に付随するさまざまな最先端技術(建築学、土木工学、多種にわたる工芸技術、医学など)をどんどんわが国に導入するためでもありました。国の体制を整え、国を富ますことを急がなければ、この小さな島国が大国と伍して自立することは困難だと考えたのです。国の体制を仏教の理念のもとに整えようとする意欲は、太子が作ったとされる憲法十七条によく出ています。第二条には『篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり』とあります。また、第一条の『和をもって貴しとなす』とあるのは、仏教の出家教団(僧伽、和合僧)の組織理念が合意(和合)によるものだということを踏まえています。ただ、この憲法は、強力な中央集権国家を目指すものなので、和に逆らうものは厳しく断罪するともいっています」と書かれています。

 3.「鎌倉仏教」では、「時代の流れ」として、「末法思想に正面から応えたのは浄土教です。鎮護国家の仏教は、国、共同体など社会のための仏教でした。しかし、社会が崩壊変動期に入りますと、そうした仏教は魅力が薄れ、この世では報われない個人の救済を唱える新しい仏教が待望されます。この新しい仏教こそが浄土教だったのです。不安な貴族やインテリたちには源信が、不安な大衆には空也が、大きな指針を与えました。個人の救済、これが主要テーマとなったのです」と書かれています。

 また、「情熱的な日蓮の活躍」として、「佐渡島から戻った日蓮は、また幕府に働きかけましたが、蒙古が戦に破れて一件落着したことで『外寇、内乱』の予言ははずれ、結局、身延に籠もって生涯を終えました。日蓮が提唱した新しい仏教は、みずからの内面を深く反省し、心を修める従来の現世否定的なものではなく、積極的に社会に働きかけてみずからの願望を実現することに終始する、きわめて現世肯定的なものであり、その意味で、仏教史上きわめて特異なのです」と書かれています。

 5.「江戸時代の仏教」では、「その特色」として、「江戸時代の仏教の特色は、幕府という中央権力によって、規制の著しく緩かった戦国時代の反動で、わが国はじまって以来もっとも厳しく統制されたということです。まず第一に、徳川幕府は、封建制度とはいってもきわめて中央集権的な政治体制を目指し、あらゆるところを規制しました。寺社もその例外ではなく、厳しい法度が下されました。また、寺社の取り締まりを専門に行う寺社奉行の制度も設けました。第二に、徳川幕府は、切支丹(キリスト教徒)禁制を徹底するために、いわゆる『寺請制』を作り、仏教寺院を民衆管理の末端官僚機関として利用しました。これは、仏教側が努力することなしに日本人全員がかならずどこかの寺の檀家となる制度でもあり、寺の経済は安定しましたが、そのぶん、仏教側は安逸に流れていきました」と書かれています。

 また、「幕府による厳しい統制――葬式仏教はじまる」として、著者は「徳川幕府は、鎖国政策とからめて、とくに島原の乱以降、切支丹を徹底的に取り締まりました。そのために作られたのが檀家制度、寺請制度でした。これにより、家と寺とが強制的に結びつけられました。日本人の戸籍はすべて寺が管理することになったのです。この戸籍を、宗旨人別帳とか宗門改帳といいます。結婚や移住は、寺の住職から戸籍についての証明書が発行されなければできない仕組みになったのです。また、旅行のさいも、寺の住職が発行する通行手形がなければ、関所を通ることが許されませんでした。また、人が死んだときにも、住職が死体検分をして、その人が切支丹でないことを確認しなければならないとまでされました。このため、日本人全員がかならずどこかの寺の檀家となり、葬式もその寺の関与なしにはできないことになりました。いわゆる葬式仏教の始まりです。寺の経済は著しく安定しましたが、安易に流れ、仏教者として何の努力もしない不勉強な僧、権力にあぐらをかいて堕落した僧が蔓延しました」と述べています。

 「おわりに」では、単行本を文庫化するにあたって大幅に加筆したとして、以下の点が強調されています。
「初期大乗仏教で喧伝された『一切空』の『空』は、ヴェーダの宗教由来の唯名論のごく簡単な帰結であること。すなわち、『ブラフマン』の語源である動詞語根『ブリフ』と全く同じく『膨張する』を意味する『シュヴァー』の過去受動分詞『シューナ』(ことばが膨張して出来た世界、シャボン玉様世界)の形容詞形が『シューニヤ』(中身が空っぽの)の漢訳語が『空』であるということ。ゆえに、実在論の根幹をなす論理をもって一切空を証明したとする議論はペテンに等しいこと」

 わたしも、『般若心経 自由訳』を上梓する際に、「空」の解釈については熱が出るくらいに考えに考え抜きましたので、このくだりを読んで大いにな徳できるものがありました。
 さらに著者は、「聖典を伝える方法としては、口伝と書伝(文伝)とがあり、初期仏教と部派仏教(大乗からは小乗と呼ばれる)は、論を例外として律と経は口伝で伝えられたのにたいして、大乗仏教では書伝が珍重されたこと」と書いています。これも、『儀式論』(弘文堂)の姉妹本として『聖典論』の執筆を構想しているわたしには非常に参考になりました。

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