No.1920 小説・詩歌 『MISSING 失われているもの』 村上龍著(新潮社)

2020.07.23

 22日から「GoToトラベル」が開始されましたが、全国で感染者は増え続けており、完全に「第2波」のただ中にあります。本来は23日から東京五輪が始まるはずだったというのが信じられません。この日に開催予定だった「開会式」に、わたしは参加することになっていたのです。生まれて初めての五輪の開会式参加を非常に楽しみにしていたのですが、その機会は永遠に失われてしまいました。思えば、今回のコロナ禍では、多くのものが失われたように思います。
 『MISSING 失われているもの』村上龍著(新潮社)を読みました。著者の本を読んだのは本当に久しぶりです。

 著者は、1952年長崎県佐世保市生まれ。武蔵野美術大学在学中の1976年、麻薬とセックスに溺れる自堕落な若者たちを描いた『限りなく透明に近いブルー』で群像新人文学賞、および芥川賞を受賞。代表作には、『コインロッカー・ベイビーズ』『愛と幻想のファシズム』『五分後の世界』『希望の国のエクソダス』『半島を出よ』など。

本書の帯

 本書のカバー表紙には、写真館で撮影したような母親と息子の写真、そして若い女性の顔写真がコラージュのように使われ、ノスタルジックな雰囲気を強く漂わせます。
帯には「この女優に付いていってはいけない――。」と大書され、「小説家は、母の声に導かれ彷徨い続ける。『限りなく透明に近いブルー』からひと筋に続く創造の軌跡!」「こんな小説を書いたのは初めてで、もう二度と書けないだろう」と書かれています。

本書の帯の裏

 帯の裏には「5年ぶり、待望の長篇小説!」として、「いつまでたっても決して楽に流れない龍さんに対する尊敬を感じた。これに比べたらこんなに向き合っていても私はまだ逃げている。というか、『逃げない』の極限が彼なので、しかたない。決してスカッとしたとは言いがたい最後なのに、ものすごく救われた。小説の力を思い知った」という作家・吉本ばなな氏の言葉が紹介されています。

 本書の「目次」は、以下の構成になっていますが、章名には日本映画を飾る名作のタイトルが散りばめられています。
第1章「浮雲」
第2章「東京物語」
第3章「しとやかな獣」
第4章「乱れる」
第5章「娘・妻・母」
第6章「女の中にいる他人」
第7章「放浪記」
第8章「浮雲」Ⅱ
第9章「ブルー」
第10章「復活」

 本書を読んで、わたしは、一条真也の読書館『猫を棄てる』で紹介した村上春樹氏のエッセイを連想しました。ヒッピー文化の影響を強く受けた作家として、村上春樹氏と著者は共に時代を代表する作家と目され、「W村上」などと呼ばれてきました。ノーベル文学賞候補の常連となった春樹氏が国民作家にして世界的人気作家となった今、彼に対する著者の想いには複雑なものがあると推測されますが、この『MISSING 失われているもの』という作品は、著者名を知らされずに「これは村上春樹の新作ですよ」と言われても信じてしまうほど、村上春樹っぽい作品です。よく「春樹は内を向き、龍は外を向く」などと言われますが、この作品は徹底的に人間の内面に向かっています。

 そして、著者の内面は「母」の記憶と分かちがたく繋がっています。小説なので、すべてが著者自身の人生と合致するわけではないでしょうが、母親が佐世保で教師をしていたことなど、「限りなく自伝に近いノベル」といったところでしょうか。くだんの『猫を棄てる』は春樹氏が自分の父親について語ったエッセイですが、本書は著者が自分の母親についてこれ以上ないほど深く語っています。そして、両者に共通しているのは、父や母について語ることで、自分自身について語っていることです。いずれも「自分探し」を超えた「自分の根っこ探し」であると思います。

 著者は幼い頃、旧朝鮮のほぼ南端、馬山の近くの小さな村に家族とともに住んでいました。日本が戦争に負けた日、朝鮮人たちが著者の家に押し寄せ、家族が皆殺しになりそうでしたが、朝鮮人の長老が「ここはいい、ここは襲ってはいけない」と言って、暴徒を押さえました。「ここはいい」というのはどういう意味かというと、著者の両親は雇っている朝鮮人たちに優しかったようです。敗戦後、著者の一家は軍艦で日本に引き揚げましたが、艦内では食料は支給されませんでした。残り少ない米を甲板で炊いて食べたのですが、「両親は、底抜けのお人好しで、米はほとんど残っていなかったのに、食料がなくて飢えていた人たちに握り飯を作って配ったりした。自分たちが飢えるかも知れないのにバカじゃないのかと、わたしは両親に文句を言ったが、それは間違いだときつく言われた」と書かれています。

「困っている人を助けると、いつか自分も助けられる」
母親はそんなことを言ったが、説得力があった。両親のそういった考え方のおかげで、わたしたちは朝鮮人の襲撃を免れたのだと、そのときすでに何となく気づいていたからだ。実際に、船の中で、両親たちが正しかったことを身をもって知った。握り飯をもらった人の中に医師がいて、ひどい船酔いに苦しんでいたわたしたちに、ミカンは絶対に食べてはいけない、これを食べなさい、そう言ってどこからかリンゴを入手して食べさせてくれたのだった。苦しくても、横になっていないで、なるべく起きて、立ち上がって、遠くをみるとよい、医師はそんなことも教えてくれた。
(『MISSING 失われているもの』P.120)

 このくだりを読んだとき、わたしは、『猫を棄てる』に出てくる村上春樹氏の父のことを思い出しました。2009年、エルサレム賞を受賞したときのスピーチで、春樹氏は「わたしの父は、去年90歳で亡くなりました。父はもと教師でしたが、たまに僧侶の仕事もしていました。京都の大学院にいたときに徴兵された彼は、中国戦線に送られました。わたしは戦後に生まれましたが、父の毎朝の習慣を目にすることがよくありました。彼は、朝食の前に自宅にある小さな仏壇に向かい、長いあいだ深く真剣な祈りを捧げるのです。なぜ、そんなことをするのか。一度、彼に尋ねたことがありますが、そのとき、『すべての人々のために祈っている』と答えました。そして、『味方も敵も関係ない。戦争で亡くなった人全員の冥福を祈っている』と言いました。仏壇の前に座った父の背中をながめながら、父の周囲には死の影が漂っているような気がしました」と述べました。

 この「すべての人のために祈っている」という村上春樹氏の父親の言葉は、『MISSING 失われているもの』で著者の母親が口にする「困ってい人を助けると、いつか自分も助けられる」に通じています。どちらの言葉も,徹底した「隣人性」というものに支えられています。拙著『心ゆたかな社会』(現代書林)で描いた新時代のビジョンもにも、他者への思いやりに基づく「隣人性」が欠かせません。それにしても、自分の親の思い出がこのような高い倫理観に基づく「心ゆたかな言葉」とともに在るとは、なんと幸せなことでしょうか。どんなに財産を遺すよりも、子どもの人生を良き方向に導く「心ゆたかな言葉」を遺すほうが大切であり、それこそが親の最大の役目ではないでしょうか。

 本書を読んで『猫を棄てる』を連想した理由は他にもあります。本書の冒頭から、いきなり猫が登場し、しかも著者に対して言葉をかけるからです。この猫は子猫のころから、著者の書斎で一緒に過ごしており、執筆中もいつも傍らにいる存在です。漱石の時代から、猫が作家のパートナーであることはお約束ですが、それにしても猫が人間の言葉を話すとは! 驚いた後で、著者は「猫は、何も発信していないのかも知れない。おそらくリフレクトしているのだ。わたしが思っていること、考えたことが、猫に反射される形で、わたしに返ってきている。猫の言葉ではない、わたしの言葉なのだ」と思います。そんな著者に向かって、猫はこう言うのでした。

「やっと気づいたか。よくあることだよ。別に、おかしくなったわけじゃない。無意識の領域から、他の人間や、動物が発する信号として、お前自身に届く。とくに、思い出したくもないこと、自身で認めたくないこと、意識としては拒んでいて、無意識の領域で受け入れていることなど、そんな場合に、お前は、誰か他の人間や動物や、あるいは樹木、カタツムリやミミズでもいいんだが、それらが発する信号として、受けとって、それを文章に書いたりしてきたんじゃないのか。表現者の宿命だ。表現というのは、信号や情報を発することじゃない。信号や情報を受けとり、編集して、提出することだ」
(『MISSING 失われているもの』P.6~7)

 表現することの秘密を明かしたようなこの言葉は、宮沢賢治が、生前に出版した唯一の童話集『注文の多い料理店』の「序」で、「これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらつてきたのです」という一節を連想させます。あまりにも有名な一節ですが、じつはアンデルセンの『絵のない絵本』の模倣であるという説があります。たしかにそういった見方も可能ですが、まったく違った見方もできます。そして、その見方のほうが賢治の創作の秘密と密接に関わっていると、わたしは思います。すなわち、「虹や月あかりからもらつてきたのです」という言葉が比喩でも誇張でもなく、事実そのものだったのではないかという見方です。賢治は虹や月あかりからのメッセージを受けとれる一種の霊能力者だったのではないかということです。賢治にせよ、『MISSING 失われているもの』の主人公にせよ、表現者というものは基本的にシャーマンなのではないでしょうか。それでは、著者の無意識の領域で何が起こっているのか。著者の考えをリフレインする猫は言います。

 「ミッシング。まさにそれだ。お前が、探そうとしているのは、ミッシングそのものなんだ。何かが失われている。ある世界から? お前自身から? おそらく両方だろう。お前は、今、何が失われているのかを、知りたいと思っている。確かに、何かが失われている。そして、何が失われているのかを、誰も知らないし、知ろうともしない。それで、お前は、どうすればそれがわかるのか、どこへ行けばいいのか、誰と会えばいいのかも、本当は知っている。以前、お前の背後霊について、どうのこうのと言った女がいただろう。まずあの女を探すんだな。若い女だった。確か、女優だったかな。風俗嬢だったかな。どちらでもないし、どちらでもあるかも知れない。そのあたりは、お前の専門だ。お前が好きな公園を巡り、いつものように超高層ビルが林立する景色をじっと眺めて、どこへ行けば、あの女に会えるか、考えるんだ」(『MISSING 失われているもの』P.7)

 そこから、幻の女を探して主人公の小説家は「混乱と不安しかない世界」に迷い込みます。その予兆はありました。彼は制御しがたい抑うつや不眠に悩み、カウンセリングを受けていたのです。そして、「真理子」という名の1人の女優が迷宮の扉を開けるのですが、主人公は真理子と寝たことがあるのか、寝たことがないのかもわからなくなったまま、彼女と定宿のホテルで食事をしたり、部屋で飲んだりするのでした。ここから先は夢野久作の『ドグラマグラ』みたいな現実と虚実の間、覚醒と睡眠の境界、さらにはこの世とあの世の狭間が入り混じった混沌とした世界になるのですが、ホテルの「廊下」が重要な意味を持つところや、なつかしい倦怠感など、井上陽水が作詞・作曲して沢田研二が歌った「背中まで45分」を思い出しました。日本のポップスとしてはきわめて異色なこの幻想的かつ耽美的な歌は、明らかにこの迷宮のような小説の世界観に通じます。そう、『MISSING 失われているもの』を映画化かドラマ化するとしたら、主題歌はジュリーの「背中まで45分」しかありません!

Archives