No.1910 SF・ミステリー 『嘘と正典』 小川哲著(早川書房)

2020.07.07

 梅雨前線の停滞で九州北部は記録的な大雨となり、気象庁は福岡、佐賀、長崎の3県に「大雨特別警報」を出し、135万人に避難指示しました。7月7日は「七夕」ですが、このままでは「天の川」も氾濫するような気がします。
 さて、緊急事態宣言の期間中、急にSFが読みたくなって、アマゾンで見つけた『嘘と正典』小川哲著(早川書房)を読みました。著者は1986年、千葉県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程退学。2015年に第3回ハヤカワSFコンテスト”大賞”を『ユートロニカのこちら側』で受賞し、デビュー。2017年に発表した第2長篇『ゲームの王国』が第39回吉川英治文学新人賞最終候補となり、その後、第38回日本SF大賞と第31回山本周五郎賞を受賞しています。著者の作品を読むのは本書が初めてです。

本書の帯

 本書のカバー表紙にはカール・マルクスの顔半分の写真が使われ、帯には「『SFが読みたい!2020年版』が選ぶベストSF2019国内篇第4位」「CIA工作員が共産主義者の消滅を企む表題作をはじめ、SFとエンタメの最前線を軽やかに飛翔する六篇」と書かれています。ランキングの第1位なら別ですが、「第4位」というのをことさら強調する必要があるのでしょうかね?

本書の帯の裏

 アマゾンの「内容紹介」には、こう書かれています。
「零落した稀代のマジシャンがタイムトラベルに挑む『魔術師』、名馬・スペシャルウィークの血統に我が身を重ねる『ひとすじの光』、無限の勝利を望む東フランクの王を永遠に呪縛する『時の扉』、音楽を通貨とする小さな島の伝説を探る『ムジカ・ムンダーナ』、ファッションとカルチャーが絶え果てた未来に残された『最後の不良』、CIA工作員が共産主義の消滅を企む『嘘と正典』の全6篇を収録」

 本書は、過去に早川書房の「SFマガジン」に収録された作品を中心に作られた短編集です。「魔術師」はマジック、「ひとすじの光」はサラブレッド、「時の扉」はパラドックス、「ムジカ・ムンダーナ」は音楽、「最後の不良」は流行、そして「嘘と正典」は共産主義……それぞれの作品のテーマはバラエティに富んではいますが、いずれも時間SFであることに変わりはありません。わたしは基本的に時間SFが好きなので、楽しめました。

 前に『時間SFの文法』浅見克彦著(青弓社)という本を読みました。社会理論、社会思想史を専攻する和光大学表現学部教授が200作品を超える時間SFを読み解き、タイムトラベル、並行世界への跳躍、自己の重複などの基本的なアイデアや物語のパターンを紹介した本です。それを読むと、いかに時間SFがパラドックスに陥りやすく、ガラスのように壊れやすい物語なのかを再認識しました。わたし自身は「タイム・パラドックス」という概念を『ドラえもん』のマンガで初めて知りましたが、もちろん『嘘と正典』に収められた6つの物語はそのへんはしっかりクリアしています。

 いずれもよく練られた時間SFであるとは思いましたが、特に気に入ったのは最初の「魔術師」と最後の「嘘と正典」でした。「魔術師」は、マジックとタイムトラベルという、わたしの大好物が2つもテーマになっているので、たまりません。この短編の参考文献として、『ゾウを消せ 天才マジシャンたちの黄金時代』ジム・ステインメイヤー貯(河出書房新社)、『タネも仕掛けもございません 昭和の奇術師たち』藤山新太郎著(角川学芸出版)の2冊が挙げられていますが、ともにわたしの愛読書です。わたし自身は、マジックへの想いを『遊びの神話』(PHP文庫)の「マジック」の章に書きました。

 「魔術師」では、究極のマジックとして、タイムトラベルが登場します。その方法は、動く映像、すなわち動画を使ったものですが、わたしは「なるほど」と大いに納得しました。というのも、拙著『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)にも書きましたが、わたしは映画を含む動画撮影技術が生まれた根源には人間の「不死への憧れ」があると思います。映画と写真という2つのメディアを比較してみましょう。写真は、その瞬間を「封印」するという意味において、一般に「時間を殺す芸術」と呼ばれます。一方で、動画は「時間を生け捕りにする芸術」であると言えるでしょう。かけがえのない時間をそのまま「保存」するからです。

 それは、わが子の運動会を必死でデジタルビデオで撮影する親たちの姿を見てもよくわかります。「時間を保存する」ということは「時間を超越する」ことにつながり、さらには「死すべき運命から自由になる」ことに通じます。写真が「死」のメディアなら、映画は「不死」のメディアなのです。だからこそ、映画の誕生以来、無数のタイムトラベル映画が作られてきたのでしょう。その動画の本質というものが、「魔術師」という短編SFには見事に表現されていました。

 最後の「嘘と正典」は中編というべき長さですが、スリリングな内容で、飽きさせずに一気に読ませてくれました。物語は、フリードリヒ・エンゲルスの裁判シ-ンから始まります。東西冷戦を背景に、共産主義の誕生は偶然か必然かの議論が交わされるのですが、このくだりが非常に面白かったです。クラインという名の大学生が「仮にニュートンがこの世に存在していなかったら、万有引力は発見されなかったと思いますか?」と、モスクワのアメリカ大使館で駐在武官をしているホワイトに質問します。ホワイトは、「そうは思わない」と言い、その理由について、「万有引力の発見にはストーリーがあるからだ。すでにケプラーが楕円軌道の法則や、公転周期と軌道半径の関係を発見していた。当時の科学者はその原因を探ろうと必死になっていた。ニュートンは偶然最後のピースになっただけだ。彼がいなくても、万有引力が発見されるのは時間の問題だった」と語ります。ちなみに、この問題は拙著『法則の法則』(三五館)でも取り上げました。

 次に、クラインは「ディケンズがこの世に存在していなかったら、『オリバー・ツイスト』は書かれたと思いますか?」と問いかけるのですが、ホワイトは「書かれなかっただろうね。『オリバー・ツイスト』に歴史的必然はない」と答えます。クラインは「そうなんです。そこが重要なところでして、僕が言いたいのは、歴史上の成果は2つの種類に分けることができるということなんです。ある特定の人物がいなくても存在したものと、ある特定の人物がいなければ存在し得なかったものの2つに」と言うのですが、ホワイトは「その理論は、君の研究とどう関係している?」と問うのでした。そこで、クラインは本書のテーマとなる理論を述べるのでした。

「同じ問いを、共産主義に当てはめてみましょう。現在の共産主義思想は、マルクスとエンゲルスが共同で書いた『共産党宣言』が元となっています。マルクスとエンゲルスのどちらかがいなかったとして、共産主義は存在していたでしょうか?」
「非常に難しい問いだね」とホワイトは答えた。「君はどう考えている? 共産主義は万有引力なのか、それとも『オリバー・ツイスト』なのか」
「『オリバー・ツイスト』だと思っています。それも、オリバー・ツイスト』よりもはるかに高度な歴史的偶然です。もちろん、共産主義という言葉自体はマルクスやエンゲルスと関係なく存在していましたが、いわゆる『共産主義』、つまりソビエトが採用したマルクス主義的な共産主義は、二人が出会わなければ誕生しませんでした。ヘーゲルの系譜を継いで極端な無神論者だったマルクスと、産業革命後のイギリスでチャーティスト運動に触れ、労働者の階級問題に深い関心を持っていたエンゲルス。この二人が偶然出会ったことによって誕生した思想だと思っています」(『嘘と正典』P.199~200)

 ちなみに『共産党宣言』や『資本論』が誕生した「知のリレー」については、拙著『あらゆる本が面白く読める方法』(三五館)の「DNAリーディング」のくだりで書きました。DNAリーディングは、わたしの造語で、いわゆる関連図書の読書法です。1冊の本の中には、メッセージという「いのち」が宿っています。その「いのち」の先祖を探り、思想的源流をさかのぼる、それがDNAリーディングです。当然ながら古典を読むことに行き着きますが、この読書法だと体系的な知識と教養が身につき、現代的なトレンドも完全に把握できるのです。現時点で話題となっている本を読む場合、その原点、源流をさかのぼり読書してゆくDNAリーディングによって、あらゆるジャンルに精通することができます。たとえば哲学なら、ソクラテスの弟子がプラトンで、その弟子がアリストテレスというのは有名ですね。また、ルソーの大ファンだったカントの哲学を批判的に継承したのがヘーゲルで、ヘーゲルの弁証法を批判的に継承したのがマルクスというのも知られていますね。マルクスの影響を受けた思想家は数え切れません。こういった影響関係の流れをたどる読書がDNAリーディングです。

 さて、共産主義誕生についてのクラインの考えを聞いたホワイトは「つまり、マルクスという精子とエンゲルスという卵子が受精しなければ、共産主義は生まれなかったということか」と言うのですが、クラインは「僕は今、マルクスと出会う前のエンゲルス――つまり受精前の卵子の研究をしているというわけです」と語るのでした。そして、CIAとKGBの抗争後、旧ソ連の”反体制”の技術者が発明した時空間通信によって、冒頭の裁判の瞬間に戻ろうという途方もない計画が企てられます。そこで、証人がエンゲルスが有罪となるような証言をすれば、共産主義が生まれなかったという計画なのですが、果たしてこの史上最大のミッションは成功するのでしょうか? 最後に、「正典」とは『共産主義宣言』か『資本論』のことだと思っていたのですが、じつは「時間」そのものだと知って唸りました。
 そう、この物語に登場する「正典の守護者」とは、時間を守るタイム・パトロールだったのです!

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