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U.W.F.最強の真実』

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No.1902


 『U.W.F.最強の真実』宮戸優光著(講談社+α文庫)を読みました。一条真也の読書館『自伝大木金太郎』で紹介した本と同じ講談社+α文庫のプロレス本です。社会現象にまでなるほどの大ブームを起こした新生UWFは前田日明・髙田延彦・山崎一夫の「上三人」と中野巽耀安生洋二、そして本書の著者である宮戸優光の「下三人」の二層構造でスタートしました。今年2月に刊行された『私説UWF 中野巽耀自伝』(辰巳出版)の内容に対して、宮戸氏が名誉棄損で中野氏と版元を告訴したというニュースを知りました。四半世紀ぶりに中野vs宮戸のセメント対決が法廷で実現するかもしれません。それで、両者の言い分に興味を持ったわたしは、勝手に裁判の陪審員になったつもりで、両者の著書を読み比べてみようと思った次第です。まずは先に本書を読みましたが、プロレスの本質に迫っており、思っていた以上の好著でした。

  

 これまで、一条真也の読書館『1984年のUWF』『前田日明が語るUWF全史』『U.W.F.外伝』『証言UWF 最後の真実』『証言UWF最終章 3派分裂後の真実』『証言UWF完全崩壊の真実』『完全版 証言UWF1984-1996』など、UWFに関する本を多数紹介してきました。

 2017年1月に柳澤健著『1984年のUWF』が刊行されて以来、出版界ではUWF検証本ブームというべきものが続きました。本書『U.W.F.最強の真実』はこれらの本よりもずっと前の2003年7月にエンターブレインから単行本が刊行され、2007年12月に文庫化されています。

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本書の帯

 

 本書のカバー表紙には、U.W.F.インターナショナルのリングでエースの髙田延彦が北尾光司に腕ひしぎ逆十字をかけようとしている写真が使われ、帯には「格闘技ブームの原点!」と大書され、「真剣勝負(リアルファイト)を追求し、すべてを賭けて最強団体をつくった男たちの熱きドラマの舞台裏!」と書かれています。帯の裏には、「髙田さんの引退試合に込められた意味」「プロレスの名誉を賭けた『格闘技世界一決定戦』」「蝶野発言から始まった新日本プロレスとの対立」「『週刊プロレス』編集部襲撃事件」「本物のプロレスの伝承」と書かれています。
 もちろん、旧U.W.Fや、新生U.W.Fや、さらにはU.W.Fインターナショナルのリング上で行われた試合が真剣勝負(リアルファイト)でなかったことは今では周知の事実ですが、本物のプロレスを追求したことも事実です。

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本書の帯の裏

 

  カバー裏表紙には、以下の内容紹介があります。
「あらゆる格闘技のスタイルが乱立し、多くの団体が設立されては解散していた激動の1990年代初頭。U.W.F.は、プロレスの『ショー的要素』を廃し、真剣勝負(リアルファイト)を追求することで、熱狂的なファンを獲得した。順風満帆に見えたU.W.F.だったが、度重なるルール変更や資金繰りの悪化から崩壊がはじまる......。髙田延彦、桜庭和志など多くのスターを輩出し、さまざまな仕掛けでファンを魅了した最強団体の誕生から崩壊までの舞台裏に迫る!」

 

 本書の「目次」は、以下の構成になっています。

「文庫版まえがき」
「まえがき」
プロローグーー髙田さんの引退試合に込められた意味

第一章 夢に導いてくれた選手たちとの出会い

第二章 離合集散、U.W.F.の混迷の日々

  1.多くの不満を抱えさせられた新生U.W.F.
  2.U.W.F.はこうして解散した!

第三章 U.W.F.インターナショナル革命

第四章 ファンを熱狂させた数々の「仕掛け」

  1.仕掛人として動いた数々のビッグマッチ
  2.元横綱・北尾との決戦!
  3.他団体も怖れたUインターの情熱
  4.Uインターの強豪外人はこうして育成した
  5.1億円トーナメントの真実

第五章 最強団体が消滅した日

  1.ヒクソン道場での大失敗、そして会社への不信感
  2.Uインターが目指したものとは何か?
  3.髙田さんの引退発言、新日本との対抗戦、そして
  4.そして‟Uインター"の実体は完全に消えた

第六章 本物のプロレスの伝承

  1.私が見た髙田vsヒクソン戦の舞台裏
  2."最強"のプロレスを再び世に送り出すために
  3.キャッチアズキャッチキャン復興
「文庫版あとがき」 

 

 「まえがき」の冒頭を、著者はこう書きだしています。
「2002年11月24日、自分自身の人生の中でも一番熱かった時代を一緒に駆け抜けさせてもらった髙田延彦さんが引退された。私は引退試合の相手である田村潔司選手のセコンドとして、エプロンからこの試合に立ち会うことができた。試合のゴングが鳴った瞬間、私の中から‟今"という時が消え、過去のU.W.F.インターナショナル時代のリングの中へ引き戻されてしまったような感覚に陥った。U.W.F.インターナショナル......髙田さん、安生洋二さん、鈴木健さん、そして私自身、本当にみんな熱かった。もう、そのUインターはないが、‟髙田さんが引退された""という、私自身にとっても何かひとつの節目と感じるこの"時"に、Uインター、そして私自身が通ってきた道程を書き記してみたいと強く感じたのだ」

 

 髙田の引退試合は髙田のKO負けという形で終わりましたが、著者は「本当に髙田さんらしい最後だったと思う。あんな引退試合を見せてくれた選手は、かつて誰もいなかっただろう。タムちゃんも良くやったと思う。『蹴って来い!』と言わんばかりに出す髙田さんの脚を、よく最後まで思いっきり蹴り続けたと思う。あれは身内の中でもタムちゃんにしかできなかった大仕事だった。試合が終わって、安生さんや高山善廣もリングの上にいた。髙田さんとタムちゃんが握手した。私自身もそこにいることが、すごく幸せだった。そのとき、髙田さんが最後の相手にタムちゃんを指名したことの意味がわかった気がした。あの日、あのリングは、まさしくU.W.F.インターナショナルだった」と述べています。

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猪木vsロビンソンのNWF世界戦のポスター

  

 著者はわたしと同じ1963年生まれですが、子どもの頃からプロレス大好き少年だったそうです。毎週金曜夜8時になると、テレビの前に正座して「ワールド・プロレスリング」を観たそうです。アントニオ猪木vsストロング小林戦や猪木vs大木金太郎戦にも衝撃を受けたそうですが、子ども心に最大のインパクトを与えられ、その試合によって未来を決定づけられたのが、小学校6年生のとき、1975年12月11日、蔵前国技館で行われた猪木とビル・ロビンソンのNWF世界ヘビー級選手権試合でした。当時、神奈川県の二宮に住んでいた著者は、どうしてもこの試合だけは生で観たくて、片道2時間以上かけて蔵前まで観に行ったそうです。試合終了が夜10時近くて帰りは遅くなりましたが、帰り道もずっと興奮しながら「自分の道はコレだ!」というものが自分の中に芽生えたとか。

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猪木vsロビンソン(本書より) 

 

 その猪木vsロビンソン戦について、著者は「今、私自身、プロとして、あるいは観客の側に立って改めて、あの試合のビデオを観ると、レスリングの技術的な部分であるとか、そういった細かいところでは、たしかにロビンソンが上回っているが、60分フルタイム、すべて観終わってみると、やはりアントニオ猪木の試合というか、たとえ押されていた試合であっても、猪木さんの印象が強い試合の気もする。たとえば両者のことを何も知らない外国人であるとか、プロレスファンではない人にあの試合のビデオを観せて、どちらの印象が強く残っているか? と聞いたら、猪木さんという人が多いのではないかと思う。そういう意味では、やはりあの試合は、プロとしては『アントニオ猪木の試合』であったといえよう」と述べています。 

 

 猪木もロビンソンも本物の強さを持ったプロレスラーでしたが、プロレス史上最強の「鉄人」として知られるルー・テーズによれば、2人に対する評価は微妙に違ったようです。第四章「ファンを熱狂させた数々の『仕掛け』では、「オールドタイマーとの出会いで知った本当のプロレス」として、テーズが「レスラー」「シュート」「ワーカー」「パフォーマー」という言葉でレスラーを区別していたことを紹介しています。それによれば、猪木はレスラーで、ダニー・ホッジやビル・ロビンソンはシュート、Uインターでロビンソンと試合をしたニック・ボックウィンクルはワーカー、ジャイアント馬場はパフォーマーだそうです。レスラーとシュートというのは、非常に重複している部分もあるのですが、テーズの中では「シュート」の方が上でした。

  

 では、「プロレスの神様」と呼ばれたカール・ゴッチはどうかというと、もちろんシュートです。しかい、「ゴッチを超えるロビンソンの技術」として、著者は「旧U.W.F.のときなどもカール・ゴッチさんに教わったことはあった。カール・ゴッチといえば、日本では"神様"という表現をされていた人であったし、プロレス界である種特殊な存在だと思っていた。しかしカリフラワーアレイクラブで、ルー・テーズさんをはじめ、いろいろな古い人たちと会うことによって、ゴッチさんだけが特殊なわけではないなということはもう、私たちにはわかってきていた。昔はこういう人がゴロゴロいたんだなということが。さらにロビンソンさんに教わったときに、『ちょっと待てよ?』と思ったのだ。たしかにゴッチさんのトレーニングも凄いが、技術で言ったらロビンソンさんのほうが数段上だということに気付かされたのだ。それこそロビンソンさんを100とすると、ゴッチさんは60くらいという感じになってしまう」と述べています。 

 

 さて、本書を読んでまず驚いたのは、著者が中学生の頃から前田日明と親しくしていたという事実です。新日本プロレスの道場を見学したときに知り合ったそうですが、前田は宮戸少年を弟のように可愛がり、練習を見てくれたり、本をたくさん薦めてくれたり、ステーキなどの外食を御馳走してくれたそうです。著者は「私は前田さんと出会いまでいわゆる先輩や先生に可愛がってもらったことは、実感として本当になかった。そんな自分が前田さんには本当に甘えられたし、前田さんもとても良くしてくれた。知らない間に前田さんは、私にとってかけがえのない先輩、師匠になっていた」とまで述べています。前田がヨーロッパに武者修行に出かけるときは空港で小遣いを貰ったり、佐山聡のスーパータイガージムに紹介してくれたりと、著者にとって前田はいくら感謝しても感謝しきれないほどの恩人であることがわかります。それなのに、新生U.W.F.が解散したのは、著者が前田に対して反抗的な態度を取ったことが原因とされていますので、わたしは狐につままれたような気がしました。 

 

 第二章「離合集散、U.W.F.の混迷の日々」の2「U.W.F.はこうして解散した!」では、新生U.W.F.の後半、著者と前田の関係は冷え切っていたと明かされますが、著者は「私の中にも新生U.W.F.が旗揚げするときに前田さんから声を掛けられなかったこと、あるいは私や安生さんの下というのは、新生U.W.F.になってタムちゃんが来るまで誰も続かなかったおかげで、新生U.W.F.になってもまだ"新弟子"と言われ続けていたことなどの不満があった。デビューして5年も6年も経って、まだ『新弟子』なんて言われているヤツはいない。タムちゃんが入ってからも、タムちゃんは『田村』と呼ばれる。でも、私と安生さんは相変わらず『新弟子』と呼ばれている」と告白しています。これは、いつまでも若手を「新弟子」と呼び続けた前田にも問題がありますね。 

 

 前田日明に次ぐ新生U.W.F.のスターは髙田延彦でした。本書で、著者はとにかく髙田の強さについて強調し、「スパーリングでも、『オイ、リングに上がれ』と、髙田さんに言われるとゾッとしたものだ。とにかく、あの頃の髙田さんの基礎体力の凄さと強さ、そして練習に対する熱心さは凄かった。スパーリングの強さも思い知らされて、私と安生さんを含めた当時の若手たちは、暇なときは髙田さんの練習の凄さと強さの話ばかりしていた。『誰が強い?』という話になると『髙田さんにかなう人はいないでしょ』というのが、もうみんなの口癖みたいになっていた」と述べます。
 著者自身、過去いろいろな選手たちとスパーリングをしましたが、やはり髙田は一番強かったそうです。新日本の業務提携時代には髙田は新日本の若い選手たちともスパーリングをやりましたが、みんなメチャメチャにやられたとか。佐々木健介などは、髙田とのスパーリング終了後に「強いね~、ビックリするぐらい強いね」と目を丸くしていたそうです。 

 

 新生U.W.F.が崩壊した後、髙田をエースとしてUインターを旗揚げするわけですが、ここで、著者の中野巽耀についての記述が出てきます。第三章「U.W.F.インターナショナル革命」では、「山崎・中野はいらない!」として、著者は「Uインターの旗揚げメンバーの中で、Uインターがどういう経緯で、みんなのどんあ思いでできた団体なのかを知らないのは中野さんと山崎さんのふたりだけだ。これから一致団結して、みんなが同じ志を持って、この団体をなんとかやっていこうという時に、その経緯も知らない人があとから入ってきて、自分たちと一緒にやること自体おかしいと思ったし、正直言ってそういう人には入ってほしくなかった」と述べています。中野と山崎はずいぶんな言われようですが、じつは中野の著書である『私説UWF 中野巽耀自伝』にも、山崎のことはボロクソに書かれており、新生U.W.F.やUインターの中で、山崎がいかに人気がなかったのかを知りました。いわば、国際プロレスでのグレート草津のような存在だったようです。 

 

 新たに出発したUインターで、著者はマッチメーカーとして活躍します。プロボクシングの元世界ヘビー級王者トレバー・バービックに続いて、エース髙田の「格闘技世界一決定戦」の相手となったのは大相撲の元横綱・北尾光司でした。禁断の「八百長発言」でSWSを解雇された北尾と交渉を開始したとき、北尾サイドは「なんで、U.W.F.が?」と驚き、Uインターの内部スタッフも同じ反応だったそうです。著者は「みんなが『北尾?』『北尾? えっ?』という具合だった。でも、ヒットするマッチメークというのは、本来そういうものだと思う。みんなが『えっ?』と思うような、ちょっと意外なところ、思いも寄らない部分がないと、そのマッチメークは本当の意味での成功はないというのが私の考えとしてある。たとえばファンのアンケートを読んで、そこから思いつくようなマッチメークなんかは、本当は面白いわけがない。それは想像がつくマッチメークということだからだ。みんな一瞬『えっ?』と引くような、そして一瞬遅れて『でも観たいね、それ!』というのものでなければ、本当の意味でみんなが驚くようなマッチメークにならない」と述べています。 

 

 この著者の考え方は良く言えば「意表をつく」であり、悪く言えば「奇をてらう」ということだと思います。その発想と仕掛けは一貫してアグレッシブであり、髙田とともに「週刊プロレス」の編集部を襲撃したり、「髙田さんと闘ってもいい」という蝶野正洋の発言を逆手にとってルー・テーズを連れて新日本プロレスに押しかけたり、「1億円トーナメント」を開催するとして、新日本の橋本真也、全日本の三沢光晴、WARの天龍源一郎、リングスの前田日明、パンクラスの船木誠勝に公開挑戦状を送ってみたり、とにかくトラブルの連続でした。Uインターを終わらせるきっかけとなった新日本との全面対抗戦に(蝶野との試合が組まれていた)著者は出場しませんでしたが、じつは新日本との対抗戦ではなく、収監されたマイク・タイソンを髙田が面会に行くという計画を立てていたそうです。著者は、「私の作戦としては、髙田さんと一緒に面会に行って、もしタイソンとなんの仕切りもなく面会できるのであれば、その場でケンカを仕掛けようと思っていた。そこから、あわよくば闘いにもつれ込ませてしまうという作戦だ。おそらくケンカを仕掛けても看守などから、すぐに止められてしまっただろうが。ただし、それは間違いなく大ニュースになったと思う」と述べているのには驚きを通り越して、呆れました。 

 

 もちろん髙田はそんな非常識な行動は取らなかったでしょうが、ある意味でクレイジーな著者の数々の仕掛けを黙認し続け、結果としてUインター崩壊を招いた髙田にも大きな責任があります。著者のアグレッシブな仕掛けの最大の失敗が、安生をヒクソン・グレイシーの道場破りに行かせたことでした。その流れで、髙田はヒクソンと2連戦して惨敗するわけですが、著者は「髙田さんの2連敗で抱いたプロレスへの危機感」として、「髙田さんのヒクソン戦での負け、2連敗というのは、柔術やヒクソンに負けたというyりも、私の見方で言えば『時代』というものにやられたのだと思う。どういうことかというと、Uインターというのはある意味、プロレス界のタイムマシンだった。プロレスというのは、いろいろな時代の流れがあって、かつては今のアルティメットを超えるような、それこそ『プロレスのルーツはパンクラチオンだ』なんて言われているように、生きるか死ぬかという闘いだった時代もあるわけだ」と述べています。 

 

 また、著者は「グレイシー柔術のアルティメットスタイルというのは、格闘技の歴史で言えば大昔のスタイル。パンクラチオンの時代に近いスタイルだった。パンクラチオンはプロレスのルーツでもある。だからプロレスもまた、古き時代のレスラーたち、あるいは古き時代のレスリングをもっと突き詰めていたならば、グレイシーに負けることはおそらくなかったと思う。事実、レスラーたちもそういうものに慣れてからは、実際に負けなくなってきた。だから本当にあの髙田vsヒクソンというのは、ヒクソンによって、柔術によって"歴史""時代"をぶつけられ、現代のプロレスが過去という"時代"にやられてしまったと、私は直観的に感じた」と述べています。この著者の直観は鋭いと思いました。 

 

 さらに著者は、「グレイシー柔術はプロレス柔術」と喝破します。ブログ『最強の系譜』で紹介した名著に詳しく書かれていますが、20世紀前半1920年代までアメリカで「プロレス」と呼ばれていたものは「キャッチアズキャッチキャン」と呼ばれるスタイルで、シュートの格闘技でした。アメリカやヨーロッパでは、1900年代前半に多くのプロレス対柔術の試合が行われ、そこでは、レスラーたちが平気で道着を着用して柔術家に勝っています。1940年代に入ると、キャッチアズキャッチキャンの試合は見られなくなりますが、その技術はルー・テーズに代表されるアメリカのシューターたちに伝えられ、ヨーロッパではカール・ゴッチやビル・ロビンソンたちに伝えられたのです。しかし、30年代後半から、プロレス界はショー的方向に加速度的に走り出してしまい、キャッチアズキャッチキャンの色彩をどんどん失っていきました。 

 

 それに対し、レスラーとの闘いの歴史の中でキャッチアズキャッチキャンの闘い方を学んだ一部の柔術家は、その闘いの方法を自分たちのものとして研究を重ね、磨いていきました。著者は「それがグレイシー柔術であると思う、彼らの柔術はそうう意味で日本で育った純粋柔術ではないと言えるだろう。歴史を見れば、彼らは怒るかもしれないが、キャッチアズキャッチキャンを取り入れた『プロレス柔術』なのだ。しかし、今の彼らの栄光も決してすぐにあった訳ではない。その学んだ柔術を何十年もあたため、研鑽し、やっと、ホイス、ヒクソンの代で今の表舞台に出て来たのだ。プロレス界が本質を見失いビジネスに走っている間に......。それでは負けるのは当たり前である」と述べます。わたしはこれを読んで、目から鱗が落ちた思いがしました。たしかに、グレイシー柔術のルーツはプロレスにあると考えられます。そんな流れの中でも、桜庭や田村はグレイシー柔術に負けませんでした、なぜか? 「それは、彼らの育ったUインターの中にプロレスの本質(技術的、精神的、にくたいてきにすべて)があったからだと思う」と、著者は述べています。 

 

 田村、桜庭だけではなく、金原弘光、高山善廣、山本喧一など、Uインター出身の選手は総合格闘技でも強さを発揮しました。著者は、「なぜUインター道場から彼らが育ったのだろうか。それは、あの道場にプロレスの本質があったからだと私は思っている。そこで、我々が昔に戻る作業をしていたからである。Uインターの道場では、新しいことをやっていたのではない。ルー・テーズと出会い、ビル・ロビンソン、ダニー・ホッジ......彼らと触れ合うことなもすべて、昔に、キャッチアズキャッチキャンの時代に戻る作業をしていたのだ。もちろん、そこから巣立った彼らがそんなことを意識していたかどうかわからないが、道場で行われていたのは、そういうことだったのである」と述べるのでした。わたしは「謎が解けた!」と、膝を打ちましたね。 

 

 そして、髙田の引退セレモニーに言及したくだりは感動的です。著者は、「人はみんな、髙田さんが引退したあの日の光景を『Uインター同窓会』といった言葉で語る。しかし、Uインターに関しては『同窓会』なんて言葉は本当は相応しくない。そのようなものより、もっともっと濃い血でつながっている、同じ血縁というか、切っても切れない同じ血の人間として結ばれているような気もする。おそらく、髙田さんをはじめ、みんなとは血のつながった親戚のようなものだと思う。違うことをやったり、違う場所で過ごしたり、ときに憎しみ合うことがあっても、桜庭をはじめ、その後活躍している若い選手たちが、仮に親を否定しようとも育ってみたら親そっくりだったというように、Uインターの同じ血を持つ関係はきっと変わらないだろう。垣原、高山、金原、桜庭、山本......みんなUインターの血を引いた子どもたちだ」と述べています。 

 

 そのUインターの血の源流をたどれば、やはりアントニオ猪木に行き着きます。最近の著者は猪木と親しい関係であるそうです。正直に言うと、わたしは、ずっと著者のことが嫌いでした。「プロレスで大した実績も残してないのに仕掛人を気取っている」と反感を抱いていました。Uインター時代に新日本プロレスやリングスと揉めたときも「非常識な勘違い野郎」と思っていました。しかし本書を読んで、著者に対する見方は一変しました。「くそ」がつくぐらいに真面目な人物であることがわかりました。きっと、Uインター時代は、くそ真面目にさまざまな仕掛けを行い、くそ真面目に他団体を挑発していたのでしょう。その後も、ビル・ロビンソンをヘッドコーチに迎えて東京・高円寺に格闘技ジムジム「U.W.F.スネークピットジャパン(現在はC.A.C.Cスネークピットジャパン)」を設立。現在も同ジムでプロレスと格闘技の普及に努めて、くそ真面目に活動されています。ある意味で、著者は「求道者」なのだと思います。 

 

 求道者としての著者の生き方は料理にも反映されているようで、著者は料理が得意なことで知られます。若手時代から著者がちゃんこ番のときは「おいしい」と前田や髙田の評判も良かったとか。Uインター時代は"中華の鉄人"周富徳をもじって「宮戸味徳」(みやとみとく)を自称していたほどで、最近では、著者がプロレスにハマるきっかけとなったアントニオ猪木も著者のちゃんこに夢中だそうです!