No.1893 宗教・精神世界 『エクソシストとの対話』 島村菜津著(講談社文庫)

2020.06.07

 『エクソシストとの対話』島村菜津著(講談社文庫)を紹介します。著者は実在のエクソシストを追って、イタリアで社会学者、民俗学者、司祭に取材を重ね、ついに「除霊」の現場に立ち合うことに成功しますが、その模様が本書には余すところなく書かれています。本書は、21世紀国際ノンフィクション大賞の優秀賞を受賞しました。著者は1963年、福岡県生まれ。ノンフィクション作家。東京藝術大学美術学部芸術学科卒。

本書の帯

 本書の帯には「エクソシストとは超一流のセラピストである」と大書され、続けて「彼らが戦うのは、グローバリズムの嵐がもたらした悪魔をしのぐ恐怖――それは心の闇」「映画『ザ・ライト』でも話題の『ヴァチカン公式エクソシスト』を綿密に取材した、唯一の衝撃ノンフィクション!」と書かれています。

 カバー前そでには、以下の内容紹介があります。
「オカルト的な興味本位の対象として認識されてきた”エクソシスト”。だが、現在イタリアでは、ヴァチカン公認のエクソシストが人々の精神的な闇を癒す存在として、にわかに見直されている。実際に悪魔祓いの儀式にも参列し、数々の”現代のエクソシスト”たる神父を取材。その真実の姿に迫ったノンフィクション!」

 本書の「目次」は、以下の構成になっています。
プロローグ●聖なる階段
第一章●任命
第二章●増えるエクソシスト
第三章●特殊な能力
第四章●内なる他者
第五章●うごめく闇
第六章●魔都トリノ
第七章●そして儀式へ
第八章●深層の魔術世界
第九章●獣への変容
第十章●癒し
エピローグ●予告された死
「あとがき」

 プロローグ「聖なる階段」には、以下のように書かれています。
「カトリック辞典には、エクソシズム、悪魔祓いという言葉の語源は、ギリシャ語のエクス・ホルコス、強く誓わせるという言葉だとある。それは儀式を執り行う者が、ある人や物に取り憑いた悪霊に、そこから立ち去るように誓わせるという儀式のかたちに由来しているのだとも書かれていた。悪魔祓いそのものは、決してキリスト教だけに固有のものではない。病や不幸というものが、悪霊が憑くことによって引き起こされると信じられていた原始的社会においては、世界中に見られた、そうして今も見られる風習である。ただキリスト教のエクソシズムの場合には、その原点を、聖書の記述に負っている。同時に、他宗教のお祓いを、迷信的として認めようとはしない。聖書には、悪魔祓いの記述がそこかしこに鏤められている。中でも最も古いマルコ伝におけるキリストのエクソシズムは多く、その重要さを物語っている」

 本書の第一章「任命」は、1973年12月26日にアメリカで、1974年7月13日に日本で公開された映画「エクソシスト」の紹介から始まります。このホラー映画の歴史に燦然と輝く作品は、少女に憑依した悪魔と神父の戦いを描いたオカルト映画の代表作であり、その後さまざまな派生作品が制作されました。アメリカでは1973年の興行収入第1位を記録し、第46回アカデミー賞の脚色賞と音響賞を受賞しました。 題名となっている「エクソシスト」とは、英語で「悪魔祓い(カトリック教会のエクソシスム)の祈祷師」という意味です。この映画によって、「エクソシスト」という言葉は一気に世界中で知られることになりました。

 そのエクソシストは任命制でした。「かといって、ヴァチカンの高位聖職者たちが顔を突き合わせて侃々諤々やっているわけでも、教皇がいちいち書類に判をつくわけでもない。ならば、誰がエクソシストを選び、エクソシズムを行う資格を持つのだろうか。『教会法』1172条には、『聖務であるエクソシズムの資格は、教皇に任命権のある司教か、その司教に許可を得た司祭に限る』とある。こうして正式に任命されたヴァチカンの神父たちは、民間のお祓い師と区別するために、公式エクソシストと呼ばれている」と、著者は述べています。

 続けて、著者は「歴史的には、どのくらい遡るのかといえば、416年、教皇インノケンティウス1世の時代には、すでに司教に任命されたものだけがエクソシズムを行えるという制約がうまれている。徹底化されたのは、もっと時代が下るし、それは後に解き明かすとして、少なくとも1500年以上の間、エクソシストの任命は、教区内の司教の一存に委ねられてきた。たいていは、司教が適任だと判断した司祭を選ぶか、それぞれの修道会に相談するか、ごく稀に自分自身を任命することもある。イタリアでは、司教であるエクソシストは2012年現在、ただ1人である。また、誰かの助手を務めるなどして経験を積んだ司祭の側から、司教に働きかけるケースもあるが、これは実現しないことも多いという」と述べています。 

 『教会法』においてエクソシズムの儀式は準秘跡に位置づけられ、キリスト教の信者が神の恩恵を受けることができる7つの秘跡に次いで大切なものとされています。7つの秘跡とは、まず信仰の入り口で聖霊を受け、キリスト教共同体の一員となる「洗礼」の秘跡、思春期の葛藤を前に信仰を強化する「堅信」の秘跡、配偶者を得る「結婚」の秘跡、罪の赦しを乞う「告解」の秘跡、危険な容態にある病人が受ける「病者の塗油」の秘跡、そして聖職につく者が受ける「叙階」の秘跡です。エクソシズムは、それらを補うものとしての準秘跡となります。『教会法』では、「教会が、イエス・キリストの御名において、人、または物が、悪霊の影響から保護され、その支配下から救われることを求める式」と定義されています。

 エクソシストたちが悪魔祓いを行うとき、儀式で使う祈禱文が収められた『ローマ典礼儀式書』を使います。現在のものは1614年に作られたものを原型にしていますが、その祈禱文は804年に没したイギリスの神学者アルクイヌスが『グレゴリオ典礼』に書き添えたエクソシズムの形式と祈りを大幅に採用しているといいます。1952年、その『ローマ典礼儀式書』のエクソシズムの章には新しい文面が加わりました。著者は以下のように述べています。
「ここで注目すべき点は、この文面を作成したヴァチカンの典礼秘跡省の聖職者たちが、何もかも悪魔のせいにしてはいけない、統合失調症や鬱病、解離性障害の患者を混同してはならないと指摘し、精神医学に何歩か譲っていることだ。この加筆こそは、もっとも革新的な部分だった。その上で、本物である場合にみられる超常現象についても、敢えて断定的な口調を控えている」

 第二章「増えるエクソシスト」では、洗礼の秘跡について、「そもそも洗礼とは、キリストの死に信者を浸すことを意味すると、そこには書かれていた。そうすることで、信者は、キリストの死からの復活を追体験し、新しい命を得るのだという。つまり、聖水をかける、という小さな行為の中には、壮大な死と再生の追体験が潜んでいたのである」と書かれています。

 著者は、高名な実在のエクソシストとしてカンディド神父という老神父を取り上げます。彼の弟子でありジャーナリストのアモース神父は、カンディド神父にインタビューを行い、『エクソシストは語る』という本を出版しました。この本は、イタリアでは20刷を超え、世界中で23ヵ国語に翻訳されました。アモース神父は、やはりカンディド神父の弟子であるジャンカルロ・グラモラッツォ神父とともに、97年、国際エクソシスト協会を創立し、海外のエクソシストたちとも積極的に交流を始めていました。

 さらにヴァチカン市国内のレジーナ・アポストロールム大学では、2004年から「エクソシズム講座」まで開講されました。運営は「レギオン・デイ・クリスト」という保守派の信心会で、ボローニャに本部のある「新興宗教リサーチ&インフォメーショングループ」が、その運営を任されていました。不定期に5~6週間、毎週、木曜日に開かれ、民俗学、社会学、神学的立場からの講座だけでなく、医学や心理学の専門家も教壇に立ちます。儀式そのものは体験できませんが、現役エクソシストによる体験談の講座には、アモース神父やジャンカルロ神父も招かれました。

 最初は聖職者だけに限られていた講座でしたが、2010年からは一般にも開かれるようになりました。当時でイタリア国内には300人ものエクソシストがいるとされていましたが、ある日刊紙によれば、人々は年間50万人とも言われるエクソシストを必要としているということでした。もはや中世の遺物どころではなく、それはつとめて今日的テーマだったのです。

 著者は「なぜ、現代人が悪魔祓いに関心を寄せているのか」と問いかけます。アモース神父は、この変化の一因を昨今のオカルト・ブームに見ており、「魔術とサタニズムと心霊主義、私はこれをオカルトの木の3本の枝だとみています。そして本物の信仰が陰れば、その木が育つという歴史の原理がある。残念ながら、イエズス会がミッションを世界に送り出した時代とは違って、今では数人の老神父が寂しく暮らす修道院の維持のために、途上国からの若者たちが招かれるといった状況です。現代のカトリックは、マイノリティーに過ぎなくなったということでしょう」と述べています。

 第四章「内なる他者」では、ポーランド映画の「尼僧ヨアンナ」が取り上げられます。実際に起こった尼僧の集団悪魔憑き事件に想を得て書かれたヤロスワフ・イヴァシュキェヴィッチの小説『尼僧ヨアンナ』を基に、新たな視点から現実を見据える「ポーランド派」の代表的監督のイエジー・カヴァレロヴィッチが、さらなる抽象性と普遍性を付与して描いた1961年度カンヌ映画祭審査員特別賞受賞作品です。

 『尼僧ヨアンナ』はバロック期にフランスのルーダンにあるウルスラ女子修道院で起きた悪魔憑き騒動を素材にしたとされています。この物語では修道院長に悪魔が憑いて、それが修道院全体に広がり、果ては集団エクソシズムへと発展し、大変な騒ぎになっていきました。著者が取材したサンドロ神父という人物が以下のように述べています。「こうした悪魔に苛まれる修道女の原型は、おそらく中世の聖カテリーナやバロック期の聖テレーザなどでしょう。聖カテリーナは、ミサの度に恍惚状態に陥っていましたし、聖テレーザの場合にもしばしば忘我の境地で、キリストや聖母マリアを幻視した。そのどちらもが、悪魔に苛まれていたと記録されているのです。聖女と悪魔憑きの組み合わせは、矛盾しているように思うかもしれませんが、ある種の伝統でさえある。神に愛された者ほど、悪魔が忍び寄るというわけです」

 その後、著者はサンドロ神父に連れられ、実際にエクソシズムを受けたルチアという27歳の薬剤師の女性に会います。ルチアは体調不良に悩んでいましたが、エジプト人の神父から「あなたのうちの寝室に四角いクッションがあるでしょう。それをすぐに焼きなさい」と忠告されました。それは枕代わりにしていたクッションでしたが、これをほどくと、中から羊毛を編んで作った50センチもある蛇の人形がとぐろを巻くような形で押し込まれていたそうです。ルチアは何者から呪いをかけられたのです。

 ルチアの話を聞きながら、著者はそれまでにも親しい友人たちから幾度となく聞かされた呪い話を思い出したそうです。
「死んだ母親の枕に異物感があるので、これを裂いてみたところ、中から針が無数に刺さった人形が出てきたとか、一人暮らしの勉強机の中から、ある日、針が刺さった動物の心臓が出てきたといった話は、日常茶飯事だった。それらは、心理的パニックに陥った人間の罪悪感や嫌悪の投影だといって片づけるには、あまりにも具体的だった。ヨーロッパには、ルチアの蛇人形のように、手の込んだ細工に怨念をこめて、恋敵や憎い相手を呪うという呪術的な世界がしぶとく生き残っていた。アモース神父が、オカルトの3本柱の筆頭に挙げた魔術というのは、そうした世界を指していた。だが、信じがたいのは、これを実行に移す人間がいること以上に、呪いの力を信じる人々が大勢いることの方だった」

 第五章「うごめく闇」では、著者がバルドゥッチ神父という人物に対して、「『ローマ典礼儀式書』のエクソシズムの章を読んだ印象なのですが、その世界は、たとえば、ヨハネ黙示録にあるような光と闇、善と悪、天界と地上、キリストと悪魔の壮絶な闘争史という世界観に支えられているのですか?」と質問します。バルドゥッチ神父は「ヨハネの福音書やヨブ記の中で、たしかに悪魔は、この世の支配者と呼ばれています。ではなぜ、キリストは、わざわざ人間の姿をしてこの世に現れ、十字架にかけられなければならなかったのか。それは、その”この世の支配者”に翻弄される人間を救済するためだった、キリストは悪魔の計画を打ち砕くために遣わされたのだ、という発想があるわけです。ヨハネの手紙にも、はっきりと”悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです”とそう書いてあるのです」と答えます。

 バルドゥッチ神父は、「エクソシストたちが実践的判断によって、彼らのもとを訪れる1000人のうち20~15人を悪魔憑き、または悪魔に妨害されている人とするならば、僕は科学的判断によって、せいぜい4~6人に絞るでしょうな」と語り、さらに「悪魔学者たちの大多数は、民俗学や神学的アプローチに終始しています。しかし、悪魔をとらえるための3本柱は、神学、心理学、超心理学なのです。悪魔が存在するのか、しないのか、その性質や活動はいかなるものか、これを模索する神学的アプローチ。悪魔祓いの周辺には、神経症などと酷似した病状が観察される。そこで精神医学の原因学と現象学にも通じていなければならない。さらに司祭が隠している事柄を感知したり、空中浮遊といった現象が介在する。そこで必要となるのは、超心理学です。少なくとも私は、この3つの角度から検討するわけです」と述べています。

 バルドゥッチ神父の『悪霊』という著作によれば、1968年に悪魔に関する2冊の重要な書物が出版されました。1冊はオランダのトゥビンゲン・カトリック大学の旧約聖書研究家、ハーバード・ハーグ教授の『天使と悪魔』、もう1冊はニューヨークのジャーナリスト、ヘンリ・A・ケリイの『悪魔、悪魔学、魔女』でした。2冊ともが悪魔祓いに少なからずページを割いていましたが、これを悪魔が実在しないという前提のもとに論じていました。翌1969年には、オランダで『カトリック教義』の中に「悪魔の実在を信じるか否かは、信仰に左右しない」という一文が加わりました。それは民間の神学者たちのレベルを超えて、地元の司教たちによる判断なだけに、教会には意味の深い出来事でした。

 こうして、悪魔は死刑判決を言い渡されようとしていたのですが、著者は「それにしても、神学の世界で悪魔に死刑宣告を突きつける者たちが現れた1968年とは、いったいどんな年だったのだろう。それは、奇しくも世界中の学生たちが立ちあがった年だった。イタリアでも”68年世代”といえば、学生運動の世代だ。日本でいう団塊の世代である。ベトナム戦争の泥沼化と反戦運動の昂まり。鉄のカーテンをめぐって核戦争による終末への悲愴感が世界中に広がった。悪というものが、あまりに具体的な姿をとって出現したことで、目に見えない悪魔は、空想の産物として葬り去られようとしたのか」と述べています。

 続けて、著者は「翌69年には、アメリカのアポロ11号が、人類初の月面着陸に成功。月から眺めた青い地球の映像は、世界中の人々の宇宙観を大きく変えた。そして大統領候補ロバート・ケネディ暗殺、マーティン・ルーサー・キング牧師暗殺、ヒッピー、ドラッグ、フラワーチルドレン……。それは、世界観が大きく揺らぎ始めた年だった」とも述べています。

 第六章「魔都トリノ」では、著者はイタリア国営放送RAIのパーソナリティとして知られ、オカルト世界にも通じているというジョバンニ・マリア―ニ氏に電話取材します。マリア―ニ氏によれば、トリノにはサタニズムに何らかの関わりを持つ人が4万人もいるといいます。それに民間伝承のレベルではありますが、西欧には白魔術の大三角形というものがあり、それがプラハ、リオン、トリノだそうです。さらにはサタニズムなど黒魔術の大三角形はロンドン、シカゴ、トリノだといいます。つまり、トリノは白魔術と黒魔術の両方に属している街だというのです。

 マリア―ニ氏はトリノを「とりたてて聖なる街」と呼び、以下のように語っています。「ご存知の通り、大聖堂には聖骸布がある。マリア・アウジリアトリーチェ教会の地下には、キリストが磔刑にされた聖なる十字架の一部が納められており、キリストの血を集めた聖杯が、街のどこかに隠されているとも信じられている。聖遺物が、3つも揃っている街は、そうありません。それにドン・ボスコ、コットレンゴ、カファッソなど聖人もたくさん輩出している。偉大な聖人たちが常に悪魔の標的となったように、聖なる土地も悪魔は見逃さないのでしょうな。ある友人の白魔術師によれば、まあ、これも話半分に聞いてほしいのですが、トリノは、白と黒、光と闇、2つの魔力が拮抗し合った土地柄で、地図上に線も引けると言うんですな」

 続いて著者は、カンディド神父の教え子であるカプラ神父に会い、トリノにサタニストが多い理由を尋ねます。カプラ神父は、「現代という時代は、スピードに毒されているんです。精神生活までがせわしない。霊媒やタロット占いで幾らかのお金を払えば、一度に病気が治ったり、夫婦仲が良くなったりすると考えている人が多い。でも、そうはいかない。逆に、呪いだなどと脅されて、不安や動揺をもっと抱え込んだ挙句の果てに、ここへ来てさあ治してくれ、というわけです。人生、そんなに簡単なものではないはずなんですがね」と答えるのでした。

 第七章「そして儀式へ」では、著者はようやくカンディド神父との面会を果たし、実際の悪魔祓いについての話を聞きます。著者は、「人は、どんな理由で公式エクソシストの元を訪れるのか。引っ越した先で妙な物音がするといった超常現象、事故が続いたり、夫が保証人になって借金をかかえたというような不幸が重なった人ばかりではない。むしろ、彼女のような病を抱えている人が、近頃、増えているのだという。家族の不和、何らかのトラウマ、そうした心の状態が病を引き起こしたのか、あるいは、その逆かが曖昧で、それをこじらせている。そして不運にも、内科でも、消化器科でも、そして精神分析でも芳しい結果が得られなかった。あるいは、さまざまな病名を与えられながら、病院をたらい回しにされた、そんな人々である」と述べています。

 第八章「深層の魔術世界」では、著者は、ローマ大学トル・ヴェルガータ心理学研究所のアレッサンドロ・タミーノ教授から「もともと科学は魔術めいたものだった。どんな偉大な科学者にも、よく調べてみるとオカルトじみた側面がある。ニュートンだって、教科書には、りんごが木から落ちるのを見て万有引力を発見した人とだけ書いてあるけど、冗談じゃない。彼はほとんど錬金術師だったし、ガリレオだってネクロマツィアに参加していたし、エジソンだってそうさ」という話を聞きます。

 さらに、タミーノ教授は以下のように語りました。
「ネクロマツィアというのは、当時、流行った降霊会のことだ。ガリレオ・ガリレイといえば、”太陽が宇宙の中心にあり、地球が自転している”という学説が、聖書に反するという理由で異端とされ、教会の拷問を受けた悲劇の科学者である。そのことから、魔術と迷信の闇に科学の光をかざした人物というイメージが強いが、その科学の殉教者も、実はメディチ家お抱えの占星術師であり、死者の世界との交信の可能性を信じていた。ガリレオが支持したコペルニクスの地動説を、万有引力の法則発見によって揺るぎないものにしたのが、イギリスのアイザック・ニュートンだ。ところが、『ニュートンの錬金術』というB・J・T・ドブズの著作によれば、彼もまた錬金術、予言、神学、それに古代王国の年代学にも深い関心を寄せていた」

 さらに、タミーノ教授は以下のようにも語っています。「そうした世界観は、発明王エジソンにも遠からず当てはまる。彼は、ある時期、神智学協会を創立したロシア人の神秘主義者、ブラヴァツキー夫人に影響を受け、肉体を包み、大気からエネルギーを取りこむエーテル体というものが存在するという考えに夢中になった。晩年にさえ、神への信仰と科学的発明は、天才の内に抗うことなく共存していた」
 タミーノ教授はいわゆるユング派でしたが、エクソシズムについて、「相談者が信者でなくたって、エクソシズムは有効な場合もある。そのことはまたゆっくり話すとして、要するに相談者が、カウンセラーにはエクソシズムに通っていることを黙っておこうというくらいの弱い信頼関係ではだめだということさ。ショックなのは、多くの人たちが、精神分析によって治療されるより、エクソシズムの方にずっと満足しているってことなんだ」と語りました。

 そして、タミーノ教授は「たぶん、心理学者のもとに通うことは、あたかも自分が普通の人間じゃないと宣告されるような気がするからだろうね。その差別化が彼らにはつらい。エクソシストに”悪魔が憑依していますよ”と言われた方が、ずっとましなんだ。文化人類学のヴィットリア・アンテルナッリも指摘しているけど、そう告げられた瞬間に、彼らの病は、文化的に保証されたある次元に分類される。悪魔は常に集団で共有するもので、もはや個の問題ではなくなる。そのことで彼らの心はひとつ楽になる。それにキリスト教は、悪魔に苛まれることは、魂の浄化のための試練だというふうに考える。つまり、悪魔憑きだと呼ばれた瞬間から、彼らの苦しみは意味を持ち始めるんだ。心理学の場合、ベクトルは個人の内的体験へ向かうけれど、悪魔憑きという分類に仕分けされた途端、ベクトルは外に向かう。その人にも責任の一端はあるが、すべてが私のせいではなくなる、ということじゃないかな」と述べるのでした。

 タミーノ教授によれば、エクソシズムは超越的なものに触れる宗教的儀式であり、相談者の肉体は、物質であると同時に聖なる空間であるといいます。ある日のインタヴューで著者が「なぜ、エクソシズムにおいて、あれほど人は極端な反応を見せるのですか?」と質問すると、教授はすぐにこう答えました。
「子供が、夜中にトイレに行きたい。けれども通り抜けなければならない廊下は真っ暗で怖い。どうしても足がすくむほど怖い。その時、子供はどうするか。突然、”お化け~”と両手を上げて、大声を張り上げて廊下を駆け抜けるだろう。それが耐えがたい恐怖や不安に出会った時の我々の1つの対処法なんだよ」
 このタミーノ教授の話を受けて、著者はこう述べています。
「旧約聖書のサムエル記には、傲慢なサウル王が悪霊に悩まされる逸話があり、この時、王を癒したのは祈禱ではなく音楽である。ダビデの奏でる竪琴の音で王の心が安まり、気分が良くなってくると、悪霊はその体から退散する。このユダヤ教の聖典の逸話こそが、キリストによる悪魔祓いの原型だとみる研究者もいる」

 第九章「獣への変容」では、著者は「統合失調症の青年と芸術療法」として、タミーノ教授の専門である芸術療法について、ある患者の例をスライドで見せられます。そして、教授の以下の言葉を紹介しています。
「リズムという言葉は、ギリシャ語からきている。もともと古代ギリシャの原子論者の言葉で、彼らが万物を構成すると考えた微小な物質、アトムの動きを説明するのに使われた言葉なんだ。リズムというのは、そういう意味で、混沌とした世界にひとつの秩序をつくっていくものだといえる。リズムがひとつのかたちをつくり、そのかたちは単独で存在するのではなく、個の内部で起こっているすべてのできごと、個を取り巻くすべての人間関係がもたらすものが、かたちをつくってゆく」
「宗教から遠ざかろうという傾向の強い現代人の在り方は、我々個の精神構造の底に、儀式的な要素を封じ込めてしまった。いいかえれば、現代人は、基本的に何らかのリズミカルな儀式を渇望しているんだ。エクソシズムは、そういう現代人の渇望するものになり代わる要素を備えているんじゃないかな」

 また、タミーノ教授は「聞き慣れないラテン語の響きには、独特な音楽的リズムがある。それだけじゃない。エクソシズムの儀式は、君も知ってのとおり、基本的に司祭による憑依した悪魔や悪霊への尋問という形式をとる。よく練られた形式なんだ。初めの段階では必ずしもポジティブな反応を示さなくても、次第に患者がこの形式に慣れることで、これが有効に作用することがある。相談者が、内なる苦しみや悲しみの混沌とした状況を表現できる言葉を見いだした時、解決の糸口が見つかる。物語を組み立てながら癒されていくんだ。神父の祈りの中に、こんなフレーズを見つけたんだ。”創りたまえ、神よ、我をふたたび創造したまえ”ってね」とも語っています。この発言を聞いた著者は、「創りたまえ、それはギリシャ語のプラズマを語源とする言葉で、旧約聖書の冒頭、神が人間をかたちづくったという言葉に呼応していた。悪魔祓いの祈りには、天地創造において、混沌から人が生まれる壮大なイメージが重ねられていたのだ」と述べています。

 「シャーマニズム」として、著者は「悪魔や悪霊の憑依が、症例として精神医学の分野でようやく注目されるようになったのは、90年代に入ってからのことだ。93年、WHOによる『国際疾病分類』の中に、初めて『トランス及び憑依障害』という項目が現れた。そこには『人格同一性の感覚と十分な状況認識の両方が、一時的に失われて……あたかも他の人格、霊魂、神、あるいは力に取り憑かれているように振る舞うこと』とあり、『但し、宗教的、文化的に社会に受容されているものは例外であり、日常生活に支障をきたすものに限る』という文面が添えられている」と述べます。ある意味では、エクソシストと悪魔憑きは、一種の共犯関係にあるのではないかと、著者は言います。憑依現象は、悪魔の実在と、これを退散させる神の力の証でもあり、とりようによっては、悪魔憑きの存在がエクソシストたちを成り立たせているというわけです。著者は、「エクソシストとシャーマン。しかし、一神教のキリスト教の世界観に根ざすエクソシズムは、民間の悪魔祓いや土着的なシャーマニズムをむしろ危険なものとして遠ざけることで成立している。カトリックの世界で、シャーマンとエクソシストの比較論は御法度である」と述べています。

 著者は、タミーノ教授の助手の論文に以下の文面を見つけます。
「芸術、文化、癒しは、歴史の中で常に同時に生まれた。その昔、原始的社会において、医師は芸術家であり、司祭であり、癒し人であった。言葉、音楽、踊り、絵画、ドラマといった表現方法を知る人として彼は芸術家であり、自然と超越的なもの、目に見えるものと見えないものを結ぶ儀式を行う点で彼は司祭であり、また苦しみを取り去る癒し人でもあった」
 そこには明らかにエクソシズムとシャーマニズムを結びつける発想がありました。そのシャーマニズムのことを、宗教学者の大家ミルチャ・エリアーデは、こんなふうに定義しました。それは「エクスタシー(恍惚)技術であり、エクスタシーに必ず伴うトランス状態において、彼の霊魂は身体を離れ、天上界に上昇し、地下界に下降すると信じられている現象である」と。

 著者は、ローマ工科大学の心理学者であるステファノ・フェッラクーティ教授にも会います。彼は、アモース神父のもとに通う多くの人々の中から許可をもらった11人を対象に、どんな人がエクソシズムに通うのかという調査を行いました。フェッラクーティ教授もまた、エクソシズムの儀式には、他の宗教圏に見られるシャーマニズムに通じる何かがあり、そこには、一種の演劇療法のような要素が含まれているのだと推測していました。すると著者は、まったく異質のものに思えた日本古来の死霊や狐といったものの憑依現象にさえ、何らかの共通項が見えてきたとして、「たとえば『今昔物語集』には、文徳天皇の母、染殿后が、物の怪に悩まされ、金剛山で修行した高僧にお祓いを受ける話がある。僧が加持祈騰すると、突如、そばにいた侍女が暴れ出して、泣き喚き始める。だが、その特女のふところから正体を現したのは、狐なのである。日本では、物の怪というあいまいなものは、死霊、生霊、狐まで含めた超自然な存在の総称なのだという。そこでも憑依された人間の異様な行動、叫び、獣めく態度は、似通っている」と述べます。

 さらに著者は、「人が獣に変わるという世界中に残る伝説は、先にその動物への恐怖や迷信があって生まれたのではなく、その逆で、ごく普通の人が、何かの拍子に豹変し、獣のように吠えたり、奇妙な動きをするという現象があって、それがあまりにも印象的だったために生まれたのではないだろうか。人類が惧れを抱きつつも、切り開き、埋め立ててきた自然の残像と見るべきなのだろうか。あるいは、これを、人間の身体に備わっているひとつのシステムとは考えられないだろうか」と述べています。

 著者は、大学時代に名著『胎児の世界』を書いた三木成夫教授から、保健室に並んだホルマリン漬けの胎児の顔をひとつひとつ見せられながら、解説を受けたことがあるそうです。人間は、母親の胎内で成長する過程で、魚類、爬虫類、ほ乳類という38億年もの生命の発生史をたどるというのが三木教授の学説でした。著者は、「ならば、エクソシズム下での変化は、一種の先祖返りだとは考えられないだろうか」と問い、「たとえば『きつねつきの科学』(高橋紳吾著)という本では、狐憑きの変貌ぶりは、『個体発生的にも、系統発生的にも、時間をさかのぼる』現象ではないか、と指摘されている。それによれば、人がトランス状態に入るスイッチングを掌るのは、爬虫類や両生類とも共通する人類の最も古い脳、大脳辺縁系の扁桃体のあたりに関係がありそうだという」と述べます。

 そして、著者は「人が獣に返って、自らを治癒する。手足をばたつかせ、言葉にならない言葉を喚き散らし、身体を無軌道に伸ばしたり、丸く縮こまったりしたテレーザの動きが、まるで赤ん坊のようだったという印象が、日に日に強まってくる。彼らがエクソシズムのもとで身を浸す再生の泉が、幼児期の原初的混沌だとすれば、その底にあるものは、幼い頃の、あの得体のしれない不安や恐怖ばかりではないはずだ。きっと彼らはそこから、あの生命力に満ちていた頃の喜びや充足感をも掬いとっているのにちがいない」と述べるのでした。

 エピローグ「予告された死」では、2004年末から、ヴァチカン市国にあるレジーナ・アポストロールム大学では、定期的にエクソシズム講座が開かれていることが紹介されます。ジャンカルロ神父が会長を務める「国際エクソシスト協会」は2年に一度の国際大会を開催し、フランス、イギリス、ポーランド、メキシコ、チェコ、フィリピンなどから約200人のエクソシストたちが集います。彼らもまた、神学の基礎と広い知識を身につけ、個々の相談者と真摯に向き合う新しいエクソシスト育成のために、独自の学習会を開いています。

 そうした新しい動きの陰には、傷ましい悪魔憑き事件もあったとして、著者は「古くは、1976年、ドイツのアンネリーゼ・ミシェルという少女が、悪魔祓いの末、命を落とし、両親と2人の神父が懲役6ヵ月の有罪判決を受けた。しばしばてんかんに似た症状を呈し、大学生になると『壁に悪魔の顔が見える』などと訴え出した少女には、虫を食べる、獣のような声で喚き散らす、また十字架や聖画を粉々にするといった奇行が目立った」と述べています。

 続けて、著者は「5年間、精神科医から処方された薬を飲み続けたが、これも効かず、当人も、自分には『ルシファー、ベリアル、ユダ、暴君ネロ、ヒットラー』などが憑依していると信じていた。75年秋、ようやく両親の願いが教会に聞き入れられ、神父によるエクソシズムが週に3度、約10ヵ月続けられたが、その甲斐もなく、彼女は23歳の若さで死亡。肺炎も煩い、すっかり人相も変わった彼女の死亡時の体重はわずか31キロだった。この事件以後、ドイツでは、エクソシズムは一切、行われなくなり、『エミリー・ローズ』(2005年)というアメリカ映画にもなった」と述べています。

 「改めてエクソシストとは、何者なのだろうか」と著者は問い、「地域差や個人差は見られるものの、基本的には、厳格な形式をもった祈りの儀式だといえる。カトリック教会は、これを7つの秘跡の次に大切な準秘跡として正式に認めている。それは、天からの聖なる力が、司祭を媒介として、悪霊や悪魔に苛まれる人間たちを救済するという信仰に基づく古来の儀式である。精神医学の分野には、この儀式を、中世の遺物と一笑に付すどころか、一種の催眠療法にも似た暗示だとして危険視する向きもある。しかし、興味深いことに、心理学者たちの中には、その聖書時代から連綿と続き、練り上げられてきた儀式の中には、現代の科学ではまだよく解明されていない病や心が癒されるプロセスの謎が潜んでいるのではないか、と考えている人たちがいる。つまり、儀式の核心的な部分、司祭による憑依した者への尋問は、悪魔と名づけられた人生に圧しかかる不条理な災難と個人のドラマを紡ぎ出していく対話だという解釈である」と述べています。

 また、著者は「発生学的な先祖返りを彷彿させると指摘する人もいる。獣めくという変化は、理性の目には奇異なものに映るが、それは、苦しみや混乱に直面した人間が、それに対処するための脳に潜む機能であるという考え方である。私には、現代社会の中でぎこちない反復的な動きを強いられている人間という動物には、潜在的に渇望されている本質的な変容にも思える。そして、その変化を導くものが、エクソシズムの儀式に潜んでいるというのであるたとえば、ラテン語(司祭によってはイタリア語などの自国語)の祈りの反復する単調なリズム、額への按手という最小限の、しかし効果的なスキンシップ、聖水や十字架といった聖具の心理的効果、そうしたものが、人をトランス状態へと誘うのである」とも述べています。

 続けて、著者は「現在、脚光を浴びているのは、こうした癒しとしてのエクソシズムである。なぜなら、そこに押しかける人々の中には、精神科や心理カウンセラー、内科や外科を訪れても、芳しい結果の得られない人たち、あるいは、原因不明の現代病を拗らせている人々が増え続けているからだ。あるイタリアのジャーナリストは、エクソシストのことを、病院をたらい回しにされた人々が、最後に行き着く岸辺に譬えた」と述べます。

 著者の視点はエクソシズムから文明論にまで発展し、「グローバル化の進む現代、同じチェーン店が世界中に立ち並び、大型ショッピングセンターでは世界中、同じブランドが揃い、巨大なシネマコンプレックスではやはり、世界中、同じ映画が若者たちに提供される。現代の忙しい食卓に並ぶインスタント食品も同じならば、近郊の住宅地の風景も同じ、そんな均質化が世界を覆い尽くしてしまうような閉塞感に、私はしばしば襲われる昨今だった。ところがエクソシストたちの周辺を取材しながら、私は、まったく均質ではない世界を実感することができた」と述べます。

 続けて、著者は「そこには、癒しが起こるかもしれない特別な場所があり、心を見つめ直すための聖なる空間があった。聖母の出現した巡礼地があり、森と静寂に支配された山の僧院があった。その一方で、今度は動物をいけにえにするサタニズムの儀式があり、呪い人形がまがまがしい磁場を生み出す小部屋があった。時間もまた、気が遠くなるほどゆっくりと流れたかと思えば、ある時は、あっという間に数日間が過ぎ去った。そこにはまた、目に見えない世界への眼差しがあり、死者と生者との対話があった。そして血のつながりや年齢を超えた、深い人と人の絆があった」と述べています。

 さらに、著者は「12世紀から13世紀にかけて、歯車時計が発明されたことで、それまで日が昇れば起きて働き、沈めば家路につくといった自然のリズムに寄り添った時間の感覚が、じわじわと人工的なリズムに支配され始める。時を同じくして、魔物の棲む邪悪な森や癒しの起こる聖なる空間はどんどん駆逐され、都市の発達と商人たちの活動によって、新たな空間意識にとって代わられる。さらに貨幣というものの普及が、人間関係をも本質的に揺るがし、これを平板なものにしていった」と述べています。

 そして、著者の文明論は以下のように発展するのでした。
「ついに宇宙へ踏み出した人類は、神秘に満ちた新たな空間意識を手探りし始めている。そして、貨幣は、カード時代を通り越し、電子マネーという実感のないものに変容しつつある。さらに地球上に物が有り余るという意識は、物質主義にも陰りを見せようとしている。科学的合理主義偏重の息苦しさが、解放を求める若者たちの心を、次なる何かへ向かわせようとしている。そんな大きな空間、時間、人間関係の意識変化が、私たちの世界観をぐるりと覆そうとしているのではないか。現代にあって、エクソシズムに駆け込む人たちが増えているという現象を、私は、マスコミが指摘するように、不安や疎外感の表出ばかりだとは思わない。そこには、生き延びていく人間の逞しさや秘められたエネルギーを感じさせる何かがあった」

 「あとがき」で、著者はこのように書いています。
「日本を愛したアイルランド人、ラフカディオ・ハーンは、この狐憑きという現象に注目し、人に憑くキツネをデーモン・フォックスと呼んだ。厳格なカトリック教育を受け、西洋の悪霊が人に憑くという悪魔憑きの世界に親しんだ目には、それは、あまりに似通ってみえただろう。ハーンは、日本の憑依現象に、キリスト教が内包する古代の多神教の面影を理解する手だてを見いだした。そして彼は、〈ラテン諸国にみられる悪しき霊や良き霊の広大な宇宙が信者たちの身近にあるようなカトリックの世界観、その奇跡や聖遺物崇拝、残虐性や慰め、誘惑や禁欲といったもののすべては、異教徒の生活か、オリエントの多神教に触れなければわからない〉とも考えていた」
 本書は宗教や文明の問題を論じながら、「人間とは何か」という問題の核心に迫った大変な名著であると思います。わたしはグリーフケアの実践のためにも、これからもエクソシズムについて学びたいと思います。

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