No.1877 プロレス・格闘技・武道 | 評伝・自伝 『東洋の神秘””ザ・グレート・カブキ自伝』 ザ・グレート・カブキ著(辰巳出版)

2020.05.16

 『”東洋の神秘”ザ・グレート・カブキ自伝』ザ・グレート・カブキ著(辰巳出版)をご紹介します。2014年に刊行された本ですが、その年にデビュー50周年を迎えた往年の人気レスラー”東洋の神秘”ザ・グレート・カブキが自身のキャリアを総括する本格的自叙伝です。日本プロレスでの若手時代に始まり、一大ブームを巻き起こした全日本プロレス時代、メガネスーパーが設立した新団体SWSへの参加、平成維新軍のメンバーとして活躍した新日本プロレス時代まで波乱万丈の人生を歩んできた「プロレス界のご意見番」が今、すべてを語り尽くしています。 

 著者は、本名・米良明久。1948年9月8日、宮崎県延岡市出身。64年、日本プロレスに入門。同年10月31日、宮城・石巻市での山本小鉄戦でデビューしました。団体が73年4月に活動停止すると、全日本プロレスに合流。81年に遠征先のアメリカでザ・グレート・カブキに変身して大ブレイクし、83年の日本逆上陸は社会的ブームとなった。98年9月7日、IWAジャパンのリングで現役を引退。2002年10月に復帰し、現在は東京・飯田橋で「BIG DADDY酒場かぶき うぃず ふぁみりぃ」を経営しています。

 本書の「目次」は、以下の通りです。
「まえがき」
第1章 隠れ里伝承に包まれたミステリアスな俺の家系
第2章 15歳で日本プロレスに入門を直訴
第3章 リキ・パレスにあった「道場」という名の地獄
第4章 突然の人員整理と5万円の退職金
第5章 芳の里さんに授けられた「高千穂明久」の由来
第6章 生意気な後輩は制裁すべし!
第7章 ”若獅子”アントニオ猪木と初対面
第8章 東南アジア遠征で暴動が発生
第9章 後輩・マサ斎藤とロサンゼルスで再会
第10章 デトロイトで「ヨシノ・サト」に変身
第11章 ミツ荒川とNWF世界タッグ王座を獲得
第12章 「おまえらに俺の気持ちがわかってたまるか!」
第13章 1973年4月20日、日本プロレスが消滅
第14章 オーストラリア遠征で起きたハイジャック事件
第15章 「馬場さん、アメリカに行かせてください!」
第16章 ミスター・サイト―&ミスター・サト
第17章 「ダラスのオフィスから電話がなかったか?」
第18章 ”東洋の神秘”ザ・グレート・カブキの誕生
第19章 俺が各テリトリーで飽きられなかった理由
第20章 佐藤昭雄が仕組んだカブキの凱旋帰国
第21章 新日本プロレス副社長・坂口征二の誘惑
第22章 「受け身」と「ガチンコ」の重要性
第23章 天龍同盟と繰り広げた「アメリカンプロレス」
第24章 ハル薗田とブルーザー・ブロディを襲った悲劇
第25章 「源ちゃん、俺も全日本にはいたくないんだよ」
第26章 俺が戦ってきた外国人トップレスラーたち
第27章 新団体SWSのマッチメーカーに就任
第28章 歪んだ人間関係が生み出した2つの事件
第29章 派閥闘争の末、SWSが2派に分裂
第30章 楽しかった反選手会同盟~平成維震群時代
第31章 ”マイ・サン”グレート・ムタとの親子対決
第32章 初めて足を踏み入れたインディーの世界
第33章 49歳最後の日、10カウントを聞きながら
「あとがき」

 第1章「隠れ里伝承に包まれたミステリアスな俺の家系」では、著者が1948年(昭和23年)、宮崎県延岡市山下町で3人兄弟の末っ子として生を受けたことが紹介され、さらには以下のように述べています。
「親父は、宮崎県椎葉村の出身だ。親父自身が言うのは、先祖は平家の落人だったらしい。実際、この辺は平家の落人の隠れ里だったという伝承が残っている。あの源氏方の武将で、弓の名人として名高い那須与一の弟・大八郎が平家の残党狩りに来た際、この地で平家の娘と恋に落ち、子供を授かったという。のちに俺がザ・グレート・カブキというミステリアスなキャラクターのレスラーになったのも、そんな謎めいた血筋のせいという気がしないでもない」
 椎葉村といえば、日本民俗学発祥の地としても知られる秘境です。一条真也の新ハートフル・ブログ「椎葉村」で紹介したように、わたしも昨年10月に訪れました。たしかに、ミステリアスな場所でした。ここがカブキのルーツだったとは驚きです。 

 第8章「東南アジア遠征で暴動が発生」では、後輩レスラーであるタイガー戸口との出会いが書かれていて、これが面白かったです。日本プロレスの若手レスラーだった著者がネルソン・ロイヤルとの試合を前に後楽園ホールの選手が出入りするエレベーターの前にいると、学生服姿の戸口がやって来て、「おい、大木金太郎さんを呼んでくれよ」と言ったそうです。著者は述べます。
「カチンと来た。まだ学生服を着ているガキが偉そうな口ぶりで話しかけてきたから当然だ。『いや、俺は試合があるから、違う人間に聞いてくれ』怒りを抑えて、俺は大人の対応をした。ところが、戸口は俺の苛立ちを理解できなかったようだ。『いいから、呼んできてくれよ』俺の堪忍袋の緒が切れた。『ふざけんな! てめえ、誰に口効いてんだ!』俺はそう怒鳴ると、思いっきり戸口を殴りつけてやった。戸口は腰から落ちて、エレベーターの前でへたり込んでいた。そんな戸口に向かって『大人をナメんじゃねえぞ!』と再び怒鳴りつけると、細い声で『すいません』と謝ってきた」
 その後、2人は仲良くなり、最近では『毒虎シュート対談』という対談本まで出したのですから、人の縁というのは面白いですね。

 第18章「”東洋の神秘”ザ・グレート・カブキの誕生」では、1981年にペイントレスラーのザ・グレート・カブキとなって全米を転戦していたとき、かの毒霧を思いついた瞬間のことが書かれています。
 「ある日、面白いことを思いついた。試合後、俺はシャワーを浴びてメークを落としていた。シャワーは高いところにあるから、どうしても水が口に入ってきてしまう。オレはその口に入った水を天井に向かって、フッと噴いてみた。すると、俺の噴いた水をライトが照らして虹のようにキラキラと輝いているではないか。その瞬間、俺は『これだ!』と思った」 

 さらに、毒霧について、著者は述べています。
「毒霧は噴くタイミングが重要だ。まずは入場してきたときに一発、緑の毒霧を噴く。そして、試合中に赤い毒霧を噴くのだが、なるべくコーナーに近い場所で相手の技を受けるようにした。そうすると、相手は自然とコーナーに上り、飛び技を放とうとする。その瞬間に下から相手の顔に目掛けて、毒霧を噴き上げるのだ。そうすると、相手とリングを照らすライトが一直線上に並んでいるため、相手を包み込むように見える。これが水平に噴いてしまうと、ライトの光に当たらないので、いまいち観客にわかりづらい。あくまで下から噴き上げてこそ、観客に‟毒霧”として認識されるのだ」 

 「東洋の神秘」としてアメリカで大ブレークした著者は、その後、帰国して全日本プロレスを主戦場とします。85年頃、新日本で一大ブームを作り上げた長州力ら維新軍団が離脱して新団体ジャパンプロレスを立ち上げ、全日本に乗り込んできました。当然、著者も彼らと試合をするようになりましたが、まったく噛み合いませんでした。著者は
「なにしろ、長州たちは相手の技を受けようとしないのだ。改めて説明するまでもなく、技を受けて対戦相手を引き立たせてやることもプロレスでは重要なことである。ところが、長州たちは一方的に攻めるだけなのだ。とにかくこの頃の長州たちは自分たちが強く、カッコ良く見えればそれでいいという試合スタイルを貫いていたから、俺は戦いながらイライラしていた」と述べます。

 著者は、長州力のプロレスは認めていませんでしたが、天龍源一郎のプロレスは認めていました。全日本でジャンボ鶴田に次ぐ存在だった天龍は阿修羅・原、川田利明、サムソン冬木(冬木弘道)、北原辰巳(光騎)、小川良成らを集めて「天龍同盟」を結成し、鶴田らの全日正規軍と抗争しました。著者は正規軍として天龍同盟に対向する立場でしたが、「俺はこの時期に彼らがやっていたプロレスこそ、本当のアメリカンプロレスだと思っている。みんな勘違いしているかもしれないが、本当のアメリカンスタイルはチョップでもキックでもパンチでもバチバチやり合うものだ。しかも源ちゃんたちは攻めも激しいが、受けも抜群だった。俺は久しくこういう試合をやれていなかったし、ファンも喜んでいたので、戦いながら嬉しかったというのが本心である」と述べています。 

 第26章「俺が戦ってきた外国人トップレスラーたち」では、プロレス界の最高峰とされたNWA世界ヘビー級王者について、こう述べています。
「NWA世界王者は各テリトリーを回り、現地のベビーフェイスの挑戦を受けるのが仕事だ。大きな選手から小さな選手まで様々なタイプの挑戦者を迎え撃つわけだから、平均的な体格がいい。その方が相手が引き立つから当然だ。言ってみれば、NWAのチャンピオンは”相手の引き立て役”という側面も持っている。だから、どんな試合でもこなせるような選手が好まれる」
著者はNWA世界王者だったジン・キニスキー、ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンク、ハーリー・レイスらを高く評価する一方で、ジャック・ブリスコなどは「自分本位の試合をする男だった」と低評価を下しています。

 「あとがき」では、日本のプロレス界全体を俯瞰して、以下のように述べています。「プロレスが変わり始めたのは、馬場さんがキッカケだと俺は思っている。大仁田厚、渕正信、ハル薗田の3バカがまだ全日本の若手だった頃、馬場さんはこんなことを言っていた。『おまえら、できる技があるんだったら何をやってもいいぞ』それまでは若手がメインイベンターの使うような技を使ってはいけないという仕来りがあった。俺や(佐藤)昭雄はそのように若手たちを教えていたし、俺もそう教えられてきた。その仕来りを馬場さんが破ったのだ。規格外の体格を持つ馬場さんの技は、誰も真似できない。だから、何をやってもOKと言えるのだ。これ以後、第1試合から平気でバックドロップのような大技が出るようになった。俺は一度、大仁田と渕が第1試合で大技を使ったので引っ叩いて叱ったことがあったが、この辺は馬場さんとの間でずっとせめぎ合いがあった」 

 著者は、新日本プロレスについても言及し、「意外にも自己主張の激しいレスラーが多い新日本の前座は、そうでもなかった。俺が平成維震軍として参戦していた頃、若手は若手らしい試合をしていたし、大技が飛び出すのは興行の後半になってからだった。おそらく山本小鉄さんがしっかりと教育していたのだろう。しかし、全日本の若手が大技を使うようになっていたこともあり、新日本も次第に崩れ始めた。技を制限すると、技に頼らない試合の組み立て方を覚える勉強になる」と述べています。

 本書は、全米マットで一世を風靡した著者が、日本マット界の未来を憂う形で終わっていますが、このときからすでに6年の歳月が経過しています。71歳になった著者は、現在の日本のプロレス界をどのように見ているのでしょうか?

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