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透視も念写も事実である』

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No.1868


 今回の「ホームステイ週間」を「読書週間」と陽にとらえて、大いに本を読みましょう!『透視も念写も事実である』寺沢龍著(草思社)を読みました。2004年1月25日に出版された本です。「福来友吉と千里眼事件」というサブタイトルがついており、千里眼と呼ばれた御船千鶴子、長尾郁子、高橋貞子らに超能力(透視と念写)の実験を行い、その科学的解明に一生を捧げた心理学者・福来博士の数奇な運命をたどった本です。著者は昭和10(1935)年、大阪生まれ。平成9年、定年退職をした後、第二の人生をこれまでとは異なった世界で「自己解放」するべく著述を始めたとか。本書は、その第二作です。

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本書の帯

 

 本書の帯には「大学を追放された超心理学者・福来博士の悲劇を描いた興味津々のノンフィクション!」「貞子は実在した!」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

 本書の「目次」は、以下の構成になっています。

「まえがき」

序章  熊本からの運命の来訪者

第一章 福来友吉の故郷・飛騨高山

第二章 熊本の千里眼――御船千鶴子

第三章 千里眼への学者たちの眼差し

第四章 四国丸亀の千里眼――長尾郁子

第五章 福来友吉と「念写」の発見

第六章 千里眼事件――実験中に起きた二つの変革

第七章 東京の千里眼――高橋貞子

第八章 『透視と念写』の出版と大学追放

終章  福来友吉の晩年とその死

「あとがき」
「福来友吉年譜」
「おもな引用・参考文献」 

 

 「まえがき」の冒頭を、著者はこう書きだしています。
「いまはもう知る人もいなくなったが、明治時代末期の日本で、当時の著名な学者たちが参加して俗に『千里眼』と呼ばれる超常現象(科学では説明のできない、常識を超えた現象)の実験がさかんにおこなわれている。その様子を各新聞が競って報道したために、この千里眼問題は広く一般の人たちのあいだにも好奇の話題となって関心が高まった。そもそもこの千里眼に対する学術的実験は、東京帝国大学の心理学科の助教授だった福来友吉が研究解明を依頼されたことから始まったが、実験の対象と内容が奇異なばかりでなく、その実験中にいくつかの不可解な事態が発生したために、この千里眼問題は社会的な話題となって騒ぎがいっそう大きくなったのである」 

 

 また、著者は以下のようにも書いています。
「現代においても千里眼などの超能力の問題は、テレビなどに取り上げられることも多く、小説や映画などの題材にされる例もしばしばである。しかし、この道の先駆者ともいうべき福来友吉の実像とその研究については、いまもその正確な事実が伝えられていない。また学問上も、いまにいたるまで、なぜか歪曲された事実を根拠とする否定的な評価が多く言い伝えられてきた。透視と念写の千里眼実験は世間に大きな騒ぎを巻き起こしたが、東京帝国大学の物理学者を中心とする千里眼批判の大合唱とその研究排斥の策動に対しても、福来は、『透視は事実である。念写もまた事実である』と宣言して動じるところがなく、大学辞任後は在野の人となって孤高をつらぬき、生涯をその研究につくした。この本では、福来友吉の八十二年余の境涯をたどり、彼の学者としての業績とそれにまつわる『千里眼事件』の真相を糺し、日本の近代国家形成期の歴史のなかに埋もれた1人の学者の悲運の軌跡を明らかにしたいと思う」
 この言葉は、本書のカバー前そでにも書かれています。

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福来友吉 

 

 第一章「福来友吉の故郷・飛騨高山」では、「日本の心理学の黎明と福来友吉」として、著者は「明治維新後、文明開化に始まる日本の近代化のなかで、科学としての心理学がわが国に根づきはじめたのはいつのころからであろうか。心理学は本来、哲学の一分野として誕生し、その源流は古代ギリシア哲学にあるといわれるが、その当時の心理学は実体概念としての精神・心・霊魂を研究する思弁的な学問であった。心理学の近代史は、1879(明治12)年にドイツのW・ヴントがライプチヒ大学に世界最初の心理学実験室を開設したことによって実験心理学の基礎が築かれ、その後、心理学は哲学からしだいに分離し、独立した実証科学としての道を歩んでいる。日本において『心理学』という言葉を最初に使ったのは、西周だといわれる。彼は幕末に幕府留学生としてオランダに学んでいるが、明治11年にヘヴンの著書『心理学』を翻訳(文部省刊行)したときに、『Mental Philosophy』という語に対して『心理学』という訳語を創案した」と述べています。 

 

 日本の大学で正式に「心理学」と名づけた講座が生まれたのは、明治21(1888)年です。その2年後にこの講座を担当したのが、福来友吉の恩師の帝国大学・元良勇次郎教授でした。この事実を踏まえて、著者は以下のように述べています。
「日本では、明治34(1901)年に東京において『心理学会』が組織されて学会の活動が始まり、同年2月に第1回例会が開かれて研究が発表された。4月の第3回例会では、当時大学院生の福来友吉が、『精神活動の顕在的部分と潜在的部分』と題した研究発表をおこなっている。その後の例会においても、プログラムに福来の研究発表が数多く見られる。――やがてのちに、明治43(1910)年4月の第91回例会において、当時大学助教授の福来友吉が、熊本の御船千鶴子についての『透視の実験報告』と題した発表をすることになる」

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山川健次郎 

 

 透視という未知の現象に関心を抱いたのは、福来だけではありませんでした。東京大学元総長の山川健次郎理学博士もその1人で、彼は透視能力者として有名であった御船千鶴子の東京での公開実験で立会人の中心となりました。第五章「福来友吉と『念写』の発見」では、「物理学界の大御所・山川健次郎の千里眼への強い関心」として、山川ほどの大物が透視の現象に関心を持ったのには、2つの動機があったことが指摘されています。その1つは、彼がエール大学留学中に、学生のなかに1人の透視能力者がいて評判になったことかあったことです。山川もその実験を目撃して、理学では説明のつかない不思議な現象が存在することに驚き、学問的に研究してみたいと興味を持ったというのです。2つ目は、この透視現象に山川は未知なる物質の存在と現象の可能性を考え、新しい物質を発見したいという功名心があったというのです。じつは、このほうが大きな動機だとされています。 

 

 著者は、以下のように述べています。
「物理学の世界では、19世紀末(明治20年代~明治33年)から20世紀初頭(明治34年~明治末)にかけてのおおよそ20年の間に、従来の古典物理学では説明のつかない幾多の重要な発見があいついで起き、世界中の物理学者たちは高揚状態にあった。まず、1888(明治21)年にヘルツ(独)が電磁波を発見し、1895(明治28)年にはレントゲン(独)がX線を発見して第1回ノーベル賞を受賞している。1896(明治29)年にベックレル(仏)が放射能を発見、1897(明治30)年にJ・J・トムソン(英)の電子の発見、1898(明治31)年にはキュリー夫妻(仏)がラジウムを発見、またポロニウムを発見して夫妻でノーベル賞を受賞した」 

 

 続けて、著者は以下のように述べています。
「さらに、1899(明治32)年にアルファ線とベータ線が発見され、1900(明治33)年にガンマ線の発見、また同年にプランク(独)のエネルギー量子の発見があり、1903(明治36)年にはルネ・ブロンコ(仏)が紙や木や金属箔を透過する新種の放射線『N線』を発見したと発表してセンセーションを巻き起こし、この後には、人体や動物の体から発せられる放射線を観測したと発表する学者もあらわれた。1905(明治38)年にはアインシュタイン(独)が相対性理論を発表し、1910(明治43)年にキュリー夫人がラジウムの単離に成功した」

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御船千鶴子

 

 著者によれば、明治維新後の日本は、西洋文明を急速に取り入れることによって近代化を進め、社会全体が急激に変貌するなかで近代科学の教育と研究の体制も整備されてきたといいます。そして、物理学分野における明治後半期の西欧の輝かしい研究成果は、後進のわが国の学者たちにも大きな刺激を与えているとして、「明治43年にあらわれた千鶴子や郁子たちによる、いわゆる『千里眼』と称された透視現象に対して、わが国の科学分野の学者たちが大きな関心と興味を持ったのは、当時の世界の科学者たちの活発な研究動向と、あいつぐ新発見の刺激がその底流にあった」と述べています。

 

 続けて、著者は「当時、日本の物理学研究の先駆者として、学界の元老的な立場にあった山川健次郎が、すでに遠のいていた研究実験の第一線の現場にもどって透視の研究に乗り出したのには、そのような背景と思惑があってのことだった。このときの彼の胸中には、日本で最初にX線の追試確認に成功した自負と、レントゲンがX線発見の端緒となった偶然のエピソードが頭をよぎり、透視現象の研究による新発見への期待とその栄えある名誉を大きく思い描いていたのであろう」とも述べます。

 

 第六章「千里眼事件――実験中の起きた二つの変事」では、物理学界の大御所でありながら透視現象に関心を抱く山川がインタビュー取材に応じた「報知新聞」の記事を紹介し、著者は以下のように述べています。
「この長文の談話のなかに、山川の胸中の思いが垣間見える。彼は、透視の迷信を危ぶむ教育家らしい懸念を述べながらも、十数年前にレントゲン発見のX線を日本で最初に追試実験に成功した物理学者としての自負とともに、世界的発見の可能性をもつ千里眼の『新放射線』への関心と、もしそれが確かなものだった場合の発見者としての名誉への食指も見てとれる。当時、山川博士は56歳であり、東京帝国大学総長を退任後すでに5年を経ているが、九州の炭鉱王といわれた安川敬一郎が明治40年に北九州・戸畑に創立した明治専門学校(現・九州工業大学)の初代総裁を引き受けていた」
 山川健次郎が九州工業大学の前身である明治専門学校の初代総裁だったとは、わたしは初めて知りました。

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長尾郁子 

 

 「四国丸亀の千里眼」こと長尾郁子は、「熊本の千里眼」こと御船千鶴子を上回る能力者であるとされました。彼女は、透視のみならず念写にも挑戦し、見事に成功させます。「福来による郁子の『念写』の実験」として、著者は以下のように述べます。
「福来は、これまでの実験で得た知見を推し進めて、透視者の脳髄からある種の光線――いわば『精神線』とも称すべき物質を発しているのでなかろうかとの仮説を立てたが、そのことを世間にはまだ発表していなかった。しかし、12月26日の郁子の実験においてその確信を得たことによって、彼はその現象を『念写』と名づけ、初めて仮説の立証を発表したのである。福来は、三浦恒助が唱えた『京大光線』を否定し、郁子の念写の現象をもたらす物質は直行直線性の光線ではなく、一種の精神作用から生まれる活力によって、文字や図形を心のなかに描いてそれを写真乾板に写すものであり、その作用するものの正体を究めることがこれからの研究課題であると語った」

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高橋貞子

 

 第八章「『透視と念写』の出版と大学追放」では、御船千鶴子、長尾郁子に続いて、福来が発見した3人目の能力者が「東京の千里眼」こと高橋貞子が登場します。彼女こそ、「リング」の貞子のモデルとされた女性でした。その高橋貞子の3回目の実験後の大正2(1913年)8月7日に、福来は『透視と念写』という著書を出版します。福来は、この新著『透視と念写』の序文に、「本書は心霊問題の一たる透視および念写に関する研究結果の発表である。その現象たる、物質的法則を超絶して、ここにまったく新たなる空前の真理を顕示するものであるから、物質論者はこれに対して激烈なる驚愕と憎悪とを示している。それがため、本研究に従事して以来、余は罵言、讒誣、陰擠など種々の追害を彼らによりて加えられた。(中略)余はいかに月並み学者の迫害を受けたからとて、学者の天職として信ずる道を踏まずにはいられぬ。学者の天職とは前人未発の真理を闡明して善良なる未来を開拓して行くことである」と宣言しました。そして、本編の冒頭には「雲霞のごとく簇る天下の反対学者を前に据え置いて、余は次のごとく断言する。透視は事実である。念写もまた事実である」と書かれています。著者は「それは彼が述べようとする結論のすべてであり、断固たる主張であった」と述べていますが、この言葉が本書のタイトルに使われたわけです。

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三田光一 

 終章「福来友吉の晩年とその死」では、三田光一という能力者が登場します。昭和になってから福来がさかんに実験を行った三田光一に初めて会ったのは、大正6(1917年)2月8日のことでした。著者は、「彼とは福来の知人である岐阜県揖斐郡の坪井秀の自宅で引き合わされた。催眠術の心得のある坪井は、福来の丸亀での長尾郁子の実験にも立ち会っているが、彼は早くから三田に注目してその公開実験にかかわっていた。福来は初対面の三田に対して、2枚の乾板を別々の場所に置き、それを1枚と見なして念写し、つなぎ合わせば1つの語句となるようにしてくれと注文した。三田は『至誠』の2字を1字ずつに分けて念写するといったが、このときは成功しなかった。しかし、その2日後に名古屋の毎日新聞社主催による名古屋市内の県会議事堂で開催された念写の公開実験において、福来も見物していたのだが、三田は3000人を超える見物人を前にして、2枚をつなぎ合わせて『至誠』となる念写の実験を見事に成功させた」と述べています。

 

 その後、福来は高野山に入り、密教の修行をします。この修行によって、自分の身に心霊的能力を修得することを願ったのでした。著者は、「自ら念写ができれば幸いであるが、せめて透視だけでもよいと思い、それも無理ならば密教の奥義に触れることだけでもと期待した。この修行中の瞑想で、彼は何か大きな存在の、「宇宙の大霊」ともいうべきものが足のほうから体内に浸透してきて、それがしだいに胸のあたりにまでのぼり、しかしそれ以上には漫透しない感覚を体験する。これはたしかに霊的なものであると確信した。長いあいだの修行を終えて家にもどってからも、しばらくのあいだ、彼は自分の霊力と霊的な感覚のたしかな自覚をもっていたが、やがてそれはしだいにうすれてゆき、6日後にはまったく消えてしまったと、晩年に語っている」と述べています。

 

 56歳のとき、福来は高野山大学の教授に迎えられました。そして、これまでの考察を総合的にまとめた『心霊と神秘世界』を昭和7(1932年)の暮れに上梓します。彼は、明治43(1910年)以来の心霊的現象の研究実験によって、「神通力」の存在を実験的に証明できたと考えました。著者は以下のように述べています。
「この神通力とは、物理的法則を超絶してはたらく力であり、人間の心に感応して知的にはたらくものである。物理的法則に従って機械的にはたらく物質力の現象と区別するために、それを『霊』と名づけて『霊力』の存在を肯定するのである。さらにその考えを推し進めて、物質力そのものも『霊』の念力によってその姿をあらわしたものにすぎないという。宇宙は『霊』のはたらきによって成り立っており、すべての現象の根源は『霊』の力にあると考える」

 

 福来は「神秘智」というべきものに注目しますが、彼は神秘主義とは神秘意識をもって認識を超えた世界を「実覚」する(実際に覚る)ことであると考えていました。福来の考えを、著者は以下のように説明しています。
「神秘主義には2つの大きな類型があり、1つはキリスト教型であり、1つは仏教型であるという。キリスト教型の神秘主義は、人間と神を対立させ、人間が神秘意識によって全知全能の神の存在を知ることができるが、人間自身には神と同じ菩提智(悟りの智恵)や神通力があるとは説かない」

 

 一方、仏教型の神秘主義には、顕教型と密教型があるとして、「顕教型は神秘世界に無尽の仏が存在して、いずれも菩提智と慈悲心と神通力を具えており、人間はだれでも修行によってみずから仏になることができると説く。密教型の神秘主義は、無尽の仏の存在を説くだけでなく、さらに宇宙そのものが、単なる仏を容れる空間でなく、無尽の仏をそのなかに統一せしめる絶対的な存在、すなわち絶対心王如来(心の本体をつかさどる存在)であるという。このように、仏教の神秘主義においては、人間はもともと仏性を持ち、菩提智も慈悲心も神通力も具えているから、修行によってこれを身につけて成仏すべしと説くのであり、福来は人間の霊力を知るには仏教型の神秘主義に依るべきであると考える」と説明しています。

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三田光一が念写した「弘法大師」

 

 福来が最後に出会った能力者である三田光一は驚くべき現象を起こしました。「月の裏面も写した三田光一の遠隔念写」として、昭和5(1930)年3月16日に、京都・嵯峨町の嵯峨公会堂で町長らの主催によって開催された念写実験会では、福来友吉の講演の後、三田が400人ほどの来場者の前で念写実験を行ったようすを描いています。このときは弘法大師(空海)の肖像が乾板に現れました。この写真乾板は現在も残っていますが、大正時代の初期に東京・九段の鶴屋画房から刊行された日本百傑画像の弘法大師像の面相にきわめて似ているそうです。

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三田光一が念写した「月の裏側」

 

 さらに著者は、「昭和6年6月24日の午前8時20分に、福来は大阪・箕面の自宅2階の床の間に手札判乾板2枚を収めた箱を置いた。打ち合わせに従って三田光一が8時30分に神戸・須磨の自宅から約40キロ離れた福来の家の乾板に向かって、月面の裏側の姿を念写した。福来がこの乾板を自宅の暗室で現像すると、大きな白い球形の画像があらわれて、その中にいくつものクレーター(噴火口などのくぼみ)らしき影模様が写っている」と報告しています。

 

 最近の新しい研究によると、1994(平成6)年にアメリカの国防総省とNASAが共同開発したクレメンタインの探査機によって、月の裏側全体の地形がさらに正確に明らかとなったとして、著者は「月の裏側の念写像を裏返して時計まわりに90度回転したものと、クレメンタインの画像データで得られた球面投影画像を、相関係数の分析によって相似性を数理解析すると、面積比で約80パーセントにおいて完全に一致し、残りの20パーセントがノイズ(無関係データ)に相当するというさらに精密な研究結果が発表されている」と述べています。

 

 「あとがき」で、著者は藤教篤という人物に言及します。「念写」のトリックを暴こうとして長尾郁子の実験に参入した東京帝国大学の理科大学物理学科の講師ですが、彼が念写実験の乾板を入れ忘れるという失態をおかしたために郁子の実験は失敗し、「念写」がインチキ扱いされて世間からバッシングされる契機を作ったのでした。著者は、「私はこの本を書き終わったいま、もっとも疑問に思えることは藤教篤という人物の人間性とその精神構造である。この人のことをもう少し知りたいと思って調べたが、大阪の出身であることと、のちに医学寄りのテーマで研究生活をつづけ、大正5年に博士号を得て翌6年4月に東大の講師から助教授に昇格したが、大正12年3月にまだ年若くして亡くなっている。この人が丸亀での実験当時に置かれた状況とその心理状態を考えると、私は直感的に彼の挙動に疑いを持っている。あからさまに言えば、乾板は『入れ忘れた』のではなく、彼の当時の言動と状況から推察すると、彼なりの思惑によって乾板をあえて「入れなかった」のだとさえ思えてくる。このときの実験で乾板が入れられていたなら、千里眼問題はもっとちがった展開になったであろう」と述べるのでした。

 

 この一文を読んだとき、わたしは本書が福来友吉や長尾郁子の霊を慰める供養になったのではないかと思いました。本書の内容は、死者の名誉を回復するものだと思いました。それにしても、サラリーマン定年退職後の約5年で、第二作目の著書として、本書を書き上げた著者の情熱には感服しました。福来が行った数々の実験を詳しく紹介し、それを詐欺・インチキだと糾弾する学者たちの見方もよく分析しています。明治・大正の時代の実験などアバウトで非科学的ではないかと漠然と思っていた自分が恥ずかしくなるほど、福来の実験は緻密で科学的なものでした。また、福来や他の学者たちの著作や新聞記事を詳細に調べている点は、本書が1級のノンフィクションであることを示しています。さらには当時の世論の動きにも目配りしながら、福来が何を明らかにしようとしたのかを見事に浮かび上がらせています。
 本書を読み終えた今、福来と同じように、わたしも「透視も念写も事実である」と思う他はありません。