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ヒューマンスケールを超えて』

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No.1851


 『ヒューマンスケールを超えて』鎌田東二・ハナムラチカヒロ著(ぷねうま舎)を読みました。「わたし・聖地・地球」というサブタイトルのついた対談本で、鎌田氏から寄贈していただきました。ハナムラ氏は1976年生まれ。博士(緑地環境科学)。大阪府立大学21世紀科学研究機構准教授。ランドスケープデザインとコミュニケーションデザインをベースにした風景異化論をもとに、空間アートの制作、映像や舞台などでのパフォーマンスも行うとか。「霧はれて光きたる春」で第1回日本空間デザイン大賞・日本経済新聞社賞を受賞しています。

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本書の帯

 

 本書の帯には、「人にやさしい尺度から地球にやさしい尺度へ。」「生命と地球と宇宙との動的(ダイナミック)な平衡(バランス)を取り戻すために。」「宗教学者とランドスケープデザイナーの対話」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

 また、カバー前そでには、こう書かれています。
「『もう何をやっても地球は長くは保たないのではないか――』。2020年を迎えたいま、そんな思いが誰の頭の中にも浮かび始めている。だがいまの文明にはもはやオルタナティブが用意されていない。一方で『持続可能な開発』という題目だけは勇ましく唱えられ、世間は大騒ぎしている。しかし、その〝持続可能〟が何を意味するのかは依然として曖昧だ。地球環境は人間にとっていよいよ不都合な状況となりつつある。そんな危機的な状況にもかかわらず一向にまとまらない人類の問題の真の原因とは何なのだろうか。――本書『あとがき』より」

  

 本書の「目次」は、以下の構成になっています。

「はじめに――スケール転換を求めて」鎌田東二

第1章 わたしという現象♰人生とは演技の連続である

column「春日若宮おん祭と細男」鎌田東二

第2章 異化するデザイン♰見方を変えると風景が変わる

第3章 メタノイア♰自分のあり方を転換する

column「霧はれて光きたる春」ハナムラチカヒロ

第4章 意識の進化♰スケールが変わると正解がわかる

第5章 聖地の創造♰生命力を活性化させる場所

column「大重潤一郎――人と仕事」鎌田東二

第6章 生命のリズム♰両極を行き来して進む

第7章 宇宙の縮図♰聖地から宇宙を見上げる

column「『生命表象学』のダイアグラム」ハナムラチカヒロ

第8章 母なる地球♰太陽の原理から月の原理へ

「おわりに――Eの問題」ハナムラチカヒロ

「図版出典、資料提供一覧」

 

 「はじめに――スケール転換を求めて」の冒頭を、鎌田氏はこう書きだしています。
「人間の苦しみの根源は、自己(エゴあるいはセルフ)にある。当然のことながら、自分がなければ、苦しみはない、すべての認識主体は自己だから。だから、このように苦しんでいる自分のありようを変えることができれば、そう考えて、自分を変える、自分を変えようとする。それがセルフスケールの転換となる。だが、自己というもの・ことは、そう簡単には変わらない。そのために、自己の構造とはたらきをじっくりと観察吟味する必要がある。もちろん、心理学や精神医学や生理学や解剖学など、自己を取り巻く身心のメカニズムやファンクションを科学的に理解することも大切だ」

 

 続いて、鎌田氏は以下のように述べています。
「だが、それによって、ある程度自我の構造や機能やメカニズムがわかっても、自分を変えることができるかどうかは、別問題だ。ハナムラさんとの対談では、それを『まなざしの転換』とか、『メタノイア』(回心)として語り合った。本書で言及しているヴィパッサナー瞑想やマインドフルネスやさまざまな身心変容技法も東山修験道も、そうした転換・メタノイアの方便(手法)である。それをどのように遂行し、徹底することができるか?」
 そして、鎌田氏は読者に対し、「あなたは自分を変えることができますか?」とダイレクトに問いかけてくるのでした。

   

 第4章「意識の進化♰スケールが変わると正解がわかる」では、「"わたし"を発見したホモ・サピエンス」として、ハナムラ氏は「ぼくは最終的には生命の進化に関心があるのです。われわれはどこからきて、どこに向かうのかということを知りたい。本当にどこからきたのだろうと思う。ぼくらはいま、この歴史の中でどういう役割を果たしていて、どこに向かっていくのか。ダーウィンの『進化論』が正しいかどうかは別にして、大きな生命の歴史においてわれわれがどこに位置づいているのかを知りたいと思っています」と語ります。

  

 「ネアンデルタール人は死者に花を供えていたという説もありますが、言語を持っていたかどうかはわからない」と言う鎌田氏に対して、ハナムラ氏は「いずれにせよ、7万年前に人間の頭の中に何かが起こったのです。それは何だったかを想像してみるのですけど、自然を見つめている自分を発見しちゃった。つまり"わたし"を発見したのだと思うのです。あまりにもいろいろなものが無常にうつろう自然の中で、それを見ている自分を発見して、たぶん怖くなったと思うのですよ。目まぐるしく変わっていく自然と、それに反応する不安定な精神を持つ自分を発見してしまう。それがものすごく怖くて仕方がないというところが宗教の原点になっているのではないかと思っています」

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唯葬論』(サンガ文庫)

 

 わたしは、拙著『唯葬論』(サンガ文庫)にも書いたように、7万年前、「ホモ・フューネラル」(弔う人間)というものが誕生したと考えています。「人類の歴史は墓場からはじまった」という説があります。7万年前、旧人に属するネアンデルタール人たちは、近親者の遺体を特定の場所に葬り、ときには、そこに花を捧げていました。死者を特定の場所に葬るという行為は、その死を何らかの意味で 記念することにほかなりません。しかもそれは本質的に「個人の死」に関わります。ネアンデルタール人が最初に死者に花を手向けた瞬間、「死そのものの意味」と「個人」という人類にとって最重要な2つの価値が生み出されたのではないでしょうか。 

 

 それにしても、ネアンデルタール人たちに何が起きたのでしょうか。アーサー・C・クラークが 原作を書き、スタンリー・キューブリックが映画化したSF史に燦然と輝く金字塔の『2001年宇宙の旅』に出てくるヒトザルたちは、モノリスという石碑に遭遇して、進化のステ ージに立ちました。ネアンデルタール人たちの前にもモノリスのようなものが現れたのでしょうか。何が起こったにせよ、そうした行動を彼らに実現させた想念こそ、原初の宗教を誕生に導いた原動力でした。このことを別の言葉で表現するなら、人類は埋葬という行為によって文化を生み、人間性を発見したのです。

  

 人間を定義する考え方として「ホモ・サピエンス」(賢いヒト)や「ホモ・ファ ーベル」(工作するヒト)、「ホモ・ディメンス」(狂ったヒト)などが有名です。オランダの文化史家ヨハン・ホイジンガは「ホモ・ルーデンス」(遊ぶヒト)、ルーマニ アの宗教学者ミルチア・エリアーデは「ホモ・レリギオースス」(宗教的ヒト)を提唱しました。同様の言葉に「ホモ・サケル」(聖なるヒト)というものもあります。それぞれの定義は、確かに人間の持つ一面を正確にとらえていると思われます。しかし、その本質を考えるならば、人間とは「ホモ・フューネラル」(弔う人間)であると、わたしは考えます。ネアンデルタール人が最初の埋葬をした瞬間、ヒトが人 間になったとさえ思っているのです。

 

 ハナムラ氏の発言に戻ると、彼はこう語っています。

「そこから人類の進化は肉体ではなく、環境の領域に移る。1万5000年前に定住生活が始まって、環境が改変される。さらに5000年ほど前に都市ができて、自然と人間との間に線引きがされる。そして150年前に産業革命が起こって、自然の中でさらに特異な存在となる。どんどん変化のスピードが上がってきて、次はどこに行くんだと。次に起こるのが生物学的な進化なのか、それとも内部の意識の進化なのか、問いは尽きません。人間がサルや他の生物から進化してきたということが、もし正しいのであれば、これまでは生物学的に形態を変化させることで生命は進化をしてきたのかもしれない。でも、これから先、そうやって形態を変化させることで進化していけるのかどうかはわからない。AIのようなものに人間の進化が引き継がれる可能性だって大いにあるような気がしています」

  

 そこから、次のような対話が展開されていきます。

鎌田 真実はもちろんわかりませんが、進化の考え方というのは宗教にとっても19世紀のダーウィン以来の科学にとっても、非常に大きなテーマなのですね。仏教もキリスト教も進化という言葉で語ってはいないけれど、違う人間になりなさいということは言っています。人間としてもう少し脱皮をしなくてはいけないとか、何かそぎ落としていかなければいけない、あるいはもっと純化しなければいけないと。

ハナムラ 洗練させていくことですね。

鎌田 それから神の国に入っていくために、この世の何かを捨てなければいけないとか、そういうことはずっと教えているし、道教だって仙人になることを教えている。そういう意味では、人間はメタモルフォーゼということをずっと問い続けているのですね。一種の"神まね"みたいな、神様になりなさいというようなことですね。それは進化ではなくて神化、あるいは仏化、成仏することもそうだけど、何か違うシステムに人間自身がならなければいけないというメッセージは送っていると思うのです。

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満月交感 ムーンサルトレター』上下巻(水曜社)

 

 さて、本書のタイトルにある「ヒューマンスケール」という言葉を見たとき、わたしは「人間尊重」というわが社のミッションを思い浮かべました。じつはその「人間尊重」の是非をめぐって鎌田氏とわたしは、もう15年間も満月の夜のWEB往復書簡である「ムーンサルトレター」で議論というか対話を重ねてきているのです。わたしはこよなくリスペクトする孔子の説いた「礼」というものを最重要視しており、「礼」を平たく言えば「人間尊重」であると考えています。ところが、鎌田氏によれば、この天然自然の中でしか、「人間尊重」は成り立たず、「自然感謝」が根底であり、先にあって、謙虚な人間尊重が成り立つと言われるのです。

  

 わたし宛のメールにも、鎌田氏は「人間中心主義の、『人間の、人間による、人間のための人間尊重』であってはならないと思うのです。『自然への畏怖畏敬と感謝に基づく人間尊重』でなければ」と書かれています。もちろん、わたしも自然や神仏の存在が先にあって、それから人間があるとはわかっているつもりですが......。ちなみに、一条真也の読書館『狂天慟地』で紹介した鎌田氏の詩集の根幹メッセージは、自然畏怖と感謝であり、人間の驕りや傲慢への戒め(自戒)であるとのことです。つまり、鎌田氏の言いたいことは、本書の書名そのままに「ヒューマンスケールを超えろ」ということでしょう。

 

 「ネイチャーの次元で考える」として、鎌田氏は「ヒューマンスケールからいかに離脱できるかということが、わたしの思想のいちばん根幹にあるのです。仏教もキリスト教も基本はヒューマンスケールだと、わたしには見えるのです」と語ります。「密教はどうですか?」と問うハナムラ氏に対して、鎌田氏は「やはりヒューマンスケールだと思います。先住民とか神道は基本的にネイチャースケールで、そのネイチャースケールのもっとも深い根幹で、存在というか、宇宙というか、そういうものが何を望んでいるかというと、擬人的な言い方ですが、『何をしたいの、あなたは?』......」と答えています。

  

 「振動がもたらす痛い快感」として、以下のような対話が展開されますが、非常に興味深い内容です。

鎌田 わたしは機械的に起こした身心変容でいちばん感動したのは、ロケットの打ち上げを見に行ったときなのです。1989年に秋山豊寛さんが宇宙に出る前のソユーズ11号の打ち上げを旧ソ連に見に行きました。ソユーズ11号は200メートルか300メートルぐらい離れて見ないといけない。ロケットから一定の距離がないと観測できないのです。

ハナムラ そうですね、風景を見るためには距離が必要ですね。

鎌田 秋山さんも含めて、ソ連の人たちもそこで一緒にロケットの打ち上げを見ているわけです。初めてロケットの打ち上げを見たとき、まず驚いた。ロケットというのは、飛び上がっていくときの速度はすごく遅いんだよね。噴射するんだけど、ヒューッとすぐには飛ばないのです。空中浮遊をするように、本当にゆっくり、ふわーっとエレガントにワルツを踊るかのように上がっていくように見えるわけです、強烈な音はするんだけど。それが見る見る加速されて、ものすごい速度で上昇し、最後は点になって、その点も見えなくなっていく。本当に一瞬にして上昇加速がつく。そのとき、ロケットの噴射の光が地面にたたきつけるようにして火が見える。それを噴射しながら上がっていく。その部分が光のように見えて、太陽の小さい点みたいになっていくのです。その後、音は光の速度より遅いから、後からやってくる。噴射の後に音が振動になってやってくる。そのとき、蜂の大群に刺されたような、針の大群が自分の体を突き刺してくる。これはすごい。この噴射の50メートル内にいたら、死んでばらばらになって、穴だらけになってしまう。それほど空気振動が痛いのです。音が空気振動としてくるから、鉄砲で撃たれるような感じで、ガアーッと突き刺してくる。これはすごい快感なのです。

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世界をつくった八大聖人』(PHP新書)

 

 ところで、わたしは「聖人」というものに大変関心があります。『世界をつくった八大聖人』(PHP新書)という著書や、『世界の「聖人」「魔人」がよくわかる本』(PHP文庫)という監修書も出しています。「聖人」という言葉ですが、『広辞苑』(第六版・岩波書店)によれば、「知徳が最もすぐれ、万人が仰ぎ崇拝する人」とあります。また「聖人」は儒教、仏教、キリスト教に共通する言葉でもあります。宗教の枠を超え、人々を善き方向に導いた人間のことを「聖人」と呼んでもよさそうです。わたしは、『世界をつくった八大聖人』で、人類にとっての教師と呼べる存在を8人選びました。ブッダ、孔子、老子、ソクラテス、モーセ、イエス、ムハンマド、聖徳太子です。しかし、その「聖人」について、以下のような対話が展開されます。

 

鎌田 いまあがめられている聖人はみんな、生きていた当時はトリックスターだったと思います。老子も孔子もトリックスターじゃないですか。誰にも相手にされないような苦難な道を歩んで、その後、神格化されていく。イエスは犯罪者として処刑された。ソクラテスは死を宣告された人間です。彼らのアクションも知性も最高にトリッキーですね。

ハナムラ 本当にトリッキーですね。

鎌田 でも、それが人類の二千数百年の歴史の中で聖人に祭り上げられたので、そのいちばんトリッキーな部分をわれわれは理解していないと思うのです。

ハナムラ 小さなスケールでは不正解に見えることが、大きなスケールで見たときには正解であることは多々ある。ぼくは『まなざしのデザイン――〈世界の見方〉を変える方法』(NTT出版、2017年)で、それを「砂糖菓子のジレンマ」として書きました。自分が砂糖菓子を持っていて、あげると子どもが「わあ、ありがとう」と言って喜ぶ。その一部分だけ切り取ると問題なく幸せな風景です。あげたぼくもうれしい、もらった子どももうれしい。でも、それをずっと十年続けていたらどうなるか。子どもは肥満か糖尿病になる。

鎌田 虫歯になって、食べられなくなる。

ハナムラ なぜ、あのとき砂糖菓子をいっぱいくれたんだ、みたいなことになるわけです。小さな時間スケールで物事を考えるとそういう間違いを犯すことが起こりうるのです。

鎌田 資本主義はまさにそれです。

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リゾートの思想』(河出書房新社)

 

 それから、第5章「聖地の創造♰生命力を活性化させる場所」では、聖地の問題が語られます。わたしは、かつて、『リゾートの思想』(河出書房新社)という本を書きましたが、そこでわたしが「理想土(リゾート)」と呼ぶ天国や浄土や楽園を元型とする理想の土地を考える上で、聖地についても言及しました。そのときは鎌田氏の著書を参考文献として使わせていただいたのですが、その鎌田氏は、「聖地の起源というのは、人間だけではなく、あらゆる生命が生存するために発見していった場所の感覚だと思うのです。それが人類にとって聖地になっていった。生存に必要な何ものかを確保するために、あるいはその生存をより豊かにするために、より生命力を強化するためにとか、いろいろな意味や機能があると思うのです。そういうはたらきを聖地は間違いなくしていると思っています」と述べます。

  

 また、鎌田氏は「巣と聖地はともに安全装置」という卓見を示した後、このように述べます。
「巣というのは、多くの生命体、生物にとって、種の保存を安定的にキープし促進していくために必要な環境であったり、状況であったり、場所であったりする。それぞれの形態は少しずつ違う。だけど、生命を保持していく役割を与えられているという点では共通している。人間はかつてどういうところを巣にしたのかというと、一つは洞窟だと思います。そこでは安全を担保できるし、落ち着いて話をしたり、食べたり眠ったりすることができる。生存に必要な空間の原型は洞窟です。もっと言えば、胎内は洞窟だと思うのです。その洞窟が、宗教の発生とか人間の進化に大きな影響を与えている空間であると、わたしは思っています」

 
 そして、「聖地とは人間だけでなく、他の動物や生命にとっても聖地なのですね」と言うハナムラ氏に対して、鎌田氏は「そう。それは、神である大いなる存在、グレートスピリットとか、たかみむすび、かみむすびとか、そういう聖なる存在が生まれてくる原型は、人間以前からあるとわたしは思う。那智の滝のようなものは世界中にある、ナイアガラの滝とか。人間だけではなく、いろいろな動物は、そういう自然界の圧倒的な威力や息吹を感受して、それに対してリアクションをしている。そのリアクションの中に、動物界の聖地の原型的構造がある」と述べるのでした。 

 

 続けて、鎌田氏は聖地について次のように述べます。
「人間はそれを、あるカタチにデザインし、特化していくことができたわけですね。そこにしめ縄を張る、あるいは飾り物をつける、祭壇を組む、神社やお寺をつくるなど、さまざまな記念碑的な建造物を置くことによって、それら聖なる物を聖別――誰にもわかるように聖化していく――ということをやっていった。しかしその原型というか起源は、間違いなく生物学的なもの、進化生物学的に必要な空間の感覚であった。だから動物とも共有されるようなものであった。その段階から、シンボル的な構造、行動が加わっていく。その原型的な聖地空間は、洞窟が一つであり、滝のようなところとか巨石とか巨木とか、自然界の中でも、ある偉大なものを感受させるような何かは、とくにそういう場所に選ばれやすい。そこに行くと隠れやすいということもあったりする」 

 

 さらに、イギリスの地理学者ジェイ・アプルトンが、人が心地よさを感じる景観の1つに「眺望が効くが自分の身体は隠れている場所」を挙げていることをハナムラ氏が指摘すると、鎌田氏はこう述べます。
「隠れるとか、安全というのはとても重要な生存感覚ですね。たとえば、大木がある、巨石があるということ一つをとっても、地盤が強固で安定的でないと、1000年、2000年のスギとかクスノキの巨木は育ちませんね。津波に襲われたらぺしゃんこになってしまうし、地震で地割れしたら木は倒れるわけだから、2000年、3000年、5000年のスギがあるということは、そこが安定し、安全で守られた環境であるということです。そういうものを森の主、森の神として大切にしていく。それはもっとも長寿なるのですから。巨石も動かない。それもまた長時間を経験しているものとして、それを大切にすることが重要だった。それによって、人間の種の保存や安全や安定を図るシンボル的な行動を起こしていった。日本でいえば、そこにしめ縄を張るなり、何かを聖別する飾り物をつけたりして、そこで祭壇を組んで儀式を行い、聖なる建築を建てて空間を聖化していく。セイクリッドなものにしていくわけですね」 

  

 ここで鎌田氏は「ヒューマンスケール」を超える「ネイチャースケール」というコンセプトを提示し、「聖地・生地・性地・政地」として、以下のように述べています。
「元々は、ネイチャースケールであった。神も聖地も、ネイチャーなものの力と息吹をもっとも強く感じるところであったのですが、それはやがてヒューマンスケールになっていって、完全な人工空間である都市の一角に神殿をつくり、その神殿の初期の神像は動物神のようなものであったのが、やがてマルドゥク神とか天照大神とか、人間的な造形になっていった。そこでヒューマンスケールな宗教文化が生まれてきて、その聖地も極めて人間的なはたらき、機能を発揮するようになっていった。だけど、本来的には聖地は根源的な生命力そのものを目覚めさせたり、強化したり、喚起する力を持っているわけです」

  

 さらに、鎌田氏は「祈り」について述べています。
「日本の宗教の歴史では、政治は朝廷や権力を取り込みながら、祈りを社会の安定のためにうまく活用していった。それが天台密教や真言密教の手法にあるわけです。それは『源氏物語』などに密教者の祈禱として描かれています。それがさらに修験道やさまざまなものになり、芸能になれば、天下のご祈禱として能のようなものになる。神楽も基本的にはわれわれを守っている神の力をこの世界にダウンロードする、下ろしてきている。そういうものを再確認することを通して、社会の安定や安心を生み出してきた。そのときに、聖地が重要な拠り所として機能してきました。そのいちばん基層のものである洞窟や滝や巨本など自然の息吹を感じさせるものが、いわば奥宮的なもの、奥の院的なものです。それから中継点として里宮があって、遥拝所のようなものができる。それは街中に出張して、世俗の中でもさまざまなご祈禱をし、ちょっと安心できるような小さな社になったり祠になったりする。そういうふうにして、人身の安心と安定をつくりだそうとした」

 
 さらに、鎌田氏は「祈りの方法をアップデートする」として、こう述べます。
「いままでの伝統的な宗教文化は特定の聖地をつくってきたのだけれど、もっと根底的には、地球を含めて宇宙全体が交信によって聖なるものの発動を維持してきた。そういう存在感とか生命感のようなものがどこかにないと、聖地に依存しているだけになる。単にお参りするだけでは足りないのではないか。巡礼も四国遍路だけでは足りない。もっと大きい宇宙的な巡礼といった意識、スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』や宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の旅のようなものが必要ですね。もっと宇宙的な旅を自分たちの体験の中に組み込めなければ、人類の未来はないのではないか。わたしがやっている東山修験道は、そのときにいままでの伝統の方式が手がかりにはなることを教えてくれる。だけど、それを一歩も二歩も脱皮するというか、進化させる時期にきている」

  

 「危険が透明化した都市」として、ハナムラ氏は、裸のサルが本当にひ弱で、人間は自然の中で生きていくのは「いと小さき者」であると指摘し、さらに以下のように述べます。
「そこで、いかにして安心感を得ていくのかということが大きな課題になってきます。動物たちは服を着なくてもいい。自分が裸で自然の中にいるという自覚はないわけですね、たぶん。人間は自意識を持ってしまって、この環境の中で、自分がいかにか弱い存在であるかということを知ってしまったのですよね。だから、安心、安全を切望するという精神性を持っている。それが、ぼくは衣服の原点だと思うし、建築の原点だと思う。さっきの洞窟の話もそうです。ぼくは衣服というのはある種の建築だと思っています。本当は暑かったら服を着なくてもいいのですけど、包まれていたら何か安心する。襞のようなものですよね。洞窟も襞のようなものだし、建築も襞のようなものだし、何かに囲まれ、包まれて生きていくということが、ある種の安全感とか安心感を生み出す。むき出しではない状態をつくる。人間はそうした自分を覆うものを求めて、文明を発達させてきた。とくに狩猟民族から農耕民族に移って、定住生活をしなければならなくなったときに、その場所から逃げられないわけです。だから自分の身体だけでなく、生活空間自体を守るものが何かしら必要になる。不安定な自然を生きる脆弱な人間だから、安心、安全、安定を目指すことを切望して文明をつくってきたというふうに思っています」
 このハナムラ氏の発言は非常に興味深かったです。
 じつは、わたしは『儀式をするサル』という本を書きたいと思っているのですが、この発言からインスパイアされるものが多々あり、執筆の参考になりました。 

 

 第6章「生命のリズム♰両極を行き来して進む」では、「安全な聖地・危険な聖地」として、なんと、わたしが大好きな映画が取り上げられます。ハナムラ氏は述べます。
「聖地は眠りと関係している。『ピクニックatハンギング・ロック』(ピーター・ウィアー監督、1975年)というオーストラリアの映画ですが、ハンギング・ロックという大きな岩の聖地で意識を失って眠り込む少女の描写がありました。古代ギリシャのデルフォイの神殿では夢に神託があると聞いたことがありますが、眠りに入って自我を失っている時間にメッセージが差し込まれる。いずれにせよ、聖地というのは眠るとか、夢とか無意識との関わりが大きい場所だと思うのです。シュタイナーも、『眠っている間は身体からアストラル体(感情魂)が抜ける』と言っています。つまり夢を見ている時間というのは、身体から離れた心が何かを経験しているのであって、その間の無防備な身体には安全な場所が必要なのだと。人のまなざしを意識せずに、安心感があるような場所が、眠ることのできる場所。だから、寝室ってすごく重要だし、究極的にいうと、住宅は安全に眠ることができるという機能がいちばん大切だと思うのです。それは洞窟でもいいし、母胎内でも同じですが」

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隣人の時代』(三五館) 

 

 それから、「宗教・教育・人権」として、ハナムラ氏は多様性について、次のように述べています。
「無縁社会が当たり前になりつつあるのは、多様性を目指したことの副作用かもしれない。だからこそ、いまコミュニティが重要だと言われていますが、コミュニティやソーシャルというのは少し前までは社会主義のキーワードでしたよね。全体主義のような方向へ向かったものが、今度は多様化の方向に行く。そして、孤立化してくるとまたつながりをつくらなくてはという方向へ進む。長いスパンで見ると、そうした離合集散が繰り返されながら、収斂されていくのではないかと思っています。多様性はすごく大事だし、『みんな違って、みんないい』はいいのですが、もっと重要なのはその後に続くフレーズです。『みんな違って、みんないい。だから、ばらばらでいましょう』ではなく、『みんな違って、みんないい。だから、仲良くしましょう』ということが重要なのだと思います」
 このあたりの発言内容は、まさに無縁社会を乗り越えて有縁社会の再生のために書いた拙著『隣人の時代』(三五館)のテーマとそのまま重なっています。

  

 多様性についてのハナムラ氏の発言を受けて、鎌田氏は「調和、ハーモニーですね」と述べ、さらには「調和とは、ある種、宇宙的なもので、ライアル・ワトソンが言うように、宇宙的な調和が聖地の持っている本質的なはたらきだとすると、そういう宇宙的な調和をわれわれは必要としている。そういうことを感知した先駆者にはいろいろな人がいるんだけど、近代においてそれをいちばん表現したのが南方熊楠と宮沢賢治です。那智で熊楠がやった粘菌の研究なども、生物学と民俗学、自然と文明との間の仲取り持ちをどうできるかということで、2人は典型的にトリッキーな仲取り持ちなのですよ。ああいう知恵と力は、現代にも本当に必要です」と語っています。詳しくは、一条真也の読書館『南方熊楠と宮沢賢治』をお読み下さい。 

 

 「おわりに――Eの問題」で、ハナムラ氏は、2020年を迎えたいま、「もう何をやっても地球は長くはもたないのではないか――」という問題を示しつつ、以下のように述べています。
「この複雑な問題を考える上で、『地球 Earth』の頭文字にちなんだ「Eの問題」を見取図にして追いかけてみたい。あらゆるスケールで海や大気や土壌が汚染する『Environment 環境』の問題。その結果として生命のネットワークシステムである『Ecology 生態系』の崩壊が深刻化しつつある。それは過剰な生産と消費を基本とするライフスタイルを維持するのに必要な膨大な『Energy エネルギー』の問題であり、言い換えると『Electricity 電気』の問題である。科学的に言うと無限に拡散していく『Entropy エントロピー』の制御が本質的な問題である」 

 

 さらに続けて、ハナムラ氏は「E」を語ります。
「一方で『Economy 経済』の仕組みは、富が富にますます集中するようになっている。行きすぎた格差を生む資本主義に対して『Equality 平等性』をいかに担保するのか、『Equity 公平性』をどのように定義するのか。その問題は、平等や公平をどの立場から眺めるかによって答えが異なる。グローバル化する世界では、観光を中心に移民や難民を始め、膨大な人々が国境を越える『Exodus 移動』が起こっている。そんな中で、『Ethnicity 民族性』を中心に、それぞれの立場から『Exclusion 排除』が起こり始めている。特にこの数年は高まるナショナリズムやテロの勃発の中で『Enemy 敵』が意識され、軍事的な圧力も再び高まる一方だ」 

 

 そして、ハナムラ氏は、このように「E」を語るのでした。
「確かに『Electrical communication 電子情報技術』の台頭は、地理的制約を越えて個人の自由なつながりと簡単な情報発信を可能にした。しかしそれは同時に孤独と混乱も生み出した。それまでの『Ethics 倫理』が徐々に機能しなくなる中で、『Evidence 証拠』の確認ができないショッキングなフェイクニュースが膨大にあふれている。嘘が日常化していく状況に馴れてしまうと、事実に基づいた理性の判断ではなく『Emotion 感情』だけを判断基準にしがちになる。そんな状況に『Education 教育』はまったく追いついておらず、なにを拠り所にすればよいのかと、わたしたちはうろたえ、心の中は『Emptiness 空虚感』に満ちている。1つの『Expertise 専門技術』だけでは解決どころか問題自体も見出せない。つまるところ、わたしたち人類と文明が次にどのような『Evolution 進化』を遂げるのかが問われていることだけは確かだ」

 

 この「E」を頭文字とするキーワードを数珠繋ぎのように畳みかけるハナムラ氏のコンセプト・ワークは見事です。思わず、「E(いい)ね!」と言いたくなります。そして、目まぐるしいほどの「E」の連鎖が現代の世界の状況を鮮やかに浮かび上がらせていることに驚くばかりです。現在、人類社会は新型コロナウイルスの感染拡大の脅威にさらされています。世界有数の大都市が次々に首都封鎖(ロックダウン)され、ついにWHOは「パンデミック宣言」を行い、IOCは「オリンピック延期」を決定しました。いまだ収束の兆しは見えず、人類にとって暗黒のような日々が続いていますが、じつは地球環境の視点から見ると、中国でもアメリカでも大気汚染が劇的に改善されています。新型コロナウイルスを「地球の逆襲」と表現する人々もいるほどです。これこそ、ヒューマンスケールの視点ではBadでも、ネイチャースケールの視点だとGoodという典型例ではないでしょうか。

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「EARTH」 とは何か?

 

 最後に、「E」のキーワード群は「EARTH」から始まっていますが、わたしならば、「EARTH」を3つに分解します。「E」と「ART(アート)」と「H」です。その意味について考えると、おそらく「E」とは「EDEN(エデン)」で、「H」は「HEAVEN(ヘヴン)」ではないでしょうか。エデンの園から天国へ、地上の楽園から天上の楽園へ、人間の魂を導く手段が「ART」なのだと思います。ARTは芸術であり、ワザでもあります。

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 そして、わたしは、自分の生業である冠婚葬祭を究極のアートであると考えています。結婚式にしろ葬儀にしろ、冠婚葬祭とは人間の魂を天国に導くことにほかなりません。現在、新型コロナウイルスの感染拡大で「集合罪」のような状況が生まれ、結婚式は延期され、葬儀も小規模化する一方です。このままでは人間集団としての「社会」は「個」に分断され、活力を失ってしまいます。その状況を打破するには、わたしたちが冠婚葬祭の意義、儀式の必要性を説き続けることしかないと思います。もちろん、わたしにとっての冠婚葬祭とは自然への感謝、神仏への敬意とともに人間を尊重する「祈り」の形です。ちゃんと、ネイチャースケールを視野に入れていますので、鎌田先生、どうぞご安心下さい。