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南方熊楠と宮沢賢治』

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No.1832


 2月17日になりました。この日、『南方熊楠と宮沢賢治』鎌田東二著(平凡社新書)が刊行されました。版元から献本されたので、わたしは3日前に読了しました。「日本的スピリチュアリティの系譜」というサブタイトルがついていますが、わたしは本書の刊行を心待ちにしていました。本が届くやいなや、出張先の神戸に向かう新幹線の車中で貪るように読みました。一条真也の読書館『世直しの思想』『世阿弥』で紹介した著者の二大「集大成」を経て、一条真也の読書館『日本人は死んだらどこへ行くのか』で紹介した本では「死」と「死後」と「葬」を軽やかに語った著者ですが、令和の時代になって日本思想史の謎を解く稀有な名著が誕生しました。
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本書の帯

 本書の帯には「観察と詩情、直感的理解の高みへ」と大書され、続いて「自然観察と農民芸術」「熊野と花巻」「真言密教と法華経」「異なる場所、異なる立場と手法で、それぞれに日本のスピリチュアリティの本質を見抜かんとした二人の驚くべき共通点とは? 明治・大正期日本に燦然と輝く二つの知的巨星を比較対照する評伝!」と書かれています。

 カバー前そでには、以下の「内容紹介」があります。
「明治・大正期、日本では近代国家形成に伴う独特の解放感が生まれていた。宗教や伝統社会への自由な問い直し。そして、自然と人間を繋ぐ神秘の探求。そのなかで、ひときわ輝きを放つ二つの知的巨星があった。
 和歌山・熊野の地で独自の民俗学を展開した南方熊楠。
 岩手・花巻にあって農本主義的表現を志した宮沢賢治。
 彼らがそれぞれに探求した『世界の真実』の、共通点と違いは何だろうか。自然/人間精神の総合的な智=『生態智』を見抜かんとし、当時最新の西洋思想をも援用して挑んだ二つの知性とは。日本のスピリチュアリズムにおける最高到達点の秘密を探る!」
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本書の帯の裏

 本書の「目次」は、以下の構成になっています。

 序章  二人のM・K

      ――横一面男と縦一面男

      ――五感の彼方へ・

     熊楠と賢治の超感覚

 第二章 真言密教と法華経

      ――二人のM・Kの宗教世界

 第三章 1910年の熊楠と賢治

      ――ハレー彗星インパクトと

     変態心理学

 第四章 妖怪学の探求と表現

 終章  生態智を生きる道

 「引用・参考文献」

 「あとがき」

 序章「二人のM・K――横一面男と縦一面男」の冒頭は、「横一面男・南方熊楠」として、こう書かれています。
「南方熊楠とかけて何と解く。『横一面男』と解く。『縦なしの横一面男』と解く。その心は、『あらゆるものごとや出来事にどこまでもつながっていって果てしがない、キリがない、際限がない』からである。物・事・心が相互に連絡・連関し合い、どこまでも連なり、一大知的宇宙を日々膨張させ、更新して止むことがない。そんな運動体、それが『一切智曼陀羅』人間・南方熊楠である」

 続いて、著者は「縦一筋男・宮沢賢治」として、「このような奇人変人、常識はずれの南方熊楠に対し、宮沢賢治とかけて何と解く。『縦一筋男』と解く。『横抜きの縦一直線男』と解く。その心は、『よだかの星』のよだかのように、どこまでもどこまでも垂直に天空飛行し、銀河系の彼方に飛び込んでいって木っ端微塵に散らばっていこうとするからである。それが『銀河系曼陀羅』人間・宮沢賢治である」とも書いています。

 わたしは、これを読んで「さすが!」と感心しました。
というのも、南方熊楠も宮沢賢治も、彼らが活躍した当時はどうあれ、現在では二人とも大変な有名人であり、彼らについての書籍も多く、論考も出尽くした観があります。そこにあえて著者・鎌田東二氏が二人について論じるとなると、何か読書の意表を衝くパンチが必要です。本書では、いきなり「横一面男・南方熊楠」と「縦一筋男・宮沢賢治」という先制のワンツー・パンチを繰り出してくれました。「二人のM・K」という表現も秀逸ですが、「横一面男」と「縦一筋男」はさらにお見事です。

 もともと、著者は「キャッチフレーズの名人」です。秀逸なコピーセンスの持ち主で、いつも感服しています。たとえば、神と仏の違いについて、著者は「神は在るモノ/仏は成る者」「神は来るモノ/仏は往く者」「神は立つモノ/仏は座る者」などの言葉を残しています。また、スピリチュアルケアやグリーフケアで話を傾聴することが重要な理由として、3つの「シ」を持ち出します。『日本人は死んだらどこへ行くのか』において、著者は「ある人が身近な人の死に遭遇したり、死を意識したときに物語る言葉を一心に聞くのは、相手に心の拠り所をつくらせる、非常に重要な確認・納得行為です。つまり、『死』が『史』への認識を深めさせ、さらに『史』を物語るべく『詩』にしていくプロセスを、各自が意識していくべきなのです。今後さまざまな意味で、3つの『シ』が顕在化してくると思います」と述べていますが、この3つの「シ」でも、名コピーライターとしての著者の面目躍如ですね。

 本書の第一章「観察と聴取――五感の彼方へ・熊楠と賢治の超感覚」では、南方熊楠と宮沢賢治という二人の巨人の思想でこれまで難解で理解されにくかった部分を鮮やかに解き明かします。まず、「わたくしという現象」として、賢治が壮大なる野心と大自信を持って1000部自費出版した最初の著作である心象スケッチ集『春と修羅』の冒頭の「序」の冒頭にある「わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です/(あらゆる透明な幽霊の複合体)/風景やみんなといつしよに/せはしくせはしく明滅しながら/いかにもたしかにともりつづける/因果交流電燈の/ひとつの青い照明です」という有名な言葉を紹介します。

 宮沢賢治は、自分を一個の「電燈」と考えました。それでは、その電燈の電源はどこにあるのかというと、「銀河系統」とも「第四次延長」とも法華経「第十六如来寿量品」が説く「久遠実成の本仏」とも言えます。要するに、電燈を明滅させる宇宙電流(銀河電流)があり、その光を送信してくる「本体」がある。そのような「本体」の根源に永遠の仏(久遠実成の本仏)がいると、賢治は考えたというのです。著者によれば、『春と修羅』の「春」とは、「ひかり」の送信元の銀河や久遠実成の本仏を象徴しているといいます。それに対して、「修羅」とは、「わたくし」として明滅し、苦悩や瞬間の喜悦に一喜一憂するせわしく忙し気な現象態だといいます。その現象態の感官に映し出された「風景」や「けしき」や「みんな」が、この『春と修羅』にスケッチされた点滅事象なのです。賢治は、その事象をあるがままに映し、「こゝろのひとつの風物」としてそのまま記録しただけなのであり、だからこそ『春と修羅』は「詩集」ではなく「心象スケッチ」なのです。

 そして、点滅事象として映し出され、スケッチされたものが「虚無」ならば、事象そのものが虚無なのであって、世界はそのようにある、ということになります。だからこそ、「すべてがわたくしの中のみんなで」、かつ、「みんなのおのおののなかのすべて」なのです。「わたくし」の中に「みんな」が映ずるし、「みんな」それぞれの中に「すべて」があるし、映り合う。こうして世界はホログラフィックなネットワークの中にある。宮沢賢治が『春と修羅』の「序」で言わんとしていることは以上のようなことであり、著者によれば、これは華厳経や密教の「重重帝網」の捉え方と共通するといいます。

「透明な幽霊の複合体と複心」として、宮沢賢治が「透明な幽霊の複合体」として「わたくし」を捉えていたことは、南方熊楠が自己の心を「複心」と捉えていたことと通じるものがあると、著者は述べます。熊楠は「この世界のことは決して不二ならず〔一つではない、一つとして同じものはない〕、森羅万象すなわち曼陀羅なり」と喝破しました。著者は、「熊楠によれば、世界は『不二』ではない。賢治風に言えば、『各別各異』に生きている(「まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう/しかもわれらは各々感じ 各別各異に生きてゐる」『農民芸術概論綱要』「農民芸術の綜合」)。それは、『森羅万象』が個別多様でありつつ『各別各異』に『密接錯雑』し合っている『曼陀羅』であるということである」と述べています。

 さらに、熊楠によれば、その森羅万象曼陀羅の中にあっては、個人の「心」は「単一」ではなく、「複心」であるといいます。賢治風に言えば、「透明な幽霊の複合体」。だから、人の「心」は一つではなく「数心」が集まったもので、それは点滅・明滅し、常に変わりゆきます。しかし、変化しつつも、以前の「心の項要(印象)」を印づけ、刻み、スケッチします。この「複心」の内、多くの「数心」が死後も留まるわけではなく、少しは残存するのです。「永留」(永続、霊魂不滅)するものもあります。「天才」というのも、そうした「心」、すなわち意識の層のありようと関係します。たとえば、ふと良い考え(妙想)が浮かんだりすることがありますが、これらは仏教にいうアーラヤ識(阿羅耶識)の生み出す「妙見」です。意識は表面的で顕在的な「上層の心機」、つまり自我意識的な理性的表層意識が働いていますが、その下層には潜在的な「潜思陰慮する自心不覚識」たるアーラヤ識があるのです。

 だからこそ、そのような潜在意識のはたらきを用いて、遠くを見たり聞いたりするテレパシー的な「静的神通」や、遠くのものを近くに呼び寄せるテレポート的な「動的神通」などの「神通力」も発現する。また、「即身成仏」も可能である。このような神秘現象が起こる機序(メカニズム)というものが、実はあるのだ。これが熊楠の考えです。著者は以下のように述べます。
「熊楠と賢治には、基本的に仏教的な縁起や無常の思想がある。森羅万象は留まることなく変転し、生成変化する。しかし、そのような変化相を生み出す本体としての真言密教の大日如来や久遠実成の本仏が想定されている。縁起的関係性と本体論的な実在性の両極を、二人の思考は楕円軌道でめぐる。一方では現象学的な微分思考の分子生態学の列車に乗って、他方では形而上学的な永遠思考の霊子生態学の列車に乗って。そんな両極の緊張とダイナミズムの中で、二人のM・Kの果敢な探究と表現が生まれたのである」

 熊楠はテレパシー的な「静的神通」の実在を認めていましたが、賢治もまたテレパシーには関心を持っていました。『銀河鉄道の夜』第三次稿を読むと、そのことがよくわかります。賢治はそこで、ブルカニロ博士にテレパシー実験をさせています。賢治にとって、『春と修羅』は「或る心理学的な仕事」の下準備のための下書きのようなものでした。著者は、賢治が『春と修羅』の「序文」で試みたのは「歴史と宗教の位置を全く変換しようと企画」したことであるといいます。そして、宗教の新次元を披き、歴史軸を「第四次延長」として立体化し、そこにおけるわたしたちがまだ気づかずにいる未知なる世界感覚を開示しようとしたといいます。賢治が一番やりたかったことは、そんな、認識のコペルニクス的な転回を伴う「或る心理学的な仕事」だったのです。では、具体的にそれは何かといえば、実は、透視やテレパシー実験などを含む、心の不思議な次元と作用の解明でした。著者は「当時の言葉で言えば、変態心理学、その後の用語では超心理学や異常心理学や深層心理学やトランスパーソナル心理学の問題領域であった」と述べています。

 ドイツ文学者の植田敏郎は、著書『宮沢賢治とドイツ文学〈心象スケッチ〉の源』において、宮沢賢治には日本に心理学という学問を導入した東京帝国大学文科大学心理学教授の元良勇次郎の『心理学概論』の影響があったことを指摘しています。この元良勇次郎の愛弟子が「千里眼事件」で東京帝国大学助教授を辞任することになった福来友吉でした。著者は述べています。
「さまざまなアプローチを駆使して心という内界の現象の解明をめざした初期の心理学において、透視や念写は人間の持つ不思議な心的能力を実験的に解明するまたとない現象であった。福来は東京帝国大学で複数の科学者の立ち合いのもと、二度にわたる『千里眼』の公開実験を実施するが、それが『手品』であると疑われ、その疑惑を晴らすことができぬまま東京帝国大学助教授の座を追われることになった」

 宮沢賢治はこの事件が起きた明治43年(1910年)、盛岡中学校の2年生として在学する15歳の少年でした。著者は、「世上を騒がせた『千里眼事件』のニュースを新聞などで見て、賢治は心霊研究や超能力研究を含む新しい心理学の動向に関心を向け始めていたかもしれない。それが、後の『春と修羅』の『或る心理学的仕事』となり、『銀河鉄道の夜』でのテレパシー『実験』となった」と書いています。このように賢治に大きな影響を与えた福来友吉の教え子の1人に柳宗悦がいます。民藝運動を起こした思想家、美学者、宗教哲学者として知られていますが、福来が研究した心霊現象にも深い関心を寄せていました。賢治は作品中でよく「宇宙意志」という言葉を使いましたが、これは柳が『白樺』第6・7号掲載の「新しき科学」で主張した「宇宙の意志」の影響ではないか、と著者は推測します。

 柳によれば、自然界の法則も「宇宙の意志」のはたらきによるものであり、すべての現象が「心霊の影像」だといいます。世界とは「宇宙の霊的意志の表現」です。ですから、森羅万象に宇宙意志や心霊の影像を見て取る「万有神論(Pantheism)」こそ、世界の実相を把握した「宗教、哲学及科学が融合せらる可き唯一の最終点」であると柳は結論づけています。このような主張を柳が発していた明治43年9月当時、「心霊」という言葉も流行語の1つでした。たとえば、同年、高橋五郎は『心霊万能論』(前川文栄閣)を出版していますし、前年の明治四十二年に平井金三は『心霊の現象』(警醒社)を刊行しています。

 そのような状況下、柳は「新しき科学」の論考で

①「人間とは何か」を問う生物学における人性の研究

②「物質とは何か」を問う物理学における電気物質論

③「心霊とは何か」を問う変体心理学における心霊現象の攻究 の「三つの科学」を新科学の最前線の学問として情熱的に論じ、そこで、精神感応(テレパシー)、透視力(クレール・ヴオワイアンス)、予覚(プレモニシヨン)、自動記述(オートマテイツクライテイング)、霊媒、心霊による物理現象や妖怪現象などの超常現象や死後の存在についての「実証」を試みました。つまり彼は、「新しき科学」の最前線を「心霊現象の攻究」に見ていたのです。著者は、「賢治がこのような『新しき科学』の影響圏にいたことはまちがいない。そしてそれを独自の観点と経験から補強し、実証しようとしていた。それが賢治の抱いていた『或る心理学的な仕事』であった。その心理学は、柳の言う『変体心理学』であり、那智山で熊楠が発した『変態心理学』である」と述べています。

「魂遊あるいは対外離脱体験」として、著者は熊楠や賢治が、臨死体験に見られるような対外離脱的な体験の持ち主であることを紹介します。また、二人はともに幽霊などを見ることができる見霊者でもありました。ある意味で、二人は「霊的天才」であり、さまざまな宗教の教祖のような「宗教的天才」だったのでしょう。著者は「二人の宗教を一言で言えば、真言宗と法華経、大日如来と久遠実成の本仏、空海と日蓮あるいは田中智学、両部曼陀羅と法華曼陀羅(大曼陀羅)、と言えるだろう」と述べています。さらに詳しく二人の信仰を見ると、著者は「熊楠には、3つの宗教性のレベルがある。1つは、トーテミズム。2つめは真言密教。3つめは神社の意味論と機能論。この3つである。熊楠は真言密教の曼陀羅世界を自然科学的な世界像と結びつけて捉えていたが、彼の宗教意識の根幹にはトーテム信仰と呼べる原始生命観があった」と分析します。

 では、賢治の信仰はどうだったのか。彼には隠し念仏から法華経までの大変複雑な混淆した重層信仰があったとして、著者は以下のように述べています。
「隠し念仏も浄土真宗も、アニミズムもシャーマニズムもトーテミズムも、それぞれに濃厚な宗教的意味世界を持っている。賢治の存在感覚はそれら各個それぞれの意味も世界も理解できる。しかし、それを包括しつつ一貫させる理法を賢治は持たなかった。だがそれらをすべて包含しながら、一つに串刺ししていく存在の理法とコンパス(羅針盤)が法華経には詰まっていた。アニミズムもトーテミズムもシャーマニズムもみな法華経が包含できる。日蓮の法華経は独自の曼陀羅思想を持っているからだ」
 さらに、熊楠と賢治がそれっぞれに辿り着いた仏教について、著者は「熊楠仏教と賢治仏教に共通するのは、アニミズムやトーテミズムやシャーマニズムを内包しつつ曼陀羅として包摂し体系化する密教的な世界観であった。そしてそれが動植物や鉱物への共振的探針を伴った」と述べるのでした。

 第三章「1910年の熊楠と賢治――ハレー彗星インパクトと変態心理学」では、ハレー彗星の到来によって、世界中に騒動が巻き起こり、日本人も大いに影響を受けたことが興味深く紹介されています。ハレー彗星の影響によって地球規模の気象変化がどのように起こるのかまったく予測がつかなかったために、多くの人々は地球と生命の危機を強く意識しました。著者によれば「世界同時性=地球的同時性が認識され始めた」ことになりますが、19世紀以来の西欧諸国による植民地支配、通信・交通網の整備、新聞雑誌等の大衆メディアの隆盛によって、ハレー彗星到来は全地球的な問題となったのです。この時、地球という惑星の中で「世界は1つ」あるいは「惑星的運命共同体」という認識がリアリティを持ち始めました。著者は、さまざまな著書で、この年の大変化を、「ハレー彗星インパクト」あるいは「1910年問題」などと呼んでいます。

 そのような「ハレー彗星インパクト」の起こった1910年は日本のスピリチュアリティの歴史においても特筆すべき年でした。この年、「白樺」派の旗揚げ、鈴木大拙によるスウェーデンボルグ『天界と地獄』の翻訳、東京帝国大学心理学助教授の福来友吉による透視や念写の超能力実験が行われ、石川啄木が「時代閉塞の現状」で憂慮した「閉塞」状況の内面突破とでもいうべき動きが起こっていたのです。著者は以下のように述べます。
「それは百年前の"スピリチュアル・ブーム"であった。そのような中で、同年に京都帝国大学助教授に転任した西田幾多郎は翌年1月に『善の研究』を出版した。それは『純粋意識』の考察を通して『時代閉塞』の内面突破をはかった試みであったとも言える。ここに共通しているのは、特異な心理学的課題であった。福来友吉はそれを透視実験として試みたが、その実験が詐欺だと批判され、『千里眼事件』がきっかけとなって後年東京帝国大学心理学科を追われることになる」

 そもそも心を対象として起こってきた経験科学が「心理学(Psychology)」でした。日本では明治初年に「心理学」の訳語が作られ、その後、明治20年代(1880年代から90年代)に本格的に「心理学」が導入されました。東京帝国大学文科大学で初代心理学の教授が誕生し、正式に大学の授業科目となり、専攻課程となっていきます。その東京帝国大学文科大学の初代心理学教授が、宮沢賢治に影響を与えたとされる元良勇次郎でした。「宮沢賢治の心理学」として、著者は「『春と修羅』で言う『第四次延長』とブルカニロ博士が言う『実験』とは密接につながっている。それは時空を連結するテレパシックな認知のありようであった。博士の『実験』は『遠くから私の考を人に伝へる実験』で、それはまさしくテレパシーの実験そのものであった。賢治はこのような『実験』を含む『或る心理学的な仕事』の実行を構想していた。賢治は、元良勇次郎の『心理学概論』や、福来友吉の影響を受けている」と述べています。

 一方、著者は精神医学者の木村敏が、個的心理的時間体験を「アンテ・フェストゥム─祭りの前─統合失調的」「ポスト・フェストゥム─祭りの後─鬱病的」「イントラ・フェストゥム─祭りの最中─癲癇的」と三類型化したことを紹介し、「南方熊楠の『永遠の今』」として述べます。
「南方熊楠は、間違いなく、この『イントラ・フェストゥム=祭りの最中』的人間である。南方熊楠は『イントラ・フェストゥム=祭りの最中』的人間であるゆえに、その思考の中に歴史学がない、時間論がないとも言える。熊楠には基軸となるような明確な時間軸がない。これは若い頃に何度か癲癇発作を起こしていたことも関連があるであろう」

 また、著者は熊楠と同時代の民俗学者であった折口信夫を取り上げて、「南方熊楠は、典型的な『イントラ・フェストゥム=祭りの最中』的人間だった。それに対して、折口信夫には『古代』あるいは『生活の古典』という『古(いにしえ)』の基準があった。その『古代』という時間軸は、幸運なことに、大正10年(1921年)の沖縄探訪旅行によって沖縄という空間に転位し、『生活の古典』あるいは『らいふ・いんでっくす』として明示的かつ体系的に確かめられた。一方、日本民俗学の父であり、祖と言える柳田國男も、日本民俗学を立ち上げ、市民権を獲得しようと努める中で、常に歴史学を意識し、それと拮抗したので、明確な時間軸を持っていた。歴史学は基本的に文献学、テキスト・クリティックを時系列的に行うことによって成り立つ学問だから」 ここで紹介されている折口信夫の「生活の古典」という考えや柳田國男の『年中行事覚書』に書かれたメッセージにインスパイアされたわたしは、『決定版 年中行事入門』(PHP研究所)を上梓しました。

 しかし、柳田國男や折口信夫や、またすべての歴史学者が持つような歴史認識や歴史意識が南方熊楠にはありませんでした。著者は述べます。
「歴史的思考・時間的意識を振りかざすことがないために、その代わりに、事例だけが『永遠の今』に空間的に配列される。『南方熊楠全集』第一巻に収められた『十二支考』は、十干十二支の干支の時間軸をテーマにしているにもかかわらず、時間についての言及が一切なく、すべてが空間的に際限なく配列され続ける。それは『腹稿』(下書き原稿)を見るとより明らかであるこうした一回起的意識が欠如していることは、南方熊楠が研究した粘菌が永劫回帰的・循環的・自己変容的ということとも密接に関係しているかもしれない。南方熊楠にとって『心』は『複心』で、『密接錯雑』していた。すべてがそのような『錯雑』系の複雑系、それが南方熊楠空間である。そしてその『イントラ・フェストゥム=祭りの最中』の空間感覚を容れる社会運動が神社合祀反対運動だったのである」

 第四章「妖怪学の探求と表現」では、「井上円了の心理学と妖怪学から始まる」として、著者は「1910年の心理学を考える際に避けて通ることができないのは、それ以前にすでに確立していた井上円了の心理学についてである」と述べます。「おばけ博士」とも「妖怪博士」とも呼ばれた井上が、「妖怪学」という一大体系の中に「哲学(純正哲学)」と「心理学」を明確に位置づけていたからであるとして、著者はこう述べます。
「井上円了は自分を『明治第二世代』と位置づけているが、円了より少し後に生まれた明治第三世代の南方熊楠や福来友吉は、円了流の合理主義『心理学』には飽き足らず、それを一歩も二歩も深化させる『変態心理』や『幽霊』の研究に突き進んだ。熊楠にとってはその『変態心理学』は、その時の今ここ(熊野・那智)において、『生態学』とも『民俗学』とも結びついた新たなる探究であった。同時に、福来友吉の「心理学」実験(透視=千里眼、念写)も、新しい段階の実験心理学(精神物理学)を切り拓く探究であったが、実験の真偽や作為を疑われ、結局アカデミズムを追われることになった。その福来友吉の新しい「変態心理学」的探究に関心を抱き、それをさら『新しき科学』として展開しようとしたのが柳宗悦や宮沢賢治であった」

 井上円了よりも後に生まれた明治第三世代の南方熊楠や出口王仁三郎や柳田國男や、さらには福来友吉や宮沢賢治は、円了流の合理主義「哲学」や「心理学」には飽き足らず、それを一歩も二歩も深化させる「変態心理」や「幽霊」や「民俗」や「霊性」の研究に突き進んだとして、著者は以下のように述べます。
「熊楠にとってはその『変態心理学』は、熊野・那智の地に根付いた『生態学』や『民俗学』と結びついた新たなる探究であった。そしてその探求の核心に、彼の生家の新義真言宗根来派という真言密教のコスモロジカルな世界観は大きな指針となり影響力を持った。そしてその密教は、円了的合理性を内面突破する『大日如来の不思議』を内包していた」

 ロンドン滞在中に土宜法龍に書簡を送った熊楠は、西洋ではもう「千里眼」などは「古臭く」、今は「死の現象」を研究している最中であるとしていると報告しています。これは非常に重要なことで、著者は、「日本では、21世紀になってようやくにして『死生学』などの『死の現象』の研究が一般化してきた。熊楠ならばものともしないが、日本の学問風土の中では、これまで性の研究と死の研究はタブー視されてきた一面がある。そんな壁や境界を熊楠は果敢に突破し越境している。ロンドンの熊楠は井上円了の『妖怪学講義』を参照しつつ、その先の『秘密』に踏み込もうとした。そのことは、平田篤胤に端を発するといえる『霊学』や『民俗学』の探究者であった出口王仁三郎や柳田國男からの、井上円了批判とも共通する視点と問題意識である」
 ここで「霊学」や「民俗学」という語が並んで登場していますが、わたしは著者の出世作である『神界のフィールドワーク』(創林社)を連想しました。もう数え切れないほど読み返したわが青春の愛読書ですが、サブタイトルが「霊学と民俗学の生成」でした。同書には賢治や王仁三郎が大きく取り上げられています。

 井上円了に始まる同時代の「妖怪学」探求に刺激されて、宮沢賢治もさまざまな「妖怪物語」を生み出していきました。「宮沢賢治の妖怪物語」として、著者は、「宮沢賢治が見霊者的な資質を持っていたことはいくつかの証拠がある。花巻農学校の教え子もそのことを語り、賢治自身の書いたものの中にもその様子がうかがわれる。賢治にとって、妖怪とはこの世における不意の『出現』という気配と構造がある。どこか、世界の破れ目からまったく異質な存在や世界が現われ出るある種の異様と異変。賢治の妖怪物語はそのような世界存在論として物語化されている。その構造と特性がもっとも顕著に表われている作品が、『ざしき童子のはなし』と『ペンネンネンネンネン・ネネムの日記』である」と述べます。

 ざしき童子といえば、柳田國男の『遠野物語』が有名ですが、同書の話者は遠野村の村長をしていた佐々木喜善でした。彼は賢治が書いた童話を読んで、賢治と佐々木喜善がともに死去する昭和8年(1933年)の前年の昭和7年の4月から5月にかけて6回も病床の賢治を訪ね、ザシキワラシの話を中心にいろいろと話を聞いたそうです。著者は、「もともと文学青年で霊視的体質を持っていた佐々木喜善は、ザシキワラシについては民俗学的研究の担い手であり、その道の専門家である。と同時に、出口ナオと出口王仁三郎が教導する大本教の熱心な信者で、宗教的世界観と運動に深い理解と関心を持っていたので、熱烈な法華経信仰を持ち、国柱会に入会所属していた賢治とは、思想信条が異なっていたとはいえ、共振共鳴するところが多々あった」と述べています。

 終章「生態智を生きる道」で、いよいよ本書は佳境を迎えます。「天台本覚思想と二人のM・K」として、著者は、熊楠と賢治が、妖怪変化する世界の中で、分子生物学的な視点を内包する広大な生態学的な思考を持っていたことを改めて指摘します。そして、「熊楠の場合、それは横一面的に拡張される空間的で博物学的な連鎖連結を帯び、賢治の場合、縦一直線に延びる時間的で進化論的な連鎖連結を帯びていた。言ってみれば、前者は分子生態博物学、後者は分子生態進化学とも言える科学的志向性を持っていたが、共通するのは分子生態学的なまなざしを密教の大日如来や法華経の久遠実成の本仏によって包摂している点である。そこではマクロとミクロが相互浸入し、金胎不二の両界(両部)曼陀羅のように統合されている」とまとめています。

 このような部分と全体のホーリスティックな相互浸入的統合を「生態智」と呼ぶ著者は、熊楠の「萃点」も、賢治の「すきとほつたほんたうのたべもの」も、そのような「生態智」の統合的結節点であると主張します。「生態智」とは、「自然に対する深く慎ましい畏怖・畏敬の念に基づく、暮らしの中での鋭敏な観察と経験によって練り上げられた、自然と人工との持続可能な創造的バランス維持システムの技法と知恵」であると説明し、熊楠の神社合祀反対運動の論理によく表わされているように、それは神社などの聖地や、霊場や、古代からのさまざまな生活文化のワザの中にも色濃く保持されてきているといいます。

 聖地といえば、比叡山を数えきれないほど歩き、法螺貝を吹き鳴らし続けてきた著者は「現代の修験者」であると思いますが、「修験道とは、この身をもって天地自然の中に分け入り、そのエネルギーに浸され、賦活されて、天然自然の力と叡智を感受・理解し、それを有情無情の存在世界に調和的につなぎ循環させていく知恵とワザの体系と修道である。その修行と思想の核心に、『生態智』の獲得と体現がある。法螺貝を吹き鳴らす中にも生態智的交歓が観取される。熊楠や賢治がその核心に保持していたのも、このような『草木国土悉皆成仏』のような本覚思想ではないか。熊楠ならば『粘菌成仏』、賢治ならば『なめとこ山の熊成仏』であり、『鹿おどり踊成仏』である」と述べています。このくだりを読んで、著者はついに熊楠と賢治という二人の巨人の思想を完全に読み切ったと確信しました。

20150220190458.jpg法螺貝を奏上する現代の修験者!

 本書の最後には以下のように書かれています。
「昭和8年(1933年)の9月21日、一人のM・K宮沢賢治は強い思いを残しながら、満37歳の若さでこの世を去った。そして、もう一人のM・K南方熊楠は、その8年後、昭和16年(1941年)12月29日に満74歳でこの世を去っていった。二人のM・Kが遺したメッセージを、『如是我聞』、私はかく(本書)の如く聞いた」 宮沢賢治も南方熊楠も、すでにこの世の人ではありません。著者は二人の死者のメッセージを聞いたのです。すなわち、本書は死者の霊魂と会話する「交霊の書」です。そして、二人の霊魂を慰める「慰霊の書」であり、鎮める「鎮魂の書」でもあります。

 賢治も熊楠も、その思想の最重要部分の難解さで知られていました。特に、賢治の「透明な幽霊の複合体」と熊楠の「複心」には、多くの研究者が悩まされてきました。高校時代に小遣いを貯めて、筑摩書房の『校本 宮沢賢治全集』や平凡社の『南方熊楠全集』を買い込み、彼らの思想の到達点に迫ろうとしたわたしも、最後は「透明な幽霊の複合体」や「複心」の前に苦悶の表情を浮かべながら頭を掻きむしったことを記憶しています。その「透明な幽霊の複合体」や「複心」の謎も本書で見事に解き明かされました。

 なぜ、彼らがそのような謎めいたメッセージを残したかというと、別に後世の読者を困らせてやろうとしたわけではなく、時代の制約からそのような表現しかできなかったのでしょう。しかし、自らのメッセージの真意を正確に汲み取られないほど辛くて切ないことはありません。物言えぬ死者ならば、なおさらです。まさに「死んでも死にきれない」といったところです。それを大正も昭和も平成も通過して令和の時代になって、著者である鎌田東二氏がついに死者のメッセージをダブルで解読したのです。さぞ、二人の霊も浮かばれたことでしょう。
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著者・鎌田東二氏と

 著者が成し遂げたのは、死者たちが遺した謎のメッセージの解読だけではありません。それはもっと高次元の道へと続く仕事です。それはアニミズムとトーテミズムと仏教を内包した2つのマンダラ的思想、南方マンダラと宮沢マンダラをアウフヘーベンしたことです。それはもはや著者オリジナルの「鎌田マンダラ」とでも呼ぶべき新思想であり、「新しき科学」です。「新しき科学」とは、著者とわたしの共通の研究テーマである「グリーフケア」のことでもあります。ブログ「全互協新年行事」で紹介した今年の1月22日に行われたグリーフケアのパネルディスカッションで、わたしは「死を乗り越えるために人類が発明した哲学・芸術・宗教が『グリーフケア』として再編集、統合される」と述べました。そして、「そこには科学が必要である。葬儀はなぜ必要かと考えた場合、そこにサイエンスの光を当てると『グリーフケア』が浮かび上がってくる」と述べました。

 著者は、1992年に刊行された『「気」が癒す』(集英社編集部編、集英社)に「野の科学 ──宮沢賢治と南方熊楠」(『エッジの思想──イニシエーションなき時代を生きぬくために 翁童論 Ⅲ』新曜社、2000年に収録)という本書の基になる論考を書いています。そこで、「今、都市全体が、ひいては地球全体が『注文の多い料理店』になりつつある時代に『すきとほったほんたうのたべもの』をみのらせ食べることができなければ、都市は滅び、文明は自滅するしか道はないであろう。そのことをこの二人は愚者の笑いと叡智をもって発信しつづけているのである」と述べています。それから、およそ30年近い時がめぐり、機が熟して本書が誕生しました。著者が言うように、30年前に比べて「野」の事態はいよいよ深刻になっています。「世直し」が必要です。今後の日本における「世直し」には、間違いなく「グリーフケア」が最重要になってきます。著者の不肖の「魂の弟」であるわたしは、これからも著者の「楽しい世直し」の道をともに歩いていく覚悟です。