No.1827 プロレス・格闘技・武道 『プロレスまみれ』 井上章一著(宝島社新書)

2020.01.29

 『プロレスまみれ』井上章一著(宝島社新書)を読みました。著者は1955年、京都府生まれ。京都大学人文科学研究所助手、国際日本文化研究センター助教授を経て、同教授。専門の建築史・意匠論のほか、風俗史、美人論、関西文化論など日本文化について広い分野にわたる発言で知られています。『霊柩車の誕生』という名著もあり、わたしは同書の内容をめぐって著者と対談したことがあります。対談集『魂をデザインする』(国書刊行会)に収められています。

本書の帯

 本書の帯には著者の写真とともに、「井上式の発想、哲学、物の見方はすべて力道山、馬場、猪木から学んだ」「プロレスの魔力」「何度裏切られてもいまだに観てしまう」と書かれています。

本書の帯の裏

 帯の裏には「世間はプロレスにまみれている!」として、以下の言葉が並んでいます。
◆社会的には認められないヘイトの怒号が飛びかうプロレス会場
◆ガス会社がスポンサーの番組で言ってはいけない禁断の用語とは
◆食レポのタレントがプロレス的なリアクションをとってしまう裏事情
◆マラソン中継に見る「不都合な真実」のテレビ的対処法
◆世に蔓延する「神話化」のからくりをプロレスに見てとる

 アマゾンの「内容紹介」には、こう書かれています。
「得意の邪推でつづるエピソード満載の、井上センセイ、初めてのプロレス論です。デストロイヤーの4の字固めに熱狂して以降、密かに半世紀以上にわたってプロレスを研究してきました。幼いころから、プロレスによって独特の視点を育んできたのです。プロレスは『プロレスぎらい』の世間に無視され続けてきました。世の『プロレスぎらい』からスミに押しやられてきたプロレスの屈辱を熱く語り、世間の偏見を白日の下にさらします」

「まえがき」
「プロローグ――下司の楽園」
第一章 テレビとともに
第二章 「太陽にほえろ!」ができるまで
第三章 「底抜け脱線、全員集合」
第四章 水曜スペシャルだからこそ
第五章 やらせとモザイク
第六章 私には知性も品性もありません
「エピローグ――田舎のプロレス」
「あとがき」

 わたしは最初、本書のことを村松友視氏の名著『私、プロレスの味方です。』や、ブログ『教養としてのプロレス』、ブログ『プロレスを見れば世の中がわかる』で紹介したプチ鹿島氏の著書のような本かと予想していたのですが、ちょっと違いました。もともと著者・井上章一氏の初エッセイ集である『邪推する、たのしみ―アートから風俗まで』という本が好きだったのですが、本書にも井上流「邪推」が横溢していました。前半部分はテレビとプロレスとの関係についてずっと書いているのですが、第三章「底ぬけ脱線、全員集合」では、1968年1月3日のTBSテレビのプロレス初放送で、国際プロレスのエース候補だったグレート草津がルー・テーズのバック・ドロップで失神して完敗した試合についての邪推が展開されています。

 この試合については、ブログ『実録・国際プロレス』で紹介した本に詳しく書かれていますが、”鉄人”テーズをいきなり破って日本プロレス界の新エースとして草津をスターにするというTBSのもくろみが外れたことで有名です。しかし、テーズが強過ぎて(あるいは草津が弱過ぎて)、あのような想定外の結果になってしまったのだと多くのプロレス・ファンは考えていました。ところが、テーズ自身の回想によれば、違った真実が見えてきます。 

 著者は、以下のようにテーズの回想を紹介します。
「試合前に、自分は吉原代表からつげられた。テレビ局は、草津がテーズに勝つという決着を、のぞんでいる。でも、まださしたる実績もない草津が、テーズをやぶるという筋書きは、あんまりだ。だから、あなたの『バック・ドロップ』で草津を気絶させてくれ。あなたの勝ちということで、かまわない。テレビ局には、自分のほうから釈明をしておく。テーズは負けてくれるつもりだったけれども、マットの上でアクシデントがおこった。そのため、草津は立てなくなったので、テーズが勝ってしまったと、説明をしておこう。気にすることはない。テレビ局は、そう言いくるめる。吉原代表からは、試合前にそう言われた。だから、自分は『バック・ドロップ』で草津をマットにしずめたのだと、テーズは説明するのです」 

 しかし、ここで著者の邪推が発動します。著者は、ラグビー界を代表する選手だった草津の身体能力をみくびってはいけないと言います。テーズが「バック・ドロップ」を放ったとき、草津は草津で、とっさに対応した。決定的な衝撃はさけるよう、瞬時に身をかわし、マットへ横たわったのかもしれないというのです。「草津は気絶なんかしなかった。そのふりをしていただけ」という可能性を示すのです。国際プロレスの吉原代表は、「かけだしの草津が、プロレス界で最高の実績を誇るテーズに勝つなんて無茶すぎる。そんなカードを組んでしまったら、もうアメリカのマット界から信頼されなくなる。自分も格と序列をないがしろにするプロモーターだという烙印を押され、もうアメリカからはいいレスラーが呼べなくなってしまう。それは困る」と考えたのではないかというのです。

 著者は、以下のように述べています。
「おそらく、吉原は草津にもつげたでしょう。TBSテレビは、おまえを勝たせたがっている。おまえだって、まんざらじゃあないかもしれない。でも、おまえがテーズに勝てば、ウチの団体は、アメリカから見はなされる。あちらからは、スターがよべなくなる。興行はなりたたない。そんなことになったら、草津、おまえだってこまるだろう。いや、悪いようにはしない。おまえの今後は、自分なりに考えている。だから、打倒テーズなんていうとほうもない夢は、あきらめてくれ」
 そして、草津がテーズに完敗を喫してから間もなくして、吉原は草津を国際プロレスの取締役に就任させました。その後は、草津が団体運営での発言力を増していったのですが、このあたりの流れを見ると、著者の邪推は当たっているように思えます。

 それから、本書で興味深ったのは、アントニオ猪木の異種格闘技戦のくだりです。第四章「水曜スペシャルだからこそ」で、著者はプロレスを「殺陣のようなもの」と表現します。リングで絵になる動きを観客に見せつけ、テレビの視聴者に印象づける。そういうことにプロレスラーは努めているのであり、けっしてリアルに強くなることを目指しているわけではない。「まあ、その部分が皆無だとは、言いませんけれどね」として、著者は以下のように述べます。
「とりわけ、あぶなっかしかったのは、異種格闘技戦じゃあなかったでしょうか。あの試合にでてくるのは、柔道やボクシング、そして空手の選手たちです。プロレスの練習なんかは、ふだんしていません。相手に手心をくわえつつ、絵になる格闘場面を構成する。そんな経験はない人たちが、猪木の対戦相手になりました」

 続けて、著者は以下のように述べています。
「異種格闘技戦で猪木の相手をする選手たちは、殺陣ができません。しかし、手には真剣をもっているのです。チャンバラははじめてだという人が、でも真剣で撮影にのぞむと言っている。相手をさせられる側の心配は、いかばりでしょう。猪木が試合の前に、対戦者と練習をくりかえした事情も、よくわかります。そうでもしないと、あぶなっかしくてしようがないわけです」 

 では、猪木は弱かったのかというと、けっして弱くはありませんでした。猪木が新日本プロレスという殺陣集団の一座の座長を務めたことについて、著者は第六章「私には知性も品性もありません」で以下のように述べています。
「猪木だって、アスリートとしての力量はあったと思いますよ。スポーツ音痴では、運痴とでも言うのかな、ぜったいになかったでしょうね。猪木が座長になることを、まわりのレスラーたちも納得する。それだけの輝きは、あったんじゃないかな。あと、リングで見得をきる時の華も、そなわっていましたよ。猪木が客席をあおる、その演出力には、みんな脱帽していたんじゃあないかな。テレビの関係者もふくめてね。猪木を中心にしてやっていこうという体制も、できやすかったと思います。ほかの、たとえば坂口征二をエースにする体制なんかよりはね」

 著者は、「ロラン・バルトの翻訳者」として、1967年にロラン・バルトの『ミソロジー』をフランス文学者の篠沢秀夫が『神話作用』として訳し、2005年に下澤和義が『現代社会の神話』として完全訳を発表したことを紹介し、以下のように述べています。
「プロレスでは、勝敗がはじめからきまっています。にもかかわらず、プロレスラーは、真剣にたたかっている風をよそおう。苦痛や怒りの表情を、演技的にうかべたりするのです。バルトは、そこに『神話化』のからくりを見てとった。その典型的なありかたが、あると、とらえたんですね。そして、そのうえで、社会のあちこちに『神話化』を見ていくわけです。プロレス的な作為は、世に蔓延している、と」

 神話としてのプロレスといえば、著者はこう述べます。
「昔、新日本プロレスに、キラー・カール・クラップがよくきていましたよね。ナチスに共鳴するドイツ人、というふれこみの悪役レスラーでした。じっさいには、ケベック出身のフレンチ・カナディアンですよ。まあ、オランダ生まれという噂も聞きますが、どちらにせよドイツ人じゃあありません。アラビアの怪人と言われたザ・シークは、ミシガン出身のアメリカ人でした。スーダン出身というふれこみのアブドーラ・ザ・ブッチャーは、カナダ人。たしか、オンタリオの出身だったと思います。タイガー・ジェット・シンは、ほんとうにインド生まれだったそうですけどね」 

 続けて、著者は以下のように述べます。
「力道山のライバルだったジェス・オルテガが、メキシコの巨象とよばれていました。しかし、じっさいには、カリフォルニアの人ですよ。プロレスは、平気でそういうことをするんですね。そのほうが客にうけそうだと判断されれば、いともたやすく経歴をかえてしまいます」
 かつて日本人レスラーの小沢正志が「モンゴルの怪人」としてのキラー・カーンになりましたが、結局はみんなキラー・カーンと同類だったわけです。 

 「あとがき」では、「プロレスを茶番だとなじるのなら、披露宴のスピーチだってフェイクだと言ってほしい。どうして、あなたはプロレスだけをインチキよばわりするのか、と」として、著者は以下のように述べます。
「この社会には、猿芝居のやりとりでなりたっているところがある。国家をうごかす政治家たちの言動も、そういう物言いにまみれている。恋愛のクライマックスで男女がかわす睦言にだって、それがないわけではない。プロレスは、そんな世間の鏡になっている。社会の茶番をうつしだす鏡にほかならない。いや、世の小芝居を増幅して、うつしかえす拡大鏡だと、言うべきか」

 そして、最後に著者は以下のように述べるのでした。
「プロレスは社会の鏡である。社会の裏面でくりひろげられることは、プロレスの舞台でも展開されている。しかも、わざわざスポーツという外見をよそおわせながら、見せつけてきた。茶番の演出につとめる興行が、茶番を排除するべきスポーツのふりをする。そこに、プロレスの逆説はある」
正直、この結論は「井上章一さんにしては、ちょっとありきたりだな」と思いました。著者には、もっと邪推に満ちた毒々しいプロレス本を書き上げてほしかったのですが、それでもなかなか楽しく読ませていただきました。

Archives