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東京12チャンネル時代の国際プロレス』

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No.1826


 『東京12チャンネル時代の国際プロレス』流智美(辰巳出版)を読みました。一条真也の読書館『実録・国際プロレス』に続けて出版された日本プロレス史に残る"悲劇の第3団体"についての本です。著者は1957年、茨城県水戸市出身。一橋大学経済学部在学中、プロレス評論の草分け・田鶴浜弘に弟子入り。80年、大学卒業後にベースボール・マガジン社「プロレスアルバム」でフリーのプロレスライターとしてデビュー。以来、「週刊プロレス」に83年7月の創刊号から現在まで連載を持つ他、プロレス関係のビデオ・DVD監修、テレビ解説、ナビゲーター、プロレス漫画原作、トークショー司会などで活躍。著書・翻訳書・監修書、多数。2018年、プロレス界の功労者を顕彰するアメリカの「National Wrestling Hall of Fame」ライター部門で殿堂入りを果たしました。

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本書の帯

 

 本書のカバー表紙にはAWA・NWA・IWA3大世界戦が行われる1979年10月5日の後楽園ホール大会のチケットの写真が使われ、帯には「元『国際プロレスアワー』チーフディレクターが記した極秘資料『田中メモ』の封印を解く――。」「我々12チャンネルと専属契約を結んだ選手たちは、『新国際プロレス』を結成することになります」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

 また帯の裏には、「第3団体を崩壊に追い込んだのは誰なのか?」として、「国際プロレスのエースであるラッシャー木村について報告します。木村は自分が吉原功社長のモルモット的な立場にあるという認識を非常に強く持っています」「今回の特別強化費は800万円でしたが、このうちいくらがバーン・ガニアに支払われたかについては不明で、吉原社長からも当方に開示されていません」「12チャンネルが個々のレスラーと専属契約を結ぶ段階が来たとしても、グレート草津は除外するしかないと考えます」と書かれています。

  

 アマゾンの「内容紹介」には、こう書かれています。
「1974年2月にエースのストロング小林を新日本プロレスに引き抜かれて危機に陥った国際プロレスの吉原功社長は、全日本プロレスと提携関係を強めていったが、ジャイアント馬場&日本テレビの策略(?)で団体のイメージが急落。その後、剛竜馬離脱騒動で怨敵・新日本と急接近し、提携先を鞍替えしたものの......1981年3月、国際プロレスは東京12チャンネル(現・テレビ東京)にレギュラー中継を打ち切られ、同年8月に団体崩壊という結末を迎える。"第3団体"を潰したのは、誰なのか――。東京12チャンネル『国際プロレスアワー』のチーフプロデューサーだった田中元和氏の極秘資料を紐解きながら、昭和プロレスの第一人者・流智美がリング内外で起きた数々の"事件"の真相、他団体との対抗戦やマックメークにおける失策、テレビ中継の裏事情などを徹底検証。放映存続のために東京12チャンネル側が思い描いていた新団体設立構想、幻に終わった5日間連続ゴールデンタイム生中継特番『ワールド・チャンピオン・カーニバル』等々、驚愕の新事実も明らかに!」

 

 本書の「目次」は、以下の通りです。

「はじめに――手渡された『田中メモ』」
「前史Ⅰ 国際プロレスの『ノーテレビ時代』と『TBS時代』」
「前史Ⅱ 東京12チャンネルのプロレス中継ヒストリー」

第一章 1974年

1974年の日本マット界 概要
吉原社長の「取捨選択」は、企業として適正だったのか?

第二章 1975年

1975年の日本マット界 概要
東京12チャンネルが交わしていなかった「二重の縛り」

第三章 1976年

1976年の日本マット界 概要
上田馬之助に"勝ち逃げ"され、大剛鉄之助を"排除" 

第四章 1977年

1977年の日本マット界 概要
土下座外交で、団体のイメージが急降下

第五章 1978年

1978年の日本マット界 概要
「社長として極めて不適当、不健康な方向性」 

第六章 1979年

1979年の日本マット界 概要
「田中メモ」に記された国際ピロレス中継の裏事情 

第七章 1980年

1980年の日本マット界 概要
東京12チャンネルによる新団体設立構想

第八章 1981年

1981年の日本マット界 概要
"高すぎる理想"が生んだ借金=2億5000万円

「あとがき」 

 

 「はじめに――手渡された『田中メモ』」の冒頭を、著者はこう書きだしています。
「私は2007年にポニーキャニオンから発売されたDVDボックス『不滅の国際プロレス』と、同じく2010年から翌年にかけてクエストから発売されたDVDボックス三部作『国際プロレスクロニクル(上巻、下巻、外伝)』、合計18ディスクを監修した(前者は竹内宏介氏との共同監修)」。 

  

 これらは1974年9月から6年半、東京12チャンネル(現・テレビ東京)で放映された「国際プロレスアワー」の現存映像を集めた作品でした。合計70時間という膨大な動画を編集する過程で新たな発見もあったそうで、著者は「改めて国際プロレスが存在したことの歴史的な意義、あるいは価値について認識することができた」そうです。 

  

 続けて、著者は以下のように述べています。
「国際プロレスに関する知識、感情をボックスの中にすべて投入した充足感もあり、私の中では『映像によるIWE卒業論文になった』と自己満足していたのだが、2017年11月に辰巳出版から発売された624ページの超大作『実録・国際プロレス』(Gスピリッツ編)を読んで大きな刺激を受け、一気に"冬眠"から起こされた」 

 

 「はじめに」では、東京12チャンネル「国際プロレスアワー」のチーフプロデューサーだった田中元和氏の極秘資料である「田中メモ」の存在を明かします。これは番組制作に関する経費などの他に、田中氏自身がその目で見た団体の内情も詳細に記されていました。たとえば、1978年暮れに所属選手から聴取した生々しいレポートが以下のように紹介されています。
「国際プロレスの現状は所属レスラーへのファイトマネーが安く、試合数も少ないため(1試合いくらの契約)、レスラーたちの生活は非常に苦しいものとなっています。怪我をした場合でも補償がなく、治療費はすべて自己負担になっています。仮に試合をして怪我をし、シリーズを全休せざるを得ない状態になったとしても、会社からは休場分のファイトマネーは一切支給されません」

 

 また、「田中メモ」には以下のように書かれています。
「最近では米村選手が脚を骨折してビッコ状態となり、奄美選手が首を負傷してコルセットを巻かなければいけない状態になりましたが、生活のために試合をやりました。奄美選手が試合後、控室で血を吐く場面にも直面しました。彼ら選手にとって欠場することは、イコール、生活ができなくなることを意味します。必然的にレスラーたちは無理をしないようになり、新日本の藤波選手のように場外の相手に頭からぶつかっていくようなことはできません。場外乱闘になった時も、相手の頭を椅子で思い切り殴るリアルな行為にいけないのも、これが理由です」

  

 さらに、「田中メモ」には以下のように書かれています。
「国際プロレスは年末の12月中旬に、毎年ホテルのホールを借り切って納会を盛大に開催しています。その中で、1年を通じて活躍したり努力した社員、レスラー3~4人に対して、吉原社長から表彰状と金一封(推定10万円)が贈られています。私も放送を開始した74年から毎年出席していますが、表彰された複数のレスラーから信じられない話を聞きました。表彰を受けた数日後、事務所に行って年末シリーズ分のギャラを受け取って封筒の中身を確認すると、10万円ほど少ない。経理の事務員に確認したところ、"その分は先日の納会で渡しています"との返事だったそうです。この事象から、我々関係者の前でだけ体裁を繕う吉原社長の虚勢を知ることができます。レスラーや社員のやる気を失わせる、という逆効果をまったく考慮に入れていません」 

 

 第一章「1974年」の「吉原社長の『取捨選択』は、企業として適正だったのか?」では、IWA世界ヘビー級王者だったストロング小林が離脱した原因として、「草津による陰湿な"イジメ"と、吉原社長や仲間レスラーがそれにストップをかけてくれなかったこと」が小林本人の口から語られたそうです。まず、グレート草津という人物について、著者はこう述べています。
「草津は72年6月にアメリカ遠征から帰国以来、吉原社長の右腕として、いわば社内ナンバー2の地位にあった。トップレスラーの1人としてリングに上がる他、現場責任者であり、興行のマッチメークや営業戦略にも発言力を持つポジションで、月に1度開かれていた幹部による営業会議にも所属選手として唯一、出席していた」 

 

 続けて、著者は草津について以下のように述べます。
「『全幅の』というレベルで権限を与えられていたわけではないが、吉原社長から見ると、団体内は『現場で何か起きたら、まず草津を通してくれ』という体制になっており、すべての重要事項は草津を経由しないと一切トップの耳には届かない絶対的なルールが構築されていた。レスラーとしての評価は低く、『草津が練習しているところを見たことはない』という悪評が多かったが、練習不足のためスタミナに問題があり、本人も『しんどい思いをして団体の顔であるIWA世界ヘビー級王座を持っている必要はない』とばかり、シングル王座には終始拘泥しなかった」

 

 草津の後輩にあたる小林は73年初め頃から自分の車を運転して地方の巡業地に行くことが多く、他のレスラーと一緒に移動バスには乗っていませんでした。「草津と一緒にいたくなく」というのが大きな理由でしたが、これで他の所属選手とのコミュニケーションが断絶し、小林は団体内で孤立を深めていきました。団体のエースである小林に対する草津のジェラシーは半端ではなかったそうで、酒宴の後はイジメの度合にも拍車がかかっていったといいます。ちなみに、地方巡業中、草津が小林に小便入りビールを飲むように迫った話は有名です。

  

 著者は、「小林は女性的な神経の持ち主なので、『草津、テメエ、ふざけるなよ! 表に出ろ!』と直接行動に出られる性格ではない。だからといって、理不尽なイジメに耐えるだけで、実力行使で止めさせられなかった点はあまりにも情けない」と述べた上で、以下のように述べています。
「元はといえば、草津の傲慢、イジメが原因ではあったが、結局、吉原社長は『バックにいるタニマチや金作りの能力など総合的に判断して、小林より草津の方が組織にとって必要。だから、草津の小林イジメを黙認した』と結論づけるしかない」 

 

 何というか、あまりにも情けない話でブログで紹介するのも気が滅入ってきますが、この他にもあきれるようなエピソードが本書には満載です。本書を読めば、国際プロレスが"悲劇の団体"などではなく、崩壊すべくして崩壊したことがよくわかります。そして、その原因はすべて社長であった吉原功にありました。彼は現役バリバリの「社長兼エース」であった馬場、猪木とは違って、いわゆる「背広組」のカラーが強い社長でしたが、その割にはよくマスコミに登場していました。 

 

 第八章「1981年」の「"高すぎる理想"が生んだ借金=2億5000万円」では、著者は以下のように述べています。
「私は当時、『吉原さんは知名度をアップする必要もないのだから、社長業に徹して、あまりマスコミの前に出ない方がいのでは?』と思っていたのだが、よく考えたら吉原社長は『背広組』ではなく、60年には日本ライトヘビー級チャンピオンにもなったバリバリの『元レスラー』である。いま思うと、『俺は馬場、猪木よりもプロレスラーとして7年先輩だ。力道山にスカウトされてプロレスに入ったのだし、入ってからは力道山にアマレスの基礎も教えてやった』というプライドがあった」 

 

 さらに、著者は吉原社長について、こう述べるのでした。
「極端な書き方をすると、『馬場も猪木もトップレスラーということで、周りから担がれている形だけの社長じゃないか。俺も現役時代はチャンピオンだったし、引退後は営業部長として実務も経験もしたし、会社経営もリング上もテレビ局も統率できる本当の意味でのプロレス団体の社長なんだぞ』という"高すぎる理想"、悪い表現をすると"自惚れ"、"目立ちたがり感"があったように思う。だが、会社の内部には『社長、それは違います。あなたは、それほどの有名レスラーではなかった。だから、もう裏方に徹するべきです』と進言する勇気ある部下がいなかった。12チャンネルの番組スタッフと何度も衝突しながら、最後まで自説を曲げすに中継を打ち切られ、国際プロレスが崩壊に至ったのは、最終的に吉原社長が『背広組』になりきれなかった結果だったように思えて仕方がない」 

 

 これまで多くのプロレス関連書では吉原社長は聖人君子とまでは行かなくとも、不運が重なった"悲劇の名社長"として描かれていることが多かったので、本書の内容は非常にショッキングでした。「あとがき」の最後に、著者は「人生は縁がすべてだ。吉原さんと出会えた縁に感謝し、"魂のふるさと"国際プロレスの偉業がいつまでも語り継がれることを祈り、筆をおく」などと書いてはいますが、ここまで故人をボロクソに書いたら後味は悪いはずです。
 しかしながら、国際プロレスが崩壊したのは社長である吉原氏の責任であることも事実です。馬場が悪いのでも猪木が悪いのでもありません。吉原氏が悪いのです。それほど経営とは厳しいものであると、経営者の端くれであるわたしは改めて痛感しました。怪我をしても補償もされず、生活のために思い切ったプロレスをすることができなかったレスラーたちが哀れでなりません。