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柔道の父、体育の父 嘉納治五郎』

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No.1818


 『柔道の父、体育の父 嘉納治五郎』近藤隆夫著(汐文社)を読みました。幻の1936年東京オリンピックの誘致に尽力した嘉納治五郎の物語です。荒々しい武術であった柔術を柔道に昇華させた嘉納は、ヨーロッパ視察を経て、我が国にスポーツによる教育、つまり体育の普及に努めます。その生涯がわかりやすく書かれています。著者は、1967年生まれ、三重県松阪市出身。作家・スポーツジャーナリスト。プロスポーツから学校体育の現場まで、幅広く取材・執筆活動を展開。テレビ、ラジオのコメンテーターとしても活躍中。著書に、一条真也の読書館『プロレスが死んだ日。』で紹介した本などがあります。

 

 本書のカバー前そでには、以下の内容紹介があります。
「柔道を始めた理由は、ただ喧嘩に強くなりたかったから。しかし、柔術に魅せられた嘉納治五郎は、それを『講道館柔道』へと昇華させる。『精力善用』、『自他共栄』――。人間の真の強さとは何かを、柔道を通して人々に説いたのだ。『柔道の父』は、『体育(スポーツ)の父』ともなる。アジア初のIOC(国際オリンピック委員会)委員となり、明治の時代に日本人選手をオリンピックの舞台へと導いたのだ。大正、昭和、平成の時を経て、嘉納治五郎の功績を、いま改めて振り返る」

 

 本書の「もくじ」は、以下の通りです。

プロローグ

第1章 柔術との出会い

第2章 道場での修行の日々

第3章 「講道館柔道」をつくる

第4章 柔道家として教育者として

第5章 オリンピックへの道

第6章 ストックホルムにて

第7章 悲願の東京オリンピック

エピローグ

 

 第1章「柔術との出会い」では、嘉納治五郎という国際人が東京に出てきた少年時代、彼に英語を教えた箕作秋平という人物が紹介され、こう書かれています。
「箕作秋平は、浜町(現・日本橋蛎殻町)で塾を開いていた。名の通った人物で、1873(明治6)年に福沢諭吉らとともに日本初の学術団体『明六社』をつくった知識人である。ここで治五郎は、英語と共に西洋の学問を熱心に学ぶ。とはいえ、エドから明治へと移った激動の時代に、治五郎は単に西洋の文化に染まっていったわけではない。それは、箕作が、こう話していたからだ。
『西洋の文化は日本よりも進んでいる。だが、日本の文化には、西洋にはない良さがある。これを調和することを私たちは、これから考えていかなければならない』
後に発揮される治五郎の視野の広い着想は、多感な10代前半に、恵まれた教育環境のもとで育まれたのである」

 
 東京大学へ進学した治五郎は、学問とともに柔術の修行にも励みます。天神真楊流の使い手である福田八之助に弟子入りするのですが、第2章「道場での修行の日々」には、1879年(明治12)年8月にアメリカの前(第18代)大統領、ユリシーズ・グラントが来日したときのエピソードが紹介されています。前大統領の来日に際して、実業家の渋沢栄一が、この年に東京・王子の飛鳥山に建てた別荘で柔術の披露会を催しました。
『日本伝来の柔術を、グラント前大統領にぜひお見せしたい』
渋沢はそう言って、腕の立つ柔術家を集めるのですが、師の服だとともに治五郎もメンバーに選ばれました。治五郎はグラントの前で乱取りを行い、切れ味鋭い技で次々と大男を投げ、グラントを大いに喜ばせました。グラントは「彼(治五郎)の体は、とても小さいが、大きな男たちを次々に投げ飛ばしている。特別な能力の持ち主なのか?」と質問するグラントに対して、福田は「柔術というのは、血からだけで闘うものではないのです。力が弱い者でも大男を倒すことができるのが柔術であり、そのことを理解しているからこそ彼(治五郎)は強くなったのですよ。柔よく剛を制す――です」と答えました。その後、福田から後を継いだ治五郎は18歳で道場主になっています。 

 

 若き治五郎の柔術に対する考え方は、次のように書かれています。
「強さとは何か? 腕力を誇示して人を威嚇し、威張ることでは決してない。自分に自信を持ち、他人に優しくできるようになることこそ強さなのだと、治五郎はすでに気づいていたのだ。そして、柔術を学び強さを身につければ、社会に貢献できる人間になれるとも。実は治五郎は子どもの頃から短気な性格だった。何かをやろうとして上手くいかないとイライラし、それが態度に表れてしまう。そのことを亡き母、そして父から幾度となく注意されていた。しかし、柔術を学び始めてから、その性格が変わった。ひとつのことを辛抱強くやり遂げることができるようになったのだ」
 治五郎は「柔術は人の心までも鍛えることができる。もっと多くの人に柔術を学んでもらいたい」と思った治五郎は、柔術の形を変えていくことを考え始めます。その新しい形こそ、講道館柔道でした。 

 

 第3章「『講道館柔道』をつくる」では、1882(明治15)年5月に、治五郎が新たな道場を開いたことが書かれています。
「下谷北稲荷町(現・台東区東上野)にある永昌寺の書院を借り住まいとし、そのひと間で稽古をするようになった。12畳ほどの部屋で嘉納家に書生として入っていた富田常次郎と技を磨くことにしたのだ。これが『講道館柔道』の始まりである。
柔術ではなく、柔道――。
治五郎は、まだ数人しかいない門下生たちの前で、こう話した。『私は、柔術を柔道に変えようと思う。柔術は日本伝来の素晴らしい武術だ。しかし、このままでは、多くの人にその素晴らしさを伝えることができない。『術』である前に『道』でなければならない。いかにして学べば強くなれるのか。そのことを明確にして、柔道をもっともっと世に広めていきたい』 

 

 さらに、本書には以下のように書かれています。
「講道館柔道――。
柔道の前に『講道館』の言葉を冠した。
この言葉には、『柔の道を講ずる(教える)場所』という意味がある。柔道は、単に喧嘩に強くなるために身につけるものではない。肉体だけではなく、心を強くし、人に優しく接することができる人間になるために学ぶものだと治五郎は説いた。もちろん、その時には、自らの体験も添えて話した。また、学ぶ者が自分の成長を実感しながら続けていけるものでなければならない、とも考える。そのため、段位制を設けることにした。これは、囲碁、将棋からヒントを得てのことだった。講道館柔道を設立した時、治五郎は21歳であった」 

 

 講道館柔道の設立、普及を成し遂げた治五郎は、次に日本にオリンピックを招聘することに情熱を燃やします。第7章「悲願の東京オリンピック」では、近代オリンピックの父であり、IOC会長でもあったピエール・ド・クーベルタンとストックホルムで初めて顔を合わせます。ともに教育者であった治五郎とクーベルタンは大いに意気投合したといいます。治五郎が「私は、あなたが提唱したオリンピックの理念を聞いた時に素晴らしいと思いました。スポーツは何のためにあるのか。それは個人が優秀な成績を収めて、自らの強さを誇示するためではありません。スポーツを通して己を知り、また異なった文化を持つ人たちと交流することで、世界の平和に貢献するためのものだと思います。私も、あなたと一緒にオリンピック精神を日本に、そして世界に広めていきたい」と言うと、クーベルタンは「それは、あなたがつくり上げた柔道と同じです。イギリスの騎士道は、日本の武士道と通じるところがあります。私がオリンピックを通して広く世界に伝えたいのは、スポーツには相互理解を深め合う力があるということです。いまは、戦争が絶えません。でも、スポーツで世界に平和をもたらしたい」と治五郎に語ったのでした。 

 パリに入った治五郎はクーベルタンとともに、ボクシング、フェンシングなどの格闘競技を観戦しました。そこで、クーベルタンは「格闘技というのは、ルールがあってこそ成立するスポーツです。もし、ルールがなければ喧嘩になってしまう。これは、あなたの柔道も同じでしょう」と言います。それに対して、治五郎が「そうです。柔道は人を傷つける目的で行うものではありません。本当に強い人間は、相手の気持ちを思いやることができます。そんな人間を育てるのが柔道なんです。すぎには無理でしょうが、いつの日か、柔道をオリンピック競技にできればと私は考えています」と答えると、クーベルタンは「それは素晴らしい」と感激したといいます。 

  

 エピローグでは、以下のように書かれています。
「治五郎が柔術を始めたきっかけは、『いじめられたままでいるのは嫌だ』、『喧嘩に強くなりたい』であった。この頃は、腕力を誇示したいとの想いもあったことだろう。しかし、柔術を学び、それを柔道に昇華させていく過程で治五郎は、『真の強さとは何か』を知り、『精力善用』、『自他共栄』を説くようになる。ひいては、この考えが日本スポーツ界全体の発展を支えていくのだ。もし若き日の治五郎が、いじめられたままで黙っていたならば、また柔術に粘り強く取り組めていなかったならば、柔道は生まれなかった。そして日本のスポーツ界の発展も随分と遅れていたことだろう。
『一歩を踏み出す勇気』と『諦めない心』
その尊さも、治五郎は教えてくれる」 

  

 本書の他にも、著者は『伝説のオリンピックランナー‟いだてん"金栗四三』、『オリンピックを呼んだ男 田畑政治』(ともに汐文社)も書いていますが、TOKYO2020をいよいよ目前に控えた今、嘉納治五郎をはじめとした先達たちの人生を振り返ることは大いに意義のあることだと思います。ただし、2019年のNHK大河ドラマは金栗四三ではなく、嘉納治五郎を主人公にすべきだったとも思いました。