No.1813 プロレス・格闘技・武道 | 評伝・自伝 『完本 天龍源一郎』 天龍源一郎著(竹書房)

2019.12.22

 『完本 天龍源一郎』天龍源一郎著(竹書房)を読みました。「LIVE FOR TODAY-いまを生きる-」というサブタイトルがついています。著者は、本名・嶋田源一郎。1950年生まれ。福井県勝山市出身。1963年12月、大相撲・二所ノ関部屋に入門。1964年1月、初土俵。前頭筆頭まで昇進。1976年10月、相撲を廃業し全日本プロレス入団。同年11月、プロレス・デビュー。80年代後半、天龍革命を起こし、一大ムーブメントに発展させ、プロレス界のトップに立つ。1990年に全日本を退団し、SWSに移籍。その後、WAR、フリー期を経て、2010年4月に天龍プロジェクトを旗揚げ。40年間の長きに渡って第一線で活躍、G馬場とA猪木のふたりをピンフォールした唯一の日本人レスラーであり、「ミスタープロレス」と称されました。タイトルは、三冠ヘビー級王座、IWGPヘビー級王座等、多数。主な受賞歴は、「プロレス大賞」MVPを4回、ベストバウトを9回受賞。ベストバウトの受賞回数は最多、また引退試合でベストバウトを獲得したのは初の快挙。2015年11月に天龍プロジェクト両国国技館大会にて引退、現役プロレスラーとしての幕を閉じました。

本書の帯 

 本書のカバー表紙には、Revolutionのロゴが入ったブルゾンを着てリング上で構える著者の写真が使われ、帯には「もう一度生まれ変わっても俺はプロレスラーになる」「生い立ちから引退後の現在まで……ミスタープロレス66年間の軌跡」と書かれています。カバー前そでに、「『目いっぱい攻撃してこい。全て受けとめてやる。そしてその分、俺も目いっぱい食らわしてやる』これは俺が引退するまでずっとやってきたことだ」と書かれています。

 帯の裏には「40年に及ぶリングでの戦いに悔いなし……腹いっぱいのプロレス人生でした」として、「最初はプロレスに全く興味がなかった」(第二章)/「ハンセンとブロディが怯んだときがあった……それは大きな自信になった」(第四章)/「レボリューション時代は俺にとって第二の青春だった」(第五章)/「折ってもいいよ。でも、そこからが俺の本当の勝負だよ」(第五章)/「”馬場、猪木をフォールした男”というのは、一時は重荷だった。だが、やがて糧となった」(第七章)/「Uスタイルとの戦いに難しいことはない」(第八章)/「体を使うプロレスという商売で娘を成人させることができたのは俺自身の誇りだ(第十一章)/「ずっと馬場さん、ジャンボの目を意識して生きてきた」(第十一章)/「来世も俺はプロレスラー」(第十二章)と書かれています。

 アマゾンの「内容紹介」には、こう書かれています。
「2015年11月15日・両国国技館にて引退した”ミスタープロレス”天龍源一郎。プロレス生活40年、相撲時代を入れれば格闘技生活53年。その長きに渡るドラマチックな格闘人生をこの一冊に綴る。生い立ちから相撲時代、頂点を極めたプロレス時代、そして引退後の現在まで、すべてを語りつくした唯一無二の自伝本である。総480頁の豪華上製本仕様、巻頭グラビアをはじめ本文中には各時代の写真を収録。65歳まで現役を貫いた”ミスタープロレス”の全歴史を総括する完本、待望の刊行!」

 本書の「目次」は、以下の通りです。
序章   最後の花道
第一章  出発 1950-1963
第二章  青春 1964-1976
第三章  放浪 1976-1981
第四章  昇龍 1981-1987
第五章  革命 1987-1989
第六章  逆流 1990-1992
第七章  闘いと冒険 1992-1994
第八章  反骨 1994-1998
第九章  帰郷 1998-2003
第十章  流転 2003-2009
第十一章 至境 2009-2015
第十二章 終止符 2015-2016
終章   LIVE FOR TODAY

 2015年11月15日・両国国技館にて著者は人気絶頂のオカダ・カズチカと引退試合を行いました。「オカダを選んだ理由」について、著者は以下のように述べています。
「俺が最後に岡田との対戦を希望したのは、彼の言動だけが理由ではない。40年間のプロレス人生の中で、伝説の強豪バディ・ロジャースに始まり、馬場さん、猪木さん、俺たちの時代のジャンボ鶴田、長州力、藤波辰爾、全日本の四天王、新日本の闘魂三銃士、第三世代、それより下の中邑真輔、柴田勝頼、さらに大仁田厚、髙田延彦、ファンクス、ミル・マスカラス、ハーリー・レイス、リック・フレアー、スタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディ……国籍、世代、スタイルを越えて、同じ時代に生きたトップ選手とことごとく戦ってきた。実現しなかったのは前田日明だけだ。それが唯一の心残りなのだ。だから1950~60年代にアメリカのトップだったロジャースから2010年のオカダまで……元号で言い換えれば、昭和30年代のロジャースから平成20年代のオカダまで、自分の生きた時代のプロレスをすべて体感したいと思った。これだけやれれば、それこそ腹いっぱいのプロレス人生だ」

 著者のプロレス人生を振り返ると、ジャンボ鶴田の存在が大きいです。第三「放浪」では、大相撲を廃業し、全日本プロレスに入団して初めて鶴田と接したときの印象を、著者は以下のように書いています。
「ジャンボ鶴田にボデイスラムで投げられて受け身を取った時には、内臓が動いて『グワッ!』ともどしてしまった。しかし、人としてのジャンボ鶴田の第一印象は、爽やかで凄くよかった。『ジャンボ鶴田です。よろしく!』
 屈託のない笑顔で挨拶してくれた。巡業のバスでも隣の席に座らせてくれて、いろいろな話をしてくれた。ジャンボから『元関取でも、このプロレスではそうはいかないぞ』というようなムードを感じていたら、‟北向き天龍”は、プロレスへの取り組み方が変わってしまっていたかもしれないが、(これがテリーと戦っていたジャンボ鶴田か。何だ、気の良さそうなあんちゃんだな)という、いい感じを受けたからプロレス界にスッと入っていけたんだと思う。その意味では今でもジャンボ鶴田に感謝している」

 1984年11月、長州力率いるジャパン・プロレスが全日本プロレスに参戦します。年が明けての1985年1月から2年間、著者と長州は鎬を削って戦いに明け暮れました。第四章「昇龍」では、「終生のライバル・長州力」として、著者は「もし、俺の中での全日本プロレスを一軒家に例えるとしたら、土台が馬場さんとジャンボで、長州と輪島によって外観ができて、天龍で内装ができて、三沢たちの四天王プロレスで、ちゃんと一軒完成したと思っている」と述べます。

 全日本プロレスとジャパン・プロレスは毎日のように対抗戦を行いましたが、当時のことを著者はこう述べています。
「違う団体だから当然、選手たちの間に不平不満や愚痴が出てくる。全日本の選手たちは、『あいつらはプロレスがわかっていない。基本を知らないから、やってて危なくてしょうがない』と言っていたし、ジャパンはジャパンで、『全日本の連中は、会場に来ても、全然、練習しないし、ウチのファイト・スタイルが8ビートのロックなら、全日本はワルツだ』と、お互いに好き勝手なことを言っていた。そういったことがお互いの耳に入って、それがまたリング上でスパークするわけだ」

 著者は長州力という「終生のライバル」を得たわけですが、当時の長州について、以下のように述べています。
「長州力のファイトは一見荒々しいが、アマチュアレスリング出身だけに、本当に無駄がない。ステップもスススッと入ってくる。アッと思った時には、いつの間にかピタッと左足に食いついていたりする。『長州力のバックドロップをわざとらしく受けるのはよくない』とか、よく訳知り顔した評論家が言っていたが、あれは食ったヤツじゃなきゃわからない部分がある。本当にスッと入ってくるのだ。実にうまい。スッと入ってきて、ピタッと左の腹に密着させてくる。こうなると変に踏ん張るより、持ち上げられてやった方が、自分の体へのダメージが少ないのである」

 その長州力が古巣の新日本プロレスにUターンして行った後、著者は阿修羅・原とともにレボリューションを結成。いわゆる「天龍革命」を起こして、全日本のマットを盛り上げました。そして、そこには元横綱の輪島大士がいました。第五章「革命」では、「輪島への激しい攻めのワケ」として、以下のように書かれています。
「ジャンボ鶴田と同様にレボリューションを語る上で忘れることができないのが輪島大士の存在である。俺と阿修羅は遠慮会釈なく輪島を毎日、ボコボコに痛めつけた。それが結構、話題になった。当時、格闘技プロレスとして前田日明のUWFが注目を集めていたが、後年になって前田に会った時に、『俺たちのパットが入ったレガースじゃなく、普通のレスリングシューズで輪島さんの顔面を思い切り蹴って、額に靴紐の痕をつける天龍さんの激しいファイトをテレビで観た時に、UWFはヤバイと思いましたよ』と言っていたが、俺にとっては普通の攻撃だった。俺は‟相撲の横綱”の強さを肌で知っている。輪島大士は、俺が青春をかけた相撲界で最高位に君臨した男なのだ。『相撲の横綱はあんたたちが思っているより凄いんだよ。輪島も必死になったら捨てたもんじゃないんだよ』そう言いたかっただけなのだ」

 しかし、全日本プロレスでの著者の最大のライバルは、長州でも輪島でもなく、ジャンボ鶴田でした。鶴田との戦いは元号が昭和から平成に変わった1989年に最高潮に達しましたが、「全てをぶつけ合ったジャンボとの抗争」として、著者は以下のように述べています。
「あの頃の俺とジャンボの関係は、それこそ箸の上げ下げから気に入らないというか、お互いに生き様すべてをぶつけて戦っていた。
『そうはいくかい!』
『チンケなことやりやがって!』
 彼を見て、あんな風になりたくないというのが正直なところだった。逆にジャンボも俺を見て、(あんな風になりたくない!)と思っていたはずだ。ジャンボはマスコミの人たちに、『あんな馬鹿みたいに銀座で酒飲んで、もし金が残らなかったらプロレス辞めた時にどうするんだよ?』と、ことさら生き様の違いを主張していたようだが、俺もジャンボの悪口を言いながら酒を飲んでたわけだから、相容れないものが絶対にあったのだ。俺は常に『こいつよりも1ミリでも先に行ってやろう』と思っていた。もちろん殺し合いではないけれども、そこのギリギリのところだったと思う」

 1989年4月18日、インター王者の鶴田が、著者からUN&PWF二冠王座を奪ったスタン・ハンセンに勝って初代三冠ヘビー級王者になります。その2日後の4月20日、鶴田の初防衛戦の相手が著者でしたが、熱戦の末、鶴田のパワーボムで叩きつけられた著者は欠場に追い込まれる完敗を喫します。そして、6月5日、再び王者・鶴田に挑んだ著者は、今度は逆にパワーボムで鶴田を叩きつけ、勝利を得たのでした。著者は述べます。
「遂に俺は三冠王者になったのである。これまで何度も死闘を繰り広げてきたスタン・ハンセンがリングに駆け上がって、俺を祝福してくれた。その顔が阿修羅にダブって見えた。俺はインター、PWF、UNの3本のベルトを、どこかで必ず観てくれているであろう阿修羅に向かって高々とかざした。1989年6月5日……奇しくも天龍革命3年目に突入した第1日目であった」
 著者とともに天龍革命を起こした盟友の阿修羅・原は、すでにこのとき、全日本プロレスから解雇されていました。

 著者が三冠王者になったこの時を境に、著者とハンセンはタッグを組むようになりました。ファンやマスコミからは「龍艦砲」と呼ばれましたが、ハンセンは常にイライラしていたといいます。著者は述べます。
「やはりハンセンには『俺は天龍よりも上の扱いを受けるべきだ』というプライドがあったと思うし、『なぜ俺が天龍の下のように見られるのだ』という不満もあったと思う。俺を取材しようと控室に来る記者をブルロープで追っ払うハンセンを見て、そう感じた。ハンセンとは世界タッグも取ったし、暮れの『’89最強タッグ』でも史上初の全勝優勝という記録を作ったが、俺にとっては気を遣うパートナーだった。友達として付き合えるようになったのは2001年に彼が引退してからだ」

 史上初の全勝優勝を飾った「’89最強タッグ」で、ジャイアント馬場・ラッシャー木村組と対戦した著者は、馬場からフォール勝ちを奪うという快挙を成し遂げます。「ジャイアント馬場をフォール」として、以下のように述べています。
「馬場さんに渾身のパワーボムを決めた。ハッキリ言って見栄えはよくなかったと思う。本当に角度だけ……角度だけでフォールできたパワーボムだった。馬場さんの体が真っ直ぐに落ち、首に体重が全部かかったのがわかった。俺はジャイアント馬場に勝ったのだ。3カウントが入った後、凄い馬場コールが起こった。改めて、この道一筋30年トップでやってきた人に対する大衆の支持は凄いものだなと思い知らされた。そして嬉しさよりも、(馬場さんは本当に俺のパワーボムを返せなかったのだろうか?)こんな想いもよぎった。普通に考えれば、翌日のスポーツ新聞はUWFの東京ドーム進出一色になるだろう。(だったら、ス個でも紙面を全日本に割かせてやろうじゃないか!)という全日本プロレスの社長としての馬場さんが顔を出したのではないかと一瞬思ったのだ」
 試合後、著者は「この勝ちは東京ドームより重い!」とコメントしました。そして、「これから重荷を背負っていかなきゃいけない」と思ったそうです。

 1994年1月4日、その東京ドームで、著者はアントニオ猪木からフォール勝ちを奪いました。最初、猪木は「格闘技ルールで戦おう!」と言い出しましたが、著者がこれを突っぱねました。試合開始から3分が過ぎた頃、猪木は販促のチョーク・スリーパーを繰り出し、著者は失神してしまいます。その他にも、指を脱臼させられるなど猪木のえげつない攻めが続きますが、最後は著者が勝利をもぎ取ります。第七章「闘いと冒険」では、「引退まで支えてくれた勝利」として、著者は以下のように述べています。「現役バリバリの俺と当時の猪木さんでは耐久力の差は明らかだ。猪木さんの限界が見えた。間髪入れず、渾身の力と胸いっぱいの思いを込めてパワーボムで叩きつけた。カウントが3つ叩かれた。勝負はついた。猪木さんは人目もはばからず泣いている。猪木さんの愛弟子・長州力の目にも光るものがある。俺も何故か目頭が熱くなり、こみ上げてくるものがあった」
「時間が経つと、馬場さんをフォールした時のように、『猪木さん、本当に返せなかったんですか?』という疑念が湧いて‟馬場、猪木をフォールした男”というのが重荷になったこともあった。だが、それはやがて俺がプロレスで頑張っていける糧になった。『両巨頭の名前を汚すわけにはいかない!』という強烈な思いが2015年11月15日の引退まで俺を支えてくれた」

 1999年は著者にとって、ショックな出来事が続きました。ジャイアント馬場が亡くなり、ジャンボ鶴田がいんたいしたのです。この年の5月3日、福岡で著者は武藤敬司のIWGPヘビー級王座に初挑戦します。そして、武藤をノーザンライト・ボムで叩きつけてIWGP王者になったのです。第九章「帰郷」では、「俺と武藤の試合にハズレはない」として、以下のように書いています。
「49歳10カ月での戴冠は今も破られていない史上最年長記録。当時としては日本人初の三冠ヘビー級&IWGPヘビー級制覇でもあった。馬場、猪木を倒した男といい、いろいろな記録を作ったことになるが、俺は、記録は大切なことだと思う。『記録よりも記憶に残るような……』というのはよく聞く話だが、俺からしたら、それは逃げだと思う。人はいろいろなものを見ると記憶は薄れていくが、記録は確実に残る。確かに記録はいつか塗り替えられる。しかし、誰かが記録を更新した時に、『じゃあ、その前の記録はどうだったんだろう?』と遡れば、そこに出てくる先人たちの記憶がその時代に呼び起こされるのだ。歴史に名を刻むというのは、そういうことだと俺は解釈している」

 第十二章「終止符」では、「来世も俺はプロレスラー」として、著者は以下のように述べています。
「生まれ変わるとしたら……俺はやっぱりプロレスラーになると思う。それもいきなりプロレスに入るのではなく、相撲からプロレスという同じパターンだ。相撲は俺の心の大黒柱だった。いい時も悪い時も『相撲の社会で頑張れたんだから』『相撲で耐えられたんだから』というのがあったと思う。相撲は俺の人生の礎だったからプロレスに入る時も『相撲で勝ち越して』が大前提だった。そして、いざプロレスに入った時は、出だしがうまくいかなかったから、もがきながら頑張ってこれたんだと思う。結果、居間も楽しい人生を送らせてもらっているわけだから、来世も俺は‟相撲上がりのプロレスラー”のはずだ」

 そして、著者は「振り返ると、清濁併せて様々なことを体感できたという意味で、改めて腹いっぱいのプロレス人生だったと思う。相撲協会の定年は65歳だが、そこまで現役でやれたというのも誇りだ。何の悔いもない」と述べるのでした。わたしは著者の堂々たるプロレス人生に静かな感動をおぼえるとともに、今も残る相撲への想いを強く感じました。かつて力士からプロレスラーに転進した力道山は日本プロレス界の父となり、弟子であるジャイアント馬場とアントニオ猪木を育てました。その馬場と猪木から勝利した天龍の人生には、どうしても夭折した力道山の人生が重なります。昭和のプロレスは、力道山で始まり、天龍で終わったのかもしれない……本書を読み終えて、そう思いました。

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