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道徳ロボット』

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No.1808


 『道徳ロボット』アルボムッレ・スマナサーラ著(サンガ)を読みました。「AI時代に欠かせない『幸せに生きる脳』の育て方」というサブタイトルがついています。著者は、テーラワーダ仏教(上座仏教)長老。1945年4月、スリランカ生まれ。13歳で出家得度。国立ケラニヤ大学で仏教哲学の教鞭をとる。1980年に来日。駒澤大学大学院博士課程を経て、現在は(宗)日本テーラワーダ仏教協会で初期仏教の伝道と瞑想指導に従事している。朝日カルチャーセンター(東京)講師を務めるほか、NHKテレビ「こころの時代」などにも出演。著書多数。

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本書の帯

 

 カバー表紙には昔のSF映画に登場するようなレトロなデザインのロボットが描かれ、帯には「AIが発達し、善悪の判断ができる『道徳ロボット』の開発が進む現代において、人間が目指すべき『脳の成長』とは何か?」「脳のプログラムを『道徳』で変える!」「『道徳の授業』を担当する学校の先生との対話&『道徳ロボット』の研究者鄭雄一教授との対談も収録!」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

 帯の裏には「2600年前の仏教の智慧が、3つの議論を通して、新しい時代に必要な『道徳の本質』を照らす出す!」として、以下のような内容紹介があります。
第1部「道徳は幸せに生きる道――仏教と道徳をめぐる対話」では、「『特別の教科』となり、新たに指導が求められる小中学校の『道徳』の授業。教育現場で活躍する教師の皆さんとスマナサーラ長老が、道徳を教える上でのポイントについて話し合います」とあります。
第2部「仏教における倫理とは何か?」では、「仏教と倫理はどのような関係で成り立っているのか? その疑問に光をあてるために、『倫理的ジレンマ』の問題に対し、仏教的な視点からのアプローチを試みます」とあります。
第3部「[特別対談]道徳のメカニズムと仏教 アルボムッレ・スマナサーラ×鄭雄一」では、「AIやロボットに『道徳エンジン』を搭載する研究に取り組む東京大学大学院教授の鄭雄一先生とスマナサーラ長老が、私たちが目指すべき道徳の本質について語り合います」とあります。

 本書の「目次」は、以下の構成になっています。

「まえがき」

第1部 道徳は幸せに生きる道 

    ――仏教と道徳をめぐる対話

 序章  仏教は普遍の教え
 第1章 道徳は人間に不可欠
 第2章 道徳は「幸せに生きる道」を教える 
 第3章 正しい道徳の見分け方
 第4章 学校の先生が長老に道徳を尋ねる

第2部 仏教における倫理とは何か?

  第1章 仏教とジレンマ 佐藤哲朗
  第2章 お釈迦様の道徳とは智慧である アルボムッレ・スマナサーラ
  第3章 質疑応答

第3部 [特別対談]道徳のメカニズムと仏教
     アルボムッレ・スマナサーラ×鄭雄一

   第1章 道徳を科学する  
   第2章 科学としての道徳と、仏教の道徳観 
   第3章 道徳の真髄

 

 第1部「道徳は幸せに生きる道――仏教と道徳をめぐる対話」の序章「仏教は普遍の教え」では、「仏教が説く道徳とは?」として、著者は以下のように述べています。
「覚ったお釈迦様は『私は人類史上初めて、一切の生命に役立つ、一切の生命が幸福になる真理を発見しました。ですから、あなた方はあちらこちらへ遊行して、この真理を人々に教えてあげてください』と、弟子たちにおっしゃいました。『人間が幸せになる道を私が初めて発見したのだから、それを世界中に、すべての人に教えてください』と。すべての人に通用する幸せになる方法なら、それは宗教ではありませんね。たとえば、キリスト教の大本である旧約聖書は、ユダヤ民族のためにできたテキストです。ですから、自分たちに都合によい神話物語になっていて、ユダヤ民族でない私たちには関係ないことが多いのです」

 

 続けて、著者は以下のように述べています。
「ヒンドゥー教の場合、インドにあるカースト制度をベースにして教えを構築しています。しかし、日本人である皆さんにはカーストはないでしょう? ブラフマン、シュードラ、ヴァイシャ、そういう身分制度はありませんね。ですから、やはり他の民族にとっては関係のない話になるのです。このように、宗教とは、狭い範囲で人間を隔離して仲間同士、固まろうとするシステムです。しかし、ブッダは違います。人類に科学を、生きる科学を教えたのです。『科学』には、性別も民族も宗教も関係ありません。万国共通、人類共通の真理です。それが仏教であり、仏教が説く道徳は当然『科学』としての性格を備えているのです」

 

 第2章「道徳は『幸せに生きる道』を教える」では、「いつでも破壊に向かってしまう」として、著者は以下のように述べています。
「原始脳の指令とは、『存在欲』『恐怖感』『死にたくない』『敵を倒せ』といったものです。『Fight or Flight』、戦うか逃げるか。日本語でだじゃれ的に言えば『闘争か逃走か』となりますが、脳科学の本ではよく使われる用語です。戦いと逃げの精神で、我々はこの世界をつくっているのです。ですから、この世界で人間たちは互いに憎しみ合うわ、相手が敵だと思うわ、差別するわ、嘘を言うわ......。もう、おかしいのです。人間が変になったのは、人間が大脳を獣の指導で育てたからです。それでは、とても幸福には生きていられません。破壊、破壊で、生き続けることもままなりません。知識人たる科学者が、原子爆弾や、大量破壊兵器を作っているのですから。それも、科学の天才たちが作っているのです」

 

 また、「道徳とは、幸せに生きる道」として、著者は以下のように述べています。
「皆さんもおそらく、学校で習う道徳は嫌いでしょう? 私は嫌にならない道徳を教えます。まず、私たち生命は、獣でもなんでも、とにかく生きていきたいのです。死にたくはありません。これは疑いようのない正直な気持ちです。「生きていきたい。死にたくはない」。誰もそれに疑いはありませんね? なぜならこれは原始脳の感情だからです。大脳で考える場合は『どうして?』と疑問に思います。たとえば『どうして神を信じるの?』『なぜ信じるの?』など、疑問の余地があります」

 

 続けて、著者は以下のように述べています。
「しかし、原始脳の感情は、誰だって疑いなく認めます。『あなた、生きていきたいですか?』と聞いたら、『当たりまえでしょう、そんなことをわざわざ聞くなんてバカじゃない?』と返されるのがオチです。そう、人は皆、生きていきたいのです。そこで私は『では、生きていきたいならば、大脳を使ってください』と言います。どうすれば、問題なく気持ちよく、幸福に生きられるのか。それが道徳です。幸福に生きるためには、大脳を使わなくてはいけないのです。人間に欠かせない道徳的な生き方は、大脳を使う生き方だと言えるのです」

 

 さらに、著者は以下のように述べるのでした。
「我々には道が2つあります。1つは、原始脳が言ってくれる道です。いわば破壊して敵を殺していく道。自分だけが正しい。私が生きていればそれだけで充分、という道です。そうではなく、どうすれば幸福に生きられるのかと、客観的に大脳を使ってものごとを考える道こそが、仏教が定義する道徳的生き方なのです」

 

 第4章「学校の先生が長老に道徳を尋ねる」では、中学校の男性教師の「道徳の授業によい教材は?」という質問に対して、著者は「なんでも教材になり得ます。聖書だって使えます」と答えながらも、「私にとって、語るべき聖書の言葉は2つだけです。その2つは、最高の言葉と最低の言葉です。最高の言葉は、『罪を犯していない人が最初に石を投げてください』というものです」と語ります。

 

 それでは、最低の言葉とは何か。著者は述べます。
「イエスは、人の悪霊を取っ払って病気を治す祈祷師のようなことをしていました。あるとき、ある人が治療をお願いし、イエスが祈祷で治したところ、ある人から『あの人はユダヤ人ではないですよ。神は我々の神でしょう?』と、すごく非難されたのです。するとイエスは、『家で犬を飼っていると、その家の主人や子どもたちなどがごはんを食べてこぼれて落ちたものは、犬が拾って食べるでしょう? それで悪いですか?』と答えました。どうでしょう? これは最低の言葉だと思います。イエスとしては『私にとってはユダヤ人でない人を治したことはそんなものだ』と言いたいのでしょうが、明らかに差別でしょう? ユダヤ人以外の人間を犬猫扱いしているのです」

 

 第3部「[特別対談]道徳のメカニズムと仏教」では、著者と東京大学大学院教授の鄭雄一氏が対談します。鄭氏は医師であり工学者でもある立場から、医学と工学を融合させた開発に従事し、AIやロボットに道徳エンジンを搭載するための研究に取り組んできました。その最新の道徳研究が、2600年前の仏教の智慧と向き合ったとき、わたしたちが目指すべき道徳のポイントが見えてくるというわけです。

 

 第1章「道徳を科学する」では、「道徳は仲間・内輪の掟」として、鄭氏は以下のように語っています。
「よく子どもに『人の痛みを知りなさい』などと大人は言いますが、『じゃあ、どうして死刑があるの? どうして戦争があるの?』と言われたら、子どもに説明できないわけですね。これが実際のところは『仲間の痛みを知りなさい』だからです、と。ですから、あらゆる宗教に共通項としてある『殺してはいけない』『盗んではいけない』『騙してはいけない』というのは、『仲間の人を殺してはいけません』『仲間の人の物を盗んではいけません』『仲間の人を騙してはいけません』ということなのです」

 

 続けて、鄭氏は以下のように述べています。
「とすれば、聖徳太子もOK、僧兵もOK、十字軍もOK、テロリストもOK。やくざとかマフィアもOKです。ということで結局、人間が今、持っている道徳というのは、長老がご指摘になったように、仲間同士の内輪の掟なんですね。おそらく、まだ何万年か前、人間が小さいグループで暮らしていたときの原理をそのまま使っているのだと思います。だから、その血縁クループ以外の人はみんな敵で、『殺してもいいよ、盗んでもいいし、騙してもいいよ』という形になっているのです。逆に非仲間には、人間でも道徳は適用されないと。まさに長老がおっしゃった通りで、心の進化が追いついていないのではないかなと思うんですね。社会だけ、こんなに一気に巨大になってしまって、心が追いついていない状態だと」

 

 第2章「科学としての道徳と、仏教の道徳観」では、「言語と社会性」として、鄭氏は以下のように述べています。
「ブッダやキリストなどと時空を超えて気持ちがつながっているという人間の文化の鍵は『言葉』ではないかと思います。人間の言葉の特質性を見ると、『三人称』が空間を超えさせてくれます。『時制』が時間を超えさせてくれます。人間の言葉があるおかげで、我々は時空を超えて、今ここにいない第三者に関する情報を収集できるのです。まさに、仏典や聖書は典型例でしょう。それによって、バーチャルな出会いを可能にします。信徒にとっての教祖というのは、まさにそれです」

 

 続けて、鄭氏は以下のように述べています。
「厳密に時空を超えられるのは人の言葉だけです。動物にも、部分的に時空を超えるコミュニケーションはありますが、完全に超えられるのは人の言葉だけ。これが、人間のような道徳を可能にしているということです。なぜ、人の言葉は時空を超えることを可能にするのか? 人間の言葉というのは、まず概念を任意に決めますね。私たちが勝手に切り取って『皿』を例にとるなら、切り取った概念を『皿』と言っているだけ。そういう概念をつくるところは、他の動物もたぶんやっていると思います。でも人間は、さらにそこに気持ちとは関係のない音をあてるのですね」

 

 また、「解決策として二つのことの理解」として、鄭氏は以下のように述べています。
「ソリューションのための提案としては、言葉に書くと実に単純なことになってしまいますが、『道徳の二面性をちゃんと認識する』、これに尽きます。すべての社会共通の掟と、それぞれの社会ごとの個別の掟、これをきちんと分けて考えなければならない、と。二面性の区別は、意外とできていません。共通の掟さえ守れば、多様性のある社会の形成・維持は可能です。個別の掟は元来多様なので、特定の個別の掟を強要しなければ共通の掟が重要になり、円滑に維持されていきます」

 

 続けて、鄭氏は以下のようにも述べます。
「もう1つ重要なのは、『出会いの二種類を区別する』ことです。リアルな出会いと、人の言葉が可能にしたバーチャルな出会い。バーチャルな出会いは厄介ですが、巨大社会の基礎なので無視はできません。見ず知らずの赤の他人をつなごうと思うとこれしかないので、限界を知りつつ利用するのがよいでしょう。その一方で、我々の生活基盤はリアルな出会いですよ、というのを忘れてはいけないということになります」

 

 そして、鄭氏は以下のように述べるのでした。
「リアルとバーチャル、この出会いの二種類をきちんと区別して使い分けなくてはいけないし、そのためには具体的にどうしたらいいのか、と。私たちの仲間にはリアルな仲間と、言葉によるバーチャルな仲間がいる。そして、仲間の中に入れば道徳は守られます。しかし、非仲間にいきなり道徳を適用しろと言っても、凡人はできないわけですね。まさに仏教では、これをやれと言うのだと今、教わったのですが。ですから、要するに仲間の範囲を広げてしまえばいいのではないかと考えるのです。そのときのターゲットは、個別の掟です。個別の掟に対して寛容性を誘導することと、バーチャルな出会いを糊として使って人をつなげること。これしかないと思います」

 

 また、「自殺は本来、成り立たない」として、「仏教で自殺は、どうとらえられていますでしょうか?」と問う鄭氏に対して、著者は「自殺というのは、自分が失敗したという意味でしょう? 生きることは戦いでしょう? 戦いというのは、悪い意味でではなくて、ファイトですね。赤ちゃんも、自分で頑張って立たなくてはいけません。親など大人は、赤ちゃんを食べさせて大きく育てますけど、どんどん赤ちゃんは自分で手を出して食べようとしますね。初めは全部こぼれるかもしれませんが、やらなくてはいけないでしょう。そういうものなのに、ある年齢になったら、『俺は戦いたくない、だから死んでやる』というのはね。仏教の考えは、キリスト教みたいに『自殺は重罪です』ということではないのです」と答えます。

 

 さらに、「自己犠牲は欲」として、「自殺はよくないとして、では、他人のための自己犠牲はどうですか? ここでもう助けなければいけないと」と尋ねる鄭氏に対して、著者は「それは、仏教で認めないです。自己犠牲というのは間違った世界に起こる現象で、本当の意味で自己犠牲にはならないのです。賢い人は、自分の利益のためではなく、他人の幸福のために努力するのです。そこで死んでしまったら、自分に道徳を完成することはできなくなるのです。人が川で溺れていると、助けてあげなくてはいけないのは当たりまえの話です。だからといって、泳げないあなたが川に飛び込むのではなく、長い棒を使って浮輪でも差し伸べたほうがよいのではないでしょうか? ですから、賢い人の道徳では、自己犠牲は成り立たないのです」と答えるのでした。

 

 「ロボットに見える自己犠牲」では、著者が「ロボットでいえば、自己犠牲のロボットがいましたね。福島原発で中に入って調べるロボット。すぐに壊れてしまいました」と言うと、鄭氏が「なるほど、子どもの頃に見たジャイアントロボも結局は自己犠牲だし、鉄腕アトムも最後はそうですね。ターミネーターもそうですしね。ああいうことで、ロボットに対する共感がやっぱりグッと湧きますね」と述べています。

 

 第3章「道徳の真髄」では、「AIと自我」として、著者は以下のように述べています。
「お釈迦様は、何だかロボットに道徳を教えるような感じで教えているんですよ。最初は、戒律なんかなかったのです。お釈迦様がだいたい50歳ぐらいになってからですね、出家の戒律ができたのは。けっこう長い時間、出家の戒律はありませんでしたし、それでも弟子たちはけっこうみんな覚っていたのですね」

 

 また、「道徳の完成は覚りの境地」として、著者は述べます。
「道徳が必要なのは生きているからなのです。宗教から離れた道徳というのは、『どう生きるべきか』というものです。生きる場合は誰だって死を避けたいでしょう。そして、死を避けるならば、自分に危害が及ぶいろいろなところを止めなくてはいけませんね。たとえば、人とけんかをしたら相手は敵になるでしょう。だから、けんかをしたらいけないのです。人を助けてあげたら、またあとで今度はことらを助けてくれる可能性があるでしょう。それはいい道徳で。そういうふうに幸せに、死を避けて生きるというところで、イエス・ノーが成り立つのです」

 

 そして、「仏教の生き方=道徳」として、鄭氏は以下のように述べるのでした。
「スマナサーラ長老が、『結局、仏教になるしかない』とおっしゃいましたけど、ちなみにこういう道徳研究をしている人は西洋にはいないのです。ましてやロボット・AIに関しては、西洋ですと『ロボットは奴隷』という考えなので、ロボットに最高道徳を積むとか、それを目指すなどということは、まずもってすぐには受け入れられないです。『ロボットになら道徳次元1とか2を積め、4を積むのはけしからん』という考えになるのです。西洋の人はそもそも、『自我なんか積むかよ』と言うと思います。西洋の描くロボットは、伝統的には人間の敵というのが基本ですので難しいんですよね。それをどうやるかはいろいろ考えるところで、商品の力などを使うしかないんじゃないかなと思っています」

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唯葬論』(サンガ文庫)

 

 「道徳ロボット」というアイデアは非常にユニークであり、わたしは本書を興味深く読みました。しかしながら、今ひとつ物足らない思いをしたのは、本書に葬儀の問題が一切登場してこなかったからでしょう。本書と同じ版元から、わたしは『唯葬論』を上梓しました。わたしは、儀式を行うことは人間の本能ではないかと考えています。ネアンデルタール人の骨からは、葬儀の風習とともに身体障害者をサポートした形跡が見られます。葬儀を行うことと相互扶助は、人間の本能であり、これが「道徳」というものに直結していると思います。このことに最もよく気づいていたのは孔子です。ブッダやイエスも気づいてはいたでしょうが、孔子ほどではありません。著者のスマナサーラ師はテーラワーダ仏教(上座仏教)長老ですが、テーラワーダ仏教(上座仏教)は葬儀を軽視していることで知られます。本書を読んで、わたしは「葬儀なくして道徳なし」と思いました。