No.1757 死生観 『「死」とは何か』 シェリー・ケーガン著、柴田裕之訳(文響社)

2019.08.10

 死者を想う季節の中で、『「死」とは何か』シェリー・ケーガン著、柴田裕之訳(文響社)を読みました。「イェール大学で23年連続の人気講義」というサブタイトルがついていますが、”DEATH(原書)”のChapter1、8~16の完訳と、Chapter2~7の原著者自身の要約原稿の翻訳文による、日本縮約版です。

本書のカバー表紙

 著者は、イエール大学哲学教授。ウェスリアン大学で博士号を取得したのち、ピッツバーグ大学、イリノイ大学を経て、1995年からイエール大学で教鞭を執っています。2016年、アメリカ芸術科学アカデミーに選出。道徳・哲学・倫理の専門家として知られ、「死」をテーマにしたイエール大学での授業は、17年連続で「最高の講義」に選ばれています。また、本授業は2007年にオンラインで無料提供され、大好評を博しました。本書は、その講座をまとめたものであり、すでに中国、韓国をはじめ世界各国で翻訳出版され、ベストセラーとなっています。本書のカバー表紙には「人は必ず死ぬ。だからこそ、どう生きるべきか」と金の箔押しで書かれています。

本書のカバー裏表紙

 カバー裏表紙には「余命宣告をされた学生が、”命をかけて”受けたいと願った伝説の講義、ついに日本上陸――!」として、以下のように書かれています。
○死とは何か
○人は、死ぬとどうなるのか
○死への「正しい接し方」
 ――本当に、恐れたり、絶望したりすべきものなのか
○なぜ歳をとるごとに、「死への恐怖」は高まっていく?
○残りの寿命――あなたは知りたい? 知りたくない?
○「不死」が人を幸せにしない理由
○「死ぬときはみな、独り」というのは、本当か
○自殺はいつ、どんな状況なら許されるのか
○死が教える「人生の価値」の高め方
【特別書き下ろし】「日本の読者のみなさんへ」付き!

 カバー前そでには、こう書かれています。
「どのような生き方をするべきか?
“誰もがやがて死ぬ”ことがわかっている以上、この問いについては慎重に考えなければなりません。どんな目的を設定するか、どのようにその目的の達成を目指すか、念には念を入れて決めることです。もし、死が本当に”一巻の終わり”ならば、私たちは目を大きく見開いて、その事実に直面すべきでしょう。――自分が何者で、めいめいが与えられた”わずかな時間”をどう使っているかを意識しながら。
イェール大学教授 シェリー・ケーガン」

 アマゾンの「出版社からのコメント」は以下の通りです。
「『私自身が、日本語版の制作チームに加わっているような気分です』このお言葉は、 日本語版制作にあたって、『日本の読者のみなさんへ』を書き下ろしていただき、さらに、編集上の様々な疑問点にお答えいただいた際の、シェリー先生のお言葉です。イェール大学で20年以上、『死』をテーマにした講義を続けていらっしゃる、シェリー先生。そのお姿はまるで、 悟りを開いた高僧のよう……。『死』という難しいテーマを扱いながら、理性的に、そして明快に導かれる、まさに、イェール大学の看板授業! ぜひみなさんも、イェール大学に入学した気分で、世界最高峰の『死』の授業をお楽しみください」

 本書の「目次」は、以下の構成になっています。
第1講 「死」について考える
 日本の読者のみなさんへ
第2講 死の本質
第3講 当事者意識と孤独感
    ――死を巡る2つの主張
 主張①「誰もがみな、”自分が死ぬ”ことを
    本気で信じていない」
 主張②「死ぬときは、けっきょく独り」 
第4講 死はなぜ悪いのか
 死はどうして、どんなふうに悪いのか
 死はいつの時点で、私にとって悪いのか
 死後に関するルクレティウスの主張とその反論
第5講 不死――可能だとしたら、
    あなたは「不死」を手に入れたいか?
第6講 死が教える「人生の価値」の測り方
第7講 私たちが死ぬまでに考えておくべき、
    「死」にまつわる6つの問題
 1 「死は絶対に避けられない」という事実を巡る考察
 2 なぜ「寿命」は、平等に与えられないのか
 3 「自分に残された時間」を誰も知りえない問題
 4 人生の「形」が幸福度に与える影響
 5 突発的に起こりうる死との向き合い方
 6 生と死の組み合わせによる相互作用 
第8講 死に直面しながら生きる
 死に対する3つの立場
 死と、それに対する「恐れ」の考察
 いずれ死ぬ私たち――人生で何をするばきか
 死を免れない私たちに採れる、最高の人生戦略 
第9講 自殺 
 自殺の合理性に対する第一の疑問
 ――そんな状況ならば、自殺は合理的な決断になりうるか
 自殺の合理性に対する第二の疑問
  ――自殺の決断は明晰で冷静になされうるか
 自殺の道徳性に対する疑問
 結果主義と自殺と道徳性
死についての最終講義「これからを生きる君たちへ」
「訳者あとがき」

 第1講「『死』について考える」では、著者は以下のように述べています。
「私がこれから語るつもりなのは、主に、『死の本質』あるいは『死という現象にまつわる心理学的な疑問や社会学的な疑問』だ。一般に、死に関する本ではおそらく、死にゆくプロセスや自分が死ぬという事実を甘んじて受け容れるに至るプロセスが詳しく語られるだろう。だが、本書ではそういう話はしない。また、死別したり死者を悼んだりするプロセスについてもまったく語らない。そして、葬儀業界について論じることもないし、私たちが死にゆく人に対して取りがちな態度の問題点や、死にゆく人を他者の目に触れさせぬようにしようとする傾向を話題にすることもない」

 また、著者は以下のようにも述べています。
「本書では、死の本質について考え始めたときに湧き起こってくる哲学的な疑問の数々を検討することになる。たとえば、「私たちは死んだらどうなるのか」といった疑問だ。とはいえ、じつはその疑問に立ち向かうためには、真っ先に次のような疑問について考える必要がある。
私たちは何者なのか?
人間とはどのような存在なのか?
そしてとくに重要なのが、私たちには魂があるのか、という疑問だ。冒頭で早々に説明しておいたほうが良いだろうが、本書では『魂』という言葉を哲学的な意味合いで使い、理詰めで考えていく。私が『魂』と言うとき、それは身体とは別個の、非物質的なものを指す。だから今後、次のような疑問を投げかけることになる」

 「『生と死の本質』とは?」として、〈死についての一般的な見解〉が紹介されます。
「死は究極の謎だ。だが、魂の存在を信じていようといまいと、みなさんは少なくとも魂があってほしいと願っているだろう。魂があれば、死後も存在し続ける可能性がおおいに出てくるからだ。なにしろ、死は悪いものであるばかりか、身の毛がよだつようなものでもあるため、私たちは永遠に生き続けることを望んでいるのだ。不死は素晴らしいものだろう。もし魂が存在せず、死が本当の終わりを意味するなら、それは圧倒的に悪いものであり、死の見込みには恐れと絶望を抱いて向き合うというのが、わかりきった反応、適切な反応、普遍的な反応になる。最後に、死は身の毛がよだつほど恐ろしく、生はあまりに素晴らしいとすれば、自分の命を投げ捨てるのが理にかなうはずがない。このように、自殺は一方では常に不合理であり、他方では常に不道徳でもある」

 また、〈死についてのシェリー先生の見解〉が以下のように紹介されています。
「私は魂が存在しないことをみなさんに納得してもらおうとする。不死は良いものではないことを納得してもらおうと試みる。そして、死を恐れるのは、じつは死に対する適切な反応ではないことや、死は特別謎めいてはいないこと、自殺は特定の状況下では合理的にも道徳的にも正当化しうるかもしれないことも。繰り返すが、私は一般に思われていることは最初から最後までほぼ完全に間違っていると考えるので、それをみなさんに納得してもらおうとする。少なくとも、それが私の目標であり、狙いだ」

 「日本の読者のみなさんへ」では、「心(魂)と身体は切り離せるか」として、著者は以下のように述べます。
「物理主義者は、人格を持った人間であるとは、これらのさまざまな事柄(恋に落ちる、詩を書く、将来の計画を立てる、微積分の問題を解く、など)ができる身体を持っているだけのことにすぎないと考えている。物理主義者にとって、人間とはただの身体、手の込んだ有形物にすぎない。もちろん、私たちはどこにでもあるような月並みな有形物ではない。人間とは驚くべき物体であり、人格を持った人間は他の物体にはできない、ありとあらゆる種類の機能を果たすことができるのだ(その機能を本書では「P機能(人格機能)」と呼ぶ)。だがそれにもかかわらず、私たちは有形物にすぎない。事実上、ただの機械なのだ」

 さらに、著者は以下のように述べるのでした。
「私は、物理主義の立場が最も妥当に思えると結論する。実際、人はP機能を果たせるただの身体にすぎないことを私たちは受け容れるべきだ。人は自分の身体の死後も存在し続けるという、その考えはまったくもってお門違い、あるいはありえないということを、この結論が意味していると思うのは自然だろう。なにしろ、もし人が特別な形で機能している特別な種類の身体にすぎないのなら、身体が死んだときにその人も消滅して当然ではないか?」

 第2講「死の本質」では、「私が死んだのはいったいいつ?」として、著者は以下のように述べています。
「きちんと機能している人間の身体について考えてほしい――たとえば、みなさんの。みなさんの身体は、現在じつにさまざまな機能を実行している。単に食物を消化したり、身体をあちこちに移動させたり、心臓を拍動させたり、肺を広げたり縮めたりといった機能もある。それらを『身体機能』、略して『B機能』と呼ぼう。もちろん、それ以外にももっと高次のさまざまな認知機能があり、それを私は『P機能』と呼んできた。さて、おおざっぱに言って、身体の機能が停止したときに人間は死ぬ。だが、機能と言っても、どの機能のことだろう? B機能か、P機能か、はたまたその両方か?」

 また、「死とは何か――シェリー先生の哲学的回答」として、こう書かれています。
「健全な人間の身体は、さまざまな形で機能できる。低次の適切なB機能が実行されている(あるいは、実行されうる、と言ったほうが良いかもしれない)限り、身体は生きている。もちろん、万事順調なら、身体はもっと高次の認知機能であるP機能も果たせる。そして、それはつまり人格を持つ生きた人間であるということだ。ところが悲しいかな、いずれ身体は壊れ始める。P機能を実行する能力を失う。その時点で、人格を持つ生きた人間ではなくなる。最後に(それはその時点かもしれないし、さらに後かもしれない)、身体はさらに壊れていき、B機能を行なう能力も失う。そして、それが身体の死だ。当然ながら、科学の観点から解明するべき詳細はたくさんあるかもしれない。だが、哲学の観点に立つと、ここでは何一つ謎めいたことは起こっていない。身体が作動し、それから壊れる。死とは、ただそれだけのことなのだ」

 第3講「当事者意識と孤独感――死を巡る2つの主張」では、主張①「誰もがみな、”自分が死ぬ”ことを本気で信じてはいない」の根拠①「『死んでいる自分』を想像できないから」として、著者は以下のように述べています。
「私は病気になったところを間違いなく思い描ける。死の床に就き、癌で死にかけており、どんどん衰弱していく。自分が死ぬ瞬間さえ思い描けそうだ。家族や友人にはもう別れを告げた。すべてが薄暗くなり、ぼんやりしてくる。意識を集中するのがしだいに難しくなる。そして、それから――その後、『それ以上』何もなくなる。私は死んだ。というわけで、私には自分が死ぬところが思い描けるらしい。だが、これは的外れだ。信じることに関する説は、病気になったところや死ぬところを思い描けないとは言っていないからだ。自分が死んでいるところを思い描けないというのが肝心の主張のはずだ。まあ、やってみてほしい。死んでいるところを思い描こうとしてもらいたい」

入棺体験で、死んだ自分を思い描く

 わたしには、自分の「死んでいるところを思い描く」のは簡単です。というのも、わが社のセレモニーホール(コミュニティセンター)で実施している施設見学会で人気を呼んでいる「入棺体験」をすればいいからです。お客様が来る前に、何度か自分でも試しに棺の中に入ってみました。棺に入って目を閉じると不思議な感じで、本当に自分が死んだような気がしました。わたしは「これまでの人生に悔いはないか」と振り返り、自分の人生をフラッシュバックしてみました。すると、いろんな想いが次から次へと思い浮かんできました。亡くなった方の気持ちが想像できたように思います。入棺体験は、自分を見つめ直す行為になると実感しました。わたしは「わたしが人生を卒業する日はいつだろう。いずれにせよ、今日は残りの人生の第1日目だな」と思いました。わたしは、入棺体験で「死」と「再生」を疑似体験することができました。

生まれ変わった気になりました 

 第7講「私たちが死ぬまでに考えておくべき、『死』にまつわる6つの問題」の4「人生の『形』が幸福度に与える影響」では、「『あなたの余命はあと1年です』――そのとき、あなたは何をする?」として、著者は以下のように述べます。
「もし、あと1年か2年しか残っていなかったら、みなさんはその時間で何をするだろう? 学校に行くか? 旅行に出るか? 友人たちともっと時間を過ごすか? この疑問に直面しなければならなかった人の、並外れて感動的な例が、私がイェール大学で教えている死についての講座で見られた。数年前、その講座には死を目前にした学生がいた。本人も自分が死ぬことを知っていた。1年生のときに癌という診断を受けていたのだ。医師は、回復の見込みがないに等しいことを告げ、しかも、あと2年しか生きられないと伝えた。そうと知った学生は、自問せざるをえなかった。
『さて、残された2年で何をするべきか?』
彼は、自分がしたいのはイェール大学の学位を取ることであると見極めた。そして、死ぬまでに卒業するという目標を立てた。その一環として4年生の後期に、死についての私の講座を受けたのだ(それを知って私は畏れ多い気がした。彼のような立場にある人が死についての講座を選び、毎週毎週、私が教壇に立って、魂は存在しない、死後の生は存在しない、私たち全員がいずれ死ぬのは良いことだ……と語るのを聴くことにしたのだから)」

 続けて、著者は以下のように書いています。
「というわけで、彼は私の講座に出席していた――春休みまでは。春休みを迎えたころには具合がかなり悪くなり、医師に学業の継続は無理だと言われていた。彼は自宅に帰らなければならなかった。医師は事実上、家に帰って死ぬ時が来たと告げたわけだ。彼は自宅に戻り、その後、病状は急速に悪化した。その学期に彼が取っていたさまざまな講義の教員は全員、管理部門からの問い合わせに直面した。学期のその時点までの実績に基づいて、学期全体としてどのような成績を彼に与えるつもりがあるか? もちろん、どの講座の単位が取れて、どの単位が取れないか次第で、彼が卒業できるかどうかが決まるからだ。けっきょく、彼は十分な成績を収めていたことがわかった。そこでイェール大学は、見上げたものだが、管理部門の職員を1人、死の床に派遣し、彼が死ぬ前に学位を授与した」

 死についての最終講義「これからを生きる君たちへ」では、著者はこう述べています。
「魂など存在しない。私たちは機械にすぎない。もちろん、ただのありきたりの機械ではない。私たちは驚くべき機械だ。愛したり、夢を抱いたり、創造したりする能力があり、計画を立ててそれを他者と共有できる機械だ。私たちは人格を持った人間だ。だが、それでも機械にすぎない。そして機械は壊れてしまえばもうおしまいだ。死は私たちには理解しえない大きな謎ではない。つまるところ死は、電灯やコンピューターが壊れうるとか、どの機械もいつかは動かなくなるといったことと比べて、特別に不思議なわけではない」

 そして最後に、著者はこう述べるのでした。
「不死について論じたときに主張したように、人生が価値あるものをもう提供できなくなるまで生きる力が私たちにあったほうが、間違いなく望ましいだろう。少しでも長い人生を送ることが本人にとって全体として良い限り、死は悪い。そして少なくとも多くの人にとって、死は早く訪れ過ぎる。だがそうは言っても、不死が良いということには絶対にならない。実際には、不死は災いであり、恵みではない。そんなわけで、死について考えるとき、死を深遠な謎と見なし、恐ろしくて面と向かえず、圧倒的でぞっとするものと捉えるのは適切ではない。適切ではないどころか、死に対する比類なく合理的な応答にはほど遠い。思うに、死を恐れるのは不適切な対応だ」

 「訳者あとがき」で、訳者の柴田裕之氏は以下のように書いています。
「道徳・哲学・倫理の専門家として知られる著者が、着任以来の20数年間、毎年のように「死」をテーマにして行なっているこの講義は、イェール大学でも常に指折りの人気コースとなっている。学生時代にこんな講義があったら、ぜひ受けてみたかった。今さら昔には戻れないが、幸い今では、インターネット上でも見られるし、内容をまとめたものが、こうして書籍でも読めるのだからありがたい。本書は、イェール大学出版局が同大学のさまざまな分野の教員による卓越した講義を紹介するために刊行しているシリーズの1冊だ」

 また、柴田氏は以下のようにも述べています。
「社会全体に目を向けても、死について考えるべき機が熟してきている。1つには、テクノロジーや科学や医学の進歩で、不死というものがSFではなく現実の可能性として語られ始めている。まあ、今の世代が全員、不死に手が届くとはとうてい思えないから、それは脇に置くとしても、高齢化はすでに大きな社会問題になっている。病気になる可能性や余命を遺伝子検査などで統計的に予測できる時代に入りつつある。臓器移植、植物状態、脳死、延命措置、尊厳死、安楽死、自殺、リビングウィル、老前整理、終活、遺言など、死に関連した話題には事欠かない。社会が成熟していくにつれて、人はこうした事柄について、これまでよりもさばさばと、あるいはいやおうなく語り、行動をとるという気運が高まるのだろう。人生をどう生き、どう終えるかを考えるのが若いころから当たり前にさえなるかもしれない」

 ということで、「死」をテーマにした本としては異例のベストセラーとなった本書を読み終えましたが、正直言って、まったく面白くありませんでした。コンビニの書籍コーナーにも置かれていた本ですが、どうしてそれほど売れたのか、理解に苦しみます。大きな原因としては、版元である文響社のマーケティング力&プロデュース力があるでしょう。同社は『うんこドリル』を大ベストセラーにしていますが、「うんこ」の次は「死」だということでしょうか。

 著者のシェリー・ケーガンは本人も明言しているように唯物論者です。ゆえに「魂」の存在を否定しています。彼は哲学者だそうですが、もともと「哲学の祖」とされる古代ギリシャのソクラテスは、「哲学は死の予行演習」という言葉を残しています。彼は、紀元前469年頃アテナイに生まれ、スパルタと戦ったペロポネソス戦争に従軍した他は、生涯のほとんどをアテナイで暮らしました。ソクラテスの裁判の模様、獄中および死去の場面は、弟子プラトンが書いた「対話篇」と呼ばれる哲学的戯曲の諸作品、すなわち『エウチュプロン』『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』に詳しく描かれています。それらに描かれた、自らの死に直面したソクラテスの平静で晴朗な態度は、生死を超越した哲学者のあり方 を示すものとされました。

 拙著『唯葬論』(サンガ文庫)の「哲学論」にも書きましたが、ソクラテスほど、わたしたちに生と死について考えさせる哲学者はいません。彼はつねに人間の幸福というものを追求していました。そして、人間のための哲学をつくろうとしたソクラテスは、「人間の生を幸福にするためには何をすべきか」と自問して、次のように考えたのです。ただ生きることは人間の生ではない。人間の生は人間らしい生でなければならず、それには「善く生きる」ことが大切である。これを言い換えれば、「正しく生き る」ということなのである。そして、そのためには「いかなる仕方でも、不正を犯してはならない」、さらには「たとえ不正を加えられても、不正の仕返しをしては ならない」ということが大切になるのです。

 ソクラテスは、倫理性こそが人間を人間であらしめていると考えたのでした。さらに「人間が幸福になるためには、哲学をすればよい」とソクラテスは言いました。哲学は幸福への道だというのです。そして、その幸福への道の哲学とは何かというと、「死の予行演習だ」と答えました。それは限られた人生の中で、本当に自分の生が充実するものはどこにあるかを探してみなければならないということ。さらには、肉体という牢獄につながれている魂 が解放されて自由になることが「死」と「哲学」に共通した営みであるということ。 この死の思想こそソクラテス哲学の神髄であり、弟子のプラトンにも受け継がれた ものでした。

 プラトン哲学では、魂は不死で あり永遠でした。魂は聖火の火花であって、始めもなく終わりもありません。『パイドロス』によれば、魂はかつて至高のイデアの世界にいました。その後、イデアの高所か ら落とされ、人間の肉体に宿り、囚人として追放の身となりました。それでも不滅の性格は失ってはいませんでした。そして、「もし、地上にとどまっている間に、この肉体をコントロールして感覚的な外形や偽りの幸福から引き離すことができれば、死んでから元のイデアの世界に戻る。しかし堕落した魂は、人間なり動物なりの肉体の中に再び入って輪廻を繰り返し、1万年の間、地上にとどまる」と考えました。プラトンにおいては、 魂は純粋に精神的で、独立しており、遍歴して肉体に落ち込む実在なのです。 

 さて、本書は前半の形而上学パートが丸ごとカットされています。アマゾンのレビューを読むと、ほとんどの方がこのことを「残念」と嘆かれていますが、わたしはそうは思いません。また本書がベストセラーになったので、完全翻訳版も出たようですが、わたしは読みたいとは思いません。「死とは何か」みたいな抽象的なことをグダグダ述べられても仕方ないからです。わたしは、絶対に遠慮したいですね。

 そもそも、わたしは「死」をそれほど重大視していないのです。では、何を重大視しているかといえば、「葬」です。7万年前に死者を埋葬したとされるネアンデルタール人たちは「他界」の観念を知っていたとされますが、わたしは、葬儀とは人類の存在基盤であり、発展基盤だと思っています。「人類の歴史は墓場から始まった」という言葉がありますが、埋葬という行為には人類の本質が隠されています。それは、古代のピラミッドや古墳を見てもよく理解できるでしょう。文明および文化の発展の根底には、「死者への想い」があるのです。

「サンデー毎日」2015年12月20日号

 オウム真理教の「麻原彰晃」こと松本智津夫が説法において好んで繰り返した言葉は、「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」という文句でした。死の事実を露骨に突き付けることによってオウムは多くの信者を獲得しましたが、結局は「人の死をどのように弔うか」という宗教の核心を衝(つ)くことはできませんでした。人が死ぬのは当たり前です。「必ず死ぬ」とか「絶対死ぬ」とか「死は避けられない」など、言挙げする必要なし。最も重要なのは、人が死ぬことではなく、死者をどのように弔うかということ。問われるべきは「死」でなく「葬」なのです。唯物論者である本書の著者は葬儀というものにまったく価値を置いていないようですが、唯葬論者であるわたしは本書を読んでまったく共感できず、学ぶところもなかったことを、ここに告白しておきます。

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