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仏教抹殺』

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No.1754


 『仏教抹殺』鵜飼秀徳著(文春新書)を読みました。
 「なぜ明治維新は寺院を破壊したのか」というサブタイトルがついています。著者は、わたしが「仏教界の予見者」と呼ぶジャーナリスト、浄土宗正覚寺副住職で、1974年京都市右京区生まれ。成城大学文芸学部卒業。報知新聞社、日経BP社を経て、2018年1月に独立。一方、僧侶としての顔も持つ。一般社団法人「良いお寺研究会」代表理事。東京農業大学非常勤講師。著書に一条真也の読書館『寺院消滅』『無葬社会』『「霊魂」を探して』で紹介した本があります。

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本書の帯

 

 本書の帯には破壊された阿修羅像の写真とともに「廃仏毀釈――隠された明治の暗部」「興福寺阿修羅像、五重塔も消滅の危機にあった!」「鍵島、松本、伊勢、東京、奈良、京都など現地徹底取材」と書かれています。

20190626214410.jpg本書の帯の裏 

 

 また帯の裏には破壊された地蔵の写真とともに「文化財、歴史史料も灰となった暴挙の実態が明らかに!」「比叡山から上がった‟火の手"」「廃仏のルーツは水戸黄門」「歴史まで破壊した薩摩の廃仏」「すべての寺が消えた村」「青山霊園は神仏分離によって造られた」「焚き火にされた天平の仏像」「天皇家の菩提寺も消滅 ほか」と書かれています。

 

 カバー前そでには、以下のように書かれています。
「明治百五十年でも語られない闇の部分、それが廃仏毀釈だ。神社と寺院を分離する政策が、なぜ史上稀な宗教攻撃、文化財破壊にエスカレートしたのか? 日本各地に足を運び、埋もれた歴史を掘り起こす近代史ルポルタージュ」

 

 また、アマゾン「内容紹介」は以下の通りです。
「文明開化の明治にも光と影がある。その影の部分を象徴するのが「廃仏毀釈」である。もともとは神仏習合状態にあった神社と寺院、神と仏を分離する政策だったのだが、寺院、仏像などの破壊から、暴動にエスカレート。完全に仏教を殲滅してしまった地域もあった。寺に保管されていた記録、史料などが焼かれたことで、その地域の「歴史」も消えてしまったケースすらある。日本史上でも例が少ない大規模な宗教への攻撃、文化財の破壊はなぜ行なわれたのか? 話題作『寺院消滅』などを著し、自らも僧侶である著者が、京都、奈良、鹿児島、宮崎、長野、岐阜、伊勢、東京など日本各地に足を運び、廃仏毀釈の実態に迫った近代史ルポ。百五十年のときを経て、歴史が甦る!」

 

 本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」
第一章 廃仏毀釈のはじまり――比叡山、水戸
第二章 維新リーダー藩の明暗――薩摩、長州
第三章 忖度による廃仏――宮崎
第四章 新政府への必死のアピール――松本、苗木
第五章 閉鎖された島での狂乱――壱岐、佐渡
第六章 伊勢神宮と仏教の関係――伊勢
第七章 新首都の神仏分離――東京
第八章 破壊された古都――奈良、京都
「結びにかえて」
「参考・引用資料」

 

 「はじめに」では、2018年(平成30年)が明治維新から150年目となる記念すべき年であり、同時に「廃仏毀釈150年」でもあることを指摘し、著者は以下のように述べています。
「日本の宗教は、世界の宗教史の中でも特殊な形態を辿ってきた。中世以降江戸時代まで、神道と仏教がごちゃまぜ(混淆宗教)になっていたのである。祈禱もするし、念仏も唱えるし、祓も、雨乞いもする。寺と神社が同じ境内地に共存するのも当たり前。神に祈るべき天皇が出家し、寺の住職を務めた時代も長かった」

 

 続けて、著者は以下のように述べています。
「このように、日本では実におおらかな宗教風土が醸成されてきたのだ。しかし、明治維新を迎えたとき、日本の宗教は大きな節目を迎える。新政府は万民を統制するために、強力な精神的支柱が必要と考えた。そこで、王政復古、祭政一致の国づくりを掲げ、純然たる神道国家(天皇中心国家)を目指した。この時、邪魔な存在だったのが神道と混じり合っていた仏教であった。新政府は神と仏を切り分けよ、という法令(神仏分離令)を出し、神社に祀られていた仏像・仏具などを排斥。神社に従事していた僧侶に還俗を迫り、葬式の神葬祭への切り替えなどを命じた。この時点では、新政府が打ち出したのはあくまでも神と仏の分離があり、寺院の破壊を命じたわけではなかった。だが、時の為政者や市民の中から、神仏分離の方針を拡大解釈する者が現れた。そして彼らは、仏教に関連する施設や慣習などを悉く毀していった。これが廃仏毀釈の概要である」

 

 それは文化財と歴史の破壊でもあったとして、著者は以下のように述べます。
「廃仏毀釈によって日本の寺院は少なくとも半減し、多くの仏像が消えた。哲学者の梅原猛氏は、廃仏毀釈がなければ国宝の数はゆうに3倍はあっただろう、と指摘している。国の財産が失われただけではない。廃仏毀釈は、日本人の心も毀した。何百年間にもわたって仏餉(仏前に供える米飯)を供え続け、手を合わせ続けた仏にたいし、ある時、日本人は鉄槌を下したのである。僧侶自らが率先して、神職への転職を申し出て、本尊を斧で叩き割った事例も見られた。2001(平成13)年、タリバンがバーミヤンの磨崖仏を爆破した映像は記憶に新しい。なんという畏れ知らずの野蛮な行為なのか、と世界中の人々が憤慨した。だが、同様の行為を明治の日本人も行っていたのである」

 

 第一章「廃仏毀釈のはじまり――比叡山、水戸」の冒頭では、「神と仏を切り分けた神仏分離令」として、著者は述べます。
「仏と神の切り分けは、1868(慶応4)年3月以降、新政府による法令の布告という形で、矢継ぎ早に実施されていった。1868(明治元)年10月まで断続的に続けられた一連の12の布告の総称を、神仏分離令と呼んでいる」

 

 また、「『肉食妻帯』と上知令」として、著者は「新政府は仏教の力を削ぐ必要性はあった。これまで日本は、ムラ社会の見えざるコミュニティの中で仏教を中心とした檀家制度を敷き、寺院は時に怪しげな儀式を通じて人々を惑わす存在にもなっていた。純粋な神道による強い国家づくりを推し進めるためには、悪習であった仏教を徹底的に弱体化せねばならなかった」と述べています。

 

 さらには「肉食妻帯」について、こう述べています。
「一般人の中にはいまでも『お坊さんが肉を食べてもいいのか』『結婚してもいいのか』という違和感を抱いている人は少なくないだろう。従来『肉食妻帯』を認めていた浄土真宗を除き、確かに江戸時代までそれらの行為は御法度だった。しかし、明治に入って僧侶の肉食、妻帯などを『国家』が認めるという、新たな局面に入っていく」

 

 続けて、著者は以下のように述べています。
「伽藍(寺院の建物)などの物的破壊に加え、僧侶を俗化させる一連の弾圧によって、みるみるうちに仏教は弱体化してゆく。葬式の際にだけ寺を必要とする『葬式仏教』化が加速していくのもこの頃からだ。現在の、仏教者にたいする『金儲け主義』といった批判の源流をたどれば、この明治の神仏分離政策に行き着くだろう。さらに明治維新時の一連の仏教弾圧のなかでも、とくに致命的だったのが上知令であった。上知とは土地の召し上げを意味する」

 

 「廃仏のルーツは水戸黄門」として、全国各地で展開された廃仏毀釈の中でも水戸藩の廃仏毀釈がもっとも早い時期に実施されたと指摘し、著者は「江戸時代前期にはすでに、藩内寺院の破却や僧侶への還俗命令などに着手していたのである。ただし水戸藩の前期廃仏毀釈の特徴は、民衆運動としての破壊行為ではなく、無秩序に増えすぎた堕落寺院の統廃合にあった。いわば、寺院と僧侶の『リストラ』である」と述べています。

 

 この時期の水戸藩の廃仏毀釈は、寺社改革とも呼ばれるものでした。著者は以下のように述べます。
「当時、藩内寺院は由々しき問題を抱えていた。1630年ごろ(寛永年間)まで、無秩序に寺院が建立され、僧侶の数も膨れ上がり、正しい信仰が失われていたという。由緒不明の怪しげな寺院が目立ち、治安上の問題も発生した。とくに加持祈禱などの呪術めいた儀式をやる密教系宗派の処遇は、光圀にとって悩みのタネであった。庶民がこうした寺院に集い、迷信や妄言などに惑わされ始めたからである。こうした諸問題の元凶は中世以来、仏教を自由放任にしてきたためであるとして、当時、儒学者の間で仏教批判、神仏習合の否定、神道の復興などが議論されていく。光圀自身、若くして儒学に傾倒していた。当時の儒学界には強い仏教否定の思想が見られる。

 

 第二章「維新リーダー藩の明暗――薩摩、長州」では、「鹿児島、宮崎に寺院が少ない理由」として、著者は以下のように述べます。
「全国一、寺院数が少ないのは沖縄県で87カ寺である。沖縄の事情は本土とは異なる。15世紀から1879(明治12)年まで琉球王国という別の国家であったからだ。琉球は1609(慶長14)年、薩摩藩が琉球に攻め入ると、その後は薩摩藩の支配下となった。琉球では個々の僧侶による仏教の布教が許されず、檀家制度が導入されなかった。寺は王国から俸禄を受給され、官寺としてのみ存在した。沖縄における葬送の担い手は伝統的に、地域における司祭者であるノロや、土着シャーマンであるユタであった。寺院の数が極端に少ないのは、そうした歴史的、慣習的背景がある。
 また、鹿児島の隣、宮崎県の寺院数は鹿児島よりも少ない344となっている。現在の宮崎県の一部は、かつて薩摩藩が治めており、廃仏毀釈の影響を多分に受けていた」

 

 第三章「忖度による廃仏――宮崎」では、「葬式の半分は神葬祭」として、著者は以下のように述べています。
「ここ日南市を中心に宮崎県南部地方の葬式の約半分が神葬祭形式で実施されるという。宮崎ではそもそも寺がほとんど存在しないので、現在でも神式で葬式をすることが定着しているのだ。火葬場での骨上げや納骨も神職が立ち会う。神道では死は穢れであり、神主が儀式で死体に直接触れることはまずない。だが、宮崎の習俗では神職が、まさに揺りかごから墓場まで面倒を見ているのである」

 

 続けて、著者は「葬式の直後に、社殿に上がることは(タブーとされているので)ないですが、宮崎の神葬祭では多くは仏式を踏襲しているのが特徴です。神道では、仏教の年忌法要にあたる式年祭を、一年祭、三年祭と実施し、その後は5の倍数の年でやるのが一般的です。しかし、宮崎では三年祭以降は仏式と同じ七年祭(七回忌)、十三年祭、十七年祭......と続き、そして、五十年祭を機に御霊上げ(弔い上げ)となります」という証言を紹介し、通常は寺院でやってきた葬送儀礼が、宮崎では神社に置き換えられていると述べます。

 

 第六章「伊勢神宮と仏教の関係――伊勢」では、著者は伊勢神宮について述べます。「神宮は有史以来、地元伊勢のみならず全国から参詣者を集め、発展してきたことは申すまでもない。伊勢信仰の広がりは、神宮での様々な祭祀の際に京都から遣わされた勅使らやお供の人々が、都に戻った際、神宮のことを口伝で広め、憧れを募らせていったことに起因する。御師は自らの邸宅に伊勢参りの客を宿泊させ、神宮の案内人を務めるほか、伊勢礫や御祓大麻(御札)の配布を行った。同時に病気平癒などの祈禱や、自宅での御神楽の奉納などの宗教行為もやった。つまりは、ツアーコンダクターと宗教的職能者としての役割を併せ持った集団でもあった」

 

 続いて、「『御師』の廃絶」として、著者は以下のように述べています。
「現在に至る伊勢ブランド構築の最大の立役者が御師であった。幕末期は、当時の人口およそ3000万人に対して、300万人程度が伊勢に参詣したとも伝えられており、ある意味、御師が伊勢の経済を支えていたと言える。
 だが、1871(明治4)年、新政府は神仏分離政策の一環として、神宮の改革に伴う御師制度の廃止を通達。当時、神仏分離政策によって、祈禱手掛ける僧侶や修験道の山伏は、神仏の要素が混淆しているとして排除されていた。御師もまた、祈禱や神楽などを手掛ける民間の宗教的職能者であったために、廃絶になったと考えられる。御師の文化はここで途絶えてしまった」

 

 続けて、以下のように述べられています。
「現在、伊勢市内には、一軒のみ御師邸が現存し、当時の様子をわずかに伝えている。伊勢市観光振興課によれば、廃仏毀釈後の明治期、伊勢の参拝者は150万人程度で推移していたという。江戸期の300万人から大幅に減少しているのは、御師の消滅との因果関係があったと考えて差し支えないだろう。廃仏政策が、伊勢神宮にまでマイナスの影響を与えてしまったのである」

 

 第七章「新首都の神仏分離――東京」では、「芝公園も青山霊園も神仏分離で造られた」として、著者はこう述べます。
「東京ではそれまで仏式でやっていた葬式を神葬祭に切り替える政策が大々的に実施された。実は、青山霊園は廃仏毀釈の産物である。神葬祭の場合は土葬で埋葬するのが通例であったため、広大な敷地を必要とした。そのための墓地として、東京都内に整備されたのが港区にある都立青山霊園だったのである。明治初期には神葬祭用墓地として、青山霊園の他にも雑司ヶ谷、谷中などの9ヵ所の公営霊園が整備された。
 しかし、公衆衛生上の問題や、人口の急激な増加による墓地用地の確保などの問題が生じたために、1875(明治8)年には火葬が解禁になった。その後、土葬を伴う神葬祭は激減し、現在でも神葬祭メインでやっている地域は先述の宮崎市や岐阜・東白川村などに限られる」

 

 第八章「破壊された古都――奈良、京都」では、「天皇の葬儀は仏式だった」として以下のように述べられています。
「皇室ゆかりの寺の最たる存在が、東山に位置する真言宗泉涌寺派総本山の泉涌寺だ。泉涌寺では、多くの天皇の墓や位牌が祀られており、天皇家の菩提寺と位置づけられる。1242(仁治3)年、四条天皇が12歳の若さで崩御する。その際、泉涌寺で葬儀が実施されて以降、ここは『皇室の御寺』と呼ばれるようになった。さらに、南北朝時代の1374(応安7)年に後光厳天皇(上皇)が同寺で火葬されたのを皮切りに以降、9代続けて天皇の火葬所となった。江戸時代の歴代天皇(後水尾天皇から孝明天皇)、皇后はすべて泉涌寺に埋葬されている。泉涌寺の霊明殿には歴代天皇の位牌である尊牌を安置、朝夕のお勤めの際には同寺の僧侶によって、読経がなされる。各天皇の祥月命日には皇室の代理として、宮内庁京都事務所からの参拝が行われるという」

 

 また、天皇の葬儀について以下のように述べられます。
「天皇の弔いは、長年、火葬であった。厳密に言えば、中世以降の天皇は、仏式の火葬と神道の建前である土葬が混在する形で弔われていた。第108代の後水尾天皇以降は表向きには火葬、実質は土葬という不思議な形態をとっていた。正式に土葬になるのは、明治天皇の父孝明天皇からである。しかし、孝明天皇の葬式は神仏分離令より前であったために、仏式で行われた」

 

 続けて、著者は以下のように述べます。
「それが、完全に神葬祭に切り替わり、また埋葬法も土葬になるのは明治天皇以降である。明治天皇は『幼い頃に過ごした京都に』という遺言をもとに、京都・伏見に陵墓が造られた。明治天皇陵は古代の天皇陵に回帰した巨大な上円下方墳であった。続く大正天皇、昭和天皇、そしてその皇后は東京・八王子市の武蔵陵墓地に、やはり巨大な上円下方墳形式で祀られている」

 さらに続けて、著者はこう述べるのでした。
「実は今上天皇も崩御後は、土葬になる予定であった。ところが、宮内庁は2013年(平成25)年、天皇・皇后の意向を踏まえ、火葬にすることを発表。陵墓の大きさも2割程度縮小するという。天皇陵は、時代時代の宗教事情によって常に変化してきているのだ」
 こうした史実から見ても、天皇家は明らかに仏教徒でした。

 

 「結びにかえて」では、「四つの要因」として、廃仏希釈の要因は主に①権力者の忖度②富国策のための寺院利用③熱しやすく冷めやすい日本人の民族性④僧侶の堕落となっています。これを踏まえて、著者は述べます。
「江戸時代、寺院の数は人口3000万人に対し、9万カ寺もあった。それが廃仏毀釈によって、わずか数年間で4万5000カ寺にまで半減した。それが現在、7万7000カ寺(人口1億3000万人)にまで戻してきている。厳しい言い方をすれば、復興が叶わなかった寺院は、そもそも社会にとって『不必要な』寺院であったのかもしれない」

 

 そういう意味では、「廃仏毀釈によって寺院は人口比で適正数に落ち着いた」とも言えるのではないかとして、著者は述べます。
「一連の調査を終え、私はこうも考える。明治以降も仏教が消滅することなく、今日まで続いてきているのはある意味、廃仏毀釈があったからではないか。これほどまでに多大な犠牲を払ったことは極めて残念なことであるが。これまで幕府によって特権を与えられ、一部では堕落もしていた仏教界が、はからずも綱紀粛正を迫られ、規模が適正化するとともに、社会における仏教の役割が明確化されたという『プラスの側面』も、廃仏毀釈にはあったのではないか、と考えるのだ」

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著者の鵜飼秀徳氏と

 

 そして最後に、著者はこう述べるのでした。
「いま、日本の各地では都市への人口の流出や核家族化に伴って、寺院が維持できなくなっている。また、死生観の変化によって葬送の希薄化が進んでいる。そこには僧侶の堕落も要素として絡んでいる。実は、『寺が消える』という点においては、かつての廃仏毀釈と、現在の寺院を取り巻く状況とはさほど変わらない。私はとくに都会人によく見られる"僧侶に対する反発"は、「第二の廃仏毀釈」の前兆現象とみている。社会にとって必要とされる寺であるためには、僧侶がどうあるべきか。150年前の惨劇が教えてくれることは決して少なくない」
 現在が第二の「廃仏毀釈の時代」であるという見方は卓見ですが、「寺院消滅」や「無葬社会」の具体的解決案のヒントを見つけるのは、なかなか難しいようですね。一般社団法人「良いお寺研究会」代表理事でもある著者の今後の活躍に期待しています。