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安岡正篤教学一日一言』

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No.1751


 「人の道」について考えるところがあり、『安岡正篤教学一日一言』安岡正泰監修(致知出版社)を再読しました。一条真也の読書館『安岡正篤一日一言』一条真也の読書館『安岡正篤活学一日一言』で紹介した本の続編であり、三部作の終編といえます。数多い著書から実子によって選び抜かれた言葉が集められています。

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本書の帯

 

 帯には「遺訓なお光あり」「安岡一日一言・上級編」と書かれています。「まえがき」では、安岡正篤の子息である正泰氏が「本の読み方について、鎌倉時代の禅僧虎関禅師の言葉に『古教照心、心照古教』という至言があります。本に読まれるのではなく、自分が主体となって読む。そこではじめて知識になる、という意味です。是非この片言隻句から安岡教学の精神を汲みとっていただきたい」と述べています。特に、「産霊(むすび)」についての言葉の数々に考えさせられました。それでは、わたしの心に強い印象を残した「東洋哲学の巨人」の言葉を以下に紹介したいと思います。

 

◇誠は天の道
 『中庸』に厳かに説かれているように誠は天の道である。これを誠にするは人の道である。天は人なくしてその功をなすことができない。造化を賛けて万物を化育し、万世のために太平を開くのは人間の本分である。そこで造化は独り人間を以てその「明」としている。人間は理性を以てその「明」としている。もはや人間は他の動物のように無明に生きることはできない。衝動に支配されて盲目的に動くことは許されない。天稟の明徳を明らかにし、人間の進むべき道について学ばねばやまぬ。

 

◇孔孟と老荘
 儒教は、人間が一生の間にいかに妄想や妄行から、当然・必然・自然に到達するかといふことの教である。この点は老荘も同じこと。丁度儒教に『孟子』の理想主義派と『荀子』の現実主義派とあるやうに、どちらかといへば、孔孟系統の方は現実主義派であって、これに対する老荘の方は理想主義派、したがって一方を人間主義・人道主義といふと、一方は自然主義である。人間は自然から出て発達したものであるが、発達と同時に堕落する。いかに人間的堕落を防いで、人間的自然に達するかつまり天道に帰るかといふことが大事だとする。

 

◇むすび1
 日本の民族精神・民族文化といへば、その根本にまづ以て神道を考へねばならぬ。その神道の根本思想の一つに「むすび」といふことがある。「むすび」といふことから、人生すべての事が始まる。仏教の言葉でいへば「縁起」である。ある事がこの「縁」によって「因」となり、「果」を生じる。すぐれた因が、すぐれた縁で、すぐれた果を生ずる。勝因・善因が勝縁・善縁によって、勝果・善果をむすぶ。このむすびほど不思議なものはない。

 

◇むすび2
 国学の方では、むすびにいろいろの文字があてはめてある。「産霊」といふ文字がその一例で、そもそも尊い生命がはぐくまれていく姿を考へると、木の上に鳥が巣を作り、それを温かく日が照らしてゐる。そこから雛鳥が母鳥を待ってチーチー鳴いてゐる。あの姿は実に美しい。めでたい。そこで産といふ字に、巣といふ字と、太陽の日といふ字を合せて「産巣日」と書いて「むすび」とよむ。生命は神秘である。そこで又「産霊」と書いて「むすび」と読む。万物は原子のむすびである。

 

◇神道と日本人
 日本の神道は、哲学や信仰を極めるに従ってその真義を甚解することのできる尊いものであるが、それならば、日本人は神道さへ修めれば十分で、他のことは一切要らぬかといふと、さう考へては神道ではない。自然と人間は多様の統一であって、単一ではない。単一は健やかな生の相ではなく、一切を通じて一切を活かすこそ天道であり、神道であり、その実践が人道である。生物が自然に生れて自然に還るのは端的な道の相で、死ぬといふことは、自然に帰ることで、必然、当然でもある。偶然に死ぬといふことはいけない。

 

◇参詣の意味
 天地自然は人間の故郷である。
 故に人は自然を愛し、深山幽壑・山紫水明のところに神を祀る。神社を建てるのである。自然であり、必然であって、当然である。決して偶然ではない。そこで聖地へお参りした時、我々は最も自然になり、神に近づく。勝因を結ぶことであり、そこに参詣の貴い意味がある。

 

◇人を識る
 人を識るにも虚心坦懐その人に接せねばならぬ。
 さすれば、その人物との渾然たる冥合の中に、その人物の真偽善悪美醜を識ることができる。その場合、我が人格の奥妙に触れる程度によって価値を覚知することができるが、同時にまた我が含徳のいかんをも反省しなければならぬ。我が人格の涵養が浅薄な時は、到底深い人格的生命に共鳴することはできない。そこで人を識るということは畢竟我が内に探知することであって、我れみずからの修養学問のないところに、人を知り人を用うることの行われるわけはない。

 

◇維新と革命
 革命は指導者の劇的な行為を示すが、その反面多くの人間の卑劣、奸悪、邪妄をも暴露する。外面的な革命では、決して真に新しい世界とはならない。真の新人が出現して新政を興す為には、之に先行する内面的精神的な涵養と運動とが必須条件である。日本の明治維新はその好箇の一例である。明治維新の偉大なものは總て人間の内面性が発見された徳川時代の経験と陶冶に連なってをり、その封建社会道徳も、明治維新の人々がその精神力を掬みあげた活泉であったことは言ふまでもない。

 

◇縁から始める
 道を歩むにも自家門前の通路より出かけねばならぬやうに、縁のあるところから始めるほかはない。さすればおのづから大道に通ずる。その場合何らかの宗派をもって称せられることはやむをえない。それは縁であり、命である。我々は縁に随ひ、命に自って、人となり、東洋人となり、日本人となり、誰某となってゐるのである。それをもって造化を凝滞し、天地を狭隘にすべきではない。専門的愚昧・党派的猜嫉を戒めて、円明通達せねばならぬ。

 

◇諸教帰一
 自然はこれを象徴していふと天である。天は人といふものを造り、人を通じての心の世界を開いた。人間は外の動物と違って、この心といふものを恵まれてをるのであるが、これが又自然の妙用で、その心によって惑うて、いろいろ紆余曲折してゐるうちに、次第に心の真実・心の誠・心の真理を会得して、次第に天に帰して行く。自然から出発して自然に帰る。無から生じて無に帰る。死ぬといふことは、1つの天に帰ることである。

 

◇元気と志気
 真の元気というものは、通用語で言いますと志気と言います。今日の言葉なら理想精神であります。一体元気、即ち吾々の活力、気魄というものは創造力でありますから、生みの力、大和詞で言うならば産霊の力である。そこで常に何物かを生む力、為すあるの力、有為の力である、これは必ず理想を生んで来る、元気が旺盛なる時には必ず理想がある。理想のことを古来志と言いますから、それを志気と謂う、元気は志気でなければならぬ。理想を持った元気でなければならぬ。

 

◇風韻のある人
 元気というものから志気となり、胆識となり、気節となり、器量となり、人間の造詣、蘊蓄となり、それが独特の情操風格を帯びて来る、これ等が人物たるの看過することの出来ない、没却することの出来ない、根本問題中の根本問題であります。そういうものを備えて来なければ人物とは云えぬ。人物を練る、人物を養うということは、そういうことを練ることです。あの人は風韻がある、風格がある、というのはその人独特の一種の芸術的存在となって来ることであります。

 

◇むすび(産霊)を知る
 「むすび」は霊を産む、産霊という文字を当て嵌めているように、これは相対するものを統一して、そうしてより一段高次な価値に進むことであります。こういう価値生活への無限の進歩向上がすなわち「むすび」であります。ところがこの「むすび」ということは、むすばれる方からいいますと、「まいる」の思想になるのです。「まいる」とは卑しきもの、小さきもの、低きものが、高きもの、尊きもの、偉大なるものにむすばれる。自ずからむすばれて行くことであります。

 

◇「むすび」と「まつり」
 むすばれる方からいって「参る」という思想、この思想をむすぶ方からいいますと「ゆるす」ということになる。ここにおいて、「参る」から続いて生じきたるべきものは、すなわち「はべる」「つかえる」「そうろう」というような思想であります。そういう場合は没我になって行くのでありますから、悉くそれに捧げて行く。これが大和言葉で「まつる」「まつらう」というのであります。日本精神を論ずるものは必ずこの「むすび」に始まって「まつり」を体得せねばなりません。

 

◇「道」と「教」
 我々の心の根柢にはたとえいかなることがあっても屈せず撓まず努力し精進せよという無声の命令が厳乎として存在してゐる。この自己内面の至上命令(天命)に率ふのがすなはち我々の「道」で、かかる道を明らかにして、我々はいかに行為すべきか、いかなる心情をもつべきかの自覚を与へてゆくのがすなはち「教」である。換言すれば我々の心に内在する至高絶対の天命はこれ実に疑はんと欲して疑ふことのできない明らかなる徳である。学問の要は畢竟この「明徳」を発揮する所以の道理を自覚体認することでなければならぬ。

 

◇武士の魂
 わが民族は古来生命を愛する。それは、無我な天真な態度で自然の健やかな生命の流れに涵って活きようとする意味の生命愛である。
 其の生命を愛し、自由を尊ぶ清く明るき神ながらの心地に対して、仏教の影響、殊に禅の感化などは、武士をして肉身の無常を深く感じさせ、道に生きる、意義に感ずる、義理に殉ずる等の覚悟を深くした。その魂を彼等は腰間に帯する三尺の秋水に吹きこみ、その所謂「武士の魂」を提げて、荘厳なる人間打成を試みたのである。

 

◇いかに死すべきか
 いかに死すべきかを実生活上の原理として日本民族ほど鈍化したものはない。日本民族精神をある意味において最も霊活に現した武士道において、あらゆる文献を通じて間違いのないことは、常にそれがいかに死すべきかという覚悟の上に立っていることであります。それ故に文学を見ましても、芸術を見ましても、宗教を見ましても、政治を見ましても、いかに死すべきかということの上に立てられて始めて日本的です。

 

◇大人の見方、小人の見方
 仁とは畢竟人と人、人と物とを、本来の天に全うして返す作用である。
 大人は天地万物を以て一体となす者である。彼は天下を視ることなほ一家のごとく、中国を視ることなほ1人のごとく、その間に寸毫も差別を置かない。これに反して区々たる形骸によって爾と我とを隔てる者は小人である。すなはち大人の自己はよく天地万物を包容するに反して、小人の自己は僅に一形骸の外に出ることができない。

 

◇仁の作用
 仁とはよく対象と一になる作用である。大人が天地万物を以て一体となすは、大人の仁がよく彼をして天地万物と一たらしむるがためで、この仁の作用については、ひとり大人に限らず、小人の心と雖も何等相違はない。実在の統一作用たる我等の精神は天地万物に対して独立の存在なるかのごとく考へられるが、実際は被統一を離れて統一なく、天地万物を離れて我はない。仁は実在の根柢より発して自然に霊昭不昧なる者である。故にこれを「明徳」といふ。徳とは天理の存養、人間の性にしたがふ活動の謂である。

 

◇日本の家福
 己を忘れて人を思うこまやかな情愛、そこから閃く叡智の光、ゆきとどく注意、つつましく善言に耳傾ける謙虚、愛する者の為に厭わぬ労苦、洗練されたる教養、是の如き婦徳を持つ妻よ、母よ、姉妹よ。是れは日本民族が世界より羨まれる家福であろう。

 

◇気の帥
 一口に志を立つといっても、それはなかなか容易なことではない。孔子は聖人である。しかもなほ我れ十有五にして学に志し、三十にして立つといってゐる。立つとは志立つの意味である。晩年に心の欲する所に従って矩を踰えざるにいたったが、それは要するに志が矩と一致するのである。志といふことを決して軽々に視ることはできない。志は精神活動の大統力である。すなはちこれを「気の帥」といふ。これ人の命であり、木の根であり、水の源である。志立たねば精神は活動しない。

 

◇ぼける
 頭がぼけるのは、その実人間がぼけるのである。幸ひに我々の頭脳はいくらでも鍛へられ、老いることを知らず、無限の内容を持ってゐる。ぼけるには余りに惜しい。現代文明生活に駆り立てられてゐる人々ほど、人間相手の煩悩を力めて斥け、せめて時を偸んでは、心の糧になる良書を買って、書斎にならべておき、そしてその中に孤坐することである。これだけでも大いに意味がある、功徳がある。ぼけない手がかりになるのである。

 

◇老来、佳境に入る
 老いるといふことは自然に近づくといふことであり、自然に近づくといふことは真理に近づくことである。それだから真理に反した、肉体でいふならば、生理に反した、そんなあくどいものをむやみに喰ったり、刺激の強いものを飲んだりして、愉快になるといふやうなことではなくなる。これは心の欲する所にしたがって矩をこえずである。無理はいやになる。面白いもので、50年、60年、70年とたつうちには、次第に真理に返ってくる。伊藤仁斎が老来・佳境に入ると云ってゐるが、それが本当である。

 

◇人間の自由
 人間の自由は物質的満足の得られること――「通」にあるのではない。
 窮して困まず、憂えて意衰えざるにある。禍福終始を知って惑わぬにある。昔から真の人傑にして独の生活を持たぬ者は1人もない。彼等は皆あくまでも人を愛し、世のために働きつつ、また人知れず自然と深契し、読書尚友した人々である。これをよくする時、現世はいかに我れに辛かろうと、四時佳興に富まぬはない。