No.1736 プロレス・格闘技・武道 | 評伝・自伝 『さよならムーンサルトプレス』 福留祟広著(イースト・プレス)

2019.06.22

 『さよならムーンサルトプレス』福留祟広著(イースト・プレス)を読みました。「武藤敬司35年の全記録」というサブタイトルがついています。著者は1968年、愛知県生まれ。國學院大学文学部哲学科卒。92年、報知新聞社入社。現在、メディア局コンテンツ編集部所属。プロレス、格闘技、大相撲、ボクシング、サッカーなど取材。一条真也の読書館『クーデター 80年代新日本プロレス秘史』で紹介した本に書かれているように、引退したタイガーマスクにはじまって、長州力ら維新軍団、前田日明らUWF勢の離脱といった「大量選手離脱」の荒波が新日本プロレスを襲いました。しかし、その大量離脱によって新時代のスターである「闘魂三銃士」が誕生。本書の主役である武藤敬司もその1人です。武藤は、後に「プロレスリング・マスター」とまで呼ばれました。

本書の帯

 本書のカバー表紙には、タイトルにもある必殺技ムーンサルトプレスを行う若き日の武藤の写真が使われ、帯には現在の武藤の顔写真とともに、「これはオレの性分、どうしても飛ばずにはいられなかったーー。」「いま明かされる『プロレスリング・マスター』の素顔」と書かれています。

本書の帯の裏

 帯の裏には「その必殺技『月面水爆』は、両刃の剣だったーー。」と書かれ、カバー前そでには、「膝はボロボロになっちまったけど、プロレスラーで良かったな、ムーンサルトプレスをやって良かったなって」という武藤の言葉が紹介されています。

 アマゾンの「内容紹介」には、こう書かれています。
「平成のプロレス界を牽引し、つねにファンを熱狂させた武藤敬司。長年の膝の酷使から、必殺技『ムーンサルト・プレス』の封印を余儀なくされる。デビューからスペースローン・ウルフの衝撃、闘魂三銃士結成、グレート・ムタの覚醒を経てnWoの席巻。そして全日本プロレス社長就任、WRESTLE-1の旗揚げまで。WEBで話題を呼んだ、スポーツ報知記者による同名連載を書籍化、200ページの大幅加筆。武藤敬司をはじめ、坂口征二、前田日明、佐山サトル、蝶野正洋、獣神サンダーライガー、船木誠勝、和田京平、桜田一男、若松市政、エリック・ビショフらおよそ30名を総力取材。『ムーンサルト・プレス』を基軸に語りあげた、武藤35年の全記録」

 本書の「目次」は、以下の構成になっています。
序章  最後のムーンサルトプレス
1章  入門、そしてデビューへ
2章  ムーンサルトプレスの誕生
3章 スペースローンウルフ
                           VS「UWF」
4章 ムタ誕生と幻の「SWS」移籍
5章 ムタVS猪木、武藤VS高田
6章 nWo
7章 全日本プロレス移籍
8章 社長の苦悩
終章 決別と決意
「あとがき」

 2018年3月30日、武藤敬司は都内の病院で両膝の人工関節置手術を行いました。今後のプロレス人生を続けるために一大決意でしたが、一方で1984年10月のデビュー間もないころから繰り出してきた必殺技「ムーンサルトプレス」はドクターストップがかかり完全に封印となりました。武藤は言います。
「今は、昔の信用だけでやっている。進化していることは何ひとつないよ。その中でもムーンサルトはお客様の信用を勝ち取った技だった。言えることは、どっかしらムーンサルトプレスってはかないんだよ。膝が悪いってお客様も分かっているから、若干、見ている側もそんなはかなさも感じたりとかね。そうなると気持ちが食い込んでくる。ここ数年はそんな思いを感じていたよ」

 WEB連載「さよならムーンサルトプレス」の最終回で、著者は「デビューからわずか1年での海外遠征。スペース・ローンウルフ時代の苦闘。グレート・ムタで全米を席巻したWCW。鮮烈な凱旋帰国。高田延彦との伝説マッチ。空前のブームを作ったnWo。スキンヘッドへの変貌。全日本プロレス…。そして、今。武藤が残したすべての作品にムーンサルトプレスがあった」と述べています。
 武藤は「ムーンサルトプレスがあるから自分がある。まさしくそう思う。最初から4の字固めとシャイニングウィザードだったらプロレスラーとしてここまで来なかった」と語っていますが、一方でムーンサルトプレスの代償で膝は、日常生活にも支障を来すほど壊れてしまったのでした。

 序章「最後のムーンサルトプレス」で、著者は以下のように述べています。
「1954年2月19日に、蔵前国技館で力道山が木村政彦と組んでシャープ兄弟と対戦し、日本初の本格的なプロレスがスタート、ジャイアント馬場、アントニオ猪木が昭和のプロレスを発展させた。武藤は、1984年のデビュー直後から将来を嘱望され、新日本プロレス、WCW,全日本プロレス、WRESTLE-1と日米で主戦場を渡り歩き、さらには化身のグレート・ムタに姿を変え、常に鮮やかで変幻自在に平成のプロレス界を駆け抜けた。平成のプロレスは、武藤敬司の時代だったと表現しても過言ではないだろう。そこには常に『ムーンサルトプレス』があった」

 高校時代の武藤は、柔道に打ち込んでいました。ここで、なんと木村政彦と遭遇しています著者は、以下のように書いています。
「山梨の高校柔道界で名をはせていた武藤は、県の連盟が主催する、社会人の猛者が集まる強化合宿に何度か参加していた。そこには拓殖大学柔道部も練習に訪れていた。当時、拓大の監督は、戦前から戦後にかけ15年間不敗の記録を持ち、『木村の前に木村なく、木村の後に木村なし』とうたわれた伝説の柔道家、木村政彦だった。武藤が愛読していた梶原一騎原作の漫画『空手バカ一代』には、『木村政彦』が『柔道の鬼』として登場していたため『漫画に出てくる人が本当に実在するのかって思ってね。眺めているだけで感動門だったよ』と伝説の人物との遭遇に心が躍った。練習では木村と打ち込みの受けをやり『体がごっつくて力も強かった』と感じたという」

 続けて、著者は以下のように書いています。
「木村は伝説の柔道家である一方で、プロレスラーの先駆者でもあった。1954年2月19日に蔵前国技館で行われた日本初の本格的なプロレス試合で、力道山とタッグを組んでシャープ兄弟と戦った。その後、同じ年の12月22日に蔵前で力道山と戦ったが、顔面を蹴られKO負けを喫した。武藤と日本プロレス史の礎を築いた木村の遭遇は、不思議な因縁を感じさせるが、周囲からは『木村先生の前では、力道山の話は絶対にするな』と釘をさされていた。プロレスの話題はタブーだったが、柔道に熱中していた高校生の武藤にとってあくまで『木村政彦』は、伝説の柔道家で、そんなことは気にもならなかった。それよりももっと木村を知りたかった」

 夢中になって練習した柔道について、武藤はどう考えていたのか。
「当時の日本柔道界は、のちの五輪金メダリストの山下泰裕と斉藤仁の全盛期で、日本柔道が世界の頂点を極めていた時代だった。
『本当、柔道って強い人はとてつもなくすげぇんだよ。だって、本当に組んだ瞬間に岩みたいに動かない人がいたからね。そんな人と対戦した時は組んだ瞬間に負けたって思ったからね。だから、山下さんとか斉藤さんなんて、オレから見れば果てしのない宇宙にいるような方たちですよ』
自分の実力では、世界はもちろん、日本でも一番になれないことが分かっていた武藤にとって、強さを追求することは専門学校を卒業する20歳で終わっていたのだ」

 新日本プロレスに入門した武藤には、道場での厳しいトレーニングの日々が待っていました。「関節技の鬼」と呼ばれた藤原喜明をはじめ、若手レスラーたちは真剣勝負で関節技を決め合っていました。練習生だった武藤は、当時を振り返って、「あのスパーリングというか、決めっこって、猪木さんが自分の思想を下の者に伝えるためのものだよな。あの狭い世界で関節技を決めた、決めなかったとか強い、強くないっていうのは猪木さんの思想であってさ。オレから言わせれば、何て言うかさ、幕末の山口県にあった小さな塾、そう松下村塾みたいなもんだよ」と語っています。

 これについて、著者は以下のように書いています。
「武藤は、この閉ざされた中で思想を教えた私塾と新日本道場をだぶらせた。松陰が志ある者へ学問を教えたように、猪木が絶対君主として存在し強くなりたいと燃える若者には、藤原が分け隔てなく技術を教えていた。昭和の新日本は、確かに松下村塾と重なるところはあった。さらに、吉田松陰の門下生が『倒幕』に走ったように、新日本の道場で強さを追求した佐山、前田、船木らは後に『UWF』で格闘技スタイルを築いた。UWFでの活動が、平成に入り総合格闘技を発展させ、プロレスの牙城を揺るがした。そういう意味でも、確かに『新日本道場』と『松下村塾』は重なるところがある」

 しかし、柔道で己の限界を悟っていた武藤は「強さ」にまったく興味がありませんでした。彼は、「よくよく考えてみれば坂口さんとかマサさんとか長州さんとかは、絶対にそういう思想に走らなかったよ。それは競技というものの厳しさをめちゃくちゃ知っているからさ。絶対に競技としてプロレスを捉えることをあの人たちは一言も言わなかったし、そういうところに色目も向けなかったし求めなかった」と語っています。強さの追求は柔道で終わったと考えた武藤は、坂口征二、マサ斎藤、長州力などアマチュアでオリンピック代表や日本一を極めた選手も同じ考えだと主張したわけです。

 ところが、前田日明が以下のように異論を述べています。
「武藤はアマチュアで実績を残した選手は、道場で強さを求めないと言っているけど、まったくお門違いなんです。それは、吉田さん(光雄=長州力の本名)ってミュンヘンオリンピックに出ているんですけど、同じミュンヘンに出たジャンボ鶴田さんより強かったんですよ。アマレスでそこまで極めた人が新日本に入って初めてスパーリングをやったのが小沢さん(正志=後のキラー・カーン)でね。吉田さん、小沢さんに決められたんですよ。小沢さんの方が全然強かったんですよ。だから、強さという意味でアマの方が上にあるみたいな考えはまったく間違っているんですよ」

 2章「ムーンサルトプレスの誕生」の「月面水爆のひらめき」では、武藤の最初のムーンサルトプレスがバック転の縦回転ではなく旋回式になった理由として、タイガーマスクの影響があったことが明かされます。タイガーマスクこと佐山はケガのリスクを避けるために旋回式を選択したのですが、武藤は初公開こそ旋回式でしたが、すぐにバック転へ変えました。そのほうが華やかだったからです。空中を回転するときに、武藤は鳥が翼を広げるように両手を水平に伸ばして舞っていました。「技を繰り出すコツはどこにあるのか?」と質問する著者に対して、武藤は「そんなもんねぇよ。ただ、バック転をするだけだよ。バック転できる人なら誰でも出来るんじゃないの」と答えています。

 著者は、以下のように述べています。
「佐山と武藤。卓越した運動神経を持つ2人だからこそ言える無意識の必殺技、それがムーンサルトプレスだった。ただ佐山は、ケガのリスクを恐れバック転を選ばなかった。しかし、武藤は観客の歓声と拍手に背中を押されるように、バック転を選択した。その結果、四度手術し、55歳で人工関節手術をするほどまで両膝が傷ついた」
「もしかしたら、旋回式を選択していれば、そこまで両膝は傷つかなかったかもしれない。ただ、タイガーマスクを超える派手で華麗なバック転のムーンサルトプレスだったからこそ、武藤の栄光はあった。すべてはプロレスラーとしての宿命だった」

「強さ」よりも「華やかさ」を追求した武藤は、弱いプロレスラーだったのでしょうか。そんなことはありません。獣神サンダーライガーこと山田恵一は武藤のことを「道場で強いから誰も怒れないですよね」と証言しています。武藤はスパーリングでも圧倒的な強さを発揮したのです。山田はデビューしてすぐ武藤の「華」に気がつき、プロレスラーとしての天賦の才能を感じたそうです。彼は、「プロレスラーになって努力すれば、ある程度のところまで行けるかもしれないですよ。ただ、天賦の素質を持っているヤツが練習したらもう誰も勝てない。それが武藤敬司です」と語っています。

 山田が明かしたプロレスラーとしての天賦を「勘」と表現したのが船木誠勝です。彼は、「武藤さんは、デビューしてすぐにプロレスラーとしての勘をもってました。自分は、プロレスには競技に近い戦いの感覚しかないんで、自分の方向に持っていく試合しかできないんです。だから、いまだに、この勘が分からないですね。だけど、武藤さんはデビューした直後から不通に相手に合わせてやってました。ボクが武藤さんと初めて対戦した時は、武藤さんの手のひらの上で転がされているような感じで、同じ時期に入ったのに、凄いベテランとやっているようなイメージでした。実際、武藤さんは小僧をあしらっているみたいな感覚だったと思いますよ」と語っています。

 3章「スペース・ローンウルフvs『UWF』」では、アメリカ修業時代の武藤が「狂乱の貴公子」と呼ばれたリック・フレアーに憧れたことが明かされます。観客を呼び、仲間のレスラーの給料を上げてくれるフレアーのブロンドヘアーが武藤にはまぶしく映りました。そして、自分もフレアーの試合を間近で見て考え続けたといいます。武藤は、「オレとフレアーを比べて何が違うんだろう、どこが彼より劣っているんだろうって考えたよ。フレアーは、体がデカイわけではない。決して運動神経がいいわけでもない。でも、あれだけ観客を惹きつけるからね。その中で思ったのは、オレと違うのは、試合運びだった。例えて言うならフレアーは、ほうきとでもプロレスができる深さがあった。誰が相手でも、アベレージを残せるプロレスができた。そこを目指してオレのスタイルを追求していったよな」と語っています。

「ほうきとでもプロレスができる」と言われたプロレスラーはもう1人います。アントニオ猪木です。猪木とフレアーといえば、1995年4月28日と29日に平壌の綾羅島メーデー・スタジアムで行われた「平和の祭典」のメインイベントで対戦しました。両者は、なんと19万人という史上最大の観客の前で熱戦を繰り広げ、大観衆を熱狂させました。そんな猪木について、武藤はこう評しています。
「猪木さんてオレは根っからのプロレスラーだと思うよ。しかも根っからのアメリカンスタイルだよね。自己流にアレンジしているけどね。だけど異種格闘技戦だけはアメリカンスタイルじゃないか……? あっ、わかんねぇな……やっぱ、異種格闘技戦もアメリカンスタイルだよな。だけど、異種格闘技戦ってすげぇんだよ。だってどこの馬の骨だかわからないヤツとプロレスしなきゃならないんだよ。それで沸かすことができるって猪木さんしかいないよな。あんな芸当は、他のヤツらじゃ絶対にできないよ。だから、常に攻める姿勢を見せてくれたっていう意味でやっぱりオレの師匠ですよ」

 武藤敬司が米国から凱旋帰国した1986年秋、新日本プロレスには前田日明率いるUWFが参戦していました。新日本とUWFの激突は、それぞれが持つプロレス観のぶつかり合いでもありました。前田、高田延彦らがロープワークを拒否しキックを主体とするスタイルを主張すればするほど、武藤は意地でもムーンサルトプレスにこだわりました。それでも互いの選手間の中では不満が充満しており、鬱積した思想の違いが爆発する時が来ました。著者は以下のように書いています。
「87年1月の熊本巡業だった。猪木が音頭を取って、新日本とUWFの選手の親睦の飲み会が開かれた。場所は熊本県内の旅館。ここで事件が起きた。酔っ払った両団体の選手が殴り合いのケンカに発展。さらに旅館の壁、便所などを破壊。この事件は、同席した古舘伊知郎アナウンサーがフジテレビの『人志松本のすべらない話』で暴露するなど『旅館破壊事件』として今ではあまりにも有名となった」

 この事件の引き金を引いたのは武藤で、こう語っています。
「正確には酔っ払って覚えてないんだけど、オレが前田さんに、『あんたらのプロレス面白くねぇんだよ』って言って口火切ったと思う。そしたら、前田さんが『じゃんけんで勝った方が一発殴れる』って言ってきて、それに乗ったら、オレは全部、負けて殴られるわけ。酔っ払っていたから、分からなかったんだけど、前田さんは、全部、後出しして殴っていたらしいんだよ。それを高田さんが見ていて、前田さんに『ズルい』ってなって、高田さんが前田さんを羽交い締めにして『武藤、殴り直せ』って言って、思いっきり殴ったよ。その後にどういうわけがオレと前田さんと高田さんが素っ裸になっていた。それで高田さんと一升瓶抱えて、旅館の前の道路にあぐらかいて語り合っていた印象はあるよ(笑)。道路の真ん中だったけど、通った車がオレらの姿を見て、逆に逃げていったからね(笑)」
 現場はまさに修羅場と化し、旅館への弁償額は900万円だったそうです。なお、武藤も前田も泥酔していたため記憶が正しかったかどうかは定かではありませんが、唯一、若手として酔っていなかった船木誠勝の証言が最も信頼できると思われます。

「『UWF』という思想」として、著者は以下のように述べています。
「今、武藤はUWFを『思想』と表現する。
『入門してすぐにUWFができたとき、傍から見ていてあの思想はイヤだなって思っていたし、理解できなかったよね』
柔道という競技の中で強さを追求することを卒業し、エンターテイナーになるためにプロレスラーになった武藤にとって、佐山サトルが掲げた『格闘技へ移行するための段階』というUWFの目論見は、自身と異なる『思想』だった」
「UWFの思想は時を経て、髙田延彦がヒクソン・グレイシーにと対戦し、1997年10月11日に東京ドームでスタートした総合格闘技イベント『PRIDE』に変化を遂げたと、武藤は考えている」

 1987年、武藤は映画に出演します。相米慎二監督の「光る女」という作品でした。本書には、こう書かれています。
「映画の撮影を終えた時、感じたのはプロレスで味わう快感だった。『映画やって、やっぱりプロレスの方が面白いなって思った。だって役者は監督の駒であって、言いなりだからね。映画って監督と役者の戦いなんだよ。撮影現場に観客なんていないもん。だけどレスラーは、マッチメイクはあるけど、リング上の表現は自分がディレクターで、カメラワークも全部決められるし、自分を中心にすべてを見せていく主演俳優だからね』
そして、映画とプロレスの違いを明かした。
『何が決定的に違うかといえば、プロレスはライブ、映画ってあれだけハードな撮影をやって、感動するのはクランクアップして作品になって公開された時なんだよ。でも、こっちは、もうその時には冷めているからね。だけど、プロレスは観客を前にしてライブで感じる感動がある。これってたまらないものがあってね。だからこそ今もリングに上がっているっていうのがあるからね』」

 1995年10月9日、東京ドームでプロレス史に燦然と輝く大ヒット興行が開催されました。新日本プロレスとUWFインターナショナルの全面対抗戦です。メインイベントの大将戦で、武藤はUインターのエースだった高田延彦に完勝しました。馳浩は、あのとき高田の相手は武藤しかいなかったと力説します。
「長州さんの考えの中で、UWFを潰すためには武藤じゃなきゃダメだったんですね。橋本じゃ全然ダメですね。橋本だったら逆にUWFが上がっていたでしょうね。新日本がUWFを叩きつぶすには武藤じゃなきゃダメだった。武藤しかいなかった。事実その通りになりましたね」
「週刊プロレス」の編集長として、UWFブームの一翼を担ったターザン山本もこのように語っています。
「高田は、道場で努力した経験を積み上げて、シューティングと呼ばれたUWFの技術を勉強してきたんです。高田の技術は言ってみれば、毎日のように積み重ねて意識的に努力して身につけ磨いた経験主義なんです。それと同じことをやってきたヤツは負けるんです。絶対的な才能がある武藤はそうじゃないんです。UWFの技術を武藤の才能が超えているわけです。技術とは関係のないム石井の才能を持っているんです。それが分かっていたから高田とやらせたんです。もし高田が仕掛けてきても対応できるんです。仕掛けることは意識的だから、無意識はその上を行きますからね」

 7章「全日本プロレス移籍」の「『格闘技の呪縛』の中『プロレスLOVE』を叫び続ける」では、長年活躍した新日本プロレスに別れを告げた武藤について、著者は述べます。
「『プロレスLOVE』を掲げた武藤は、とことんプロレスを追求したかった。一方の猪木にとってプロレスは、格闘技でありレスラーはまず『強さ』を追求するという根本的な思想があった。相反する猪木と武藤の思想は、もしかすると入門当初、道場でのスパーリングで、武藤がガードポジションから腕十字を取ろうとした時に猪木に注意をされ、疑問を抱いた時から始まっていたのかもしれない。ただ、スペース・ローンウルフ時代、世代闘争で無理やりナウリーダーに組み込まれ、海賊男、たけしプロレス軍団、そして、ムタとして戦った福岡ドーム、節目節目で猪木の姿を間近で見てきた武藤にとって、猪木こそが『プロレスラーの中のプロレスラー』だった。にもかかわらず、『プロレス』を『格闘技』で染める猪木の思想は、理解ができなかった。心おきなく『プロレス』を謳歌するため、全日本移籍を決断した」

 8章「社長の苦悩」では、全日本プロレスの社長となってから苦労続きだった武藤について、著者は述べています。
「プロレスラーとして輝くことだけを考えれば良かった新日本時代。社長となった全日本では興行と経営の現実を目の当たりにした。
『無責任って言われるかもしれないけど、オレ自身はやっぱり全日本に移籍したのは、一国一城の主になりたいっていう野心しかなかったんだよ。最初から経営は興味もなかった』
全日本時代は、苦しいことばかりの日々だったと映る。そう尋ねると武藤は『ただ』と強調し胸の内を吐き出した。
『いろいろあったけど、後悔はないよ。なぜなら、今、オレは生きているからね。死んでたらダメだけどさ、崖っぷちで踏み外して落ちてたら、すげえ後悔の塊だけど、オレは生き残っているから。それで満足だよ。だいたいさ、人生だから色々あるよ。今、インタビューを受けているこの本だってさ、栄光ばかりだったら本にならねぇじゃん。いいことも悪いことも色々あるから、読む方も面白いんだよ。それでいいじゃない』」
「すべては命があればこそ」と著者は書いていますが、武藤はおそらく志半ばにして亡くなった三沢光晴や橋本真也といった同世代のレスラーたちの無念さを胸に抱いているのでしょう。

 終章「決別と決意」では、「武藤敬司前」と「武藤敬司後」で世間がプロレスを見つめる視線が劇的に変わったことを指摘し、著者はこう述べます。
「かつて武藤は、新日本を退団する直前に、猪木の功績と人気が高まり、過去と今の自分たちのプロレスを比較される風潮が押し寄せた渦中で『思い出と戦ったって勝てないんだよ。そんな意味のない戦いはオレはやらねぇよ』と発した。思い出と戦っても勝てないといった武藤だが、今、『思い出』と戦う道を選んだ。
『今はオレ自身が思い出になっている自覚はあるよ。だけど、思い出って誰でもなれねぇよ。そこには積み重ねてきた信頼感ってものがあるからさ。あと、オレのひとつの自慢は、おそらく世界中のどのレスラーよりもいろんな選手とメインを張ってきたことだよ。猪木さん、ホーガン、藤波さん、フレアー、長州さん、スティング、天龍さん、前田さん……ってこれだけのレスラーと戦ってきたのは、プロレスの歴史を振り返っても、世界広しといえどオレぐらいだよ。そんなオレの中にある財産を、みなさんと共有したいんです』」

 2018年3月14日、W-1の後楽園ホール大会で武藤は、プロレス人生最後のムーンサルトプレスを放ちました。ファイナルの8人タッグマッチで、浜亮太、SUSHI、宮本和志と組んだ武藤は、教え子の河野真幸、大和ヒロシ、中之上靖文(大日本)KAI組と対戦。中之上にフラッシングエルボーを決め、KAIにはドラゴンスクリューから足四の字固めを披露。終盤、河野を捕まえムーンサルトプレスにいこうとするが、邪魔が入りなかなか決まらない。大技前のバックブリーカーでは、足がもつれ崩れ落ちる場面も。それでも、最後はシャイニングウィザード3連発で河野の動きを止め、コーナーによじ登り、ムーンサルトを決めました。満員の会場は大歓声に包まれました。

 1985年、デビュー1年の新人時代に繰り出したムーンサルトプレス。依頼、33年間に渡って、この大技は武藤の代名詞と言われましたが、この日を最後に封印されました。武藤は「正直、なかなか苦しい戦いだった。バックブリーカーでは自分の足がもつれて崩れてしまうし、かろうじて最後のムーンサルトができた。昔と比べて跳躍力はないが、気持ちがこもったムーンサルトだった。武藤敬司、悔いなしです」と晴れ晴れとした表情で話しました。長年、慣れ親しんだ技との別れには「この技なくして、オレははい上がれなかった。若くて、大きい体でムーンサルトができるということで、海外に出してもらった。海外でも、この技でトップになることができた。水戸黄門で言えば、助さん、格さんの格さんを失ったようなものだけど、また新しいものを考えていきたい。オレもまだまだ頑張っていきたい。今日、もらった元気を必ずプロレスで返します」と復活を誓いました。手術後の武藤の復帰戦は、今年6月26日の後楽園ホール。なんと、長州力の引退試合で1年3カ月ぶりにリングに帰ってきます。今から楽しみです!

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