No.1721 歴史・文明・文化 | 芸術・芸能・映画 『1968年』 中川右介著(朝日新書)

2019.05.16

 『1968年』中川右介著(朝日新書)を読みました。熱量に満ちた日本の青春譜を大衆娯楽の視点から描いた本です。著者は1960年東京都生まれ、早稲田大学第二文学部卒業。2014年まで出版社アルファベータ代表取締役編集長として「クラシックジャーナル」や音楽家・文学者の評伝などを編集・発行。作家としてクラシック音楽、ポップス、歌舞伎等の評論・評伝に定評があります。一条真也の読書館『昭和45年11月25日』『SMAPと平成』『松竹と東宝』で紹介した本をはじめ、著書多数。

本書の帯

 本書の帯には、「あしたのジョー」「少年ジャンプ」「黒部の太陽」「帰って来たヨッパライ」「花の首飾り」「江夏豊」「ウルトラセブン」「日本がいちばん熱かった年」「50年前」「日本人の成熟と喪失を濃密に描き切る!」と書かれています。

本書の帯の裏

 帯の裏には、「日本は青春まっただ中!」「私たちは誰と闘い、何を愛したのか!?」「新世代が旧世代に挑み、混沌の様相を呈した1年。日本人の情念はどう変化したか!?」「音楽、漫画、映画……大衆娯楽に焦点を当て、エネルギーの奔流を見据える!」と書かれています。

 カバー前そでには、「矢吹丈の笑顔、星飛雄馬の汗と涙。映画界の旧弊をぶっ壊した裕次郎。この1年はどうして、かくも熱かったのだろうか?」「1968年、世界の若者が旧世代と闘った年。日本の若者も激しく動き、新たな潮流が生まれた。映画、漫画、音楽―。新旧衝突のエネルギーは何を創造し、そして大衆は何を愛したのか?混沌の深層を詳細、濃密に描きだす!」と書かれています。

 本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」
「前夜――1967年12月31日」
第一話 ザ・タイガースと若者たちの闘争
第二話 「少年マガジン」と漫画雑誌攻防戦
第一章 前史――「少年サンデー」vs.「少年マガジン」
第二章 青年コミック誌誕生
第三章 「少年ジャンプ」創刊
第三話 若きエースたち――江夏豊と星飛雄馬
第四話 映画スターたちの独立戦争
 第一章 五社協定という要塞
 第二章 独立戦争勝利した大スターたち
「いくつかの後日譚」
「あとがき」
「参考文献」

 「はじめに」で、著者は本書の根底にあるテーマ、あるいは問題意識について以下のように述べています。
「一般に語られる『1968年の闘争』は、『プラハの春』も五月革命もアメリカや日本の学生運動も、ことごとく敗北した。日本では『学生叛乱』の年は、同時に学生運動鎮圧の年でもあり、日本国政府はその体制の起源である明治維新から100年であることを祝っていた。
 しかし、一方で1968年前後はポップカルチャーにとっては黎明期であり、現在のサブカルあるいはポップカルチャーの礎となるものが次々と登場した。ハイカルチャーがほぼ壊滅している現状を見れば、1968年の学生運動は敗北したが、同時期に勃興したサブカルは『革命』として成就したと言える。ロシア革命の前後にロシア構成主義やシュプレマティズムなど美術の世界でも革命が起きたように、社会的・政治的動乱期には新しい藝術・文化が勃興するものなのだ」

 著者は、本書の内容を以下のようにまとめます。
「第一話は音楽界が舞台で主人公はザ・タイガースである。この話では、政治の動き、とくにザ・タイガースと同世代の学生運動の動きをインサートした。
 第二話は漫画界の話で、これが一番長い。主人公は『少年マガジン』で、宿年のライバルが『少年サンデー』で、そこに新たなライバルとして『ビッグコミック』と『少年ジャンプ』が登場する。これらに描いていた手塚治虫、梶原一騎らも重要人物だ。
 第三話はプロ野球界が舞台で、主人公は江夏豊と、架空のエース、星飛雄馬。2人の物語が同時に進む。
 第四話は映画界が舞台で、『黒部の太陽』ができるまでと、石原裕次郎、三船敏郎に続き、勝新太郎と中村錦之助もプロダクションを作っていく、大スターたちの大映画会社からの独立戦争が描かれる」

 「前夜――1967年12月31日」には、当時の日本映画界について以下のように書かれています。
「日本映画界の年間観客動員数(外国映画を含む)は1958年の11億2745万人がピークだった。日本人全員が毎月1回は映画館へ行っていたことを示す数字だ。しかし翌年の『皇太子ご成婚』をきっかけにテレビが飛躍的に普及するにつれ映画人口は激減し、約10年後の1967年は3億3507万人になっていた。10年で3分の1になってしまったのだ。7067あった映画館は4119になっていた。この状況をどうにか打破したいと考えた2人の俳優、石原裕次郎と三船敏郎が一緒に映画を作ろうと手を組んだのだが、『黒部の太陽』(熊井啓監督)だった」

 第一話「ザ・タイガースと若者たちの闘争」では、内田裕也に誘われて渡辺プロダクションからデビューしたザ・タイガースの活躍が描かれます。ザ・タイガースは1967年2月5日に『僕のマリー』でレコード・デビューし、5月5日に『シーサイド・バウンド』、8月20日に『モナリザの微笑』が発売され、どれも大ヒットし、爆発的な人気が出て、グループ・サウンズ(GS)ブームの頂点に立っていました。

 著者は、以下のように述べています。
「年が明けて1968年1月5日に『君だけに愛を』が発売された。デビュー・シングル『僕のマリー』から『シーサイド・バウンド』『モナリザの微笑』『君だけに愛を』までの4曲は全て、作詞は橋本淳、作曲はすぎやまこういちだった。この2人も、レコード会社の専属ではない新しい世代の作詞・作曲家だった。1月15日から22日までは、日劇の第3回ウエスタン・カーニバルに出演し、熱狂的な声援を浴びた。とくにジュリーこと沢田研二の人気はすごかった」

 第二話「『少年マガジン』と漫画雑誌攻防戦」の第一章「前史――『少年サンデー』vs.『少年マガジン』」では、「10年目の少年週刊誌」として、著者は以下のように述べています。
「『マガジン』飛躍の原動力となったのが、梶原一騎・川崎のぼる『巨人の星』で、1966年に連載が始まり、1968年は3年目に突入する。
『巨人の星』のライバルとなったのが、1967年2月に連載が始まった高森朝雄・ちばてつや『あしたのジョー』だった。現在では、高森朝雄が梶原一騎の別名であることは広く知られているが、当時の読者は誰も知らなかった。
講談社の『少年マガジン』の快進撃に対し、小学館の『少年サンデー』も劇画を導入し、白土三平『カムイ外伝』を載せ、手塚治虫にも『マガジン』の水木しげる『ゲゲゲの鬼太郎』を意識した妖怪漫画『どろろ』を描かせるなど、対抗していた」

 一方、1967年には初の青年向け漫画週刊誌として、双葉社から「漫画アクション」秋田書店から「プレイコミック」(当初は月2回刊)が創刊されていました。「少年マガジン」が開拓した「漫画を読む青年層」をターゲットとした雑誌です。著者は、以下のように述べています。
「1968年は、漫画誌においては、この青年誌市場に小学館が挑んだ『ビッグコミック』と、『少年マガジン』が取りこぼしつつあった小学生層に向けて集英社が放つ『少年ジャンプ』の2誌が創刊された年だった」

 第二章「青年コミック誌誕生」では、漫画界の流れについて以下のように書かれています。
「漫画の革命と言われる手塚治虫の『新宝島』が刊行されたのは1947年、SF三部作の第1作『ロストワールド』が刊行されるのは48年で、手塚が亡くなるのは89年2月なので、この漫画家は40年にわたり第一線で活躍したことになる。偶然にも、昭和戦後の漫画史と手塚自身の漫画家人生はほぼ重なるが、68年はそのちょうど中間にあたった。月刊誌から週刊誌への移行がほぼ完了し、青年コミックという新たなマーケットが確立されるのが、68年前後であった。この時代の変化に追いつけないで消えていく漫画家も多いが、手塚は、見事に乗り切り、次の20年間も第一線であり続けるのだ」

 第三話「若きエースたち――江夏豊と星飛雄馬」では、当時のプロ野球について以下のように書かれています。
「1968年のプロ野球は、『江夏の江夏による江夏のための1年だった』と阪神タイガースのエース、村山実は評したが、まさにその通りだ。江夏が塗り替えたシーズン奪三振記録『401』という数字はいまだに破られていない。中六日前後のローテーションと分業制となった現在では、誰にも達成できない数字だ。
そしてもうひとり、この年にプロ・デビューし、誰にも打てない魔球を駆使して巨人の4連覇に少なからず貢献したことになっている投手も、別の意味で話題になった。現実のプロ野球選手の誰よりも有名になったその選手の名は、星飛雄馬」

 「ドラフト会議」として、著者は述べます。
「1968年のドラフト会議は『空前絶後の大豊作』と呼ばれている。戦後の1947年前後の生まれ、いわゆる『団塊の世代』の最初の学年が大学を卒業した年にあたり、田淵幸一、山本浩司、富田勝、星野仙一、山田久志、加藤秀司、福本豊らがプロに入った年だ。少し年下の東尾修、大島康徳らも、この年のドラフトを経てプロに進んだ」
 まさに綺羅星のようなメンバーです。ONの後に活躍した選手たちが揃って登場した感があります。少年時代、わたしは大のジャイアンツ・ファンでしたが、彼らの活躍もよく記憶しています。

 第四話「映画スターたちの独立戦争」の第一章「五社協定という要塞」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「映画人口がピークだった1958年は、松竹、東宝、大映、東映、日活の五社が、撮影スタジオを東京と京都に持ち、監督以下のスタッフと大スターから脇役の大部屋俳優までを社員として雇用して映画を作り、系列の映画館を持ち、そこへ配給するという製造から流通、小売までを一貫して自社で行なっていた。
その五社体制はやがて崩壊するのだが、1968年はその転機となる年だった。すでに黒澤明、木下恵介をはじめとした監督や、石原裕次郎、勝新太郎、三船敏郎といった大スターたちが専属契約を解除して相次いで自分のプロダクションを作っていた。彼らにとっても会社のいいなりになるのではなく、自分の作りたい映画を作りたいという思いがあったので、利害が一致したのである」

 三船敏郎と石原裕次郎という二大スターが共演した映画「黒部の太陽」について、著者はこう書いています。
「三船は東宝、石原は日活の専属だったので2人は共演する機会はなかった。年齢差は14歳。しかしともに成城に住んでおり、家が近かったことから、裕次郎が言うには、何かあると、『じゃ、いま行くわ』と下駄履きで歩いていくような間柄だったという。
当時の映画界には『五社協定』があり、他社の映画には出演できなかった。この協定は1954年に日活が製作を再開することになったので、俳優や監督を引き抜かれるのを警戒して、大映の永田雅一が主導して、松竹、東宝、大映、東映、新東宝の5社が結んだもので、『各社専属の監督、俳優の引き抜きを禁止』『監督、俳優の貸出も廃止』という内容だった」

 それ以前は、たとえば東宝の黒澤明が大映で『羅生門』を撮り、大映の山本富士子が小津安二郎監督の松竹映画『彼岸花』に出演し、見返りに小津が大映の『浮草』を撮るといった貸し借りもありました。しかし、五社協定はそれも禁止してしまったのでした。著者は述べます。
「そのため日活は新人を発掘せざるをえなくなり、そこから石原裕次郎というスターが生まれたのである。間接的には石原裕次郎は五社協定が生んだスターだった。石原裕次郎というスターが生まれてくると、日活も58年に協定に参加し六社協定となるが、61年に新東宝が経営破綻したので、再び五社協定になる。日活が参加した58年は前述のように観客動員数がピークだった年で、各社とも翌年はもっと増え、日本映画の栄華は永遠に続くと信じて疑わなかった時期である」

 第二章「独立戦争に勝利した大スターたち」では、「『黒部の太陽』完成」として、以下のように書かれています。
「1960年代の日本映画で、配給収入のトップは『東京オリンピック』(市川崑監督)の12億0500万円だが、これはドキュメンタリーなので、劇映画としては『黒部の太陽』が最高である。2位が三船プロの『風林火山』(稲垣浩監督、1969年3月)の7億2000万円、3位が石原プロの『栄光への5000キロ』(蔵原惟繕監督、1969年7月)の6億5000万円と、この2人が作った映画が上位3位を独占している」
これは本当に凄いことだと、わたしは思います。

 「石原裕次郎最良の年」として、著者は以下のように述べるのでした。
「石原裕次郎にとって1968年は『数』の点では最高の年となった。主演・製作した『黒部の太陽』が劇映画としての興業記録の新記録となり、兄も史上最高得票で国会議員に当選したが、それだけではなかった。
石原プロモーションは映画製作だけでなく歌手やタレントのマネージメントもしていたが、黛ジュンが『天使の誘惑』で日本レコード大賞を受賞したのだ。裕次郎には歌での大ヒットはなかったが、1968年は音楽業界に対しても、石原プロモーションの力を見せつけた」

 本書には、わたしの知らなかったことがたくさん書かれていました。さまざまな知識を得る雑学本としては面白かったですが、音楽、漫画、プロ野球、映画という4つのジャンルの章が単独で構成されており、相互の関係性がまったく描かれていないため、全体としては散漫な印象を受けました。また、各章も1968年に起こった出来事を時系列で並べており、その背景にあるビッグ・ストーリーを味わうことができませんでした。スガ秀実をはじめ、多くの書き手が「1968年」というテーマを選んでいますが、やはりストレートに政治の視点でとらえた本のほうが魅力的であると思いました。大衆娯楽の視点で「1968年」をとらえるというコンセプトは良いのですが、結果的に消化不良となって残念でした。

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