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天皇陛下のプロポーズ』

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No.1716


『天皇陛下のプロポーズ』織田和雄著(小学館)を読みました。著者は昭和10年11月2日、日本人初のオリンピック金メダリスト・織田幹雄の次男として生まれました。中等科2年から高等科、大学まで学習院に通い、天皇陛下の2歳後輩になります。大学卒業後は、慶應義塾大学大学院などで学んだ後、三菱商事株式会社に入社。定年後は、関東テニス協会副理事長、東京都テニス協会副会長などの要職を歴任しました。 

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本書の帯

 

 本書のカバー表紙には、産経新聞社提供のテニスコートのベンチで談笑する若き日の天皇・皇后両陛下のお写真が使われ、帯には「恋のキューピッド訳が初めて明かす陛下の強い思い。『平成』を築いた陛下と美智子さまの純愛秘話」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

 帯の裏には、本書の序章から抜粋された「私は、陛下が退位を決断された今こそ、その半生の軌跡と美智子さまとの出会いからご結婚、そして二人三脚でご公務に勤しまれてこられた日々を書籍として残すことを考えました。それが陛下から受けた様々なご恩への、せめてもの感謝のしるしとなれば幸いです」という文章が紹介されています。

 

 また、カバー前そでには、以下のように書かれています。
「その時、陛下はタオルで汗を拭きながら、『あんなに正確に粘り強く打ち返してくるのだから、かなわないよ。すごいね』とおっしゃいました。その表情に悔しさは微塵もなく、夏の暑い日差しのもと、むしろさばさばとした爽やかさに満たされているようにも感じられたのです。
 昭和32年8月19日。軽井沢。このテニスコートでの運命的な出会いを演出した誰かがいるとしたら、それは神様しかありえない」

 

本書の「目次」は、以下のようになっています。
序章   この本を執筆するにあたって
第一章  陛下とテニスと軽井沢と
第二章  陛下と美智子さまの恋
第三章  陛下の電話取り次ぎ係を拝命
第四章  ご結婚までのカウントダウン
第五章  陛下をよく知る友人たちの証言
第六章  海外に開かれた窓
第七章  天皇ご一家との交流
第八章  両陛下が築かれた平成の皇室
最終章  天皇陛下の退位によせて
「織田和雄さん『天皇陛下のプロポーズ』出版に際して」(師信介)

 

 序章「この本を執筆するにあたって」で、著者は天皇陛下との交流について次のように述べています。
「お会いしてから、時にテニスの練習相手として、時におしゃべりの相手として、陛下は私を年下の友人として接して下さいました。成年になられ級友の皆さんが就職や留学などで陛下との距離が生じられても、私は年下であったことと、学習院大学を卒業後も慶應義塾大学の大学院に進学していたことなどから、比較的自由な時間を持てましたので、以前と変わらず陛下のお傍にご一緒させて頂いていたように思います。そうした交流が、もう70年以上も続いています」

 

 その交流の中で、著者は「私はあくまで陛下のお傍に付き従い、折に触れ、その薫陶を授けて頂きました」と振り返り、さらには「わが生涯における陛下は、象徴天皇としてのあるべき理想をご体現され、またそのお姿は、人間としての正しい模範に通じる目指すべきはるかな山の頂のように仰ぎ見る存在でした。たわいない会話の端々にこめられた、深い思いやりや優しさは、心から尊敬に値する陛下の人間性を感じさせ、その一挙手一投足は、常に信念と理想に貫かれています」と述べています。

 

 著者が当時は皇太子であった天皇陛下と初めてお会いしたのは、まだ東京に焼け跡が残る、昭和24年(1949年)1月30日のことでした。著者は成蹊中学1年生で、2歳年上の兄が学習院中等科で陛下と同級生でした。著者の兄と陛下は日ごろから仲が良く、その縁から「一緒にテニスのレッスンを受けないか?」と誘いを受けたそうです。

 

 レッスンを受けていたパレステニスクラブから、皇居内にある常陸宮の御殿まで移動したとき、著者は宮内庁が用意した大きなリンカーンに陛下と同乗しましたが、定員オーバーで著者はなんと陛下の膝の上に座ったそうです。
 陛下は著者のことを「ポケ」と呼んでいました。著書いわく、「チビで何事もちょこまか動いていた」著者は誰いうともなく「ポケットモンキー」と呼ばれ、それが縮まって「ポケ」と言われるようになったとか。

 

 一方、陛下のニックネームは「チャブ」でした。理由は、「茶色いブタの蚊取り線香入れ」に似ていると、陛下の親しい級友たちが言い出して、略して「チャブ」となったそうですが、なんだか信じられないような話ですね。著者は、「不敬と思う向きもあるかもしれませんが、当時の友人仲間の間では親しみをこめたニックネームとして、陛下もそう呼ばれることを受け入れていらっしゃいましたので、どうかご容赦頂きたいと思います」と述べています。

 

 そして、昭和32年8月19日。運命の出会いがありました。軽井沢でテニスの対戦相手となった正田美智子さんのことを、陛下は「あんなに正確に粘り強く打ち返してくるのだから、かなわないよ。すごいね」と言われました。著者は述べます。
「私から見てもコートの中の正田美智子さんは、常に一生懸命で若い青春の躍動感に溢れていました。そしてコートから離れると、清楚な気品を漂わせる稀有な美しさの持ち主でした。軽井沢で夏を過ごす同世代の若者たちの多くは、そんな美智子さんを高嶺の花として遠くから見ていたように思います。言葉を交わすことはおろか、目を合わせることさえできない、まさに当時の軽井沢では評判のマドンナだったのです」

 

 当時は皇太子だった天皇陛下と美智子さまとの出会いは「実は演出されたもの、意図的にアレンジされたものではないか?」といった報道がされたことがありましたが、著者は以下のように述べます。
「私はその場に居合わせた者として、絶対に演出された出会いなどではないと、はっきり断言できます。後日、当日の運営責任者だった私の同級生にも確認しております。なぜならば、陛下のペアと美智子さまのペアが対戦されたのは、4回戦となる準々決勝。つまり、両ペアともにそこまで勝ち進まなければ、出会うことがなかったのです。どちらかが1試合目あるいは2試合目で負けていれば、お二人の出会いを演出しようとする計画はすべて終わりとなるからです」

 

 陛下は美智子さまを気に入られ、著者は二人の電話の取り次ぎ係というキューピッド役を引き受けることになりました。しかしながら、「正田さんの都合がよければ、明日、クラブに来ませんかと誘ってほしいのですが......」という陛下からの伝言を受けた著者は、その日の夜、友人宅のパーティーに参加して、楽しく過ごしているうちにすっかり美智子さまに電話するのを忘れ、翌日、陛下はやきもきしながら、美智子さまを待ちぼうけしたことがあったそうです。後になって陛下はこの時のことを振り返って、「あの時は、もうこれで正田さんに会えなくなるのだと思ってがっかりしましたよ」と打ち明けられ、著者は大いに恐縮するとともに、本当に申し訳ないことをしたと反省したそうです。

 

 そして、『天皇陛下のプロポーズ』という書名の通り、美智子さまが結婚を決められた陛下の言葉とは、どのようなものだったのでしょうか。陛下は電話で「YESと言ってください」と強く押されたそうです。つまり、ご結婚の申し込みにYESと言ってください、と熱意を伝えられたのです。陛下は、皇室に嫁ぐことは普通の結婚とは違い、戸惑うことばかりであろうから、皇太子妃そして皇后となれば、そのお立場を深く理解する必要性があることを語られ、最後に「公的なことが最優先であり、私事はそれに次ぐもの」とはっきりと伝えられたそうです。

 

 この天皇陛下の言葉について、著者は述べます。
「それは、ご自身のお立場から公的なことが最優先であり、私的なことは後回しとなってしまうので、もしかしたら我慢や不自由を強いる結果になるかもしれない、という意味も含んでいるのではないかと推察致します。その上でどうしても結婚して頂きたいという、嘘偽りのない真っ正直で、誠実な陛下のお言葉と熱意。この言葉に美智子さまは心を動かされ、結婚を決意されたのではないかと思っております」

 

 昭和34年(1959年)4月10日、日本中が歓喜に沸きました。陛下と美智子さまの「結婚の儀」が執り行われたのです。当日は著者も大忙しで、ご成婚を中継する日本テレビに依頼され、生放送の番組に出演したそうです。この日は朝から雨が降り続いており、ご成婚パレードは中止からしれないと噂されていましたがパレードの直前、まるでお二人を祝福するかのように、突然、晴れ渡る青空が広がりました。著者は、日記に「前日の雨もうそみたいに晴れ上がった」と書いています。

 

 また、著者はご成婚の日の日記に「両殿下 馬車にて宮城よりかえる とても美しかった」「今日は本当に良い結婚式が行われた」とも記しています。その日の心境について、著者は以下のように書いています。
「陛下と美智子さまのご成婚の日を迎え、私は電話取り次ぎ係としてお役目を果たすことができたという清々しい心地でした。月日が流れるのは早いもので、平成31年(2019年)4月でお二人のご成婚から60年が経ちます。経ぎてみれば早いものですが、私は今でもあの日の感動が蘇っては、懐かしい気持ちになります。美智子さまが皇室に入られたことで国民の皇室への親しみが増し、日本にとって新しい時代が幕を開けたのです」

 

 最後に、平成30年夏、著者が軽井沢会のニスコートで両陛下に再会したときのエピソードに感動しました。この日、著者は軽井沢会のメンバーから1人の老紳士を紹介されました。聞けば、なんと92歳になるコートキーパーの方でした。今も現役で、テニスコートをベストな状態に保つよう、炎天下でも黙々と整備していると知りました。著者は真っ黒に日焼けしたコートキーパーの老紳士にとても感動し、「これは陛下にご紹介して差し上げなければ......」と思ったそうです。両陛下が退出される頃合いを見計らって、著者は陛下にこの老紳士を紹介しました。

 

 著者が「今92歳の、昔から軽井沢会のコートの整備をされてきた方です」とお伝えすると、陛下は「あ、そうですか......。お元気でいて下さい」と言葉こそ短かったものの、その表情には軽井沢会のテニスコートに刻まれた、さまざまな思い出が蘇っていたように感じられたそうです。著者は、「老紳士は思いがけない陛下からの労いのお言葉に感激しているようでした。あの昭和32年(1957年)8月19日、陛下と美智子さまが初めてプレイしたコートを整備したのも、もしかしたら、この老紳士だったかもしれません」と書いています。

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『結魂論〜なぜ人は結婚するのか』(成甲書房)

 

 人は、いろんな偶然のもとに人と出会います。
 拙著『結魂論〜なぜ人は結婚するのか』(成甲書房)にも書きましたが、「浜の真砂」という言葉があるように、数十万、数百万人を超える結婚可能な異性のなかからたった一人と結ばれるとは、何たる縁でしょうか!
 かつて古代ギリシャの哲学者プラトンは、元来が1個の球体であった男女が、離れて半球体になりつつも、元のもう半分を求めて結婚するものだという「人間球体説」を唱えました。元が1つの球であったがゆえに湧き起こる、溶け合いたい、1つになりたいという気持ちこそ、世界中の恋人たちが昔から経験してきた感情です。プラトンはこれを病気とは見なさず、正しい結婚の障害になるとも考えませんでした。

 

 人間が本当に自分にふさわしい相手をさがし、認め、応えるための非常に精密なメカニズムだととらえていたのです。そういう相手がさがせないなら、あるいは間違った相手と一緒になってしまったのなら、それは私たちが何か義務を怠っているからだとプラトンはほのめかしました。そして、精力的に自分の片割れをさがし、幸運にも恵まれ、そういう相手とめぐり合えたならば、言うに言われぬ喜びが得られることをプラトンは教えてくれたのです。そして、彼のいう球体とは「魂」のメタファーであったと思います。

 

 また、17世紀のスウェーデンに生まれた神秘思想家スウェデンボルグは、「真の結婚は神的なものであり、聖なるものであり、純潔なものである」と述べました。天国においては、夫は心の「知性」と呼ばれる部分を代表し、妻は「意思」と呼ばれる部分を代表している。この和合はもともと人の内心に起こるもので、それが身体の低い部分に下ってくるときに知覚され、愛として感じられるのです。そして、この愛は「婚姻の愛」と呼ばれます。両性は身体的にも結ばれて1つになり、そこに1人の天使が誕生する。つまり、天国にあっては、夫婦は2人ではなくて1人の天使となるのです。

 

 プラトンとスウェデンボルグをこよなく敬愛するわたしは、結婚とは男女の魂の結びつき、つまり「結魂」であると信じています。そして、天皇皇后両陛下こそは最も理想的な「結魂」の実例であると思います。ちなみに、わたしの両親も今年で結婚60周年、わたしたち夫婦も結婚30周年を迎えましたが、すべての結婚は奇跡ではないでしょうか。いずれにせよ、天皇皇后両陛下がすべての夫婦の模範であり、戦後日本のベストカップルであることに異論のある日本人は少ないでしょう。令和の御代になっても、お二人がいつまでもお元気でいらっしゃることを心から願っております。
「令和」への改元まで、あと2日です。