No.1658 プロレス・格闘技・武道 『平成プロレス30の事件簿』 端佐富郎著(standards)

2019.02.08

 『平成プロレス30の事件簿』端佐富郎著(standards)を読みました。「知られざる、30年の歴史を刻んだ言葉と、その真相」というサブタイトルがついています。

本書の帯 

 本書のカバー表紙には、「新日本vsUWFインターナショナル全面対抗戦」で武藤敬司が髙田延彦を破った写真が使われ、帯には「プロレスにとって〈平成〉とは何だったのか?」として、以下のように書かれています。
 「UWF分裂、髙田vsヒクソン、猪木引退、馬場・鶴田死去、NOAH旗揚げ、小川vs橋本『1・4事変』、ハッスル誕生、ALL TOGETHER開催、天龍引退、棚橋活躍……平成30年間を騒がせた大事件の数々。その舞台裏と真の物語を、『泣けるプロレス』著者が描き切る、渾身の平成プロレス総括ノンフィクション」

本書の帯の裏

 また、帯の裏には「激動の平成プロレス30年史を、名ゼリフ、名シーンを手掛かりに、その真実の姿を描き出す。」と大書され、次のように書かれています。
「新日本、初の東京ドーム興行開催(1989)/SWS旗揚げ(1990)/UWF3派分裂(1991)/新日本vsUWFインター全面戦争(1995)、髙田延彦vsヒクソン・グレイシー(1997)、アントニオ猪木引退(1998)、小川直也vs橋本真也『1/4事変』(1999)、ジャイアント馬場死去(1999)/ジャンボ鶴田死去(2000)/長州力『WJプロレス』旗上げ(2003)/橋本真也死去(2005)/三沢光晴死去(2009)/『ALL TOGETHER』開催(2011)/天龍源一郎引退(2015)/高山善廣、頸椎損傷(2017)/中邑真輔、WWEタイトル挑戦(2018)……」

 平成プロレスを振り返る本はUWF本を含めて多数出ており、さすがのわたしも食傷気味でしたが、この本は類書とは一味違いました。著者が『泣けるプロレス』の瑞佐富郎(みずき・さぶろう)氏だからでしょうか。瑞氏は愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。シナリオライターとして故・田村孟氏に師事。フジテレビ『カルトQ・プロレス大会』優勝を遠因に、プロレス取材等に従事したそうです。本名でのテレビ番組企画やプロ野球ものの執筆の傍ら、会場の隅でプロレス取材も敢行しています。著書に『新編 泣けるプロレス』(standards)があります。また、一条真也の読書館『証言UWF』『告白 平成プロレス10大事件最後の真実』で紹介した本の執筆・構成にも関わっています。

 本書の「目次」は、以下のようになっています。
「はじめに」
1989(平成元)年 [新日本プロレス、初の東京ドーム大会開催]
「怖かった。俺の力も衰えたということかな……」(アントニオ猪木)
1989(平成元)年 [アントニオ猪木、参議院選挙当選]
「今年最高の名勝負だったよ」(長州力)
1990(平成2)年 [新日本プロレス東京ドーム大会に全日本プロレス参戦]
「出るまで不安だった。『ブー! 』と来るのかと思って」(ジャンボ鶴田)
1990(平成2)年 [三沢光晴、タイガーマスクを脱ぐ]
「三沢が泣いてますよ! 」(竹内宏介・「週刊ゴング」編集人)
1990(平成2)年 [天龍源一郎、SWS参加]
「一番たまったのは、ストレスとネクタイ」(天龍源一郎)
1990(平成2)年 [大仁田厚、有刺鉄線電流爆破マッチ開始]
「別の角度からプロレスの面白さを見た気がした。逃げるためのロープが、逆に危険に近づいて」(二宮清純・スポーツジャーナリスト)
1991(平成3)年 [UWF、3派分裂]
「明日、メガネの社長と会わなきゃだから」(藤原喜明)
1991(平成3)年 [新日本プロレス、「G1 CLIMAX」開催]
「新日本プロレスは、今日のリーグ戦をきっかけに、これから始まります!
 」(蝶野正洋)
1994(平成6)年 [ジュニアヘビー・オールスター「SUPERS J-CUP」スタート]
「これからもこんな素晴らしい日は来ないだろう」(ワイルド・ペガサス)
1995(平成7)年[新日本プロレス対UWFインターナショナル全面戦争勃発]
「ムーンサルト? よければいい。俺がトップロープに上がるのは、武藤をKOして勝どきを上げる時」(髙田延彦)
1997(平成9)年 [nWoJAPAN活動開始]
「支持を得た理由? 俺はやっぱり、最初はロゴだと思う」(蝶野正洋)
 1997(平成9)年 [『PRIDE1』髙田延彦vsヒクソン・グレイシー戦]
「髙田を応援した皆さん、すいません」(ヒクソン・グレイシー)
1998(平成10)年 [アントニオ猪木引退]
「私の後継者は、前田だと考えていた」(アントニオ猪木)
1999(平成11)年 [小川直也vs橋本真也”1・4事変”]
「気をつけてくださいね。何かあったら行きますから」(安田忠夫)
1999(平成11)年 [ジャイアント馬場死去]
「(死に顔は)笑顔でした……」(三沢光晴)
1999(平成11)年 [前田日明引退]
カレリンは、私にとってのゼットンでした」(前田日明)
2000(平成12)年 [ジャンボ鶴田死去]
「三沢たちの試合は、見ていてハラハラする。プロレスとして、奇麗じゃない気がするんだよ」(ジャンボ鶴田)
2000(平成12)年 [三沢光晴、「NOAH」旗揚げ]
「一応、おふくろには報告しました。『明日、旗揚げだから』って」(三沢光晴)
2002(平成14)年 [武藤敬司、全日本へ移籍]
「元子さん、全日本を、俺に下さいよ」(武藤敬司)
2003(平成15)年 [長州力、「WJ」旗揚げ]
「選手の不満が渦巻いている。文字通りのマグマだよ」(谷津嘉章)
2004(平成16)年 [エンターテインメント・プロレス「ハッスル」誕生]
「明日は坂田が負けて、自ら髪の毛を刈る予定です」(「ハッスル」スタッフ)
2005(平成17)年 [橋本真也死去]
「バカ野郎としか、出て来ねえよ……」(武藤敬司)
2005(平成17)年 [新日本プロレス、ユークスの子会社に]
「俺1人でも盛り上げて行きますよ。俺が新日本プロレスだ」(棚橋弘至)
2009(平成21)年 [三沢光晴死去]
「社長のプロレスを受け継ぐ、若い奴らの試合を観てやってよ……」(高山善廣)
2011(平成23)年 [オールスター戦「ALL TOGETHER」開催]
「プロレスの醍醐味が全て入っていた」(坂口征二)
2012(平成24)年 [新日本プロレス、ブシロードの子会社に]
「ツイッターをやっている皆さんは、今すぐ私をフォローして下さい! 」(木谷高明・新日本プロレス取締役会長)
2013(平成25)年 [小橋建太引退]
「馬場さんも三沢さんもできなかった引退試合をちゃんとやりたかった」(小橋建太)
2015(平成27)年 [天龍源一郎引退]
「天龍、今が一番かっこいいぞ! 」(引退試合の観客の一人)
2017(平成29)年 [高山善廣、頸髄完全損傷]
「俺なんてどうでもいいんで、皆さん、力を貸して下さい」(鈴木みのる)
2018(平成30)年 [中邑真輔、レッスルマニアでWWE王座に挑戦]
「プロレスは、言葉以上のメッセージ」(中邑真輔)

 もう、「目次」を読んでいるだけで平成プロレスの歴史が俯瞰できます。「はじめに」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「その記念碑は、ジャイアント馬場が建てたものだ。だが、地元でも、それを知る人は皆無と言っていい。なぜなら、碑のどこにも、馬場の名前は刻まれていないのである。兵庫県は明石公園にあるそれには、『震災を忘れないために』と刻まれている。1995年に起こった阪神大震災の記憶のため、建てられたものだった。リング以外の公の場では自分を出すことを極端に嫌った、馬場らしい。だが、縦の長さ209cmの白御影石には、ホンの少しだけ、馬場の影が残っていた。高さが馬場の身長と同じなのだった」

 プロレスラーの真の姿はわかりにくいとされていますが、本書では少しでもそれを浮き彫りにしようと努めています。著者は述べます。
「冒頭のジャイアント馬場のエピソード同様、本文に入れ込めなかった逸話も多数ある。子供を作らない理由を、『若い時から決めていた。守りに入るのが嫌だった。子供なんかいたら、俺の思うプロレスなんか出来なかったよ』と語ったマサ斎藤。中央大学法学部を卒業し、リングでは悪の限りを尽くしたが、後年、福祉活動に情熱を傾け、その最終学歴を2004年に入学した東京福祉大学の社会福祉学科としたミスター・ポーゴ。そして、東日本大震災の直後に来日し、喪章をつけて、橋本真也の遺児、橋本大地と闘ったビッグバン・ベイダ―。喪章の理由を聞くと、こう言った。『ん? 天国の橋本(真也)に頼まれたのさ』」

 本書には数多い平成プロレスの思い出が書かれていますが、特にわたしに強いノスタルジーを抱かせたのは、1990年2月10日の「新日本プロレス東京ドーム大会に全日本レスラー参戦」のくだりでした。その日、東京ドームで開催された新日本プロレス「スーパーファイトin闘強導夢」で、ジャンボ鶴田&谷津嘉章vs木村健吾&木戸修、天龍源一郎&タイガーマスク(2代目)vs長州力&ジョージ高野、スタン・ハンセンvsビッグバン・ベイダ―という、全日本と新日本の団体交流戦が組まれました。当時の世相と相まって、「ベルリンの壁が崩れた」などと言われ、大きな話題を呼びました。当時は東京で仕事をしていたわたしも、もちろん東京ドームに駆けつけました。

 著者は、この夢の交流戦について、以下のように書いています。
「全日本参戦の過程は、知られるところだ。1月11日、大会の目玉の1つだった、リック・フレアーの参戦中止が決定。決定権を持つNWAが、来日をストップさせたという見方があった。というのは、この『2・10東京ドーム』の2ヶ月後の4月13日、WWF(現WWE)と全日本プロレスと新日本プロレスの共催で、東京ドーム興行(『日米レスリングサミット』)が予定されていたのだ。これに、WWFを商売敵とするNWAがヘソを曲げたというわけだ。
 これを受けて、1月12日に坂口がジャイアント馬場と会談。全日本プロレス勢の貸し出しをお願いしたところ、馬場が「いいよ」と快諾。坂口の社長就任祝いと、その人柄を買ってのこと。1月19日午後、会見で全日本プロレス勢出場が発表され、週明けの22日にはそのメンバーを鶴田、天龍、谷津、スタン・ハンセンと明示。24日にはそのカードが『IWGPヘビー級選手権:ベイダ―vsハンセン』『鶴田、谷津vs木村、木戸』『天龍、川田利明vs長州、小林邦明』に決定」 

 その後、カードは一部変更になり、川田の代わりに三沢タイガーが、小林邦明の代わりにジョージ高野が出場しました。当日の異様な熱気をわたしはよく記憶していますが、初めて鶴田が新日本の会場に姿を現した瞬間、わたしのすぐ前の観客が「うぉー!! 鶴田だ、鶴田だ、鶴田だ~!!」と興奮状態で絶叫していたこと、天龍が不機嫌に入場してきたこと、ベイダ―とハンセンの闘いが超弩級の迫力で、「ハンセンvsアンドレ」以来の外人名勝負となったことなどが脳裏に甦ります。本書には次のように書かれています。
「それは、午後8時18分のことだった。対抗戦3試合の1試合目、『鶴田、谷津vs木村健吾、木戸』が始まる前の、休憩時だ。観客内で、ウェーブが起こった。6万3900人の巨大なウェーブは、5分かけ、ドームを1周と3分の1、回った。それは、まさにプロレスという夢が起こした光景だった」
 わたしも、このウェーブの中の1人でした。生まれて初めてのウェーブ体験であり、人生でたった一度の幸せな体験でした。

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