No.1621 メディア・IT | 歴史・文明・文化 『ホモ・デウス』 ユヴァル・ノア・ハラリ著、柴田裕之訳(河出書房新社)

2018.11.10

『ホモ・デウス』上下巻、ユヴァル・ノア・ハラリ著、柴田裕之訳(河出書房新社)を読みました。「テクノロジーとサピエンスの未来」というサブタイトルがついています。ブログ『サピエンス全史』で紹介した世界的ベストセラーの続編で、本書も世界的ベストセラーになっています。著者は1976年生まれのイスラエル人歴史学者です。オックスフォード大学で中世史、軍事史を専攻して博士号を取得し、現在、エルサレムのヘブライ大学で歴史学を教えています。

一条真也の読書館『銃・病原菌・鉄』『世界史』で紹介した名著もそうですが、わたしは時々、スケールの大きな歴史の本を読むことにしています。日常の生活や仕事で狭くなりがちな視野を一気に拡大してくれるからです。前作の『サピエンス全史』は、「ビジネス書大賞2017」の 大賞を受賞し、「ビジネス書グランプリ2017」の リベラルアーツ部門の第1位にも輝きました。

上巻の帯

上巻の帯には「『サピエンス全史』の著者が描く衝撃の未来!」と大書され、「我々は不死と幸福、神性を目指し、ホモ・デウス(神のヒト)へと自らをアップグレードする。そのとき、格差は想像を絶するものとなる。35カ国以上で刊行され、400万部突破の世界的ベストセラー!」「カズオ・イシグロ(ノーベル文学賞受賞者)ビル・ゲイツ(マイクロソフト創業者)ダニエル・カーネマン(ノーベル経済学賞受賞者)絶賛!」と書かれています。

上巻の帯の裏

上巻の帯の裏には、以下のように書かれています。
「優れた作品である『サピエンス全史』よりも面白く読める、より重要な作品である」カズオ・イシグロ(「ガーディアン・ブック・オブ・ザ・イヤー」より)
「人類にとって何が待ち受けているのか、思慮深い考察を著している」ビル・ゲイツ(www.gatesnotes.comより)
「あなたに衝撃を与え、楽しませ、そしてなによりも以前は考えたこともないような方法であなたを考えさせる」ダニエル・カーネマン(『ファスト&スロー』著者)

下巻の帯

下巻の帯には「人類はどこへ向かうのか?」と大書され、「生物はただのアルゴリズムであり、コンピューターがあなたのすべてを把握する。生物工学と情報工学の発達によって、資本主義や民主主義、自由主義は崩壊していく」「山極壽一(京都大学総長)佐々木俊尚(作家・ジャーナリスト)推薦!」と書かれています。

下巻の帯の裏

下巻の帯の裏には、以下のように書かれています。
「科学技術の終焉か? パンドラの箱が今開く」山極壽一(京都大学総長)
「人類史と先端テクノロジーを見事に融合した傑作。」佐々木俊尚(作家・ジャーナリスト)
ニューヨーク・タイムズ紙、ウォール・ストリート・ジャーナル紙、ワシントン・ポスト紙、ガーディアン紙ほか、各紙大絶賛!

上巻目次は、以下のようになっています。
第1章 人類が新たに取り組むべきこと
第1部 ホモ・サピエンスが世界を征服する
第2章 人新世
第3章 人間の輝き
第2部 ホモ・サピエンスが世界に意味を与える
第4章 物語の語り手
第5章 科学と宗教というおかしな夫婦
「原註」
「図版出典」

下巻目次は、以下のようになっています。
第6章 現代の契約
第7章 人間至上主義
第3部 ホモ・サピエンスによる制御が不能になる
第8章 研究室の時限爆弾
第9章 知能と意識の大いなる分離
第10章 意識の大海
第11章 データ教
「謝 辞」
「訳者あとがき」
「原 註」
「図版出典」
「索 引」

第1章「人類が新たに取り組むべきこと」では、著者は以下のように書いています。
「20世紀の中国でも、中世のインドでも、古代のエジプトでも、日帯とは同じ3つの問題で頭がいっぱいだった。すなわち、飢餓と疫病と戦争で、これらがつねに、取り組むべきことのリストの上位を占めていた。人間は幾世代ともなく、ありとあらゆる神や天使や聖人に祈り、無数の道具や組織や社会制度を考案してきた。それにもかかわらず、飢餓や感染症や暴力のせいで厖大な数の人が命を落とし続けた。そこで多くの思想家や預言者は、飢餓と疫病と戦争は神による宇宙の構想[訳註 本書で言う「宇宙の構想」とは、全能の神あるいは自然の永遠の摂理が用意したとされる、全宇宙のための広大無辺で、人間の力の及ばない筋書きを意味する]にとっ不可欠の要素である、あるいは、人間の性質と不可分のものである、したがって、この世の終わりまで私たちがそれらから解放されることはないだろう、と結論した」

また、著者は人類のアップグレードについて述べています。
「成功は野心を生む。だから、人類は昨今の素晴らしい業績に背中を押されて、今やさらに大胆な目標を立てようとしている。前例のない水準の繁栄と健康と平和を確保した人類は、過去の記録や現在の価値観を考えると、次に不死と幸福と神性を標的とする可能性が高い。飢餓と疾病と暴力による死を減らすことができたので、今度は老化と死そのものさえ克服することに狙いを定めるだろう。人々を絶望的な苦境から救い出せたので、今度ははっきり幸せにすることを目標とするだろう。そして、人類を残忍な生存競争の次元より上まで引き上げることができたので、今度は人間を神にアップグレードし、ホモ・サピエンスをホモ・デウス[訳注 「デウス」は「神」の意]に変えることを目指すだろう」

果たして、人間は死を克服することができるのでしょうか。
物理学者のマックス・プランクは「科学は葬式のたびに進歩する」という有名な言葉を残しました。ある世代が死に絶えたときにようやく、新しい理論が古い理論を根絶やしにする機会が巡ってくるという意味ですが、著者は以下のように述べます。
「過去100年間に平均寿命が倍に延びたとはいえ、それに基づいて、今後100年間で再び倍に延ばして150年に達することができると見込むわけにはいかない。1900年には、世界の平均寿命は40年にすぎなかったが、それは多くの人が幼いうちや若いうちに、栄養不良や感染症や暴力のせいで亡くなっていたためだ。それでも、飢餓や疫病や戦争を免れた人は、優に70代、80代まで生きられた。それがホモ・サピエンスの自然寿命だからだ。一般的な見方とは裏腹に、昔も70代まで生きることは自然界の異常現象とは考えられていなかった。抗生物質や予防接種や臓器移植の助けを借りもせずに、ガリレオ・ガリレイは77歳、アイザック・ニュートンは84歳、ミケランジェロは88歳の高齢まで生きている。それどころか、密林のチンパンジーたちでさえ、60代まで生きることがある」

「幸福」の問題については、著者はエピクロスやブッダといった人々の精神的な幸福観を紹介した後で、以下のように述べています。
「今のところ、人類は生化学的な解決策のほうにはるかに大きな関心を抱いている。ヒマラヤの洞窟の中の僧侶や浮世離れした哲学者が何と言おうと、資本主義という巨人にとって、幸福観は快楽であり、そこに議論の余地はない。一年過ぎるごとに、私たちは不快感への耐性が下がり、快感への渇望が募っていく。科学研究と経済活動の両方が、その目的に向けられ、毎年、より優れた鎮痛剤や新しい味のアイスクリーム、より快適なマットレス、より中毒性の高いスマートフォン用ゲームが生み出され、私たちはバスが来るのを待つ間、一瞬たりとも退屈に苦しまなくて済むようになる」

何千年もの間、歴史はテクノロジーや経済、社会、政治の大変動に満ちあふれていました。それでも人類そのものだけはつねに変わらなかったとして、著者は以下のように述べています。
「私たちの道具や組織は、聖書に描かれている時代の道具や組織とはおおいに異なるけれど、人間の心の奥底の構造は同じままだ。だからこそ私たちは、聖書のページや孔子の言行録、ソフォクレスやエウリピデスの悲劇の中に、依然として自分の姿を見つけられる。こうした古典的作品は、まさに私たちのような人間によって生み出された。だから私たちは、それらが私たちについて語っているように感じる。現代の劇場で上演されるときには、オイディプスやハムレットやオセロはジーンズをはき、Tシャツを着て、フェイスブックのアカウントを持っているかもしれないが、彼らの心の葛藤は、もともとの劇の中のものと同じだ。ところが、いったんテクノロジーによって人間の心が作り直せるようになると、ホモ・サピエンスは消え去り、人間の歴史は終焉を迎え、完全に新しい種類のプロセスが始まるが、それはあなたや私のような人間には理解できない。

そして、著者は歴史の全般的な方向性について、以下のように述べるのでした。
「21世紀には、人類の第三の大プロジェクトは、創造と破壊を行なう神のような力を獲得し、ホモ・サピエンスをホモ・デウスへとアップグレードするものになるだろう。言うまでもなく、この第三のプロジェクトは第一と第二のプロジェクトを含んでおり、その2つから勢いを得る。私たちが自分の体と心を作り直す能力をほしがっているのは、何よりも、老化と死と悲惨な状態を免れるためだが、いったんそれを手に入れてしまえば、私たちがそれほどの能力を利用して他に何をやりかねないか、知れたものではない。だから、人類の新たな課題リストは、じつは(多くの部門を持つ)たった1つのプロジェクト、すなわち、神性を獲得することと考えていいだろう」

第2章「人新世」では、著者は以下のように述べています。
「今日私たちは、大規模な火山爆発や小惑星の衝突による致命的な危険に再びさらされていると恐れる人もいる。ハリウッドのプロデューサーたちは、そうした不安につけ込んで莫大なお金を稼いでいる。とはいえ、現実にはそのような危険は微々たるものだ。大量絶滅は何千万年に一度程度しか起こらない。たしかに、大型の小惑星がおそらく今後一億年間に地球に衝突するだろうが、来週の火曜日にそれが起こる可能性は非常に低い。私たちは小惑星を恐れる代わりに、自分自身を恐れるべきだ。
なぜなら、ホモ・サピエンスがゲームのルールを書き直してしまったからだ。このサル目の1つの種が単独で、7万年の間に前代未聞の形で徹底的に全地球の生態系を変えてのけたのだった。私たちが与える影響は、氷河時代や地殻変動の影響とすでに肩を並べている。私たちの影響はあと100年のうちに、6500万年に恐竜を一掃した小惑星の影響を超えかねない」

第3章「人間の輝き」では、「証券取引所のは意識がない理由」として、著者は以下のように述べています。
「人間の優位を正当化するときに持ち出される説には、地球上のあらゆる動物のうち、意識ある心を持っているのはホモ・サピエンスだけだというものもある。だが、心は魂とは完全に別物だ。心は神秘的な不滅のものではない。目や脳のような器官でもない。心は、苦痛や快楽、怒り、愛といった主観的経験の流れだ。これらの精神的な経験は、感覚や情動や思考が連結して形作っている。感覚や情動や思考は、一瞬沸き起こったかと思えば、たちまち消える。すると他の経験が去来し、束の間起こってはすぐに去っていくことを繰り返す(それについてはじっくり考えるときには、その経験を感覚や情動や思考といった別個のカテゴリーに分類しようとすることが多いが、実際には、みな混ざり合っている)」

続けて、著者は「このよう経験が激しく入り乱れて意識の流れを構成している。永久不変の魂とは違い、心は多くの部分を持ち、絶えず変化しており、それが不滅だと考える理由はまったくない。魂とは1つの物語であり、それを受け容れる人もいれば退ける人もいる。それに対して、意識の流れは私たちがどの瞬間にも直接経験する具体的な現実だ。この世でこれほど確かなものはない。その存在は疑いようもない。疑念の虜になり、『主観的経験は本当に存在するのか?』と自問したときにさえ、その疑念を経験していることには確信が持てる」と述べています。

著者は「バーチャル世界」についても言及します。
「哲学者たちがすでに何千年も前に気づいていたように、私たちは自分以外の人に心があると、反論の余地がないまでに証明することはけっしてできない。実際、他人の場合には、私たちはただ、意識があると推定しているだけで、本当に意識があると確実に知ることはできない。ひょっとしたら、全宇宙の中で何かを感じる生き物は唯一私だけで、他の人間と動物はすべて、心を持たないただのロボットなのか? ことによると、私は夢を見ており、出会う人はみな、夢に出てくる人物にすぎないのか? もしかしたら、私はバーチャル世界の中に閉じ込められていて、私が目にする生き物はすべて、ただのシミュレーションなのか?」

続けて、著者は「バーチャル世界」について述べます。
「現在の定説によれば、私の経験することはどれも、脳の中の電気的活動の結果であり、したがって、『リアル』な世界とは私には区別のしようがないバーチャルな世界をまるごとシミュレートすることは、理論上は実行可能だという。そう遠くない将来、私たちが実際にそのようなことをするだろうと信じている脳科学者もいる。考えてみると、それはすでに行なわれているかもしれない――あなたに。もしかしたら、今は2216年で、あなたは退屈したティーンエイジャーであり、原始的で胸躍る21世紀初頭の世界をシミュレートする『バーチャル世界』のゲームに夢中になっているかもしれない。この筋書きの実現可能性が少しでもあると認めれば、数学によってなんとも恐ろしい結論へと導かれる。現実の世界は1つしかないのに対して、考えうるバーチャル世界の数は無限なので、あなたがその唯一の現実の世界に暮らしている確率はゼロに近い」

著者はまた、「夢と虚構が支配する世界」として、「サピエンスが世界を支配しているびは、彼らだけが共同主観的な意味のウェブ――ただ彼らに共通の想像の中にだけ存在する法律やさまざまな力、もの、場所のウェブ――を織り成すことができるからだ。人間だけがこのウェブのおかげで、十字軍や社会主義革命や人権運動を組織することができる」と述べます。
そして、第1部の最後に、著者はこう述べるのでした。
「いつの日か、神経生物学で飛躍的な進展が見られ、純粋に生化学的な見地から共産主義や十字軍の遠征が説明できるようになるかもしれない。とはいえ、私たちはそれには程遠い所にいる。21世紀の間に、歴史学と生物学の境界は曖昧になるだろうが、それは歴史上の出来事に生物学的な説明が見つかるからではなく、むしろ、イデオロギー上の虚構がDNA鎖を書き換え、政治的関心が気候を再設計し、山や川から成る地理的空間がサイバースペースに取って代わられるからだろう」

第2部「ホモ・サピエンスが世界に意味を与えてくる」の第4章「物語の語り手」は特に興味深く読みました。著者は以下のように述べています。
「21世紀の新しいテクノロジーは、神や国家や企業といった虚構をなおさら強力なものにしそうなので、未来を理解するためにはイエス・キリストやフランス共和国やアップル社についての物語がどうやってこれほどの力を獲得したかを理解する必要がある。人間は自分たちが歴史を作ると考えるが、じつは歴史はこうした虚構の物語のウェブを中心にして展開していく。個々の人間の基本的な能力は、石器時代からほとんど変わっていない。それどころか、もし少しでも変わったとすれば、おそらく衰えたのだろう。だが、物語のウェブはますます協力になり、それによって歴史を石器時代からシリコン時代へと推し進めてきた」

続けて、著者は以下のように述べています。
「すべてが始まったのはおよそ7万年前、認知革命のおかげでサピエンスが自分の想像の中にしか存在しないものについて語りだしたときだ。その後の6万年間に、サピエンスは多くの虚構のウェブを織り成したが、それはみな小さく局地的なものにとどまった。ある部族が崇拝する尊い祖先の霊は、近隣の部族の人々にはまったく知られておらず、ある土地で価値のある貝殻は近くの山脈を越えた途端に値打ちを失った。それでも、祖先の霊や貴重な貝殻についての物語は、サピエンスにとって大きな強みだった。そうした物語のおかげで、何百もの、ときには何千ものサピエンスが効果的に協力できたからで、それはネアンデルタール人やチンパンジーには望むべくもないことだった。とはいえ、サピエンスがまだ狩猟採集民であるうちは、本当に大規模な協力はできなかった。狩猟と採集では、都市や王国を養うことは不可能だったからだ。したがって、石器時代の霊や妖精や魔物は比較的弱い存在だった」

それから、著者は「聖典」について言及します。
「聖典」はわがテーマの1つで、わたしは『儀式論』(弘文堂)の姉妹書として『聖典論』をいずれ書く予定です。そのウォーミングアップとして、『世界の聖典・経典』(光文社知恵の森文庫)を上梓しました。ハラリは、以下のように述べています。
「文書記録の持つ力は、聖典の登場とともに絶頂を極めた。古代文明の神官や初期は、しだいに文書のことを、現実を理解するための手引きと見るようになった。最初のうち、彼らは文書を見て税や農地や穀倉の実情を知った。だが、官僚制が力をつけるにつれ、文書も権威を獲得していった。神官たちは神の資産の一覧だけではなく、神の行ないや戒律や秘密も記録した。でき上がった聖典は、現実をそっくり記述していると称し、聖書やクルアーン(コーラン)やヴェーダ[訳注 インド最古の聖典]の中にあらゆる答えを探し求めるのが、代々の学者の習慣となった」

著者は、聖典の虚構性について以下のように述べます。
「もしある聖典が現実を誤って伝えていたら、理屈の上では、信奉者たちが遅かれ早かれそれに気づき、その聖典の権威が損なわれるはずだ。エイブラハム・リンカーンは、すべての人をずっと騙し通すことはできないと言っている。残念ながら、それは考えが甘い。実際には、人間の協力ネットワークの力は、真実と虚構の間の微妙なバランスにかかっている。もし誰かが現実を歪め過ぎると、その日とは力が弱まり、物事を的確に見られる競争相手に歯が立たない。その一方で、何らかの虚構の神話に頼らなければ、大勢の人を効果的に組織することができない。だから、虚構をまったく織り込まずに、現実にあくまでこだわっていたら、ついてきてくれる人はほとんどいない」

さらに著者は、「たとえ聖典が現実の本質を偽るものだったとしても、何千年にもわたって権威を保つことができる。たとえば、聖書の歴史観は根本的に間違っているが、それでも首尾良く世界中に広まり、厖大な数の人が今なおそれを信じている。聖書は一神教の歴史理論を信じ込ませようとし、世界は単一の全能の神によって支配されている、その神は私と私の行ないを他の何よりも気遣う、と主張した。何か良いことが起これば、それは私の善行に対する報いに違いない。どんな大参事も、私の罪に対する罰と思って間違いなかった」と述べています。一神教の歴史理論とは「物語」とも言い換えることができるでしょう。

物語といえば、第5章「科学と宗教というおかしな夫婦」の冒頭に、著者は物語について次のように書いています。
「物語は人間社会の柱石の役割を果たす。歴史が展開するにつれ、神や国家や企業にまつわる物語はあまりに強力になったため、ついには客観的現実まで支配し始めた。人々は偉大な神セべクや天命や聖書を信じたおかげで、ファイユームの湖や万里の長城やシャルトルの大聖堂を造ることができた。だが不幸にも、こうした物語をむやみに信じたせいで、人間の努力はしばしば、現実の生きとし生けるものの暮らしを向上させるのではなく、神や国家といった虚構の存在の栄光を増すために向けられることになった」

「神を偽造する」として、著者は聖書が成立した真相について、以下のように述べています。
「今や私たちは科学的手法を総動員して、いつ、誰が聖書を書いたか断定できる。科学者たちは1世紀以上前からまさにそれに取り組んできた。そして、もし興味があれば、その結果についての本が何冊も出ているから、読むことができる。専門家の査読を受けた科学研究の大半の内容は一致している。手短に言えば、聖書は、記述していると称する出来事が起こってから何世紀も後に、それぞれ異なる書き手によって書かれた、おびただしい文書の集成であり、これらの文書が単一の聖なる書物にまとめられたのは、聖書時代のずっと後になってからのことだった。たとえば、ダビデ王が生きていたのはおそらく紀元前1000年頃だが、『申命記』は紀元前620年頃、ユダの王ヨシヤの権力を強めることを目指すプロパガンダ・キャンペーンの一環として、王の宮廷で書かれたというのが定説になっている。『レビ記』が編纂されたのはさらに後で、紀元前500年以降だ」

「朝日新聞」2016年6月29日朝刊

宗教とは何か。著者は「私たちは科学を、世俗主義と寛容の価値観と結びつけることが多い」として、「コロンブスやコペルニクスやニュートンの時代のヨーロッパは、宗教的狂信者が世界で最も集中しており、寛容の水準がいちばん低かった。科学革命を担った名だたる人々は、ユダヤ教徒やイスラム教徒を排除し、異端者を大量に火あぶりにし、猫を可愛がる高齢の女性はみな魔女と見なし、月が満ちるたびに新たな宗教戦争を始める社会に暮らしていた」と述べます。
さらに、宗教と科学について、著者は述べるのでした。
「宗教は何をおいても秩序に関心がある。宗教は社会構造を創り出して維持することを目指す。科学は何をおいても力に関心がある。科学は、病気を治したり、戦争をしたり、食物を生産したりする力を、研究を通して獲得することを目指す。科学者と聖職者は、個人としては真理をおおいに重視するかもしれないが、科学と宗教は集団的な組織としては、真理よりも秩序と力を優先する。したがって、両者は相性が良い。真理の断固とした探求は霊的な旅で、宗教や科学の主流の中にはめったに収まり切らない」

下巻に入って第6章「現代の契約」でも「宗教」という言葉が登場しますが、それは資本主義のことでした。著者は、以下のように述べています。
「おそらくはほとんどの資本主義者は宗教というレッテルを嫌うだろうが、資本主義は宗教と呼ばれてもけっして恥ずかしくはない。天上の理想の世界を約束する他の宗教とは違い、資本主義はこの地上での奇跡を約束し、そのうえそれを実現させることさえある。飢餓と疫病を克服できたのは、資本主義が成長を熱烈に信奉していることに負うところが大きい。人間の暴力を減らし、寛容さを育み、協力を促進した手柄の一部さえ、資本主義に帰せられる」

また、著者は「方舟シンドローム」として、資源についての興味深い考えを示します。
「世界は決まった大きさのパイであるという伝統的な見方は、世界には原材料とエネルギーという二種類の資源しかないことを前提としている。だがじつは、資源には三種類ある。原材料とエネルギーと知識だ。原材料とエネルギーは量に限りがあり、使えば使うほど残りが少なくなる。それに対して、知識は増え続ける資源で、使えば使うほど多くなる。実際、手持ちの知識が増えると、より多くの原材料とエネルギーも手に入る。私がアラスカでの石油採掘に1億ドル投資して油田を見つければ、より多くの石油が手に入るが、私の孫たちの取り分が減る。一方、もし太陽エネルギーの研究に1億ドル投資し、このエネルギーをより効率的に利用する新しい方法を発見すれば、私も孫たちも揃ってより多くのエネルギーを手に入れられる」

第9章「知能と意識の大いなる分離」も刺激的な内容です。
著者は、AIの問題を取り上げ、以下のように述べています。
「SF映画はたいてい、人間の知能と肩を並べたりそれを超えたりするためには、コンピューターは意識を発達させなければならないと決めてかかっている。だが、現実の科学はそれとは大違いだ。スーパーインテリジェンス(人間の能力を超えるAI)へと続く道はいくつかあり、意識という隘路を通るものは、その一部だけかもしれない。何百万年にもわたって、生物の進化は道筋に沿ってのろのろと進んできた。非生物であるコンピューターの進化は、そのような隘路をそっくり迂回し、スーパーインテリジェンスへと続く別の、比べ物にならないほどの早道をたどるかもしれない」

そこで、著者は1つの疑問を示します。「知能と意識では、どちらのほうが本当に重要なのか?」という疑問ですが、著者は「両者が結びついていたときには、相対的な価値を議論するのは哲学者の愉快な気晴らしにすぎなかった。だが、これは21世紀には、切迫した政治的・経済的な問題になっている。そして、その答えを知ったら、ぎょっとするだろう。少なくとも軍と企業にとっては単純明快で、知能は必須だが意識はオプションにすぎない」と述べています。

第10章「意識の大海」では、著者は再び宗教に言及します。
「イスラム過激派やキリスト教原理主義がしきりに話題にされているのとは裏腹に、宗教的な視点に立つと、世界で最も興味深い場所は、イスラミックステートでも聖書地帯[訳注 アメリカ南部・中西部の、キリスト教原理主義が盛んな地域]でもなくシリコンヴァレーだ。そこではハイテクの権威たちが、神とはおよそ無縁でテクノロジーがすべてである素晴らしき新宗教を私たちのために生み出しつつある。彼らも昔ながらの目的、すなわち幸福や平和や繁栄、さらには永遠の命さえ約束するが、それは天上の存在の助けを借りて死後に実現するのではなく、テクノロジーの助けを借りてこの地上で実現するという。こうした新しいテクノ技術は、テクノ人間至上主義とデータ教という、2つの主要なタイプに分けられる」

このうち、テクノ人間至上主義について、著者は述べます。
「この宗教は依然として、人間を森羅万象の頂点と見なし、人間至上主義の伝統的な価値観の多くに固執する。テクノ人間至上主義は、私たちが知っているようなホモ・サピエンスはすでに歴史的役割を終え、将来はもう重要ではなくなるという考え方には同意するが、だからこそ私たちは、はるかに優れた人間モデルであるホモ・デウスを生み出すために、テクノロジーを使うべきだと結論する。ホモ・デウスは人間の本質的な特徴の一部を持ち続けるものの、意識を持たない最も高性能のアルゴリズムに対してさえ引けを取らずに済むような、アップグレードされた心身の能力も享受する。知能が意識から分離しつつあり、意識を持たない知能が急速に発達しているので、人間は、後れを取りたくなければ、自分の頭脳を積極的にアップグレードしなくてはならない」

第11章「データ教」では、「データフローの中の小波」として、著者は以下のように述べています。
「私たちには未来を本当に予測することはできない。なぜならテクノロジーは決定論ではないからだ。同一のテクノロジーがまったく異なる種類の社会を創り出すこともありうる。たとえば、産業革命がもたらした列車や電気、ラジオ、電話といったテクノロジーを使って、共産主義独裁政権とファシスト政権と自由民主主義政権のどれを確立することもできた。韓国と北朝鮮を考えてみるといい。これまで両国はまったく同じテクノロジーを利用することができたが、それを非常に異なる方法で採用する道を選んできた」

著者によれば、「生命」という本当に壮大な視点で歴史を俯瞰すると、他のあらゆる問題や展開も、以下の3つの相互に関連した動きの前に影が薄くなるといいます。
●科学は1つの包括的な教義に収斂しつつある。それは、生き物はアルゴリズムであり、データ処理であるという教義だ。
●知能は意識から分離しつつある。
●意識を持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが間もなく、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになるかもしれない。

本書の最後に、著者は「本書を読み終わった後もずっと、それがみなさんの頭に残り続けることを願っている」と書いています。
●生き物は本当にアルゴリズムにすぎないのか? そして、生命は本当にデータ処理にすぎないのか?
●知能と意識のどちらのほうが価値があるのか?
●意識は持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになったとき、社会や政治や日常生活はどうなるのか?

「訳者あとがき」で、本書を翻訳した柴田裕之氏は「太古の狩猟採集民は、たんなる動物の種の1つにすぎなかった。農耕民は自らを森羅万象の頂点と考えた。科学者たちは人間を神へとアップグレードするだろう」という著者ハラリの考えを取り上げ、以下のように述べています。
「その実現を可能にしうるのが科学とテクノロジーの進歩であり、『サピエンス全史』の最終章でも示されていた3つの道筋、すなわち自然選択の法則を打ち破り、生物学的に定められた限界を突破する。生物工学、サイボーグ工学、非有機的生命工学だ。その背景には2つの流れがある」

2つの流れのうちの1つは、生き物はアルゴリズムであり、生命はデータ処理であるという、あらゆる生物を網羅する考え方で、これは科学界の定説となっています。もう1つは、意識というものの解明はいっこうに進まないとはいえ、知能を意識から分離し、AI(人工知能)の形で急速に発展させる動きです。これを紹介した上で、柴田氏は「ただし、科学は万能ではないということも著者は明示する。科学には、人間がどう行動すべきかを決めることができない。科学も含め、社会が機能するには倫理的判断や価値判断が欠かせず、そうした判断を下すためには、何らかの宗教あるいはイデオロギーが必要となる。そして著者は近代以降の歴史を、科学と特定の宗教(人間至上主義)が手を組み、『人間の経験が宇宙に意味を与える』と信じながら、力を手に入れていくプロセスと捉える。そして、神性の獲得もその延長線上にある」と述べるのでした。

本書を読んで、わたしは拙著『ハートフル・ソサエティ』(三五館)の内容を思い出しました。世界的ベストセラーである本書と拙著を並べて論じるなど気が引けますが、両者には共通のメッセージが流れています。特に、『ハートフル・ソサエティ』の「超人化のテクノロジー」と「神化するサイエンス」の二章にそれを強く感じます。
テクノロジーが高度に進んだ社会というと、機械による無機的な社会になると思いがちですが、逆にむしろ有機的というか生物的になってきます。工業社会は組織に統制がなくて、バラバラでした。しかし、ポスト工業社会あるいは高度情報社会、つまり現在の社会においては大脳に相当するコンピュータによって情報が処理され、その情報が、神経に相当するネットワークによって送受信されることが可能になりました。運輸交通網の発達はあたかも血管の発達であり、血液としてのモノ、金、情報が迅速に流れていきます。まさに、これまでのテクノロジーの歩みはバイオ生物社会をつくるために発達してきたのかもしれません。

創られた生物としての社会は、創造主である人間にひたすら近づこうとするはずです。まるで人間が神に近づこうとするように。ハイテクノロジー社会とは、人間化社会なのです。それでは、人間になった後は、どうなるのでしょうか。わたしは、人間化を果たした後の社会は人間を超えた存在、つまり超人をめざして進化していくと思います。なぜなら、さらなるハイテクノロジー社会において、人類は超能力を使えるようになるからです。これは、そのまま言葉の通り、人類がもともと潜在的にもっていたとされる超能力がよみがえる(実際、そのように主張する人々も存在する)という意味ではありません。人類がすべて超能力者になるに等しいような社会システムがハイテクノロジーによって出現するという意味です。

一条真也の読書館『アメリカ超能力研究の真実』で紹介した本にも詳しく書かれていますが、ひと口に超能力といってもさまざまなものがあります。研究者たちは、超能力をPSI(サイ)と総称しており、これは「科学では説明できない、人間が秘める、五感を超える、潜在的、超自然的な能力や現象」を意味する代名詞とされています。そして一般的には、PSI現象は、思念などによって外部環境に影響を及ぼすPK(念力、念動、念写)、透視、テレパシー、霊感などのESP(超感覚的知覚)の2つに分類されます。

スプーン曲げに代表される念力などのPKは、現代社会において、すでに実現されているといっていいでしょう。それは何より、核の存在によります。核はどんなに遠く離れたものでも、この地球ですら一瞬で破壊することのできる強大な念力のテクノロジー化なのです。ちなみに核と並んで20世紀を象徴する道具としての宇宙船は、体外離脱のテクノロジー化でした。宇宙船が地球の重力圏から脱出して宇宙空間に出て行くことは、人類の意識が肉体である地球から体外離脱することなのです。その意味で、宇宙体験とは人類にとって臨死体験であり、神秘体験です。

核だけではなく、コンピューターもPKを実現してきています。ハッカーと呼ばれる人々は、遠く離れたコンピュータでも自由に、また相手に知られることなく操作することができます。彼らは超大国の軍事までをも思いのままに操ることによって、多くの人々を生かしも殺しもできる恐るべきPK能力者なのです。PKとともにPSI現象を構成するのがESPです。ESPの諸能力を仏教の用語を使ってわかりやすく表現すると、次のようになります。

一、 天眼通・・・・・・透視、千里眼
二、 天耳通・・・・・・千里耳(地獄耳)
三、 他心通・・・・・・テレパシー
四、 宿命通・・・・・・予知、後知
五、 神足通・・・・・・テレポート
六、 漏尽通・・・・・・悟りの境地

この中でも、ある程度は現在実現しているものがあります。漏尽通は、幽体離脱をテクノロジー化した宇宙船によって獲得することができます。宇宙飛行士の多くは宇宙で神の実在を感じ、悟りのような境地に達したといいます。重力とはあらゆる煩悩の象徴であり、そこから脱出することは悟りへ至ることなのです。ブッダはものすごい苦労をして悟りを開きましたが、無重力の宇宙空間では凡人でも悟りを開けるのかもしれません。

また、神足通は飛行機などによって、宿命通は世界中をケーブルでつながれたひとつの世界の市場とした金融テクノロジーをはじめとする情報システムによって、他心通は遠く離れた相手ともコミュニケーションが可能なインターネットや携帯電話の電子メールによって、天眼通や天耳通はテレビやラジオによって、それぞれある程度実現しています。しかし、それは未来の超人社会から見れば未熟な超能力にすぎません。これから来るAIが主役となる超情報社会において、人類は万能の超人となるのです。このわたしの言う「超人」こそ、ハラリの言う「ホモ・デウス」ではないでしょうか。

前作『サピエンス全史』に始まる著者ハラリのハラリの考え方のキーワードとして「虚構」があります。お金や国家、法人、人権といった「虚構」を信じる能力が、ホモ・サピエンスを今日の地位にまで押し上げたというのです。「虚構」は「シンボル」に通じます。哲学者エルンスト・カッシーラーは人間のことを「シンボルを操るもの」と呼びました。解剖学者の養老孟司氏は「ヒトが人である所以は、シンボル活動にある」と喝破しました。そのシンボル行為の最たるものが埋葬です。拙著『唯葬論』(サンガ文庫)で、わたしは人類は埋葬という行為によって文化を生み、人間性を発見したと述べました。人間は「ホモ・フューネラル(葬儀人)」であるというのがわたしの考えです。

人間を定義する考え方として「ホモ・サピエンス」(賢いヒト)や「ホモ・ファーベル」(工作するヒト)、「ホモ・ディメンス」(狂ったヒト)などが有名です。オランダの文化史家ヨハン・ホイジンガは「ホモ・ルーデンス」(遊ぶヒト)、ルーマニアの宗教学者ミルチア・エリアーデは「ホモ・レリギオースス」(宗教的ヒト)を提唱した。同様の言葉に「ホモ・サケル」(聖なるヒト)というものもあります。それぞれの定義は、確かに人間の持つ一面を正確にとらえていると思われれます。しかし、その本質を考えるならば、人間とは「ホモ・フューネラル」(弔う人間)であると、わたしは考えます。最初の埋葬をした瞬間、ヒトが人間になったとさえ思っています。
「すべてのものは初期設定とアップデートが重要」というのはわたしの口癖ですが、ホモ・サピエンスの初期設定を論じたのが『唯葬論』であり、アップデートを論じたのが『ホモ・デウス』かもしれません。

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