No.1608 死生観 | 民俗学・人類学 『死者と生者を結ぶネットワーク』 郷堀ヨゼフ著(上越教育大学出版会)

2018.10.04

 『生者と死者を結ぶネットワーク』郷堀ヨゼフ著(上越教育大学出版会)を読みました。「日本的死生観に基づく生き方に関する考察」というサブタイトルがついています。内容は、真面目な学術書です。

 著者は1979年チェコスロバキア(現在、チェコ共和国)生まれ。2000年にカレル大学社会科学部卒業後、2007年カレル大学哲学部門日本研究学科修了、2011年兵庫教育大学大学院連合学校教育学研究科(配属大学:上越教育大学)修了、博士(学術)取得。国際日本文化研究センター特別利用共同研究員、東北大学リサーチフェロー、上越教育大学専修研究員、上越教育大学や新潟県立看護大学等の非常勤講師を経て、現在は淑徳大学講師。主にターミナルケアについて研究しながら,医療と福祉の文化的背景を追究しています。

 アマゾンの「内容紹介」には、以下のように書かれています。
「日本の高齢者が、亡くなった大切な人とのつながりをいかに意識し、この死者に対していかなる行動をみせているかについて分析し、生者と死者を結ぶネットワークの構造やその具体的な様相を明らかにした。生者と死者とのつながりが今もなお残っていると推測される日本の村落社会に注目し、フィールドワークで得られた対象者の個人史や語りの中でリアリティとして現れる、死者とのつながりを探る。また日本的死者観を西洋文化とも比較し、日本における死者とのつながりの特徴も明確にした」

 本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はしがき」
序章 今、なぜ死者を語るのか
第一節 この本の概要
第二節 研究対象
第三節 この研究の方法について
第一章 つながり
第一節 つながりの構造および機能~本研究の理論的背景~
第二節 異界とのネットワーク~生者と死者を結ぶネットワークの構造~
第三節 生者と死者との関係性をめぐって
第二章 村落社会における生者と死者のつながり
   ~主に大正生まれ世代を対象としたフィールド調査の視点から~

第一節 死者と生者の相互作用~フィールドからみえたもの~
第二節 異界とのネットワーク~生者と死者とのつながりの有様および構造~
第三節 各世代の目でみた死者~アンケート調査を中心に~
終章 今、なぜ死者を語るのか
~比較文化研究からの問いかけ~
第一節 この研究の意義と限界
第二節 東と西の間をまたいで~東西の相違点および共通点に関する一考察~
第三節 おわりに「謝辞」「引用・参考文献」「付録」

 「はしがき」で、チェコ人である著者は、葬送儀礼や死者儀礼を軽んじる最近の日本人について以下のように述べています。
「私の生まれ育った国では多くの人びとが『今』を生きることに重きを置いています。『主体的』といえるかもしれませんし、一人ひとりの選択肢に合った生き様であるかもしれませんが、自己中心的でもあり、現世中心的でもあります。墓を持たず、葬儀を行わない家族が増え、死者の写真に話しかける人の姿をみたとしたら、精神病だと思う人がほとんどでしょう。その結果、人間関係も人生そのものもまた一人の誕生をもって始まり一人の死をもって終わってしまう短編小説になりました。受け継がれることもなければ、二度と物語られることもないという危険性を帯びています。むろん、不安の元にもなります。そして死を考える、死を受け入れる妨げにもなっていると、ホスピスやターミナルケアの関係者の多くは語っています」

 序章「今、なぜ死者を語るのか」の第二節「研究対象」では、著者は研究のフィールドワークの場として、新潟県糸魚川市旧能生町の地域を選んだ理由を述べます。真宗王国ともいわれるこの地域において、浄土真宗の強い影響にともない、葬送儀礼や死者儀礼のみならず、特有の文化背景や生活風土が生じているとして、以下のように述べています。
「死後、阿弥陀如来に救われて極楽浄土へと往生する教えを中心とした浄土真宗の門信徒いわゆる門徒は、他の宗派と比べ、盆行事などの祭祀を盛大に行わない。筆者も、『門徒もの知らず』という言葉をフィールドで何度も耳にしたことがある。たとえば重要な年中行事である盆の際に精霊棚などを設けず、迎え火や送り火などの習俗を行わない門徒が、『門徒もの知らず』と言われるようになったのであろう」

 しかし、続けて著者は、民俗学者の真野俊和氏が『民俗学的観点に基づく中域的地域システムの研究』の中で述べた以下を紹介します。
「真宗はけっして『もの知らず』なのではなく、宗教習俗の多くがこの宗教の枠のなかで構成されているため、さまざまな儀礼が入ってくる余地をもっていないだけのことなのである。むしろ真宗を特徴づけるのは、寺と門信徒のあいだの密接な関係である。彼らが寺の集会に足を運ぶ機会はおそらく他の宗派よりもずっと多いし、反対に僧侶が門信徒の家をおとずれ、仏壇の前にすわる機会についても同様であろう。他の地方では、在家に念仏講だとか庚申講などの宗教的講が発達していてもそれは寺とは無関係であり、そこに寺の僧侶がやってくることはほとんどない。いっぽう真宗の「御講」と称する宗教集会には寺で行なわれるものと在家のものとがあり、どちらにしてもかならず寺との関わりのなかではじまったものである」

 第一章「つながり」の第一節「つながりの構造および機能~本研究の理論的背景~」の第三項「日本文化的文脈の中でのつながり」では、西洋と日本の「つながり」の違いについて、西洋人である著者は以下のように述べます。
「西洋では、とくに社会科学の発展とともに健康と人間関係との関連について論じられ、看護や医療への示唆がなされてきたが、東洋では、これらの事柄は古くから知られているように思えてならない。論語をはじめ、人とのつながりの大切さを説いているものはリストアップするまでもないであろう。また、周知のとおり、日本語には『縁』という言葉がある。人と異界のつながりが意識され、独立した個々人ではなく、他人や他生との縁やつながりという関わりが日本人の考え方や生き方の根底にあると考えられる。これらはまた、『結』という言葉として現れており、稲作を主とした農耕共同体における人間関係の有様や機能を物語っている」

 第一章「つながり」の第三節「生者と死者との関係性をめぐって」の第三項「ロマンチックな死者たち~柳田民俗への批判~」として、日本民俗学の祖である柳田國男について、著者は以下のように述べます。
「晩年の柳田がまとめた『先祖の話』や『魂の行くへ』は決して無視できない批判を受けてきた。客観性を求め、証拠や民俗事例を踏まえながら、慎重に考察を進めようとした柳田の学術姿勢を認めている桜井や福田でさえ、15年間にわたる戦争の影響を受けた柳田は日本の将来、国民の再生を視野に、理想論に近い形で上記の論文を仕上げたのではないか、と述べている。また、柳田自身の主観と民俗的現象が混在している、と山折は強調している。同様に、桜井は、柳田の切実な思いと共に、誰もが高齢期に入ると死や宗教への関心が高まるのと同じように、晩年の柳田自身の死霊観・他界観も彼の論証に映し出されている、と述べている。それに加え、日本人のイメージする神の本質とは先祖であり、正月の神も田の神も盆に去来するのも先祖であるという柳田の論証には、無理があり、検討の余地が大きい、と福田は批判している。さらに、柳田の説を受け入れ、評価している梅原も、基層文化に関して考察する際に、沖縄に注目した柳田が、アイヌの文化、または稲作をもたらした弥生時代以前の縄文文化の影響を見落としている、と指摘している」
 と、桜井徳太郎、福田アジオ、山折哲雄、梅原猛らの柳田への批判的見解を紹介しています。

 日本では、2009年、脳死が認められた時の臓器提供を可能にする法律がようやく成立しました。これに関連し、池波恵美子やカール・ベッカーらの言説を借りて、著者は「それまでは、遺体への執着、遺体を重視する文化が要因で、日本人は脳死後の臓器提供に反対している、と説明されてきた」として、さらに以下のように述べます。
「また、異国で戦死した日本兵の遺骨への関心が挙げられる。それに、山や海で遭難した場合、異国の捜索チームは諦めても、日本人だけが探し続けており、生存している可能性がもはやないにもかかわらず、遭難者の遺体を探し求めるというのも、遺体・遺骨へのそうした関心を象徴するものとしてしばしば取り上げられている」

 この遺体・遺骨を対象とした信仰はどこからきたのかについて独自の学説を用意したのが、中国哲学者の加地伸行氏でした。加地氏は『沈黙の宗教――儒教』(筑摩書房)において、遺体・遺骨信仰は元々日本列島にはなかったものであるが、儒教と共に中国から渡ってきたと分析しています。また、加地氏は、「草葉の陰から見守る」先祖、つまり死者の魂はこの国に留まり、遠くへは行かないという柳田の提唱した学説を否定しません。

 著者は「柳田の考えた日本人の死生観、生者と死者との交流には、儒教の影響が反映されている、と加地は繰り返して強調している。それに加えて、霊的次元のみならず、魂魄、とりわけ肉体の次元も重要であるということである。これまで述べてきたように、土着宗教を含む日本の基層文化、仏教、それにスミスが論じる国家神道や明治憲法の影響のほかに、儒教も重要な要因であり、日本人の死生観、日本人がもつ生者と死者との関わりに関する意識や感情を形成しているということになる」と述べるのでした。チェコという西洋生まれのキリスト教文化圏の中で生まれ、育ってきた著者が指摘する日本人の死生観は、わたしたち日本人が無意識のうちに持っていた「こころ」を外からの視線で浮かび上がらせてくれたように思います。

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