No.1607 宗教・精神世界 | 死生観 『死で終わるいのちは無い』 三橋尚伸著(ぷねうま舎)

2018.10.03

 『死で終わるいのちは無い』三橋尚伸著(ぷねうま舎)を読みました。
 「死者と生者の交差点に立って」というサブタイトルがついています。
 著者は1949年東京生まれの真宗大谷派僧侶・産業カウンセラーです。1988年東京大谷専修学院修了。真宗大谷派にて得度。心身の病に苦しむ人びととの長年の交流を通じて、企業、官公庁、医療界、仏教界などで講演、研修を行うとともに、僧侶カウンセラーとして医療現場にもかかわる。メンタルレスキュー協会会員、医療リスク・マネージャー、日本カウンセリング学会会員。本書の帯には「死ねば『無だ』なんて、いったい誰が言ったの?」として、「女性僧侶にして産業カウンセラーの著者が、死と生が交錯する風景に立って考えるなぜ、死は恐怖の対象なのか。恐山、伏見稲荷、モンゴル草原で聞いた、死の調べ。死とは生者を映し出す鏡、『死』のイメージとは生者が産んだ妄想だった」と書かれています。

 また、アマゾンの「内容紹介」には以下のように書かれています。
■恐山、伏見稲荷、モンゴル草原、三つのトポスをゆく生と死の回廊めぐり。僧侶として、末期のガン患者や精神を病んだ人びとと向き合ってきた経験から生まれた、肩の凝らない、それでいて年輪の刻まれた死との対話。
■光が影をつくる、死があるから生は輝く。なのになぜ、死は誰にとっても
恐怖の対象なのか。死は終わりではない。気がつけば、死者たちはいつも語りかけているし、働いている。三つの場所で、死者たちの声に耳を澄ます。決して神秘でも、オカルトでも、祟りでもない、死者と生者が交差する姿がそこにあった。
■死とは生の鏡、「死」のイメージとは生が産んだ妄想だ。死と生とをひとつに結ぶもの、それこそが死者と生者の、死者と死者のつながりだった。

 本書の「目次」は以下のようになっています。
序章 死者と生者の交差点
黄の章 恐山 死者とともに生きる
死の衝動にひそむもの
死者とつながり、生者がよみがえる
赤の章 伏見稲荷 過去を赦す毒
狐の宴会と太い光の氾濫
天翔るダーキーニー(荼吉尼天)
密教 生と死の宇宙図
青の章 モンゴル草原 あるがままの生と死
いのちと交わる
処分されるいのち
はるかなるモンゴル
ホンゴル・モリ
あるがままの生と死
終章 いのちの操作場

 序章「死者と生者の交差点」の冒頭を、著者はこう書きだしています。
「交差点の真ん中に、自分が立っている状況を想像してほしい。周囲には、右からくる人、走って向こう側に渡ろうとする人、左からは、2人連れで通り過ぎる人……。大きな交差点なら、数えきれないほどの人びとが行きかっているだろう。私たちの視界に入ってくるのは、生きて歩いている者の姿だけである。生きている者だけが存在し、目に見えるモノだけが事実であると思ってもいる。しかし交差点で行き来するのは、生者だけではない。もしも交差点の向こうからこちらに向かってやってくる死者に気づかなければ、自分とともに同じ方向に向かって歩いている死者にも気づかないだろう」

 また、わたしたちはよく「生者と死者」という言い方をしますが、これについて著者は次のように述べます。
「陽と陰、生者と死者。この並びの順番は、私には違和感がある。陰と陽、死者と生者という順の方が、私にはしっくりくる。仏教の僧侶でありつつ、心理カウンセラーとして、死者と生者、陰と陽の交錯する場面に、少しの距離を置きながら立ち会うことが多いからなのだろうか。私はいつも交差点の真ん中の、少し浮き上がった空中に立っているような感じに浸されながら、日常を過ごしている。足は大地をしっかりと踏んでいるわけではないから、なんとなくふわふわ、ゆらゆらと漂って、そこにいる感じなのである」

 黄の章「恐山 死者とともに生きる」の「死者とつながり、生者がよみがえる」では、大切な人が亡くなったという事実を、死者という実在に転換して納得する道を歩ませてくれるのが恐山であるとして、著者は述べます。
「事実をなかったことにして自分を無理矢理おさめてゆくのではなく、『転ずる』という救われ方があるのだ。喪失という概念的な苦しみを感じながらも、死者という実在とかかわることによって、初めて苦しみの意味が変わる。ただただ失ったのではなく、それは苦しく切ないことだけれど、自由に思い出すことも、成長させることも、そしてのちには仏として自分を導いてくれる、喜びの存在にまで昇華させることもできる。実在とつながる具体的な行為が、苦しみから人を解放している」

 とかく恐山は、おどろおどろしいイメージに満ちています。しかし、著者は恐山について以下のように述べています。
「世間で言う、霊だのスピリチュアルだの、よくわからないこととは別にして、恐山は死者が集まる場所というより、生者が死者という実在を自分の手に取り戻して強固につながり、思う存分供養できる場所なのだ。言い換えると、生者の想いが形を与えられ、具現される場所、そしてその方法は、具体的な行動によって死者という実在とつながり、死者を少しでも手触りを伴った実存にするということである」

 有名なイタコの口寄せについては、著者は「イタコの口寄せは、その具体的な行動の一部として働いており、そこで語られる死者からの言葉という物語は、事柄としての事実ではないかもしれないけれど、物語は『意味と真実』を示唆してくれるものだ。私たちは、これによって救われることがある。恐山には、どれも物語に必要なものが揃っていて、ここに私たちは身を投じ、物語を生きることができるのである。そして、壮大な物語に救われてゆく」と述べています。

 終章「いのちの操作場」では、著者は以下のように述べます。
「あなたは自分が生まれたときの苦しみを、覚えているだろうか。何時間もの間、狭い産道を窒息しそうな状態で降りてくるのは、たぶん苦しかったのだと思うけれど、私たちは何も覚えていない。恐らく死ぬときも、私たちの意識には何も残らないままなのだろう、と私は想像している」
 これは、とても説得力がある言葉ですね。

 そして、著者は以下のように述べるのでした。
「傍らから見える表情には、ときには苦悶が見てとれることもあるだろうけれど、私たちの脳内には麻薬とよく似た物質が出ているので、本当は何も苦痛は感じていないのだという説もある。脳内麻薬と呼ばれている20種類ほどの物質で、ふだんから脳内に自然状態で分布しており、その中の代表的なものには、β‐エンドルフィン、ドーパミンなどがある。肉体的苦痛を感じたときに自動的に脳内に放出されるβ‐エンドルフィンの鎮痛効果は、モルヒネの6.5倍と言われているほど強力なのだそうだ。生き物は、このように実に繊細に巧みに作られているのだから、私たちは、後のことも先のことも、何も憂うことはないのだ」

 本書を読んだわたしは、「死は最大の平等である」というわが信条を再確認しました。世界中に数多く存在する、死に臨んで奇跡的に命を取り戻した人々、すなわち臨死体験者たちは共通の体験を報告しています。死んだときに自分と自分を取り巻く医師や看護婦の姿が上の方から見えた。それからトンネルのようなものをくぐって行くと光の生命に出会い、花が咲き乱れている明るい場所が現れたりする。さらに先に死んでしまった親や恋人など、自分を愛してくれた人に再会する。そして重大なことは、人生でおかした過ちを処罰されるような体験は少ないこと、息を吹き返してからは死に対して恐怖心を抱かなくなったというようなことが主な内容です。そして、いずれの臨死体験者たちも、死んでいるあいだは非常に強い幸福感で包まれたと報告しています。この強い幸福感は、心理学者マズローの唱える「至高体験」であり、宗教家およびロマン主義文学者たちの「神秘体験」、宇宙飛行士たちの「宇宙体験」にも通じるものです。

 いずれの体験においても、おそらく脳のなかで幸福感をつくるとされるβエンドルフィンが大量に分泌されているのでしょう。臨死体験については、まぎれもない霊的な真実だという説と、死の苦痛から逃れるために脳がつくりだした幻覚だという説があります。しかし、いずれの説が正しいにせよ、人が死ぬときに強烈な幸福感に包まれるということは間違いないわけです。しかも、どんな死に方をするにせよ、です。こんなすごい平等が他にあるでしょうか! まさしく、死は最大の平等です。

 日本人は人が死ぬと「不幸があった」などと馬鹿なことを言いますが、死んだ当人が幸福感に浸っているとしたら、こんなに愉快な話はありません。サンレーグループでは、日々お世話させていただくすべての葬儀が「人類平等」という崇高な理念を実現する営みであるととらえ、サービスに努めています。

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