No.1594 プロレス・格闘技・武道 | 評伝・自伝 『添野義二 極真鎮魂歌』 小島一志著(新潮社)

2018.09.05

 『添野義二 極真鎮魂歌』小島一志著(新潮社)を読みました。
 「大山倍達外伝」というサブタイトルがついています。著者は栃木県生まれ。早稲田大学商学部卒業。株式会社夢現舎(オフィス Mugen)代表取締役。「月刊空手道」「月刊武道空手」元編集長。講道館柔道、極真会館空手道などの有段者です。

   本書の帯

 本書は、この読書館でも紹介したノンフィクション『大山倍達正伝』『大山倍達の遺言』『芦原英幸正伝』の続編ともいえる内容です。本書とあわせて、「極真空手四部作」と呼んでもいいでしょう。本書の帯には、「”極真の猛虎”が死ぬ前にどうしても書き残しておきたかったこと―。」と書かれています。基本的に添野義二氏の語りと小島一志氏の説明が交互に掲載されています。

   本書の帯の裏

 本書の「目次」は以下のようになっています。

「はじめに」
 序章 別れ
第一章 大山倍達との出逢い
第二章 キックボクシング参戦
第三章 第一回全日本大会と梶原一騎
第四章 世界大会と武道館問題、そして少林寺襲撃事件
第五章 幻のクーデター計画
第六章 映画を巡る大山と梶原の確執
第七章 「プロ空手」への渇望と挫折
第八章 ウィリーの暴走劇とプロレスへの接近
第九章 ウィリー猪木戦、地に堕ちた極真との決別
終 章 されど、いまだ道半ば
「おわりに」
「参考資料・文献」

 著者の小島氏ですが、ネットなどで見ると何かと毀誉褒貶の激しい人物のようです。しかし、その筆力は大したもので、本書は抜群に面白かったです。500ページ近い大冊ながら一晩で一気に読了しました。師・大山倍達の素顔から、笹川良一との対立の真相、統一教会や勝共連合との関係、少林寺拳法との全面戦争、第一回全日本選手権、梶原一騎と極真空手の真の関係、そして熊殺しウィリー・ウイリアムスの世界大会暴走反則やアントニオ猪木との格闘技戦まで・・・・・・大山倍達の「鉄砲玉」として極真空手のさまざまな事件で体を張り続けた歴史の生き証人が、すべてを明かした回顧録です。わたしも初めて知った事実が多く、驚愕の連続でした。

 本書の主人公である添野義二とは、いかなる人物か。
 1949年生まれの空手家(士道館九段)・キックボクサーであり、世界空手道連盟士道館館長・キックボクシング「そえのジム」会長。極真会館出身で、「城西の虎」「極真の猛虎」などの異名を持ち、ライバルの山崎照朝と共に「極真の龍虎」と呼ばれていました。自らが立ち上げた士道館の名は、添野氏が尊敬する土方歳三の「士道に背くまじきこと」という言葉に由来します。

 「はじめに」で、著者の小島氏は「生前、大山は極真会館を離れた元弟子を徹底的に罵倒した。特に芦原英幸と添野義二の二人は、まるで重罪を犯した罪人のような扱い方だった」と書いています。
 罵倒される理由がまったく理不尽なものであると思った添野は、当然ながら大山倍達に対して憤りを感じていましたが、それが格段に強くなったきっかけは梶原一騎の死であったそうです。梶原は大山と並んで、添野にとっての最大の師といっていい存在だったそうですが、序章「別れ」には以下のように書かれています。

「梶原先生は劇症膵臓炎という過酷で厳しい病魔と闘った末、1987年1月21日、五十余年の人生に幕を下ろした。梶原先生といえば、大山館長にとっても計り知れない恩人であることは誰もが認めるだろう。一時は互いを『義兄弟』と呼び合い、極真会館の栄華は梶原先生なしには百パーセントありえなかった」

 続いて、本書には以下のように書かれています。

「梶原先生の葬儀には出版関係者はもちろん、多くの格闘技関係者が列をなした。だがそこに大山倍達の姿は最後までなかった。人間にとって社会で生きる以上、最も大切なことは『義』ではないだろうか。であるならば人生の大きな節目にあたる冠婚葬祭において『義』を外す行為は許されない。なのに、大山館長は梶原先生の死に対し、なんら追悼の『義』を果たしていない。私は思った。この人は十年前と何も変わっていないのだ。利用する価値があればすり寄って、価値がなくなれば簡単に捨てる。その人間の最後を看取ることに興味さえないのだ」

 この一文を読んで、わたしは添野氏に大いに共感しました。

 「空手バカ一代」の異名で知られる大山倍達とはいかなる人物だったのか。第一章「大山倍達との出逢い」では、「大山倍達とのふれあい」として、添野氏の言葉が以下のように述べられています。

「大山倍達というと誰もが『最強の空手家』と言い、『牛を殺した』とか『熊と戦った』などという話題になる。だが大山館長と実際に拳を交えた経験を持つ人間はそう多くないに違いない。アメリカ遠征の武勇伝は大山館長の著書や劇画でも知られるが、アメリカではたとえ空手普及が目的であったとしても、活躍した舞台はほとんどがプロレスだった事実が明らかになりつつある(『大山倍達正伝』)。プロレスを貶めるつもりはない。私自身ものちにプロレスの世界と関わりを持つことになるわけで、空手とプロレスに強さの優劣をつけること自体が間違っている。『マラソンと競歩』『テニスとバドミントン』を比べるようなものである。その意味で空手家・大山倍達と実際に組手で戦った人間は決して多くないということである。幸いにも私は大山館長が『実戦家』として現役を退く前に入門した」

 それでは、大山倍達は本当は弱かったのか。そんな疑問を添野氏はきっぱりと否定し、さらに以下のように述べています。

「現在、『極真空手』または極真会館の亜流団体を名乗る人たちの多くが大山館長との組手について肯定的に語らない。いわく『技云々より、とにかく打たれ強さでは誰もかなわない』とか、『大山館長が組手で蹴りを出すのを見たことがない』といった具合である。それは大間違いだと私は断言しておきたい。たとえ私が白帯だろうが茶帯だろうが、毎日のように稽古していればその人間の力量というものが自ずと見えてくる。私が大山館長に手合せをお願いしたとき、ふと気づいたら館長が実際よりも三倍も五倍も大きく、まるで大仏のように見えた。突きを出しても小指で弾かれる。蹴りを繰り出しても膝で返される。たしか大山館長が四十を過ぎた頃だった。我々門下生が束になって攻めても、全員ノバされていたに違いない。大山館長の組手の実力に対して懐疑的な人は、私のような経験がない『新参者』だと言っておく」

 第二章「キックボクシング参戦」では、1960年代の後半にキックボクシング・ブームが起こったとき、極真会館も参戦したようすが描かれています。1967年、TBSテレビ系列で「キックボクシング」放映が開始され、沢村忠が最強のスターとして脚光を浴びます。
 しかし、それを苦々しく思った大山倍達は以下のように語ったそうです。

「あんな沢村なんて、ちょっと寸止めの学生空手をかじっただけの男じゃないか。学生空手チャンピオンなんて売り文句は根も葉もないウソだし、山口(剛玄)先生の道場で剛柔流の真似ごとをしたたけの男がなんで連戦連勝なの。何が”真空飛び膝蹴り”なの。みんな八百長よ」

 さらに大山倍達は「あのね、私もタイでムエタイと戦ったり稽古もしたから分かるのよ。沢村たち日本人選手の相手をして負け役を演じているのは、ほとんどムエタイを知らないタイの留学生たちなのよ。それでもムエタイはタイの国技だから、負け役の選手たちも本気でやったら沢村なんて一発で吹き飛んでしまうよ」と語りました。そして、1964年に極真空手の黒崎健時、中村忠、藤平昭雄の3人をタイに派遣し、ムエタイと戦わせたのです。中村と藤平の2人は勝ちましたが、強豪選手を相手にした黒崎は負けました。しかし、その黒崎がその後、目白ジム会長として藤原敏男や島三雄といった日本キック界に残る名選手たちを育てていくことになります。

 プロ用の「極真ジム」を作った大山倍達は、キックボクシングだけでなく、プロ空手にも進出しようとします。このあたりについては、添野氏が以下のように述べています。

「極真会館はアマチュアの空手団体であり、極真ジムはプロのキックボクサーを養成する機関だというのが大山館長の理屈だった。かつて木村政彦先生がはじめた『プロ柔道』への憧憬が大山館長を『プロ空手』創設に突き動かしていたのは明白だった。ムエタイ、キックボクシングがそのままプロ空手を体現するものだと大山館長が考えていたかどうか、今となっては分からない。しかしキックボクシングへの積極的な接近から、それがプロ空手への第一歩であると館長が思っていたことは間違いないだろう」

 大山倍達の理想は、ある意味で後のK-1で実現したのかもしれません。
 しかし、1990年代後半、全盛期のK-1に極真空手のトップ選手たちが次々に挑戦しました。ところが、彼らの成績は期待を大きく裏切り、敗戦が相次ぐ結果となりました。添野氏は以下のように述べています。

「たとえ空手のチャンピオンクラスといえども、K-1のリングで強豪クラスと戦うとなれば、最短でも1年間のトレーニングが必要になる。(中略)ウィリー・ウィリアムスがプロレスのリングに上がろうと決心したとき、彼は2年近くキックボクシングルールのトレーニングに打ち込んだ。『鬼の黒崎』と異名を取った黒崎師範のもと、藤原敏男さんと同様の特訓を繰り返した。同時に空手の稽古を怠ることもなかった。ウィリーに比べると、いかにフィリオのK-1参戦が杜撰な計画のもとに行なわれたのか?……極真OBの一人として、いまも怒りが収まらない」

 第三章「第一回全日本大会と梶原一騎」では、大山倍達および極真会館の巨大なファンタジーを生んだ漫画『空手バカ一代』について言及されます。実際の大山倍達は『空手バカ一代』の中で八面六臂の活躍をする「大山倍達」とはまったくの別人だったと指摘した上で、添野氏は述べます。

「もちろん、梶原先生は大山館長に媚びたわけではない。
 『ヒーローものはヒーローらしく描くのが基本、ヒーローが普通の人間だったら、面白くも何ともない』
 それは梶原先生自身が何度も私に言った言葉だ。何よりも作品としての質を重んじ、商業的成功を収めるための手段ということだ。特に漫画や劇画の世界では、人間離れした能力を持つヒーローの存在が不可欠であり、大山館長を描く以前、力道山や沢村忠を主人公にした作品も書いてきたが、いずれもスーパーマンのように描かれていた。力道山は人間性に病的な欠陥があったし、沢村忠は八百長選手に過ぎないことを梶原先生は当然、知っていた。
 『大山さんも劇画の世界では〈ゴッドハンド〉と呼ぶように、神様でいいんだ』
 梶原先生はよく笑っていた。プロの物書きとして梶原先生は割り切っていたのである。梶原先生の手法や姿勢について誰が文句を言えよう」

 梶原一騎には真樹日佐夫という弟がいました。
 ともに大山倍達の「義兄弟」となりましたが、決裂後は極真関係者から罵倒されることになります。小島氏は「梶原も真樹も、ともに外見が異様過ぎた。決して偏見ではなく、彼らの姿を初めて見た人は、その百パーセントが『ヤクザ』『暴力団員』と疑ったはずだ。この二人のギャングスタイルが極真関係者を過剰に刺激した」と指摘し、さらに次のように述べています。

「大山と梶原の関係を、『両雄並び立たず』と表現する者が多い。だが、1980年前後の『空気』を吸った私にとって、それは穿ち過ぎとしか言えない。全ては梶原が生んだ『空手バカ一代』が原点であり、その帰結でもある。『空手バカ一代』は現実の実在する人物を挿入し、それを『虚構』でありながらも『実話』として描いた。その結果、原作者である梶原が『現実』の主導権を掌中にした。何故なら、読者のほとんどは梶原が描く『虚構』を『現実』として受け取るからだ。主人公であるはずの大山倍達は、必然的に梶原が描く『虚構』のなかで『役者』を演じなければならなくなる。強烈な自我を持つ大山に、それは堪え難いことだった。その不満の噴出が、梶原との軋轢を生んだ。私はそう理解する」

 『空手バカ一代』の連載を終了させた後、梶原一騎は『四角いジャングル』の連載を開始します。第四章「世界大会と武道館問題、そして少林寺襲撃事件」では、添野氏は以下のように述べています。

「『四角いジャングル』によって、舞台は極真会館を中心にしながらもキックボクシングやプロレスなど、広く格闘技界をカバーするようになった。このことからも『空手バカ一代』と異なり、『四角いジャングル』のシナリオは梶原先生主導に変わっていったことが分かるだろう。極真空手に関するエピソードは多いものの、大山館長の出番は極端に減っていった。
 ただ、これだけは絶対に忘れてはならない。『空手バカ一代』『四角いジャングル』ともに、劇画内の私たちは実物でなくフィクションだということだ。それは十分に理解しているのだが、その虚実の間に私たちは戸惑った。本当の自分と劇画のなかの自分は、どこからどこまでが同じなのか? どこからどこまでが違うのか? それとも劇画の添野義二は何もかも虚像なのか? 本人でさえ混乱することがしばしばだった。芦原先輩はよく、『本物はアシハラ。漫画はアシワラ。どっかにちゃんとした一線を引いておけばいいんよ』と笑っていたが、実際は私同様、随分迷っていたに違いない。一歩間違えば『やらせ』や『仕掛け』と受け取られてしまいかねない極真内の出来事も、梶原先生の『魔法』によって摩訶不思議な現実味を帯びることになった。私はジャングルに迷い込んだような気持ちだった」

 第四章「世界大会と武道館問題、そして少林寺襲撃事件」では、1975年11月、さまざまな問題を抱えながらも、極真の第一回世界大会が大成功のうちに幕を閉じたことが紹介されます。前々年の10月からNET系列で「空手バカ一代」のテレビアニメも定期放映されており、「極真空手ブーム」は最盛期を迎えていたのです。しかし、その裏では、虚飾のヒーローを演出したり、それゆえに八百長試合さえ仕掛けるという闇の面があったといいます。添野氏は以下のように述べています。

「私は真剣勝負であるべき極真空手のなかに、八百長臭い仕掛けなど断じてあってはならないと思っている。敵的に多くの試合をこなし、観客を沸かせることが求められる『プロ格闘技』ならば多くの場合、何らかの仕掛けが行なわれる。そうでなければ選手たちの身体が保たないからだ。要するに『プロ格闘技』はエンターテインメントである。キックボクシングであれば、観客はKO勝ちを期待するし、大相撲でも大技を要求する。それに応じるには、俗に『八百長』と呼ばれる約束行為が不可欠にならざるを得ない。それが『プロ格闘技』の宿命なのだ」

 続けて、添野氏は極真空手について述べるのでした。

「しかし極真空手はプロではない。プロかアマチュアかの問題以前に、極真空手は断じて『武道空手』でなければならないし、また『実戦空手』として追求するべきものでなければならない。たとえ競技化することでルールに規制が入ろうとも、基本的な姿勢さえ押さえておくならば、大山館長が言うように極真空手は永遠に最強であり続けることができる、と私は信じていた。
 にもかかわらず、大山館長は第一回世界大会において外国選手への下段蹴りを封印するという『八百長』を命じたのだ。そして大山館長の意を受けて、大山兄弟と中村師範はそれを実行に移した。彼らにはそれしか道がなかったのだ。私には、彼らの苦悩が痛いほどよく分かった」

 小島氏も著書『大山倍達正伝』の内容を引きながら、こう述べています。

「『空手バカ一代』の原点は1955年2月、『京都新聞』に連載された大山自身によるエッセイ『手刀十年』と、その前後の『オール讀物』や『週刊サンケイ』の大山倍達特集のなかで語った大山の言葉にある。
 大山は稀代の虚言家であるだけでなく、とてつもない発想力を持った構成作家でもあった。その天才的なアイデアマンぶりは、梶原を凌ぐと言ってもいいだろう。単身アメリカに渡り、プロレスのリングやサーカスの舞台に上がりながら、決してプロレスラーに転身すること無く『空手家』として幾つもの伝説を築いて帰国した。その点に関しては相撲の力道山、柔道の木村政彦、遠藤幸吉らでも遥かに及ばない特異なエンターテインメント能力を有する人物だった。そんな大山の演出力が現れたのが、第五回全日本大会の富樫宜資であり、第一回世界大会のウイリアム・オリバーだった。もちろん、パリ大会で敗退した全日本空手道連盟・日本選手団に対する記者会見もそれらの一環である」

 第八章「ウィリーの暴走劇とプロレスへの接近」では、極真がついに決定的な八百長に手を染める場面がリアルに描かれています。1979年11月23日に開催された第二回世界大会において、優勝候補の筆頭とされたウィリー・ウィリアムスが三瓶啓二を相手に謎の反則負けとなります。ウィリーはアントニオ猪木との異種格闘技戦が予定されていました。添野氏は以下のように述べています。

「ウィリーは八百長試合を演じ、それに私は加担し、大会は実力で三瓶を下した中村誠が優勝。本家日本の威信は守られ、前大会同様、大山館長は腹を切らずに済んだ。閉会式、そしてレセプションパーティーと行事が続くなか、大山館長は終始満面の笑顔を見せていた。私は耐えに耐えた。しかし、帰りの車のなか、私はひとり泣いた。叫ぶように、声が嗄れるまで私は大声で泣き叫んだ。私は思った。〈俺の信じる極真空手は終わった。俺が師と仰いだ大山倍達は最低最悪の詐欺師なのだ〉」

 「熊殺し」の異名を持つウィリーについて、小島氏は次のように述べます。

「あのときのウィリー・ウィリアムスは強かった。
 極真会館ではナンバー・ワンであった。他流試合や異種格闘技を含めても、圧倒的な強さを誇る空手家である。地上最強の空手家である。極真空手の歴史を繙いても、彼に勝る外国人選手は皆無だったと私は確信している。古くはハワード・コリンズ、アデミール・コスタ、のちのフランシスコ・フィリオ、アレハンドロ。ナバロ・・・・・・。彼らは『試合場』では確かに強かった。技術的完成度も高かった。しかし彼らには、ウィリーが漂わせる『野生の気高さ』がなかった。ウィリー・ウィリアムスは『試合』を目指すアスリートではない。闘うことを宿命づけられた猛獣なのだ。いかなる状況でも、ウィリーが負けることは想像出来ない」

 そして、1980年2月27日、蔵前国技館でアントニオ猪木とウィリー・ウィリアムスの異種格闘技戦が行われました。「プロレスvs空手」の世紀の一戦と話題になった試合ですが、正直言って、わたしは当時、猪木の対戦相手がウィリーということに少し不満を持っていました。というのも、ウィリーには空手界最強の証がなかったからです。これまでの猪木の異種格闘技戦の相手でいえば、ルスカには柔道オリンピック金メダリスト、アリにはプロボクシング世界ヘビー級チャンピオンという実績がありました。彼は間違いなく柔道やボクシングを代表する選手でしたが、ウィリーにはそのような実績がなかった。そこが猪木信者だったわたしには不満だったのです。でも、本書を読んで、ウィリーは最強の空手家であり、大山倍達が八百長さえさせなければ、確実に世界王者となっていたことを知りました。

 その猪木vsウィリー戦ですが、試合そのものよりもセコンド同士の乱闘が大きな話題になりました。新日本プロレスの選手と添野氏率いる空手勢が揉み合い、リング下に落ちたとき、猪木はウィリーのセコンドから暴行を受けたなどと伝えられました。実際はどうだったのでしょうか。第九章「ウィリー猪木戦、地に堕ちた極真との決別」で、添野氏が当時を振り返ります。

「また場外乱闘だ。私はドサクサに紛れて猪木に近付いた。二人のすぐ近くに(大山)茂師範と黒崎師範がいた。リング下では、猪木の腕十字固めがウィリーの右腕を捉えていた。私は猪木に向かって渾身の蹴りを放とうとした。そのとき誰かが、私の後ろ衿を引っ張った異様なチカラに私は驚いた。振り向くと、それは黒崎師範だった。
 黒崎師範は首を横に振りながら言った。
 『極まってねえよ。ウィリーの腕には余裕がある。二人の試合に他のもんは手を出すな。半可もんのレスラーが何をしてくるか分からん。ヤツらを見張っててくれ』
 戸惑う私に茂師範が言った。
 『大丈夫だ。猪木はビビってるよ。ウィリーを潰すなんて度胸はサラサラないよ。ここは俺たちが守っている。お前は新間を探せ』
 今度こそドクターストップだという。
 場内アナウンサーは、猪木はウィリーの膝蹴りで肋骨を骨折し、ウィリーは猪木の腕十字固めで肘関節を痛めたと言った」

 猪木vsアリ戦の真相について書かれた本は多いですが、本書は猪木vsウィリー戦の真相について書かれた貴重な文献であると言えるでしょう。

 この試合の後、添野氏は極真サイドから徹底的に排除されるようになり、試合の半年後にはなんと逮捕されました。「この逮捕劇の黒幕が大山館長であることは最初から分かっていた」という添野氏は次のように述べます。

「私を排除する決定的な理由は、半年前のウィリーと猪木戦での私の行動にある。猪木と新間を再起不能にせよ、梶原と黒崎を殺せ・・・・・・そんな館長の命令を反故にしたしたからである。そしてそれは、大山倍達という人間の本性を私が知ってしまったことを意味する。どうしても隠しておかなければならない『素顔』、武道家つまり『昭和の宮本武蔵』としての『虚像』を守るため、私は邪魔な存在だった。
 いつもの館長らしいやり方だった。自分は決して表に出ない。弟子たちを使って私に対する悪い噂を流させる。疑心暗鬼に陥る支部長たちをさらに煽る。ちょうどこの時期、梶原先生への攻撃も激しさを増していた。わざわざ支部長たちを動かし、全国の支部長たちに梶原兄弟との絶縁を促す嘆願書を書かせ、あくまでも支部長たちが梶原先生と極真会館・大山館長の付き合いに反対だというカタチにする。つまりは弟子たちによる館長への『直訴』だが、こんなものは極真会館という大山倍達の独裁体制にあって何の意味もない。『直訴』に意味を持たせるのも、無視するのも館長のさじ加減ひとつなのだ」

 本書の冒頭で、著者は「大山倍達に対する憤りが大きくなったのは、恩人である梶原一騎の葬儀に顔を出さなかったからだ」と述べました。では、大山倍達自身の葬儀はどうだったのでしょうか。添野氏は述べます。

「とにかく通夜の運営は信じられないほど杜撰だった。ちゃんとした葬儀屋に委託していたのかとさえ、私は疑った。香典を持っていったが、香典返しもない。香典がなくなったという噂もその場で流れるほど、とにかく、こんなだらしのない通夜を私は知らない。未亡人の智弥子夫人はまるで惚けたように笑っているし、彼女を守るべき三人の娘の姿はどこにもなかった」

 梶原一騎の葬儀と大山倍達の葬儀・・・・・・。
 この二つの葬儀に関するくだりを読んで、わたしは2つのことを思いました。

 まず、いくら確執があったとはいえ、恩人の葬儀に顔を出さないのは武道家の風上にも置けないということ。武道とは「礼に始まり、礼に終わる」もの。その礼の最たる場面こそ葬儀です。大山倍達の出自は今では有名ですが、儒教の盛んな朝鮮半島の出身者ならば、葬儀に最大の価値を置くはず。
 それから、極真会館の創設者であった大山倍達の葬儀が香典返しも出さず、香典泥棒も現れるほどの杜撰なものであったと知り、その後の極真分裂騒動の原因はここに在ったのではないかと思いました。この読書館でも紹介した『社葬の経営人類学』に詳しく書かれていますが、会社や団体の長の葬儀というのは故人の後継者を万人に示す場であり、それがいいかげんに行なわれたということは、その後の組織に未来はありません。

 「ケンカ十段」芦原英幸と「極真の猛虎」添野義二は、ともに梶原一騎から気に入られ、『空手バカ一代』の中でヒーローとして描かれました。そのことに嫉妬した大山倍達から憎まれ、排除された彼らは、師である大山を恨みます。本書にも彼らの大山批判の発言がたくさん紹介されていますが、終章「されど、いまだ道半ば」で添野氏は以下のように述べています。

「結局、私も芦原先輩も大山倍達という『大仏』の『手の平』で飛び回る『孫悟空』のようなものなのかもしれない。どんなに不満を言おうが、いかに批判しようが、悪態をつこうが、唾を吐こうが、全て自分に跳ね返ってくるのだ。逃れようとももがいても、大山館長の『手の平』から解放されることはない。私にとっても大山館長は永遠の『師』であり『親』であり、『仏』なのだ」

 そして、添野氏は以下のように述べるのでした。

「私は大山館長が荼毘に付された後、智弥子夫人から手の平に載るくらいのお骨を分骨して頂いた。以来、私は大山館長のお骨を肌身離さず生きてきた。事情を知らない大山倍達ファンは、この作品を読んで何度も怒り、私を憎んだに違いない。私はそんな怒りや罵倒を喜んで受けとめたい。何故ならそれらの感情は、大山館長に対する私情や憧れの表れだからだ。私は毎日毎日、ぶつぶつとひねくれながら大山館長に甘えている、出来損ないの『ヤンチャ坊主』なのだ」

 往年の極真空手に憧れたわたしとしては、本書の内容は非常にショッキングなものでした。そして、大山倍達の「虚像」と「実像」のあまりの乖離ぶりに虚しさを感じましたが、最後の添野氏の発言で救われた気がしました。

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