No.1591 小説・詩歌 『送り火』 高橋弘希著(文藝春秋)

2018.09.01


 『送り火』高橋弘希著(文藝春秋)を読みました。
 芥川賞を受賞した話題の小説です。わたしは芥川賞や直木賞の受賞作品をすぐに読まない主義なのですが、今回だけは「送り火」というタイトルに惹かれて、早速読みました。重松清氏の傑作短篇集『送り火』を連想したのと、「先祖供養をテーマとした作品かな?」と思ったからです。

   本書の帯

 著者は2014年、「指の骨」で新潮新人賞を受賞し、同作で芥川賞と三島賞の候補となっています。17年、『日曜日の人々(サンデー・ピープル)』で野間文芸新人賞受賞。本書の帯には、「第159回 芥川賞受賞作!」と大書され、「東京から山間の町へ引っ越した中学三年生の歩。あの夏、少年たちは暴力の果てに何を見たのか―」

本書の帯の裏

 また帯の裏には、以下のように書かれています。

「これはいったい何だろうと思う。夢の芽がすくすくと成長し、緑葉を茂らせ撓わに暴力を実らせている。でも歩にはもう、目の前の光景が暴力にも見えない。黄色い眩暈の中で、ただよく分からない人間達が蠢き、よく分からない遊戯に熱狂し、辺りが血液で汚れていく―本文より」

 アマゾンの「内容紹介」には、以下のように書かれています。

「春休み、東京から山間の町に引っ越した中学3年生の少年・歩。新しい中学校は、クラスの人数も少なく、来年には統合されてしまうのだ。クラスの中心にいる晃は、花札を使って物事を決め、いつも負けてみんなのコーラを買ってくるのは稔の役割だ。転校を繰り返した歩は、この土地でも、場所に馴染み、学級に溶け込み、小さな集団に属することができた、と信じていた。夏休み、歩は家族でねぶた祭りを見に行った。晃からは、河へ火を流す地元の習わしにも誘われる。
 『河へ火を流す、急流の中を、集落の若衆が三艘の葦船を引いていく。葦船の帆柱には、火が灯されている』
 しかし、晃との約束の場所にいたのは、数人のクラスメートと、見知らぬ作業着の男だった。やがて始まる、上級生からの伝統といういじめの遊戯。
 歩にはもう、目の前の光景が暴力にも見えない。黄色い眩暈の中で、ただよく分からない人間たちが蠢き、よく分からない遊戯に熱狂し、辺りが血液で汚れていく。豊かな自然の中で、すくすくと成長していくはずだった少年たちは、暴力の果てに何を見たのか―」

 この小説を読み終えたとき、正直言って不愉快でした。
 「圧倒的な文章力がある」「完成度の高い作品」と高く評価されて芥川賞を受賞したそうですが、確かに文章力はあるかもしれません。主人公が田舎の中学校に転校して、級友たちの心の闇に気づいてゆくさまは、谷崎潤一郎の『少年』や『小さな王国』、さらには三島由紀夫の『午後の曳航』を連想しました。明らかに、著者は、少年の心に潜む残虐性を描いたこれらの作品の影響を受けていると思います。

 ともに『文章読本』を著した谷崎や三島ほどではないにしろ、本書『送り火』に「圧倒的な文章力がある」という評価が寄せられることは、まあ不問としましょう。しかし、もう1つの評価である「完成度の高い作品」というのは納得がいきません。この小説は尻切れトンボというか、非常に幕切れの悪い、「完成度の低い作品」であると思うからです。主人公は「歩」という少年ですが、誰の視点で物語が綴られているのかもわかりにくかったです。
 関心のある方は、ぜひ実際に読んでみてられて下さい。

 さらに、ラストで延々と展開される残虐な暴力描写は、読んでいて「グロいなあ」としか思いませんでした。ここまで残虐な表現を連ねる意味がわかりません。ラストシーンも、主人公の歩からすれば、「どうして、何も悪くないこのボクが、こんな目に遭わなければいけないの?」といった心境でしょうが、なにぶん後味の悪さしか残りません。この本、じつは読む前は125万部の発行部数を誇る「サンデー新聞」に連載中の書評コラム「ハートフル・ブックス」に取り上げようかと思っていたのですが、読んだ後はそんな気は失せました。とても他人に薦めるような小説ではないからです。

 どうにも救いようのない小説ですが、明るいエピソードとして、中学校の終業式で好調がウォルト・ディズニーを引き合いに出し、夢を持つことの大切さを語ったという場面が出てきます。もうすぐ廃校になる中学校だけれども、校長は「ここから巣立っていく皆さんは先生からすると夢の芽です」と熱っぽく語るのでした。ディズニーの言葉というのは、”If you can dream it,you can do it.” (夢見ることができるなら、それは実現できる)ではないかと思われます。

 この言葉は、アメリカはフロリダのウォルト・ディズニー・ワールド内にある「エプコット・センター」の「イマジネーション!」というアトラクションの入口に掲げられていました。大学4年生のときに初めて同所を訪れ、この言葉を目にしたときは魂が震えるほど感動しました。それ以来、わたしの座右の銘のひとつになっています。人間が夢見ることで、不可能なことなど1つもありません。逆に言うなら、本当に実現できないことは、人間は初めから夢を見れないようになっているのです。こういう前向きな言葉を中学生に贈る校長はえらいと思います。

 しかし、いくら校長の話は立派でも、それを聴く側にも資質が問われます。このとき、校長が熱っぽく語りかける中、晃という少年は歩の隣で眠そうに欠伸をしていました。晃は中学3年生のクラスの学級委員であり、男子のリーダー的存在です。いじめっ子でもあって、稔という少年をさまざまな方法で攻撃します。あるとき、晃は稔に「コーラを買ってこい」と命令しますが、稔は「嫌だ」と答えます。それで平手で打ちますが、それでも従わないので、拳で殴ります。それでも従わない稔の頭上に晃は鉄鋼を振り下したのでした。

 稔以外の他の男子にもいろいろと威嚇的な行動を取る晃ですが、じつは臆病者だったことが最後にわかります。かつて、彼は上級生からいじめに遭っており、その腹いせに同級生をいじめていたのです。
 このくだりを読んだとき、わたしは高校の同級生であるAを思い出しました。Aとは高校、大学、社会人を通じて付き合いがありましたが、とにかく傍若無人な男で、飲めばみんなに一気飲みを強制するし、諌めるホステスに暴力をふるうような最低のクズでした。あまりのクズぶりにわたしも愛想を尽かして付き合いを止めましたが、攻撃的な性格で口が立つこともあって、Aを恐れている者は多かったです。

 しかし、そのAは小学校時代にいじめられっ子だったことを後に知りました。彼は、いじめられないために強くなって、今度は他人をいじめてやろうとしたのでしょうか。『送り火』に出てくる晃という少年はきっとそのAのような大人になるのではないかなどと思いました。他人をいじめたり、ハラスメントを行うような根性が曲った者の正体は「臆病者」であることが多いはず……『送り火』を読んで、そんなことを思いました。

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