No.1585 グリーフケア | 宗教・精神世界 | 死生観 | 社会・コミュニティ 『死と悲しみの社会学』 G・ゴーラー著、宇都宮輝夫訳(ヨルダン社)

2018.08.16

 『死と悲しみの社会学』G・ゴーラー著、宇都宮輝夫訳(ヨルダン社)を読みました。上智大学グリーフケア研究所の島薗進所長に「何か、読むべきグリーフケアの名著はありませんか?」とお訊ねしたところ、1964年に出版された本書を紹介して下さいました。著者のゴーラーはイギリスの文化人類学者です。本書は1960年代のイギリス社会において、家族が亡くなったときに、どのように悲しみに対処しているのかを考察した本です。原題は”Death,Grief,and Mourning in Contemporary Britain”で、直訳すれば「現代イギリスにおける死と悲嘆と哀悼」となります。

 アマゾンの「商品の説明」には、以下のように書かれています。

「マクマナーズが『死の調査研究のタブーを破った』と評し、アリエスも高く評価したのが1955年にゴーラーが発表した『死のポルノグラフィー』である。これは本書にも収録されている。あまりに有名なこの論文を要約しておく。  19世紀には性や誕生がタブーとされ、死はそうではなかったが、20世紀になると性がオープンになり、死(特に自然死)は反対にタブーとされるようになった。反面、戦争や事故による横死は小説や映画などの中で露出されるようになる。誕生・性・死という人間の基本的事実と相対するのを社会がタブーとするなら人目を忍んでするようになる。 本書においてゴーラーは、社会が他人の死に冷淡になり、遺族の喪の悲しみに対する許容度を減少させた結果、愛する者を亡くした人間に必ず発生するものである悲嘆に適切に対処していく社会的支援を欠くようになっている、と調査結果を下に結論づけた。このことにより彼は遺族心理についての精神医学におけるその後の研究に道を開いたことで大きな功績がある」

 本書の「目次」は、以下のようになっています。

「凡例」
「地図」
「まえがき」
「自伝的序文」
第一章 家族の者の死
 1 遺族
 2 喪中の家
 3 子供に告げる
第二章 宗教と遺族
 1 教派
 2 来世
 3 聖職者
第三章 葬儀とその後
 1 死体の処置
 2 家族集会
 3 墓碑
第四章 悲しみと哀悼
 1 哀悼のあらわれ
 2 喪中に起きる身体的変調
 3 夢と幻
 4 悔みの言葉
第五章 さまざまな哀悼のしかた
 1 緒論
 2 哀悼の拒絶
 3 悲しまない人々
 4 生前の哀悼
 5 押し隠された悲しみ
 6 期限つきの哀悼
 7 無期限の哀悼―「諦め切れない」
 8 無期限の哀悼―ミイラ化
 9 無期限の哀悼―絶望
第六章 死別の種類
 1 序
 2 父親の死
 3 母親の死
 4 夫の死
 5 妻の死
 6 兄弟姉妹の死
 7 子供の死
結語
付論1「悲哀に関する昨今の理論と本書の資料」
付論2「死のポルノグラフィー」
「訳者あとがき」
付論3「質問表と統計表」
付論4「宗教上の信念と実践」
「参考文献」
「本書で何度か発言を引用した被調査者たち―一覧表と索引」

 「自伝的序文」では、最初に著者が5歳とときのエドワード7世の死去と葬儀の思い出が語られます。著者にとって、最初に記憶している「死」でした。著者が10歳のとき、父親が亡くなりました。1915年5月、アメリカ合衆国への商用の旅から帰る途中、ルシタニア号に乗っていて溺死したのです。父親は、2人の女性客に救命ボートの自分の席も救命帯も共に譲ってしまい、男らしく死んだそうです。2人の婦人は生き残り、未亡人となった母親を訪ねてきました。死の危険にさらされているのは最前線にいる兵士だけだと思っていた著者は非常にショックを受けました。

 父親の死を知ったときの様子を、著者は以下のように書いています。

「ルシタニア号の沈没については、学校での朝食時に聞かされた。私たちは長いテーブルにつき、私は末席近くに、先生たちの1人が上席に座っていた。その先生は、戦争のニュースを知らせる新聞を読んで聞かせ、見出しがテーブルに回された。私は、ニュースを聞いた際のほとんど物理的とも言える衝撃を、またすべての音が世界から消滅したように思われた一瞬を、はっきりと思い出すことができる。私はこらえ切れずにむせび泣いてしまい、それからほんの一時してから―そうだったと思う―なんで泣いているのか人に話すことができた。人々は事情が分かると、私をいたく親切に、しかし病人のように扱った。どんな要求も私にはなされず、私は自分の好きなようにさせてもらい、私のいる前では会話は差し控えられた。先生であれ生徒であれ、誰かが死一般について、あるいは特に父の死について、まじめに私に語りかけてきたという記憶はない。また、彼らのうちの誰かが私のいる前で冗談を飛ばしたという覚えもない」

 著者は、亡くなった父親が大西洋のどこかの無人島で生存しているのだと考えたそうです。まともに考えれば望みがないと分かっていても、手の込んだ空想を練り上げずにはいられなかったのです。著者は述べます。

「少なくとも数ヵ月の間、私はこうした夢想によって、父の死の受容を引き延ばした。生涯のどんな時期を振り返ってみても、私は何らかの死後の生に対する信念を全く持ったことがない。だから父が消滅から守られえたのは、ひとえにこうした空想的思考のためであった」

 この文章を読んだとき、わたしは、この読書館でも紹介した玄侑宗久氏の著書『やがて死ぬけしき』を思い出しました。玄侑氏は、被災地である石巻で娘さんが行方不明だという父親の方と会ったそうです。もう震災から2ヵ月ほど経っていたのですが、その父親は23歳の娘の生存を、信じていました。「祈りが膨らませる想像力」として、玄侑氏は述べています。次のように述べています。

「私は思いきって訊いてみたのです。いったいどう考えたら、今も生きていると信じられるのですか、と。すると50代、つまり私と同世代と思えるその男性は、しばらく黙って虚空を睨んでいましたが、けっしてその場で考えたというふうではなく、きっぱりした口調で答えたのです。『津波に襲われた瞬間に記憶喪失になって、どこかしらねえ浜さ流れついでさ、しらねえ人の世話になって生きてるんでねえが』」

 この父親の言葉について、玄侑氏は「きっと、毎日毎晩、彼は娘の無事を祈り、なんとか生きていてほしいと思い続けたことでしょう。それだけでなく、あらゆる可能性の中から、彼は可能性の高い低いは関係なく、とにかく望ましい可能性を選び、そのイメージを具体的に膨らませていたのではないでしょうか。そこには本当の意味での『祈り』があります」と述べています。
 ルシタニア号の沈没事故で亡くなった父親が無人島で生きているというのも、東日本大震災の津波で流された娘が記憶喪失になって生きているというのも、悲嘆の淵にある者にとっての「物語」です。人は、大きな悲しみを伴う「現実」を「物語」によって変えているのです。人間とは「物語」がなければ生きていけない動物なのかもしれません。そして、それは人間が「神話」と「儀式」を必要とする存在であることを示しています。

 著者は文化人類学者として、記録に残っている大多数の人間社会では、服喪の儀礼形式が発達していることを知っているとして、こう述べます。

「通常は、死の直後から死体の処置までの間に、共同体の諸儀式がある。典型的には、特別な服を着る、頭髪を剃る、あるいは伸ばすなど、身体的外見に変化をつけて遺族は区別され、そのため彼らと接触する者は誰でも、彼らが喪に服していることを知り、儀礼に適った特定の仕方で彼らを扱うことができるのである」

著者は、この読書館でも紹介したヴァン・ジュネップの名著『通過儀礼』を取り上げ、ジュネップが「通過儀礼」と呼んだもの、つまり社会からの型式的隠遁、一定期間の隠棲、そして社会への型式的再加入などを経て行くと述べます。

 第三章「葬儀とその後」の3「墓碑」では、著者はこう述べます。

「ローマ・カトリック教徒と正統ユダヤ教徒には、死者の埋葬が義務づけられている。後者に対しては、(ユダヤ暦で数えた)死者の命日に墓参りすることも要求される。しかし、教義上、埋葬と火葬のどちらでも選択できる人々が埋葬を選ぶ場合には、それは、火葬とは性質を異にする服喪様式を彼らがよしとしていることを意味する。同時にそれは、死者をいつまでも忘れずにいるために、彼らがその後継続的にかかる特別な出費を積極的に引き受けようとしていることでもある」

 第四章「悲しみと哀悼」の1「哀悼のあらわれ」では、著者は服喪儀礼について述べています。

「世界中のほとんどすべての社会について、服喪儀礼の存在が報告されているが、そのような社会では慣例として、近親者と死別した人々は、伝統的に定められたある期間、特定の社会活動から身を引き、公の場での気晴らしを慎む。一定期間、服喪者は部分的に社会から隠棲し、その間に自分たちの痛手を何とか切り抜け、それと折り合いをつけるのである。この期間の終了は、ある場合には、再び通常の衣服を着、すべての社会活動に全面復帰することによって示される。あるいは場合によっては、昔ながらのイングランドにおけるように、この過程は長く引き伸ばされて、(「正式服喪」から「喪服」、さらに「半喪服」へという具合に)衣服を徐々に変えて行くこともある。この場合、衣服の変化は、喪のそれぞれの段階にふさわしいと見なされる社会生活と気晴らしとを象徴しているのである」

 このあたりは、拙著『唯葬論』(サンガ文庫)の内容とも重なります。

 第五章「さまざまな哀悼のした」の8「無期限の哀悼―ミイラ化」では、著者が「ミイラ化」という言葉を暗喩的に用いていることが紹介されます。古代エジプト人は、防腐処理を施すことによって死者を自然の腐敗過程から守りました。一方、配偶者などの愛する者を失った人々の中には、家とその中にある一切の物を(まるでそれがいつでも生き返る社ででもあるかのように)死亡した夫や妻が残したままに保ち、それによって故人に対する悲しみを持ち続ける人がいます。つまり、故人の部屋を片付けたり、遺品を整理することができないのです。
 著者はまた、とりわけ死別を受け入れがたく感じている人の悲しみに、「ミイラ化」とともに、「絶望」という名を与えています。これは、文字通り生きる希望を失い、すっかり生気が抜けきってしまうことです。その期間もさまざまで、一定期間が過ぎれば立ち直る人もいれば、「無期限の哀悼」にさいなまれる人もいます。

 第六章「死別の種類」の7「子供の死」で、著者は述べています。

「あらゆる悲しみの中で最も痛ましく、かつ最も永く尾を引くのは、恐らく成人した子供を失った悲しみである。両親がそれを諦め切れないというのは、言葉のあやとしてではなく、文字通りに本当であるように思われる。なぞそうなのかは、憶測するしかない。大部分の被調査者は、余りはっきりとは語ってくれなかったからである。まず第一に、少なくとも戦時を除けば、子供が親に先立って死ぬなどというのは、『自然の秩序に反している』ように思われるのであろう。信心深い親であれ、そうでない親であれ、彼らは漠然とではあるが、子供の死を自らの不徳に対する罰、一種の天罰として解釈するようである。第二に、成人した子供が死んでも親の社会的立場はいささかも変わらないにもかかわらず、彼らの自我像が破壊されてしまうようである。彼らが自分自身をまず第一に母親ないし父親と見なし、二次的にのみ妻ないし夫、あるいは技術や職能を行使する者と見なすようになればなるほど、子供の死は破壊的な打撃となる。言うまでもなくこのことは、1人っ子を亡くしたやもめの場合に、もっともよく当てはまる。しかし、配偶者が生きており、他の子供がまだ残されている場合ですら、同じメカニズムが働くように思われる。恐らく、宇宙の秩序に対する信頼が突き崩されてしまうのであろう」

 「結語」の冒頭で、著者は1960年代のイギリス人の大多数が、死と死別体験に対する身の処し方について、適切な指針を持っていないと指摘します。嘆き・悲しみは、愛する者を亡くした人間のうちに必ず生まれる反応ですが、それと折り合いをつけ、それを乗り越えて生きていくための社会的支援もイギリス人には欠けているとして、著者は以下のように述べます。

「死と折り合い、悲しみに対処するための唯一の社会的手段が専ら宗教によってのみ与えられるのであれば、非宗教的な信念を持った、あるいは世間に認められていない信仰を持った現代の大部分のイギリス人は、誰にでも起こるうる不幸と孤立の危険に際して、結局のところ何の助けも導きも有していないことになる」

 儀礼というものを重視する著者は、続けて以下のように述べています。

「広く受容された儀礼や指針がないからこそ、現実に対する適応を何ら促進しない数々の行動、すなわち、無意味で些末なことに没頭して『暇をつくらずにいること』、私がミイラ化と呼んだ私的儀礼、さらには無気力な絶望などが生み出されるのだ、という仮説である。人間の生物学的本性に内在する危機に対処するための共通の行動型式や儀礼を社会成員の大半が持っていないという、こんな状況に比肩しうる事態は、私の知る限り、過去の社会の記憶の中にも、ユダヤーキリスト教的伝統に属さない現代の社会に関する記述の中にも、見あたらない」

 このあたりは、わたしが『儀式論』(弘文堂)で訴えた「儀式を行うことは人類の本能」というメッセージを思い起こさせます。

 また、死と悲しみの扱われ方について、著者は以下のように述べます。

「現在、死と悲しみは、性的衝動が100年前にそうされたのとほぼ同様に、取り澄ました態度で取り扱われる。当時は、善良な女性、つまり彼女は性的衝動など持たず、善良な男性、つまり紳士は意志の力や性格の強さで性的衝動を完璧に制御できると、まじめに考えられていた。今日では、分別のある理性的な人物は意志の力や性格の強さで悲しみを完璧に制御でき、従ってそれははけ口を求めておおっぴらに表明される必要はなく、外に表わされねばならないとしても、まつでマスターベーションと同じように1人でこっそりと耽ればよいのだと、まじめに信じられているように思われる。私は多くの被調査者たちと、彼らの悲しみに当惑することなく話し合ったが、そのために彼らは、私に感謝の念を寄せた(それを表わす典型的な言葉は、『心の荷が大分おりました』である)。数世代前の人々も、取り澄ました態度によってではなく、また指弾されることもなく、自分たちの性的な秘密がとことん議論された時には、感謝の思いを感じた。私は、この2つは似ているに違いないと思う」

 著者は、死別の悲しみに際して、自分の悲しみが否認されることもあるとして、それならば、他者の悲しみはなおのこと容易に否認されると指摘します。そして、以下のように述べています。

「死・苦痛・悲嘆などへの言及に対して過度に神経質になるのは、この冷淡さの一側面、裏側の顔である。こうした人間の諸経験は、まるで風俗を乱すものであるかのように扱われ、従ってそれらを口にしたり描いたりすることは、成人にとって好ましからざるもの、そして未成年者を堕落させるものと見なされる。テレビや映画での『暴力』描写に対していつも向けられる非難は、『恐怖映画』や『恐怖劇画』での死と残虐場面への熱中と同様に、また、戦争や強制収容所の恐怖を描いたお粗末なペーパーバック本の氾濫と同様に、病理的兆候である。ひそかに楽しまれようと、独善的な指弾を浴びようと、『死のポルノグラフィー』は、死に対する不合理な態度および哀悼の拒絶の具体的な現われなのである」

 著者には、哀悼の拒絶と結びつけて考えたい熱中現象がもう1つあるといいます。それは、死の危険に対する行き過ぎとも思える取り組み方です。その社会的な現われは、核戦争に反対する人々や、あるいは喫煙に伴う危険を喧伝する人々の活動の中に多く見られると指摘します。
 さらに、著者は哀悼の拒絶と結びつけて考えたい現象として「パンダリズムを挙げ、以下のように述べています。

「すなわち、利得を合理的に計算するわけでもなければ、個人的復讐を念頭に置くわけでもなく、財物をただ破壊するためにのみ破壊・毀損する行為の増加である。パンダリズムの場合には、冷淡さ、あるいは死に対する不合理な熱中や不合理な怖れの場合ほど、哀悼の拒絶との結びつきは直接的ではない。パンダリズムとのつながりを見るためには、私たちの文化においては決して表にあらわされることのない哀悼のある側面を考慮しなければならない。その側面とは、自分たちを見捨てて死んで行った者に対する怒りである」

 一方には哀悼の拒絶があり、他方には冷淡さ、死への不合理な熱中、死に対する不合理な怖れ、そしてパンダリズムがあるとして、著者は述べます。

「両者のつながりを明らかにする私の試みが正しいとすれば、哀悼を拒絶し、儀礼を通して遺族を支援することもない社会は、その多くの成員のうちに、適応不良の神経症的反応を生み出しつつあると言えよう。さらに、ここから次のことも明らかになる。つまり、遺族・親族・友人・隣人たちはのための世俗的な哀悼儀礼となるようなものを社会のうちに創り上げて行くのが望ましい、ということである」

 そして、このような儀礼は、親密な交わりを求める遺族の欲求と、他方、1人きりでいたいという欲求とを、共に考慮に入れなkればならないとして、著者は以下のように述べるのでした。

「彼らが気後れも遠慮もせずに己れの悲しみを外に表わすのは、(ほぼ間違いなく)望ましいことだからである。また、死別後の数週間は、彼らは、重い病の間やその後に生ずるのとほぼ同じ身体的変化を被っているからである。激しい悲しみの期間は、遺族の気質によって、また故人との関係如何によって、長さが変わるであろう。私の印象では、6週間から3か月が妥当な範囲である。この期間中には、遺族は、幼少期以後の他のいかなる時にもまして、社会的な支持と援助とを必要とする。ところが目下のところ、私たちの社会は、この支持と援助を与えることがほとんどできないでいる。苦悩・孤独・絶望・適応不良行為に対するこの無策の代償は、極めて高くつく」

 まさに、グリーフケアとは「こころの未来」に密接に関わっているのです。

 付論1「悲哀に関する昨今の理論と本書の資料」の最後で、悲哀は典型的には3つの段階に分かれることが資料から裏付けられるとして、著者は以下のように述べています。

「最初のショック期間、激しい悲しみと混乱の段階、通例それらよりも長い再編・立ち直りの時期がそれである。次に、私の資料からは、第二段階の平均的な長さは、イギリスでは6週間から3か月である、という仮説が出てくる。私のインタビューは、元来精神医学を目指したものではないので、悲しみに含まれる要素の分析や、悲哀の心理メカニズムについての論議には寄与するところがない。私は、罪責間あるいは怒りがどんな種類の死別にも必然的に含まれる要素なのかという問いを提起しただけである。最後に、私が注意を促しておきたいのは、遺された人々と接触する社会成員と儀礼とが本来ならば果たしうる重要な役割である。それらは、ショック期間および悲しみの段階のうちにいる遺族たちを支え、彼らが苦悩を表に出し手それを切り抜けるのを補助することができるのである。さらにまた、こうした救いの手がさしのべられない時に生じかねない不適応にも、注意を喚起しておきたい。悲哀のもつこうした側面について、これまでの研究者はほとんど触れてこなかったのである」

 付論2「死のポルノグラフィー」は著者の名を世に広く知らしめた論文です。1955年10月に「エンカウンター」誌に掲載された後、イギリスやアメリカのさあざまなメディアに掲載され、ヨーロッパのいろいろな言語にも翻訳されました。著者は「ポルノグラフィー」について述べています。

「ポルノグラフィーは、伝統的にも、辞書にのっている普通の意味でも、性的なものに関係する。過去200年間においては大体、『要するにそれが事実のすべて』である人間の3つの基本経験のうち、交接と(少なくともヴィクトリア朝中期においては)誕が『口にできないもの』であり、その2つをめぐって、多くの私的空間と半ば秘密のポルノグラフィーが発生した」

 続けて、「死のポルノグラフィー」に言及します。

「この時期には、『死は常に不可解である』という当たり前のことを除けば、死は何ら神秘に包まれたものではなかった。子供たちは死そのものについて、自分の死について、さらに教訓ともなり戒めともなる他者の臨終について、思いをめぐらすよう促された。死亡率が高かった19世紀に、『うるわしき亡骸』に別れの挨拶をしたことがないとか、人が死につつある場に一度も立ち会ったことがないという人は、滅多にいなかったであろう。葬儀は、労働者階級にとっても、中流階級にとっても、貴族にとっても、最大限に見栄をはる機会であった。共同墓地は、古い村ならどこでもその中心にあり、ほとんどの町で目につきやすい所に位置していた。犯罪者の処刑が世間への見せしめであることをやめ、その日が公休日にならなくなったのは、19世紀もかなり末になってからである」

 また、著者は以下のようにも述べるのでした。

「過去50年の間に、公衆衛生のさまざまな処置が講じられ、予防医学が進歩したので、若年層の自然死は、以前と比べてはるかに稀になった。その結果、天寿を全うして死ぬ場合を除けば、家族の者が死ぬのは、家庭生活ではわりに稀な出来事となった。同時に、横死が人類史上類を見ないほどに増加した。こうした横死の原因として報道されるもののうちで、最もよく出てくるのが、戦争・革命・強制収容所・ギャングの抗争などであった。しかしまた、自動車が普及したため、交通事故による、人目にはつかないが一定数の死傷者が出る。このため、平時にあって法を遵守している人々も、横死を遂げる可能性を考慮に入れておかねばならなくなった。一方で人々は、取り澄ました態度で自然死をますます覆い隠して行くのに、他方で横死は、大衆に供される空想―例えば推理小説、スリラーもの、西部劇、戦争物語、スパイ小説、SF、さらには恐怖劇画―の中で絶えずその重要性を増して来たのである」

 最後に「訳者あとがき」で、訳者の宇都宮輝夫氏はこう述べています。

「かつてE・リーチは、すべての宗教教義の核心は死による個人の消滅を否定するところにある、というテーゼを述べた(『文化とコミュニケーション』)。同趣旨のことは折口信夫も語っている。『まぜ人間は、どこまでも我々と対立して生を営む物のある他界を想望し初めたか。・・・・・・人が死ぬるからである。死んで後永生を保つ資格あるものになるからだ』(「民族史観における他界観念」)。森岡清美の次の発言も、帰着するところは同じなのであろう。『死後の生は人々の要請でもあった。子を失った親にとって、子は死んでもなお来世を生きていなければならず、親を早く失った子にとっても、親は後世を生きていなければならなかったからである』(「死後観念の変化について」)。こうした要請に基づく信念の根底にある論理は、W・ジェイムズが指摘した『直接推理』―『そうした信仰は真実でなければならぬ、故にその信仰は真理である』―なのであろう(『宗教的経験の諸相』)。そして宗教の『直接推理』という考え方は、恐らくウェーバー流の苦難の神義論(あるいは救済要求に基づく宗教理解)やバーガーの正当化図式論などと、つまるところ帰一するのであはないかと思われる」

 ここで訳者が挙げているさまざまな著作を、わたしはすべて読んでいます。そして、それらのメッセージは拙著『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)の中にも流れているように思います。わたしは、さまざまな葬儀に毎日のように立ち会っていますが、残された遺族に何より必要なのが悲しみを癒すグリーフケアであり、「死は不幸ではない」という物語だと確信しています。「死は最大の平等である」とはわが信条ですが、死は万人に等しく訪れます。しかし、本書の著者ジェフリー・ゴーラーによれば、「人が死んだとき、どのように振る舞えばいいか」ということは誰も知らないといいいます。大量死の時代を迎えた今、わたしたち日本人はどのように、自分自身や他人の死や悲しみと向き合うかを知らなければなりません。
 1960年のイギリスにおける研究ではあっても、本書の内容は現代日本にも大いに通用する社会学的論考であると思いました。

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