No.1559 日本思想 | 社会・コミュニティ 『ユートピア紀行』 伊藤信吉著(講談社文芸文庫)

2018.05.28

 『ユートピア紀行』伊藤信吉著(講談社文芸文庫)を再読。「有島武郎 宮沢賢治 武者小路実篤」というサブタイトルがついています。著者は1906年、群馬県前橋市生まれの詩人・近代文学研究者。高等小学校を卒業後、群馬県庁に勤務、28年に上京し「ナップ」に加盟。萩原朔太郎、室生犀星に師事し二人の全集編集にもあたりました。戦前はプロレタリア文学運動に参加しますが、戦後は詩人研究で著名となり、多くの全集類を編集出版しました。後年、故郷の群馬県に居を移し、群馬県の文学活動の中心的存在としても活躍。郷土出版で「群馬文学全集」の編纂にも携わりました。2002年、逝去。 

 本書のカバー裏には、以下のような内容紹介があります。

「有島武郎の北海道ニセコ『狩太共生農団』跡。宮沢賢治の始めた岩手県花巻郊外『羅須地人協会』跡。武者小路実篤の埼玉県毛呂山と九州日向の『新しき村』。”ユートピア”の未だ消えぬ核心は何か? 三人の理想家の燃焼と苦闘の跡地を北から南へと辿る。現地の人々を訪ね、資料、作品と対話し、その実践の意味を現代に問う。三つの精神の営為に深く共鳴する著者の魂。平林たい子賞」

   「ユートピア」を追求した『リゾートの思想』『リゾートの博物誌』

 本書を読んだのは、じつに17年ぶりです。わたしは、2001年にサンレーの社長に就任してすぐの時期に「日向新しき村」を訪れました。ちょうどその頃に本書を読んだのです。もともと、わたしは、『リゾートの思想』(河出書房新社)や『リゾートの博物誌』(日本コンサルタントグループ)などの内容からもわかるように「理想郷」や「ユートピア」というものに強い関心を抱いていました。書斎には、今でもユートピア関係の資料がたくさん並んでいます。

   わが書斎の「ユートピア」関連書棚

 本書の「目次」は、以下のようになっています。

 有島武郎「カインの末裔」の土地 狩太共生農団紀行
 宮沢賢治「雨ニモマケズ」の背景 羅須地人協会紀行
 武者小路実篤「この道を歩く」の道程 新しき村紀行
 「ユートピア紀行」覚え書
 「人と作品」川崎洋
 「年譜」梁瀬和男
 「著書目録」

「有島武郎『カインの末裔』の土地 狩太共生農団紀行」では、作家の有島武郎のユートピアが描かれます。有島武郎は、父の武から相続した北海道虻田郡狩太村(現、ニセコ町)の有島農場(農地約450町歩)を「私有財産の否認」の考えから1922年7月18日に農場小作人全員に無償譲渡しました。ただし、再び資本家の手に渡るのを防止するために、産業組合とすることを条件としたのでした。

 有島武郎の行為について、著者は以下のように述べています。

「その解放の思想は、一人の社会主義的作家における私有財産についての考察が、理論的にも心情的にも、絶対悪にほかならぬという段階に到達したところに形成された。有島武郎における社会主義思想の形成にとって、私有財産の問題は第一義的な核体となっている。自分自身が地主・農場主だということが、キリスト教的思考と並んで、私有財産の悪の認識、その悪からの脱出を促したのである。キリスト教的社会主義の抱懐がその思想生活の原点だったとすれば、自分が地主・農場主だという生活事実が、私有財産否認へと導いたのである」

 有島武郎の心中には「相互扶助」の思想があったようです。 ニセコ町にある有島武郎記念館にも「相互扶助」の額が掲げられていますが、著者は以下のように述べます。

「『相互扶助』の四文字には解放後の農場経営について、有島武郎の希望と期待がこめられていた筈だ。もっと基本的には、有島武郎の社会思想における理念的なものが象徴されている筈だ。有島武郎が無政府主義者クロポトキンに会ったのは明治40年(1907)だが、クロポトキンの主要著作の1冊は『相互扶助論』である。筆太のがっしりした『相互扶助』の四文字には、過ちなくクロポトキンの思想につながるものがある」

 小作人たちに農場を解放したときの言葉が「有島共生農団記念碑文」に記されていますが、そこには以下のように書かれています。

「この土地を諸君の頭数に分割してお譲りするといふ意味ではありません。諸君が合同してこの土地全体を共有するやうにお願ひするのです。誰でも少し物を考へる力のある人ならすぐ分ることだと思ひますが、生産の大本となる自然物即ち空気、水、土地の如き類のものは、人間全体で使ふべきもので、或はその使用の結果が人間全体の役に立つやう仕向けられなければならないもので、一個人の利益ばかりのために、個人によつて私有さるべきものではありません。それ故にこの農場も、諸君全体が共有し、この土地に責任を感じ、互に助け合つてその生産を計るやうにと願ひます。諸君の将来が、協力一致と相互扶助との観念によつて導かれ、現代の不備な制度の中にあつても、それに動かされないだけの堅固な基礎作り、諸君の正しい精神と生活とが、自然に周囲に働いて、周囲の状況をも変化する結果になるやうにと祈ります」

 大正デモクラシーの時代に、「共生」への想いから大胆な行動に出た有島について、著者は以下のように述べるのでした。

「共産・共済・共生。有島武郎は不満だったが、しかしそれが微温的だったにせよ、当時の時代思潮からすれば、共生の文字はいくばくかの積極的意味があった。大正デモクラシーの時代思潮を背景にして、民衆詩・農民詩の代表詩人だった白鳥省吾の『共生の旗』が、大正11年6月刊行された。私は狩太共生農団の名称から白鳥省吾のこの詩集を思い出したのだが、そのように大正年代の『共生』には、時代的・社会的意味における積極性があった」

「宮沢賢治『雨ニモマケズ』の背景 羅須地人協会紀行」では、詩人で童話作家の宮沢賢治のユートピアが描かれます。著者は賢治の生涯について、以下のように述べています。

「数え38歳で、昭和8年(1933)9月に亡くなった宮沢賢治の生涯を通じて、その人生的情熱が、もっとも熱い炎となって燃えたのはいつであったか。言ってみれば宮沢賢治は、生涯を通じて内から燃え、内からの情熱をほとばしらせた人である。そのことは死の年まで作品発表をし、おびただしい量の作品を遺したことに立証されている。しかし私は作品制作と同時に、肥料設計をし稲作指導をした時期が、もっともよく生命の火の燃焼したときだと思う。その作品が農的実践に裏打ちされた時期こそ、もっともよく生の充実を感じたときだと思う。農的実践と農的作品が密着したところには、農村協同体建設の夢がゆらめいている」

 羅須地人協会の設立は大正15年(1926)8月、旧盆の16日でした。賢治は31歳でしたが、年譜に「下根子桜の寓居に『羅須地人協会』を設立し、この日を農民祭日と定めた。そして農村の青年や篤農家に稲作法、科学、農民芸術概論などの講義をした。」という記述があります。このとき農耕自炊の生活がはじまり、全身的な地人への転回が行われ、農民の中への実践が全的にはじまったのです。

 賢治は、農民の生活に「芸術」を持ち込みました。
 そのことについて、著者は以下のように述べます。

「羅須地人協会に『芸術学校』の意図が含まれていたことについては、伊藤克己の『或日午後から芸術講座(さう名称づけた訳ではない)を開いた事がある。トルストイやゲーテの芸術定義から始まつて農民芸術や農民詩について語られた。従つて私達はその当時のノートへ羅須地人協会と書かず、農民芸術学校と書いて自称してゐたものである。』(「先生と私達――羅須地人協会時代」)という回想がある。そこにプロレット・カルトの理念に通じるものがあったのではないか。つまり羅須地人協会は、一方に農事講義、農耕指導の実践的仕事があり、『農民芸術学校』の文化的仕事があった」

「武者小路実篤『この道を歩く』の道程 新しき村紀行」では、作家の武者小路実篤のユートピアが描かれます。そのユートピアは「新しき村」という名前でしたが、著者は以下のように述べています。

「武者小路実篤のいう新しき社会は、もとより全的意味における共産社会ではない。その理想は人類の意思による協同体、ユートピアの建設である。資本主義支配、権力支配と正面から対立するのでなく、その現実社会から離脱して、別個の新しき社会を建設しようというのである。人類の意思の具現をめざすその思想に共鳴し、協同する人々の社会を創設しようというのである」

「新しき村」とは何だったのか。著者は述べます。

「歴史の激動期に人は何かの新しい機運を予感し、その予感に響き合うものに身を投じる。新しき村がそれだったのだ。協同社会建設という理念・理想にもとづく運動は、時代の新しい機運に響き合うものを感じさせた。何かがある! その予感が共鳴者、支持者の輪を結んだ。思想結社でも社会主義団体でもなく、権力との闘争でも階級闘争でもないところの、やや漠然とした協同社会というところに、何ごとかを予感する人たちを惹きつける魅力があった」

 村創設の大正7年は米騒動の全国的騒擾の年であり、日本軍のシベリア出兵の年でした。『「新しき村」の百年』にも書かれているように、社会不安の高まりの中から「新しき村」は誕生したのです。それは資本主義でもなく、社会主義でもない、いわば「第三のもの」でした。
 本書の最後に、著者は以下のように述べています。

「武者小路実篤は激動するその社会的現実を自分の眼でみた。そして『第三のもの』を地上に創設した。時代の動向からしても『第三のもの』は、おのずから空想的社会主義の要素を内包した。そしてそれが毛呂の村で経済的協同体として『完全自活』に到達したことは、史上のあらゆる『ユートピア』の試みの中で、異数の成果というべきだろう。多くの空費と犠牲と欠陥を超えて、文学的ユートピア・貧困のユートピアが、ついに1つの成果を獲得したのである」

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