No.1500 冠婚葬祭 | 神話・儀礼 『「おじぎ」の日本文化』 神崎宣武著(角川ソフィア文庫)

2017.10.15

 「一条真也の読書館」も、この書評で、ついに1500本目になりました。
 自分でも信じられませんが、いつもご愛読いただき感謝いたします。
 『「おじぎ」の日本文化』神崎宣武著(角川ソフィア文庫)を読みました。「おじぎ」という日本人の所作を民俗学的に読み解いた好著で、勉強になりました。著者は1944年生まれの民俗学者です。また、旅の文化研究所所長であり、岡山県宇佐八幡神社宮司でもあります。

 カバー表紙には「おじぎ」をする福助が描かれ、「おじぎの不思議を一気にひもとく!」「日本人とすぐにわかるあの所作はどこからきたか」と書かれています。本書のカバー裏表紙には、以下のような内容紹介があります。

「大名行列を迎えての『土下座』はじつはウンチング・スタイルだった? 外国人にはいまだ奇妙に映る日本人の所作『おじぎ』は、いつの時代のどんな身体動作と背景から生まれたものなのか。立礼と座礼の成り立ちと変化、神道や密教の作法や武家礼法との関係、畳・着物による近世の『おじぎ』変革、近代からの国民礼法など、日本人の日本人たるゆえんの文化として解き明かす。かつて司馬遼太郎から託されたテーマへの渾身の書下ろし」

 さらに、アマゾンの「内容紹介」には以下のように書かれています。

「何気ない身振りやしぐさにも、文化に根差した意味があるはず。
 外国人にとってはいまだにやはり奇妙な動作にみえるという『おじぎ』。この「おじぎ」はどんな文化の脈絡ではじまり、いつどんな変容をおとげてきたのか。『三三九度』をはじめ、日本人のしぐさに根付いている習俗儀礼や日本文化について、民俗学的な解明を行ってきた著者による、目からウロコの『おじぎ』文化発見。たとえば、時代劇の大名行列では『下に、下に』の掛け声とともに庶民は道端に額をつけて土下座して控えるシーンがみられるが、このような伏す姿は実際にはありえず、両膝を立てたウンチング・スタイルでつくばう、蹲踞とも片膝礼とも違う屈礼であった。しかし、こんな誤解はいったいどこから来たのか」

 続いて、アマゾンの「内容紹介」には以下のように書かれています。

「『型の日本文化』の代表例である、歌舞伎・相撲・柔道・茶道などで伝承される『おじぎ』の典型は座礼。この座礼の大元は真言密教の三礼(平伏・揖・釈)からきているとされ、神道儀礼の三礼(神前礼)も密教から派生したといわれ、のちの武家の礼法につながるという歴史をたどるが、では、いつ、どんな経緯でこのような礼法になったのか。そのことを、古くは絵巻物や絵解きの絵画史料、近世では幕府の公的な礼法の記録、近代ではモース、シーボルトの記録や修身・しつけなどの学校教育、軍隊の礼法などから解明。そのなかから、『おじぎ』は人間関係という制度系だけではなく、じつは着物や建物などの装置系、とりわけ畳の普及とのかかわりがターニングポイントであったと解く。たんなる挨拶や会釈ばかりではなく、『おじぎ』に込められた、日本文化との深い関係を鮮やかに読み解く。

 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。

第一章 外国人が見た日本の「おじぎ」
第二章 古典・絵巻物から「おじぎ」を探る
第三章 中世の武家礼法と「おじぎ」
第四章 畳と着物による近世の「おじぎ」変革
第五章 現代へと変転する「おじぎ」のかたち
「参考文献」
「あとがき」

 第一章「外国人が見た日本の『おじぎ』」では、「『おじぎ』という意味」として、著者は以下のように述べています。

「『おじぎ』は、『お辞儀』に接頭語の『お(御)』を冠した丁寧語である。辞儀は、辞を述べる儀であり、つまり挨拶の言葉のことである。あるいは、辞する儀でもあり、つまりは遠慮することである。『大日本国語辞典』や『日本国語大辞典』など大部な古辞典の類では、この2通りの解釈が最初にでてくる。その次に、頭を下げて礼をすること、とある。さらに、そこで得る祝儀にまで転じる。もとの意は、挨拶とか遠慮。とくに、その言葉。しかし、当然のように、そこでは頭を下げる所作がともなったであろうことも、想像にたやすい。双方が不可分の対人儀礼である」

 第二章「古典・絵巻物から『おじぎ』を探る」では、「『伴大納言絵詞』のなかの跪拝姿」として、著者は以下のように述べています。

「日本におけるおじぎの祖型は、神仏に対しての祈願の姿勢にある、としよう。それは、跪拝(膝つき礼)であり、古代においてはほぼそれにかぎられる。もっとも、このことは日本にかぎったことでもあるまい。世界中の民族の拝礼の原初に共通するのかもしれない。いや、そうであろう。が、それをいちいち確証しうる資料は乏しい」

 また、「『年中行事絵巻』でも希薄な上下関係の礼」として、後白河天皇(1127~92年)の要望によって描かれた『年中行事絵巻』が紹介されており、著者は以下のように説明します。

「もとは、1月から12月までの宮廷行事を中心に絵画化したもの、とされる。全60巻から成ったものとされるが、原本は近世初期のころ内裏の炎上とともに消失しており、残っているのは模本で、それも1年を通しての全巻ではない。16、7世紀の模写とされる住吉本の16巻本分がそれで、その描写は原本にのっとっている、とされる。いずれにしても、貴重な資料であることは、疑う余地がない」

 続けて、著者は『年中行事絵巻』について以下のように述べます。

「そこには、京の市中のようすが描かれている。年中行事が主題であるから、天皇の行幸とか関白の参詣、御斎会(正月8日から7日間、国家安寧を祈る儀式)とか内宴、それに公家たちの遊びなどが中心で、内々の暮らしぶりまではわからない。しかし、公家や官吏が牛車や馬で宮殿や社寺に往く道端には、町住いの民衆が多く描かれている。また、闘鶏や蹴鞠などの場にも民衆が見物に集まっており、そのようすには興味深いところがある」

 『年中行事絵巻』に描かれた人々の姿は、他の絵巻物や『源氏物語』にも似ているようで、着衣やかぶりもの、採りもの(笏、扇、弓など)が違います。その中でも、特に笏(しゃく)について、著者は述べます。

「笏は、唐制の手板にならったもの、とされる。(『広辞苑』をはじめ、諸文献)。古い例では、聖徳太子の肖像画(唐本御影)がよく知られるところである。この肖像画については、太子と特定できないとか中国での制作であるとかの異説があるが、ここではさておく。中国の文物を多く導入した古代において、束帯を着用した場合の携帯品であった。官位にふさわしく威儀(姿勢)を整えるためであった」
   笏を持つ「おじゃる丸」(NHK)

 NHKのアニメ「おじゃる丸」でも知られる笏には、もうひとつの機能がありました。それは、忘備のためです。著者は「その裏に紙を貼り、儀式次第や奏上言葉を書いておく。むしろ、その実用性が重んじられる。たとえば、今日では、神官が祭典をとり行なうときに笏を常用する。そのときも、笏の裏にメモを記すことが少なくないはずである」と述べています。

 第三章「中世の武家礼法と『おじぎ』」では、冒頭に「おじぎ」で大別して、「拝」(拝礼)と「揖」(会釈)の2種があることが確認され、その中間に相当するもうひとつ「伏」(平伏)が現代にも伝わることが紹介されます。さらに著者は、「古代中国の『礼記』にみる『礼』」として、以下のように述べます。

「平安時代の宮中儀礼は、中国の影響を受けてかたちづくられたものが少なくない。たとえば、陰陽五行説にもとづいた陰陽道の導入がそうであった。朔旦(元旦)正月や節供(節句)や追儺(鬼やらい)の行事化がそうであった。旧来の民俗学では、ほとんどそのことにふれないできたが、中国伝来の慣習を無視することはできないのである」

 続けて、著者は中国伝来の「礼」について述べます。

「礼法も、『礼記』『儀礼』『周礼』(これを、三礼書という)に習い、それを引いた、とみるのも妥当である。たとえば、貴族が束帯姿で笏を持って揖の姿勢をとるのは、いかにも古代中国に通じる雰囲気がある。しかし、もっとも多い神仏に対しての跪拝(膝つきつま先立ち)姿は、古代中国のどこにつなげばよいのか、むつかしいところがある」

 さらに著者は、「礼」について以下のように述べます。

「礼を心得ていれば、安全に生活もできるが、礼がなければ危ういことになる。ゆえに、礼を学ぶことをないがしろにしてはならないのだ。現在、私たちが読むと、いささか窮屈な印象をもつだろう。しかし、とくべつなことを説いているわけではない。孔子を祖とする儒学(儒教)の教えにも共通の姿勢である。なお、群雄が割拠もする古代中国においては、それは、国家統一を裏づける思想にも等しかった。行儀を整えて抗争を避けよ、と呼びかけている。そうみてよかろう。『貴賤とともに』とか『君臣上下』という言葉が、しばしばつかわれているのだ」

 そして、礼法の効用について、著者は以下のように述べるのでした。

「和合と安寧は、礼法のもたらす効用である。それは、上下すべての者が正道として心得、実行すべきである。とでも、異訳することが許されようか。いずれにしても、『礼記』は、その表記のとおりに礼儀・礼節・礼譲の必然を説いた最古の倫理書なのである」

 「儒教における礼法の伝承」として、著者は以下のように述べます。

「儒教では、礼(礼節・礼儀)が重んじられた。その儒教の本義は、現在では韓国にもっともよく伝わる。中国では、文化大革命(1966~77年)で撤廃された。近年、再評価されてもいるが、文化大革命までも変容と衰退の歴史があり、その本流再興は容易ではないだろう。日本では、江戸時代に昌平黌(江戸=東京都)や閑谷学校(備前=岡山県)などの儒学校や林羅山や藤原惺窩などの儒学者を生んではいるが、それはあくまでも学問としての導入であった。儒教思想を普及し、生活律にまで応用するにはいたらなかった」

 さらに著者は儒教に基づいた韓国の「おじぎ」に言及し、「大別すると『大拝礼』と『平拝礼』がある。韓国語を訳すとそうなるが、日本語では『拝礼』と『平伏』に相当する。しかし、その姿勢に違いがある。そして、これには男女で作法の違いがある。大拝礼は、深い拝礼で、目上の人を敬って行なわれる。祖父母や父母の祝いでも若年者がこれを行なう。祭礼や婚礼や葬儀にもそれがつく」と述べています。

 また、女性の場合は、祭祀や葬儀への出席が長く閉ざされていたので、ほぼ婚礼時にかぎられるとして、著者は以下のように述べています。

「このとき、男性の作法との違いは、右手を左手に重ねることである。また、座るにも立つにも拱手した両手を目の高さから下げない。そして、膝を広げて座り(正座)、上体を訳60度ほど傾ける。頭に簪の類をつけているので、それ以上の深拝は無理なのである。手をほとんど使わないで上下するので、よく練習をしておかないとむつかしい。両側に補助する人が付く場合もある」

 女性は、これを二度行ないます。これが、とくに両班の家では厳重に行なわれてきた。もっとも、地方によっての違いもあり、男女ともにその土地の作法に長じた人の指示にしたがって行なうのがよいそうです。近年は、そうした儒教儀礼を教えるセミナーや検定も行なわれているとか。

 「日本は非儒教文化の国か」として、こうした儒教礼はほとんど日本には影響を及ぼしておらず、特に日本で拱手礼をみる機会はなく、略式の礼でも臍の前に両手を重ねる礼法もみる機会が少ないとして、著者は以下のように述べています。

「ひとりおじぎの作法にかぎらない。たとえば、儒教の道徳律である『三綱五倫』の実践も、日本ではほとんどみられない。ちなみに、三綱とは、君為臣綱・父為子綱・夫為女綱である。そして、五倫とは、父子有親・君臣有義・夫婦有別・長幼有序・朋友有信である」

 わたしのブログ記事「日本は儒教国家ではないのか」にも書きましたが、わたしはケント・ギルバート氏のベストセラー『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』が「日本人が儒教の核心だと考えている『仁義礼智信』、つまり『徳』が中国や韓国の儒教からはすっぽり抜け落ちており、日本において最も儒教の精神が根付い」という主張を展開しているのに対し、わたしは「儒教は何よりも葬礼を重んじますが、日本では、家族葬や直葬など、葬儀の簡略化が進む一方です。この点では、葬礼を重んじる中国や韓国のほうに孔子の思想は生きていると言えないでしょうか」と疑義を唱えました。

   「サンデー毎日」2017年7月30日号

 では、日本でなぜに儒教の本義が根づかなかったか、それが問題として残ります。その理由について、著者は以下のように述べています。

「たぶん、江戸期における武家政権と武家社会が長く続いたことと関係する、と予測するのはたやすい。武家礼法に儒教精神が影響を及ぼさなかった、とはいわないが、質実剛健や分限相応を是とする武家精神と合致はしていない。それと、日本ではタテマエ(この場合は、礼法)とホンネ(実行)の違いがあり、法にも令にも『ただし』書きがついた。きまりがきまりどおりに通じるとはかぎらない。それが社会的に許容もされ、不都合も生じなかった」

 「中世後期に成った武家礼法」では、日本の礼法が取り上げられます。
 日本における礼法観は、中国の『礼記』『儀礼』『周礼』(三礼書)に倣ったもので、とくに『礼記』の影響が大きいとされました。その礼法観は、まず、朝廷の有職故実に反映されたでろうとして、著者は以下のように述べます。

「有職故実は、礼式(儀式)・典故(故事)・官職・法令などである。それを公家社会で教え、伝える役目をになったのが、有職故実家である。平安時代では、九条家がはじまりであり、代表である。中国の三礼書に相当する故実書といえば、日本では『延喜式』になる」

 また、日本での礼法の広がりの端緒は、武家礼法にあるとして、著者は以下のように述べています。

「中国の三礼書の影響も、当然受けている。が、直接的な影響がどれほどだったか、だ。武士という新興勢力が安定したところで、その特権意識を誇示すべく新たな礼法がつくられた、とみるのがよい。そのために、有職故実家とは別系統の故実家・礼法家が重んじられることにもなった」

 室町時代の後期、乱世が治まり、統治者の思想のようなものが表われてきました。藤直幹の『中世文化研究』などによれば、足利家のその思想のひとつにあげられるのが、「故実礼法主義」でした。これについて、著者は「まさしく、『衣食足りて礼節を知る』。そういう時代であっただろう。ここに、武家故実家、あるいは武家礼法家といわれる、のち(江戸期)に通じる家門が登場する。伊勢家・小笠原家・今川家などである」と述べています。

 ここで、わたしの父やわたし自身にも縁の深い小笠原流礼法の宗家である小笠原家についての記述が増えていきます。小笠原家と佐久間家との関わりについては、この読書館でも紹介した『礼法を伝えた男たち』の書評詳しく書きました。もうひとつのメジャーであった伊勢家との違いについて、著者は述べています。

 「小笠原家と伊勢家の役割に違いがあり、足利義政の時代(室町後期)にはそれが明らかであった、という。そのことは、小笠原家にも伊勢家にも伝わる『三議一統』という由来伝書の存在に疑いを投じることにもなる。三議一統とは、足利義満の時代(室町前期)に、それまで不統一であった弓法(弓射の作法)の書のまとめを小笠原家・伊勢家・今川家が命じられたことの事業名である。のちに、それが書名としても通じるようになるが、正式な書名は、『三議一統大双紙』である」

 さらに著者は、小笠原家について、以下のように述べます。

「小笠原家は、主に弓馬術などに関係しての屋外礼法にはじまる。伊勢家は、主に殿中作法などに関係しての屋内礼法にはじまる、とする。担任する領域が違ったのだ。すると、とくに競いあうこともない。中世における小笠原家(当時の主流は、京都家)と伊勢家は、きわめて密室な関係にあった(『貞丈雑記』における校注者の島田勇雄『解説』)。そうみてよいのであろう。それが、近世になると対立を生む。とくに、伊勢貞丈の『貞丈雑記』(宝暦13=1763年から天明4=1784年までの筆録)を読むと、諸礼を指南する小笠原流への強い反目がうかがえる。弓馬術以外の礼法は、伊勢家が本流である、というのである」

 第四章「畳と着物による近世の『おじぎ』変革」では、「小笠原流と伊勢流の礼法」として、著者は以下のように述べています。

「江戸の幕藩体制が、身分制度と年貢制度によって維持されていたことは、周知の事実である。『おじぎ』に関していえば、身分制度が大いに関係する。身分制度のなかで『礼法』が重んじられることになり、そのなかで『おじぎ』が定型化をなすのである」

 そのことは、室町後期の足利幕府のもとにはじまります。そこに、のちに武家故実家・礼法家(故実礼法家)として名声を誇る小笠原家と伊勢家などが関与することになったのです。徳川幕府の礼法作成でも、その両家が故家と礼法の伝承役として機能しました。このとき、小笠原家は、大別して総領家系(現在の宗家)と赤沢家系(現在の家元家)、京都家系(明治期に断絶)と3派に分かれていました。対する伊勢家は、1派です。

 また著者は、小笠原家について、以下のように述べています。

「小笠原家では、総領家の旧臣たちを中心に、それまでの有職故実や大名礼法から少し離れて、一般武家やその子女をも対象とした諸礼法を説くようになった。いうなれば、日々の『しつけ』としての礼法を樹立していったのである。『躾』という字は、小笠原家の伝書のなかで多用されている。伊勢家では、『礼』をもって『しつけ』と読む、とある(『貞丈雑記』)。そして、他の漢字表現を俗なる作字、とする。しかし、伝書のなかで礼をしつけと読ませる例はほとんどでてこない」

 続けて、著者は「躾」について、わたしの礼法の師でもある小笠原忠統氏が著書『小笠原流礼法入門』(日本文芸社)で述べた「その躾こそが、今日一般にいうところの「小笠原流礼法」の基本となる。まさに、身を美しく整え、美しくみせる。「小笠原流では、行動を規定するものとして、”美”を基準にしている」という言葉を紹介し、さらに次のように述べます。

「巷間、小笠原流こそが江戸期における唯一の礼法とみられるむきがあるが、それは短絡的といわざるをえない。一方の伊勢家も故実礼法家としては伝わっていたのであり、そこでの教化も無視するわけにはいかない。ただ、伊勢流は、旧守的であり、時代の変化に対応しにくかっただけのことである。その結果、小笠原流が広く支持されることになったのである」

 また、著者は「幕府の公的な礼式作法を担った『高家』」として、武家の公的な諸儀礼には、「高家」が大いに機能したことを紹介します。徳川幕府の礼法体制は、先の武家故実家・礼法家と高家との二筋立てでしたが、公的には、故実礼法家よりも高家の方が発言力や指導力をもって差配をしていたといいます。その高家について、著者は述べます。

「高家は、武芸は学ばない。もっぱら礼式作法を学び、歌道をたしなむ。このところでは、京都の公家に通じるところがあり、事実、京都との往き来が深かった。高家には、三高をはじめ諸家(時代によって異なるが、10家前後)がある。よく知られるのは吉良家である。『忠臣蔵』でのちのちまでその家名が伝わることになった。その当時(赤穂事件は元禄14=1701年)の吉良家は、三家のうちのひとつであった」

 著者は高家の職務についても、以下のように述べます。

「高家の職務としては、ひとつは、幕府と朝廷を円滑につなぐ重責があった。命じられれば、幕府から朝廷への使者にもたつ。また、伊勢神宮や日光東照宮や久能山や鳳来山(東照宮)、寛永寺などへの将軍の代参行も職務であった。そして、京から勅使や院使が下ったときの接待役があった。そのとき、勅使や院使が大名に割りふられるので、具体的には、その指導役ということになる」

 さらに、将軍の就任行事や葬送儀礼にも深く関与することになりました。しかし、高家には典礼書・故実書の類が伝わらないとして、著者は以下のように述べるのでした。

「家譜は各家に残るが、その職務の委細は、ほとんど伝わっていないのである。秘事とされたのか、朝廷や将軍家への遠慮があったのか。もっとも、小笠原流でも『お止め流』という言葉を一部に伝えているので、こと将軍家に関与する礼法は、他へは漏らせないもの、としたのであろう」

 一般に、江戸時代に「武家礼法」は完成を見たとされています。宗家第32代当主の小笠原忠統氏(1919~1996年)は、むしろ大名づきあいが深まった町人の上層階級の需要が大きかったとして、次のように述べています。

「町人の側で経済的な力がつくにつれ、体系立った礼法、というよりも”格式のある礼法”が要求されるようになり、その基準として考えられたのが小笠原流礼法だった。ところが、小笠原流は”お止め流”である、一子相伝だったから、その全貌を知るにも行なうにも無理があった。そうなると世の要求に応じて、自称小笠原流の師範が輩出してくる」

   免許皆伝の書状を持つ小笠原忠統氏

   結婚披露宴で書状を渡される

 この小笠原忠統氏こそは、わたしの礼法の師であります。
 正確にいうならば、わたしの父の佐久間進が忠統氏の弟子で、わたしは孫弟子に当たります。でも、わたしが26歳で結婚したとき、その披露宴に忠統氏がお越しになり、直々に免許皆伝の書状を下さいました。
 自分の結婚披露宴ということで、ただでさえ緊張していたのに、雲の上の存在である宗家から免許皆伝の書状を頂戴し、わたしの緊張がピークに達したことを記憶しています。このことは事前にまったく知らされておらず、まさに最高のサプライズでした。

   「Well Being」1996年6月号

 そして、26歳のときに忠統氏から免許皆伝されたわたしは、その後も自分なりに小笠原流礼法の修行に努めてきました。1996年5月に忠統氏が逝去されたときは、葬儀にも参列させていただきました。そのとき、「礼法界の巨星堕つ!!」と痛感したことを記憶しています。葬儀の模様は、 サンレーグループ報「Well Being」に掲載されました。

 話を江戸時代に戻します。第五章「現代へと変転する『おじぎ』のかたち」では、江戸時代は武家礼法の発達を見ましたが、朝廷や将軍に対してのそれは厳格なものであったとして、著者は述べています。

「そこには、作法指南の高家がついていた。もう一方に、室町期からの武家故実・武家礼法の伝承を公認された小笠原家(三家系)と伊勢家による一般武士への教化もあった。とくに、小笠原家の系譜からは多くの諸礼家を生んでおり、そこから女性向けの礼法も派生した。
 しかし、それらは、武家社会のなかでの通用というもので、庶民社会にまで及んだかどうか。有形無形の影響を及ぼしたではあろうが、どこまで実用されたかには疑問がある。そこに、『上意下達』の形跡はみられない。庶民が、礼を失していたわけではない。それぞれの土地、それぞれの郎党ごとに、いうなれば『自然流の礼』、ここで主題とするところの『おじぎ』がかわされていたに相違ない。それは、近代以降にも伝わるのである」

 明治という国家は、国民全体に作法の統一を図ろうとしました。これについて、著は以下のように述べています。

「日本の歴史的な体質からしてそれが徹底できるはずもないのに、西欧的な近代国家にもならうという幻想を抱いた、というべきか。現在からみると、衆知を集め議論をつくした、とは思えないことであった。こうした自然流の礼法を無視するわけにはいかないのである。それは、武家礼法をもって均されることはなかったのである」

 それが、全国的に均されていくのは、明治時代になってのことでした。著者は以下のように述べます。

「宮本常一がいったように、『軍隊礼』の影響が大きかったであろう。新たに立礼が形式化されたのである。しかし、もう一方で、学校教育による礼法指導の影響が大きかった。これは、江戸期の座礼を受け継ぎながら立礼もとりいれたものであった。あらためて、注目しなくてはならない。その前に、神社祭式での統一がある。それが、明治初年における国家的な作法統一のはじめであった」

 また、「明治における神社祭式の統一」として、著者は述べています。

「神道儀礼では、笏が重要な用具となる。笏は、唐制の手板にならった、とされる。日本では、束帯を着用した場合の公家が威儀を整えるために用いはじめた。それが、今日ではほぼ神道儀礼のみに伝わる。
 笏は、身体に並行して右手に持つ。そして、伏するときや起するときには、笏に添うかたちをとると、姿勢が整えやすいのである。拝する前に笏を目線までもち上げるのも、揖のとき笏を両手で腹部に当てるのも、そのためである。その裏に備忘のために式次第など書いておくこともできる。笏は、まことに便利な用具なのである。なお、女性の神職の場合は、笏を用いず扇を用いる。これも、十二単で知られる平安貴族の女性たちの正装に準じたものである」

 日本で小学校教育が本格化するのは、明治10年代です。
 明治14(1881)年、小学校教則綱領(文部省達)が定まったことを紹介し、著者は以下のように述べます。

「そのなかで『修身』が重視されることになり、その一部に『作法』がとりいれられることになった。ここでは、礼法といわず作法という。これより『行儀作法』という言葉が一般化する。
注目すべきもうひとつは、『国語』の統一であった。王政復古による帝国日本は、一方で国民国家を標榜するものであった。そのためには、統制と統一が大儀となった。そこで、修身教育が重要とされたのだ。のちにいう道徳教育である。そのなかで、作法を均すことと言葉を均すことが重点的にとりあげられたのである」

 さらに「三三九度の媒酌は無垢な子どもの役目」として、著者は以下のように述べています。

「直会も盃事・式献も『礼講』である。礼講は、ほとんど死語と化しているが、礼講があればこそ無礼講があるのである。現在、神前結婚式にかろうじてその形式が伝わる。女夫固めの三三九度(三つの盃を三口ずつで、三×三が九)には、めでたい肴が三品ついての式三献である。そして、それを略しての親族固めの盃事が続く。これが礼講である。そして、その後に場所を移しての披露宴が無礼講に相当する」

 さらに「軍隊礼は文明的な作法」として、著者は述べています。

「現在、軍隊の礼式は、自衛隊礼式としておおむね受け継がれている。それは、『自衛隊の礼式に関する訓令』(昭和39=1964年、防衛庁訓令)などにもとづいている。挙手をともなわない礼も敬礼という。上体を傾ける角度により最敬礼(45度)・敬礼(30度)・礼(15度)の三種がある。それは、本書でいう立礼のおじぎに通じるものであるが、それも近代での国民礼法として普及をみている」

 続いて、著者は軍隊礼について、以下のように述べます。

「同じ敬礼でも、帽子をかぶっての挙手礼と帽子を脱いでの屈体礼があるのだ。そして、敬礼に対しては、それを受けての答礼がある。よく知られるのは、国王や元首が他国を訪問したとき、一列になって歓迎の敬礼を行なう人たちの前を通るときである。挙手をなして通る場合もあれば、右手を左胸に当てて通る場合もある。それが答礼である。そうした立ち位置での敬礼と答礼は、ほぼ全世界に共通する。ということでは、軍隊礼もふくんで、文明的な作法といえるのである」

 さらに「芸事や武芸の『おじぎ』の風景から」として、芸事における礼について、著者は「いわゆる芸事は、座礼をともなう。いちいち事例をあげないが、正式には着物でのぞむことが多い。小笠原流の礼法でいうところの指健礼・折手礼・合手礼の三種のおじぎが役目にしたがって応用される。あるいは、茶会をのぞいてみれば、あるいは日本舞踊の稽古場をのぞいてみれば、一目瞭然のことでもある」と述べています。

 また、スポーツにおける礼についても、著者は「スポーツ競技でのおじぎは、開始時と終了時に顕著である。双方が一礼をもって尊譲の意を表すのだ。『礼にはじまり、礼におわる』とは、このことをいう。たとえば、柔道がオリンピック競技になった。そこでも、相互礼がかわされる。このところで、おじぎが国際化したのである」と述べています。

 そして、礼は「三息」ということを忘れてはならないとして、著者は「吸う息で体を屈し、吐く息の間は静止、また吸う息で体を起こす。長くおじぎをしていればよい、というものでもない。とくに、体を起こしたときの息づかいや目付けが大事である。そこでホッとして、だれる人も多い。注意すべきことであろう」と述べるのでした。

   『人間関係を良くする17の魔法』(致知出版社)

 拙著『人間関係を良くする17の魔法』(致知出版社)で、わたしは「おじぎ」について詳しく書きました。「おじぎ」は、相手に心を通わせるためのものです。でも、こんな姿をよく見かけます。相手に会って双方が「おじぎ」をします。あちらが頭を下げているのに、こちらは、もう頭を上げている。また、こちらは、ていねいに深々と頭を下げているのに、先方は頭を上げている。これでは、心は通っていないのと同じです。正しいお辞儀、心の通うお辞儀をするには相手とタイミングを合わせることも大切ですね。

   2016年11月18日 サンレー創立50周年記念式典

 わたしのブログ記事「一同礼!」で紹介したように、わが社では全員が一斉に「おじぎ」をする「一同礼」を重視しています。「礼」を最も重視した人物こそ孔子です。孔子が目指した道徳的・政治的改革は、一般の人間をすぐれた人間としての「君子」に変える方法のことであり、一種の全体教育と呼ぶべきものでした。道にそった儀礼的行動をとることができるなら、つまりは礼を正しく行うことができるなら、誰でも君子になることができるというのです。

   2017年1月17日 サンレー沖縄新年祝賀式典

 いま、パソコンとスマホやタブレット間で「データを同期させる」ことができます。この「同期」とは、2つ以上の異なる端末同士で、指定したファイルやフォルダを同じ状態に保つことができる機能です。パソコン上のメールやスケジュールをスマホに同期させれば、スマホ上でも全く同じ内容を確認することできます。どちらか一方に保存したデータやクラウド上にあるデータなどを比較することで最新の状態に同期させることができるのです。つまり、同期させることのメリットは、パソコン上にあるデータをクラウド上やスマホに手軽にバックアップを取ることができることです。

   2017年1月24日 サンレー北陸新年祝賀式典

 まさに会社儀式とは、この「同期」と同じなのです。
 わが社の「経営理念」「S2M宣言」が絵に描いた餅とならないためにも、「一同礼!」という身体動作で毎日「同期」させていく必要があるのです。さらに節目においては「初期設定」の確認と「アップデート」の実践が重要です。多様な会社儀式は、経営者と社員の皆さんが「同期」しているかを確認するための行為といえるでしょう。そして、その最たる行為が全員で息を合わせて「おじぎ」する「一同礼」なのです。

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