No.1480 プロレス・格闘技・武道 『アリ対猪木』 ジョシュ・グロス著、棚橋志行訳、柳澤健監訳(亜紀書房)

2017.09.06

 「アントニオ猪木参院議員が7日に訪朝」という記事をネットで見つけ、仰天しました。9日の北朝鮮建国記念日に合わせた訪問で、朝鮮労働党幹部ら要人との会談を調整しているそうです。北朝鮮の核実験やミサイル発射を強行する中での訪問に各方面から驚きの声が上がっています。猪木氏は、訪朝の理由について「どんな場合でも(対話の)ドアを閉めるべきではない。こういう緊張状態から対話に向かえば良いと思っている」と説明していますが、相変わらず行動力がマジパネェ!

 猪木氏の訪朝といえば、1995年を思い出します。その年、猪木氏は平壌で開催された「平和の祭典」のメインイベントでリック・フレアーとプロレスの試合を行いました。じつに19万人の大観衆を熱狂させましたが、そのときの立会人がプロボクシング史上最高の選手であるモハメド・アリでした。
 アントニオ猪木とモハメド・アリは、1976年6月26日に東京の日本武道館でリアルファイトで闘って以来、堅い友情で結びついていたのです。
 『アリ対猪木』ジョシュ・グロス著、棚橋志行訳、柳澤健監訳(亜紀書房)を読みました。「アメリカから観た世界挌闘史の特異点」というサブタイトルがついています。伝説の対戦から40年以上が経過した今でも、わたしは、アリと猪木が闘った「あの日」を思い起こすと胸が熱くなります。
    本書の帯

 本書の帯には「世界最高峰の舞台、UFCを産み落とした『禁断の果実』。歴史的一戦の裏側に迫る米国発のノンフィクション!!」「『1976年のモハメド・アリ』とも言うべき作品だと思う。柳澤健」と書かれています。

    本書の帯の裏

 また帯の裏には、「素晴らしい取材、価値ある証言というほかない。(巻末解説より)」「仕掛けたのは、全米の覇権を目論むWWWFのビンス・マクマホン。ボクシング界のボブ・アラムは、革新的な衛星中継で巨利を狙った。14億人が目撃した『MMA(総合格闘技)の原点』に新たな光を当てた一冊!」と書かれています。

 さらに、カバー前そでには以下のように記されています。

なぜ、アリはレスラーと戦ったのか?
なぜ、米国マット界は団結したのか?
なぜ、シュートマッチになったのか?
なぜ、猪木は勝てなかったのか?
なぜ、MMAはその後繁栄したのか?

 本書の「目次」は、以下のようになっています。

「序文―バス・ルッテン」
1 世紀の一戦、ゴング直前
2 ボクサー対レスラーの長い歴史
3 ”ゴージャス”ジョージとカシアス・クレイ
4 力道山が築いたプロレス王国
5 「モハメド・アリ」の誕生
6 意志と実行の男、アントニオ猪木
7 1975―1976年のモハメド・アリ
8 アリ来日とルール会議
9 シュートか、ワークか
10 ビンス・マクマホン・ジュニアの野望
11 世界が見つめた1時間
12 爆弾を抱えたアリの脚
13 草創期のMMAとローキック
14 アメリカのUFC、日本のPRIDE
15 猪木へのメッセージ 「謝辞」
「解説―柳澤健」

 「序文」では、元UFC王者にして元キング・オブ・パンクラシストのバス・ルッテンが以下のように述べています。

「本書は打撃とサブミッション、それぞれの名手が対決する話だ。ふたりとも、それぞれの分野のトップレベルにあった。アリがパンチを当てればそこで試合は終わる。当たらなければ、猪木がアリをつかまえ、そこで試合は終わる。どちらの側にもミスが許されなかった」

 続けて、ルッテンは以下のように述べています。

「いずれにしても、アリ・猪木戦は歴史に残る重要な試合だったと思う。アリは大きな危険を冒した。なぜなら、いまボクサーが『自分は世界最高のファイター』と言ったら、俺はかならず、『いや違う。お前は世界最高の”ボクサー”だ』と言うからだ。最高のファイターとはどんな体勢で戦っても、つまり、立っても寝ても強い人間のことだから、アリがパンチを当てそこなって、グラウンドに引きずりこまれていたら、大変なことになっていただろう」

 1「世紀の一戦、ゴング直前」では、「マクマホン・シニアがアリに言ったセリフ」として、アリは猪木戦がプロレス界の隠語である”ワーク”に落ち着くことを望んでいたということが明かされます。ワークとは、あらかじめ筋書きや結果がきまっている試合です。ところが、アメリカ・プロレス界の長老ビンス・マクマホン・シニアがアリに「わざと負けろ(スローしろ)」と言って以来、その話はなくなったといいます。アリは首を縦に振らなかったのです。

 マクマホンの発言について、著者は詳しく述べています。

「マクマホンはアリに、グラウンドに倒されてフォールされるのが利口だと言った。自分を倒せない男の足下にひれ伏したりはしない、とボクサーは答えた。人気の絶頂にあったアリが筋書きのある結果より真剣勝負のリスクを選んだ事実は、競技者としての矜持を物語っている」

 2「ボクサー対レスラーの長い歴史」では、以下のように書かれています。

「偉大なボクサーと戦おうとした偉大なレスラーの事例は数多い。それに比べると、偉大なボクサーが偉大なレスラーと戦おうとした事例ははるかに少ないが、アリの頭の中にはその考えがあったらしい。もちろん、猪木の申し出に対する関心は大金が支払われることが前提だった。しかし、大のプロレスファンだったうえ、ボクサーとレスラーのどっちが強いという議論にまだ決着はついていないと考えていたアリにとって、この話には抵抗しがたい魅力があった。特に後者は真実だ、と彼は語っている。彼くらい優秀なボクサーが全盛期に最高の”レスラー”と対決することはまずなかったからだ。しかし、どんなことになるかはそれほど謎でもなかった。記録に残っている異種格闘技戦ははるか古代にさかのぼり、アテネとローマが文明の揺りかごだった時代、持てる技術をすべて使ってかまわない条件下ではグラップラーが圧倒的に有利だった」

 14「アメリカのUFC、日本のPRIDE」では、「第一回UFC前夜にも紛糾したルール会議」として、著者は以下のように述べています。

「UFCの出現は、格闘技界にとって重要な分岐点だった。1993年11月12日、人間がわが身を守るにはどうするのは一番か、という命題に関わる、文字どおりの兵器開発競争が始まった。金網で囲まれた八角形の闘技場”オクタゴン”は、格闘スポーツに初めて採用された器ではなかったが、戦いに最も有効なのは何かという概念を洗練させた場であることはたしかだし、多くの人が知っているつもりでいたことが誤りであることもわかった。ハリウッドの伝説的映画監督兼脚本家ジョン・ミリアス(『コナン・ザ・グレート』『ジェロニモ』『ダーティー・ハリー』などに携わった)の協力で形作られたこの象徴的な闘技場では、無力な戦い方は押しつぶされ、排除された」

 続けて、著者はUFCに代表されるMMAについて述べます。

「総合格闘技(MMA)の戦術・技術が大きく成長したのは、グラウンド状態からどうすれば勝てるかが明らかになったおかげだ。それはホイス・グレイシーをはじめとするブラジリアン柔術の教えが、猪木とはまったく異なる径路で[20世紀初頭の]歴史を再起動し、世界の目を開かせたからだった。知識はまたたく間に拡散し、寝技―グラウンドベースの戦いを指す柔道用語―の格差は急速に縮まった。これに触発され、独特な方法で革新を起こそうとする者たちもいた。つまり、アリが1976年に携えてきたボクシングの技法をグラップラーやキッカーに対しても使えるよう、スタンスや距離などすべてを洗い直したのだ」

    『儀式論』(弘文堂)

 アリ対猪木戦とは何だったのか。著者は「全米ライブイベント会場で売られたプログラム」として、以下のように述べています。

「ボクシングの世界ヘビー級王者と日本のヘビー級トップレスラーの一戦は、プロレス界がアメリカ建国200年に捧げる敬礼である―クローズドサーキットの映像が流れる前にプロレスのライブイベント会場で売られたプログラムの表紙には、そんなことが書かれていた」

 これは、わたしも知りませんでした。でも、アリ対猪木戦がアメリカ建国200年を祝う儀式であったという見方は重要であると思います。あの試合はリアルファイトであると同時に、たしかに神事のように見えました。その昔、日本を代表する格闘技である相撲が神事であったように・・・・・・。
 ちなみに、プロレスというジャンルそものものも、きわめて儀式的であると思います。わたしには『儀式論』(弘文堂)という著書がありますが、いつの日か、『儀式としてのプロレス』という本を書きたいと考えています。

 さて、ついに実現したアリ対猪木戦では、15ラウンドにわたって、猪木は寝たままアリの脚を蹴りまくりました。15「猪木へのメッセージ」では、「モハメド・アリ最後の7試合」として、著者は以下のように述べています。

「猪木戦の遺産について、あの試合で失われたもの、得られたものは何なのかが議論の的になることはほとんどない。アリが東京で傷を負ったのは現実なのに。フレイジャー戦の影響なのか、猪木戦で脚に受けたダメージのせいなのか、それとも長いボクシング人生が肉体にもたらす当たり前の代償だったのか、ただそうなっただけなのか理由はわからないが、アリは猪木戦後の5年間で7試合を行うも、相手から1度もダウンを奪っていない」

 モハメド・アリとアントニオ猪木に共通するものは何か。
 それについて、著者は以下のように述べています。

「アリと猪木に共通するのは、既存のルールにしたがおうとしなかったことだ。自分の必要に合わせて思うがままに活動した。これは真の先駆者に共通する行動様式で、アリと猪木にその資質が備わっていた点は疑いようがない。アリの反逆児的傾向は、よく理解されているアメリカ人気質と説明することもできる。一方、日本人・猪木がレスリングや政治や人生で見せた破壊的性質は、常識的には突破するのが難しいとされる境界線を押し広げた。日本政府からの叱責など代償を払うことはあったにせよ、アリと同じく猪木も、舞台の照明が明るければ明るいほど力を発揮するタイプだ」

 そして、「1998年のアリと猪木」として、1998年に東京ドームで行われた猪木の引退セレモニーで、アリのメッセージが披露される場面が紹介されます。代読で、以下のようなアリのメッセージが読み上げられました。

「アントニオ猪木と武道館で戦ったのは1976年のことでした。私たちは強豪どうしとしてリングに上がりました。その後、私たちはたがいに尊敬しあい、愛と友情を築き上げました。それだけに、このたびアントニオ猪木が引退することになったのは、少し寂しい気がします。あれから22年の時を経て、よき友人とともにリングに立てたことを光栄に思います。私たちの未来は明るく、明確な見通しがある。アントニオ猪木と私は男女の性別、民族の違い、文化の違いを超えて人類はひとつであることを証明するため、スポーツを通して世界平和の推進に最大限の努力を払います。本日はここに来られたことを心から光栄に思います。アントニオ猪木、お疲れ様でした、どうかお元気で」

 アリ対猪木戦のことは、よく記憶しています。わたしは中学1年生でした。
 試合は土曜日の昼間に行われ、米国へも衛星生中継されました。日本ではその日の夜にも再放送され、昼夜合わせて視聴率は50%以上を記録しました。本当はわたしは学校を休んで昼間のテレビ観戦をしたかったのですが、親が許してくれませんでした。今から思えば、なぜあれほど話題性のある(視聴率が取れる番組)を土曜の夜か、日曜日に行わなかったのでしょうか。当時は今のように週休二日は普及しておらず、土曜日はみんな学校や会社に行っていたのです。また、今のようにネットが発達していたら、昼間の試合結果はすぐ情報拡散して、夜の番組では視聴率が望めなかったでしょう。

 そんなふうに思っていたところ、『永久保存版 アントニオ猪木vsモハメド・アリ40周年記念特別号』週刊プロレス責任編集(ベースボールマガジン社)を読んで、長年の謎が解けました。同書の「猪木VSアリはすべての原点である」という記事に以下のように書かれていたのです。

「当日のゴングは米国のゴールデンタイムに合わせて午前11時50分に設定され、米国、カナダ、英国の約170カ所でクローズドサーキットも実施された。つまり日本よりも海外での生中継が最優先されたことになる。よって日本では昼の時間に中継された後、夜にも再放送(!)。なおかつNHKのニュースでも報じられたことを考慮すると、日本のみならず世界規模で非常に注目度の高い一戦だったことは間違いない」

 試合は、猪木が寝転がった状態からアリの足に蹴りを仕掛け、アリのパンチが届かず攻めあぐねる展開でした。結局、両者決め手に欠け、15ラウンド引き分けに終わりました。 当時、ルール説明の不徹底から酷評された一戦も、アリ側からの厳しい要求によるルール上の制約があったためで、猪木側にとっては不利なルールであったことがのちに判明しています。現在の総合格闘技でも、片方が寝て、片方が立っている状態を「猪木・アリ状態」と表現し、寝ている選手が放つ蹴りは「アリキック」と呼ばれています。
 いま、DVDで「世紀の一戦」を観直すと、15Rをひたすら寝て闘う猪木の姿に感動すら覚えます。

 じつは、アリは猪木戦以外にもプロレスの試合を何度も行っていました。
 アリは幼少の頃より大変なプロレスファンだったと自伝にも書いています。
 アリ少年のアイドルは「吸血鬼」「銀髪鬼」と恐れられた大ヒールのフレッド・ブラッシーでした。後年のアリのビッグマウスは、ブラッシーから影響を受けたとされています。熱心なプロレスファンであったアリは、プロレスの仕組みを熟知していました。アリと戦ったレスラーたちは、アリに完敗することを事前に義務づけられたワークをリング上で演じたのでした。

 アリは、当然ながら猪木戦も同じようなワークをやるものだと思って来日にしたといいます。しかしながら、猪木はアリと真剣勝負で闘う決意であることを知り愕然とします。アリは、自分が負けるとは思っていないにしても、万が一ケガをさせられては大損害だと焦りました。その結果、アリ陣営が猪木に突き付けたのが、かの「がんじがらめルール」でした。華やかには欠けたものの、世紀の一戦は、正真正銘のセメントマッチ(真剣勝負)だったのです。紛れもなく、MMA(総合格闘技)の原点でした!

 この読書館でも紹介した『1976年のアントニオ猪木』で、著者の柳澤健氏は猪木・アリ戦について詳しく書いています。その柳澤氏は現在発売中の「ゴング」14号で「『INOKI 1976』最新の語り部が猪木VSアリ戦の深層を語る。」として、同誌のインタビューに答えています。そこで柳澤氏は、「アリには”殺してしまうかも”という恐怖があり、猪木には”ヘビー級チャンピオンのパンチをまともに食らったらどうなるかわからない”という恐怖があった。そこに踏み込む猪木さんはやっぱり凄いよ!」と語っています。

 また、同じインタビュー記事で、柳澤氏は以下のようにも語ります。

「40年前に、レスラーとボクサーの真剣勝負が存在して、しかもやったのがアントニオ猪木とモハメド・アリだったということが凄い。UWFもPRIDEも、みんな猪木vsアリの延長線上にある。総合という概念を生み出した佐山(サトル)さんの発想だって、猪木さんの異種格闘技戦が原形なんだから、偉大としかいいようがない」

 わたしは、この柳澤氏の発言に100%同意します!
 わたしのブログ記事「世界最強の男」にも書きましたが、わたしは幼少の頃から強い男に憧れていました。「柔道一直線」の主人公・一条直也に憧れ、「空手バカ一代」の大山倍達に憧れ、ウルトラマンや仮面ライダーに憧れました。
 誰の発言だったかは忘れましたが、「男は誰でも、最初は世界最強の男を目指していた」という言葉が強く印象に残っています。
    「世界最強の男」に憧れていました!

 小さい頃、男の子は誰でも強くなりたいと願う。それが叶わないと知り、次に「世界で最も速く走れる男」とか「世界で最も頭のいい男」とか、長じては「世界で最も女にモテる男」や「世界で最も金を稼ぐ男」などを目指す。つまり、世界最強の男以外の「世界一」はすべて夢をあきらめた落ちこぼれにすぎないのだという意味ですね。極論のようにも思えますが、「速さ」や「賢さ」や「魅力」や「金儲け」などより、「強さ」こそは男の根源的にして最大の願望であることは事実かもしれません。

 わたしのブログ記事「アリよさらば!」にも書いたように、2016年6月4日、プロボクシングの元世界ヘビー級王者モハメド・アリが、アメリカ・アリゾナ州の病院で死去しました。死因は敗血症性ショックとのことで、74歳でした。
 「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と形容された流麗なフットワークと切れ味鋭いジャブを駆使したボクシングで観客を魅了しました。また、相手を挑発し、大言壮語を繰り返す言動から「ほら吹きクレイ」とあだ名されました。
 わたしも小学生の頃、アリの大ファンでした。

 アリの死去を受け、アントニオ猪木氏が都内で会見しました。
 猪木氏は「アリ氏のご冥福をお祈りしたい。とにかく元気に旅立ってほしい」と弔い、かつての敵との思い出を明かしました。
 世紀の一戦の後、2人は親交を深めました。猪木氏は、アリの結婚式に招待された時に2人で交わした言葉が今でも心に残るといいます。猪木氏に対してアリは「お互いあれでよかったよな」と言い、猪木氏は「俺もそう思う」と言ったそうです。猪木氏は記者会見の場で「(試合直後は)彼はお遊びだと言っていたが、あれは彼の照れ隠しだったんだと思う。素直にお互いを認め合って、『あんな怖い試合はなかったよ』と彼が言ってくれて。俺自身も大変な緊張と興奮、怖さもあった」と懐かしそうに振り返りました。

 1976年6月26日、プロレスラーのアントニオ猪木とプロボクサーのモハメド・アリが「格闘技世界一決定戦」を行いました。そんな記念すべき日を、日本記念日協会が「世界中が注目し、その偉業は現在へ続く全世界レベルでの総合格闘技の礎となった試合」と評価し、正式に記念日に制定しました。
 しかし、ちょうど40周年となる記念日を待たずして、その20日前にアリは天国に旅立ったわけです。しかし、両雄の勇気は永遠に讃えられるでしょう。そして、どうか、この日本において格闘技ブーム、プロレスブームがもう一度起こることを心から願っています。

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