No.1463 哲学・思想・科学 『宇宙が始まる前には何があったのか?』 ローレンス・クラウス著、青木薫訳(文春文庫)

2017.07.28

 わたしは、ときどき「宇宙」に関する本を読むように努めています。
 日々の生活で狭くなってしまった「こころの視野」を拡げるためです。
 『宇宙が始まる前には何があったのか?』ローレンス・クラウス著、青木薫訳(文春文庫)を読みました。著者はアメリカの宇宙物理学者です。アリゾナ州立大学で「起源プロジェクト」を創設し、率いています。一般向けに科学の研究成果を精力的に発信しているほか、リチャード・ドーキンスとともに神学者や哲学者とディベートも行っています。

   本書の帯

 本書の帯には、「『種の起源』に匹敵! 宇宙論のパラダイムシフト。」「宇宙物理学の最先端を平易に語ったベストセラー」「リチャード・ドーキンス推薦!」と書かれています。
 また帯の裏には、以下のように書かれています。
・ビッグバンの前には何もなかったのか?
・宇宙は加速しながら膨張しており、やがて高速を超える。
・99パーセントの宇宙は見えない。
・未来になれば宇宙の観測は困難になる。
・いかにして「無」からエネルギーが生じたのか?

    本書の帯の裏

 さらにカバーの裏には、以下のような内容紹介があります。

「私たちのいる宇宙はビッグバンで誕生した。では、宇宙は『無』から生まれたのか? 物質と反物質のわずかな非対称が生んだ私たちの宇宙。なぜ『無』からエネルギーが生じたのか。宇宙はいかにして終わりを迎えるのか。気鋭の宇宙物理学者が最先端の研究成果をもとに、宇宙の意外な姿をわかりやすく描き出す。解説・井手真也」

 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。

ペーパーバック版へのまえがき  「宇宙は無から生じた」
はじめに「何もないところから、何かが生まれなくてはならない」
第一章 いかに始まったのか?
第二章 いかに終わるのか?
第三章 時間の始まりからやってきた光
第四章 ディラックの方程式
第五章 99パーセントの宇宙は見えない
第六章 光速を超えて膨張する
第七章 二兆年後には銀河系以外は見えなくなる
第八章 その偶然は人間が存在するから?
第九章 量子のゆらぎ
第十章 物質と反物質の非対称
第十一章 無限の未来には
エピローグ「宇宙が始まる前には何があったのか?」
あとがき「『種の起源』に匹敵する、宇宙論のパラダイムシフト」 リチャード・ドーキンス
「筆者との一問一答」
「訳者解説」青木薫
「解説」井手真也

 はじめに「何もないところから、何かが生まれなくてはならない」の冒頭で、著者は「宇宙が誕生したからには、造物主が存在するはずだ」という、あらゆる宗教の基礎にある信念を支持していないと告白し、さらに次のように述べています。

「寒い冬の朝に舞う雪から、夏の日の夕立の後の空にかかる虹まで、何かしら美しくて奇跡的なものが、日々、ふいに目の前に現れる。しかし、熱烈な宗教的根本主義者でもないかぎり、そうしたもののすべてを、知性をもつ神的な存在が愛情を込めてひとつひとつ作り上げたのだとは思わないし、ましてや、何らかの目的があってそれらを作ったのだとは言わないだろう。むしろ、科学者ばかりか一般の人たちの中にも、雪の結晶や虹は、シンプルかつエレガントな物理法則に従って、自発的に現れているのだと説明できることを喜ばしく思う人は多いのである」

 また、著者は「宇宙が誕生したからには、造物主が存在するはずだ」という考え方について以下のように述べています。

「結局、深く思索する人たちは、プラトンやアクィナス、そして現代のローマ・カトリック教会が言うであろうように、あらゆる物事には究極の原因が必要だという結論に追い込まれ、何か神的なものが存在するはずだと考えるようになる。その神的な存在は、今日存在するものすべてと、これから存在することになるものすべてを創造した、永遠にして普遍なる者である。
 しかし、究極の原因があると仮定したところで、『では、すべてを創造したとたいうその者を、いったい誰が作ったのか?』という問題は未解決まま残される。そもそも、すべてを創造したものが永遠に存在しているのと、そのような造物主なしに宇宙が永遠に存在しているのとでは、どこが違うのだろうか?」

 当然ながら「神」の問題に直面しますが、著者は述べます。

「神をもち出せば、原因が無限に後退するという問題を回避できそうに思えるかもしれないが、ここでわたしはいつもの呪文を唱えよう。『宇宙は、われわれが好むと好まざるとにかかわらず、あるようにある』。造物主が存在するか否かは、われわれの願望とは関係がないのだ。神もなく目的もない世界は、厳しく無意味に思えるかもしれないが、だからといって神が存在するという証拠にはならないのである。
 同様に、われわれの人間の頭脳にとって、無限を理解するのが難しいからといって(とはいえ、われわれの頭脳の産物である数学は、かなり上手に無限を扱うのだが)、無限は存在しないという話にはならない。この宇宙は、空間的あるいは時間的に、無限に広がっているかもしれない。また、かつてリチャード・ファインマンが言ったように、物理法則は無限に重なるタマネギの皮のようになっていて、新しいスケールの領域を探るにつれ、そこでは別の法則が成り立っていることがわかるかもしれない。要するに、まだわかっていないのだ」

 そして著者は、本書の目的を述べるのでした。

「本書の目的は、ごく簡単なことだ。今日の科学は、『なぜ何もないのではなく何かがあるのか』という問題に、さまざまな角度から取り組めるようになっているし、現に取り組みが進んでいるということを知ってほしいのである。そうして得られた答えはどれも―それらは驚くばかりに美しい実験で観察され、現代物理学の屋台骨というべき理論から導かれたものだ―何もないところから何かが生じてもかまわないということをほのめかしている。かまわないどころか、宇宙が誕生するためには、何もないところから何かが生まれる必要がありそうなのだ。さらには、得られている限りの証拠から考えて、この宇宙はまさしく、そうやって生じたらしいのである」

 第四章「ディラックの方程式」では、著者は、「時間を逆行する電子」として、以下のように述べています。

「伝説的な物理学者のリチャード・ファインマンは、相対性理論によれば反物質が存在することになるのはなぜかを、わかりやすく説明した最初の人物だった。そしてその説明は、空っぽの空間がじつは空っぽなどではないということを、絵で示す方法にもなったのである。
 ファインマンは、相対性理論によれば、異なる速度で運動する2人の観測者が距離や時間を測定したとすれば、それぞれ異なる結果を得ることを知っていた。たとえば、非常に大きな速度で運動している物体の時間は、ゆっくり流れているように見える。そして、もしも物体が光の速度よりも大きな速度で運動できるとしたら、その物体は時間を逆行するように振る舞うだろう。普通、光の速度は宇宙の制限速度だと考えられているが、それはこのためなのである」

 第五章「99パーセントの宇宙は見えない」では、著者は、新しい人工衛星のおかげで、古い星に含まれる元素の存在量についての情報が得られ、星の進化に関するデータが改善されたことを紹介します。それらのデータを用いて、シャボイヤーと著者は2005年に、宇宙の年齢の推定値は信頼性が上がっており、110億年よりも若いという可能性は除外されたことを示しました。
 著者は、「暗黒エネルギーの存在」として、以下のように述べます。

「宇宙がそれだけ古いということは、空っぽの空間にかなりのエネルギーが含まれていない限りありえない。しかし、そのエネルギーが宇宙定数として表われるようなものだという保証はないので、銀河の物質の大部分を占めている目に見えない物質を「暗黒物質」と呼ぶのに倣い、空っぽの空間のエネルギーを『暗黒エネルギー』と呼ぶようになっている」

 宇宙の年齢に対するこの推定値は、2006年頃には大幅に改善されました。WMAP衛星を使って、宇宙マイクロ波背景放射が高い精度で観測され、ビッグバンから経過した時間を精密に測定できるようになったためです。著者は「今日われわれは宇宙の年齢を有効数字4桁で知っている。宇宙は137億2000万歳なのだ!」と述べます。
 2005年に上梓した拙著『ハートフル・ソサエティ』(三五館)の「神化するサイエンス」に、わたしは「10年前に『宇宙の年齢は何歳ですか』と専門家にたずねても、『まあ、100億年か200億年ですかね』という答しか返ってこなかった。実に、有効数字が1桁もないような状況だったのである。それが、いまや『137億年です』という3桁の数字で答えられるようになったわけだから、本当にすごいことである。宇宙を一冊の古文書として見るならば、その解読作業は劇的に進行している」と書きました。

 次に起こった科学上の大躍進は、宇宙の時間が経過するにつれて、物質(具体的には銀河)がどのように寄り集まったかが、観測から正確にわかるようになったことでした。著者は、以下のように述べています。

「銀河の集まり方は、宇宙の膨張速度によって異なる。というのは、銀河を寄せ集める引力が、銀河を引き離すように作用する宇宙の膨張と張り合わなければならないからである。空っぽの宇宙に含まれるエネルギーの値が大きければ大きいほど、それが宇宙のエネルギーの大部分を占めるようになる時期は早まり、膨張が加速するせいで、大きなスケールで重力収縮がストップする時期も早まることになる」

 第九章「量子のゆらぎ」の冒頭を、著者は以下のように書きだします。

「あらゆる時代を通じて、もっとも偉大な物理学者であろうアイザック・ニュートンは、われわれの宇宙観をいろいろな意味で大きく変えた。しかし彼が宇宙論になした最大の貢献は、全体としての宇宙を説明できるかもしれないという可能性をみせつけたことではないだろうか。ニュートンは万有引力の法則を使って、天さえも自然法則の力に屈していることを示したのである。宇宙は、とらえどころがなく、われわれに牙を剝き、恐ろしげで、気まぐれに見えるかもしれないが、おそらくはそのようなものではないということだ」

 わたしは、2008年に上梓した『法則の法則』(三五館)で、万有引力の法則こそは「史上最大の法則」だとして、ニュートンを「法則王」と呼びました。続けて、著者は以下のように述べています。

「もしも不変の法則が宇宙を支配しているなら、古代ギリシャやローマの神々は無力だったことだろう。世界の成り行きを勝手に変更しては、人間を厄介ごとに巻き込んだりはできなかったはずだ。そしてゼウスについて言えることは、ユダヤ=キリストの神についても言える。太陽が天空を渡るのは、太陽が地球の周りをめぐっているからではなく、じつは地球が自転しているからだとしたら、昼間に太陽の動きを止められるはずもない。もしも、地球が突然に自転を止めたりすれば、地球の表面にはすさまじい力が生じ、人間が作った構造物も、人間自身も、あらゆるものが破壊されてしまうだろう」

 さらに続けて、著者は以下のように述べています。

「もちろん、奇跡を起こすということは、自然を超えるということだ。つまるところ奇跡とは、自然法則が働くべきところで、働かないようにさせることなのだから。自然法則を作ることのできた神なら、自然法則を好き勝手に無効にすることもきっとできるのだろう。しかし、たとえそうだとしても、奇跡を記録することのできる現代的な通信ツールのない数千年前には、思いのままに自然法則を操っていた神々が、今はまったく自由がきかないらしいのは、やはり不思議なことだろう」

 第十章「物質と反物質の非対称」では、「アインシュタインのいう神とは」として、かつてアインシュタインは、彼が自然について本当に知りたいのは何であるかについて語ったことが紹介されます。著者いわく、それは多くの科学者が、できることなら答えたいと思っている深くて基本的な疑問でした。アインシュタインは「わたしが知りたいのは、神が宇宙を創造したときに、他にも選択肢はあったのかということだ」と述べたのでした。
 著者は、アインシュタインの言う神は、聖書の神ではないとして、「宇宙に秩序が存在することに驚異の念を抱いていたアインシュタインは、スピノザに触発されて、心惹かれるその秩序に対し、『神』という名前を与えたのだった」と述べています。

 続けて、著者は、アインシュタインについて述べます。

「ともかく、アインシュタインがこれによって言わんとしたのは、これまで何度か取り上げた次の疑問だった。『自然法則は、今のようなものでしかありえなかったのだろうか? その法則の結果として生じたこの宇宙は、このような宇宙でしかありえなかったのだろうか? この宇宙の特徴をひとつでも変えたら―たとえば定数の値、あるいはどれかの力の値をほんのわずかでも変えたら―宇宙という壮大な構造物は崩れ去るのだろうか? 生物学の場合について言えば、生命はこのようなものだけしかありえなかったのだろうか? われわれは宇宙の中で、このようなものとしてしか存在できなかったのだろうか?』」

 第十一章「無限の未来には」の冒頭を、著者はこう書きだしています。

「宇宙創世にまつわる最大の問題は、宇宙が生まれるための条件を作るには、宇宙の外側にあらかじめ何かが存在している必要がありそうなことだ。たいていはその必要性から、神―空間と時間、そして物理的宇宙から隔絶して、いっさいの外側に存在し、ものごとを動かす者―という概念が生じることになる。なぜなら、何者かがその仕事を引き受けるしかなさそうに見えるからだ。しかしそんな『神』は、宇宙創世という深い問題に対する、手っ取り早い意味のすり替えにすぎないようにわたしには思われるのである」

 また、著者は、アリストテレスを取り上げて、以下のように述べます。

「アリストテレスは、神すなわち第一原因という考えに納得せず、第一原因というプラトンの説には問題があると考えていた。なぜならアリストテレスは、いかなる原因にも、それに先立つ原因があるはずだと考えていたからである。そしてそこから、宇宙は永遠でなければならないという説が出てきたのだった。逆に、神はあらゆる原因の原因であり、たとえ宇宙は永遠でなくとも神は永遠だと考えれば、どこまでも続く『なぜ』という疑問は、なるほどそこで終わるだろう。しかしすでに述べたように、『なぜ』の連鎖を終わらせる代償として、最初の原因が必要だということ以外になんら根拠のない、驚くべき全能の存在を持ち込むことになるのである」

 続けて、これについてはもうひとつ、強調しておくべき重要な点があるとして、著者は「宇宙」と「神」について述べます。

「始まりがある宇宙はどんなものであれ、論理的には、明らかに第一原因を必要としているということ、そしてそれはまぎれもなく問題だということだ。したがって、論理だけを使ったのでは、理神論者〔神は宇宙を創造するだけで、それ以外の介入はしないという考え方を信じる者〕の奉じる自然観が正しいという可能性を排除することはできない。しかしその場合でも、理神論者のいう神と、世界の大宗教が奉じる人格神とのあいだには、論理的には何のつながりもないことを理解しておくことは重要だ。同様に、理神論者は、自然界に秩序を打ち位てるためには、圧倒的な知性がどうしても感要だと考えるが、聖書に描かれるような人格神が必要だとは考えないのが普通である」

 さらに、人間にとっての宇宙像について、著者は述べます。

「アリスFテレスもアクィナスも、銀河系の存在を知らなかったし、ましてやビッグバンも量子力学も知らなかった。したがって彼らや、その後の中世の哲学者たちが取り組んだ問題は、新しい知識に照らして解釈し直し、あらためて理解しなければならない。
 現在の宇宙像に照らした場合、たとえば、第一原因は存在しないとか、原因はあらゆる方向にさかのぼる(あるいは未来につながっていくと)というアリストテレスの意見は、どのように考えることができるだろか? これらの意見については、宇宙には始まりもなければ創造もなく、終わりもないということだと考えればよい」

 宇宙については、考えれば考えるほど、わからなくなってきます。
 このことについて、「マルチバースの宇宙像」として、著者は述べます。

「人間が貧しい想像力で考える以上に、宇宙は奇妙なのである―それも驚き呆れるほどに奇妙なのだ。現代の宇宙論は、100年前にはまだ存在すらしていなかったさまざまなアイディア真面目に受けとめるようわれわれに迫っている。20世紀と21世紀に成し遂げられた偉大な発見の数々は、われわれが生きて活動するこの世界の相貌を変えただけでなく、われわれの世界観―多世界観というべきか―に革命を起こした。たくさんの世界が、目と鼻の先に存在する(かもしれない)と言うのだから。宇宙を探求できるだけの勇気をわれわれが持つときまで、宇宙はその姿を隠しているのである」

 あとがき「『種の起源』に匹敵する、宇宙論のパラダイムシフト」の最後に、世界的ベストセラー『神は妄想である』の著者であるイギリスの進化生物学者リチャード・ドーキンスは以下のように述べています。

「物理法則や物理定数は、われわれが存在できるように微調整されているのだろうか? 法則や定数は、人間を登場させるためにデザインされたのだろうか? すべての始まりを、何者かがお膳立てしたのだろうか? こういった論法のおかしさがわからない人は、ヴィクター・ステンガーが書いたファイン・チューニングの欺瞞に関する本を読むといい。スティーヴン・ワインバーグ、ピーター・アトキンス、マーティン・リース、スティーヴン・ホーキングらの著作も薦めたい」

 続けて、ドーキンスは以下のように述べるのでした。

「それらに加えて、今やわれわれには、ローレンス・クラウスによる本書もある。わたしにはこの本が、決定的な一撃のように思えるのである。神学者にとっては最後の切り札だった、『なぜ何もないのではなく、何かが存在するのか』という問いは、本書を読んだあなたやわたしの眼の前で、しなびて色褪せていった。『種の起源』が、生物学が超自然主義に与えた致命的な一撃だったとすれば、本書『宇宙が始まる前には何があったのか?』は、宇宙論の分野でそれに該当する仕事とみなされるだろう。本書には、宇宙は無から生じるということが示されている。そしてそれは、超自然主義への痛烈な一撃なのである」

 『ロマンティック・デス』(幻冬舎文庫)という「宇宙」を「死」の秘密と結びつけた著書があるくらい、わたしは生粋のロマン主義者であります。ですので、ドーキンスや本書の著者であるクラウスの考え方は宇宙の「神秘」というものを過少評価している気もします。そもそも、「宇宙の始まり」といった超スケールのテーマは、人間が言語を用いて思考できるレベルを超えているとも思います。でも、本書には人類における宇宙論や宇宙像の歴史も俯瞰されており、とても興味深く読むことができました。

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