No.1447 ホラー・ファンタジー | 心霊・スピリチュアル 『四谷怪談 祟りの正体』 小池壮彦著(学研)

2017.06.23

 『四谷怪談 祟りの正体』小池壮彦著(学研)を読みました。「怪奇探偵」の異名をもつ著者はわたしと同じ1963年生まれで、怪談研究の第一人者。東京都新宿区の出身で、國學院大学文学部文学科を卒業しています。

    本書の帯

 帯には「お岩はなぜ祟るのか?」と大書され、続いて「怪奇探偵・小池壮彦が三百有余年の闇の迷宮を探索。ついに決定的な真実が明かされた!」と書かれています。

 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。

「序」
『東海道四谷怪談』
第一章 祟りの胚胎
第二章 祟りの顕現
第三章 祟りの探訪
第四章 祟りの波紋
第五章 祟りの真相
「後日譚」
「主要参考文献」

 第一章「祟りの胚胎」の冒頭では、著者自身が体験した怪異が紹介されています。本書を書くにあたり、さしあたってお岩さんの伝説から筆を起こそうと思い、著者はワープロの画面に文字を討ちつけはじめました。すると、妙なことに「伊右衛門」という単語がうまく打てません。「伊右衛門」とはもちろんお岩さんの夫であった田宮伊右衛門のことですが、「伊右衛門」の「右」の字が、なぜか「岩」になるというのです。

 このエピソードを紹介したあと、著者は以下のように述べます。

「ワープロの調子がよくないだけなのに、お参りに行かなければいけないな、という気分になる。この気分というのは、自然にわきあがってくるものであって、わざわざそうしなければならないという義務感に基づくものではない。なんとなくお参りに行って、仕事場に戻ってくる。またワープロを作動させると、異常は見当たらない。
 お参りしたから故障が直ったのだとは思わない。けれども、『四谷怪談』の原稿を書こうしたら身辺に異常が発生し、お参りしたら消えたという言い方にまちがいはない。おそらくこういう偶然を、いろいろな人が古来経験してきたのであろう。そうでなければ、お参りに行く習慣が今日まで保たれてきたはずもない」

 「四谷怪談」といえば、日本を代表する怪談ですが、著者は先行して「牡丹燈籠」という有名な怪談があったことに着目します。そして、「『牡丹燈籠』が祟った時代」として、以下のように述べています。

「もともと『牡丹燈籠』は中国産の怪談だけれど、三遊亭円朝の作品は、日本で実際に起きた事件を物語に仕組んだともいわれている。これは大正時代のジャーナリスト、矢田挿雲が伝える説である。登場人物の萩原新三郎のモデルは旧旗本の羽川金三郎、お露のモデルは浅草の商人飯島某の娘のお常という者で、実在した恋愛事件を採り入れた怪談だという。
 この説、信憑性の度合いは定かでないが、戦前の芝居関係者が『牡丹燈籠』をまったくの創作とは見ていなかったのは確かのようである。そのせいか大正時代には『牡丹燈籠』にまつわる祟り話が『四谷怪談』にまさるとも劣らないほど有名になっていた」

 著者は、「牡丹燈籠」にまつわる以下のようなエピソードを紹介します。

「明治45年(1912)7月、新富座で尾上菊五郎が『牡丹燈籠』を上演したときに明治天皇が崩御した。公演は中止となった。やがて大正4年(1915)7月に歌舞伎座で市村羽左衛門が久々に『牡丹燈籠』を上演することになったが、このときは途中で羽左衛門が病気になってしまった。大正8年(1919)8月に帝劇で菊五郎が再演したときは、菊五郎の第1のいい女房役者だった菊次郎が急死した。関東大震災のあとに演舞場で菊五郎が三演を試みたときには、本人が発熱して休場・・・・・・」

 著者は「大正時代に『牡丹燈籠』は、祟りの王者だった」と述べ、さらに「おむね」の霊に言及します。

「『おみね』の霊と聞いて首をかしげる人もいるかもしれないので注釈すると、『牡丹燈籠』の登場人物に、おみねと伴造という夫婦がいる。この夫婦の家に、お露の幽霊があらわれて、『萩原さまの家に御札がはられていて中に入れない』と泣きつくのである。そこで、おみねが悪知恵を働かせて幽霊に100両の金をせびり、伴造が御札はがしの役を買って出る。
 落語ではこの場面が『御札はがし』という独立した演目になっている。地獄の沙汰も金次第という、おぞましい話になるのであるが、おみねもやがて伴造に謀殺されるという物語の展開がなおさら残酷ゆえに、戦前は上演を禁止されたこともある。その経緯から、悪女おみねを演じることに禁忌のにおいがつきまといはじめたらしい」

 また著者は、「役者たちの受難」として、以下のように述べます。

「芝居や映画でアクシデントが起きなければ、祟りの噂も忘れられていく。 言いかえれば、いまでも祟りの噂が生きている『四谷怪談』は、それだけ事故の頻度が多かった。どの怪談よりも長きにわたって事故が起きつづけてきたのだ。より多く報道されてきたので、話題になりやすかったということもある。事故が起きても明るみに出なければ、楽屋話にとどまるからだ。噂が大衆化するためには、何らかの媒体が記事にして世間に知らせる必要がある。そこで初めて噂が説話化される」

 さらに著者は、やはり日本を代表する怪談である「怪談累ヶ淵」に言及し、以下のように述べています。

「この『怪談累ヶ淵』というのも、現在は主に三遊亭円朝の『真景累ヶ淵』を原作としているが、元来は実話である。その昔に累という人は実在し、お墓もある。だからいまでも歌舞伎で『累もの』をやるときには、『四谷怪談』と同じように、墓所にお参りする風習がある。7代目尾上梅幸の『拍手は幕が下りてから』という本によると、新作の芝居でアクシデントが起きてもいちいち祟りとは認識しないらしい。事故を祟りと考えるのは『四谷怪談』と『累ヶ淵』の伝統が築き上げたブランド・アイデンティティなのだ」

 続けて、著者は「四谷怪談」の祟りについて以下のように述べます。

「そこで『四谷怪談』にまつわるエピソードだが、撮影現場でセットの柱が倒れたとか、大八車の車輪がひとりでにはずれたとか、そういう話は枚挙にいとまがない。役者の目が腫れたという話はもちろん、撮影中に泊まった旅館で鏡を見たらお岩さんの顔が映っていたとか、そういう話も、ほとんど映画の撮影がおこなわれるたびに記録されてきた」

 第二章「祟りの顕現」では、「『四谷』の地霊」として、著者は述べます。

「舞台で演じられるたびに、お岩さんはこの世によみがえっている。
 そうであれば、役者が「お岩稲荷」にお参りするのも自然の行為と言える。ただし、昔からのしきたりで、伊右衛門を演じる役者はお参りしないのが決まりである。お参りすると、かえってお岩さんの霊を怒らせてしまうからという理由による。このしきたりは、歌舞伎界では守られているが、テレビや映画の撮影時にはどうであろう?見たところ、みんなそろって参拝しているようである。伊右衛門役の俳優が『ちゃんとお参りしたのに崇られた』と嘆くことになるのはそのためだろうか」

 著者は、お岩さん伝説のルーツについて以下のように述べます。

「そもそもお岩さんの話の原典は『四谷雑談集』という読み物であった。『雑談』というのは世間話のことである。この本に出てくるお岩さんは、白立心が強く、頑固な性質の女である。芝居のように伊右衛門と恋人同士だったわけでもない。父亡きあとの家を存続させるため、無理して婿養子を迎えただけだ。伊右衛門は、はなからお岩さんに愛情はない。伊東喜兵衛の企みでお岩さんが家を追放されるのは芝居と同じであるが、毒を飲まされるという展開もない。そんなことをするまでもなく、最初から顔が醜いのだから。
 陰謀を知らされたお岩さんは、怒り嘆いて家を飛び出し、そのまま行方不明になったというのが実説の顛末である。その後に田宮や伊東の関係者が次々と変死したため、世間ではお岩の祟りではないかと噂した」

 著者は「芥川龍之介の『四谷怪談』」として、大正時代を代表する人気作家であった芥川が関東大震災の3ヵ月前の発表した「市村座の四谷怪談」という文章を紹介しながら、以下のように述べます。

「お岩さんの祟りを畏怖する感性は、大正時代にひとつの完成を見たのかもしれない。近代化路線を邁進する日本および日本人が、あらためて闇の領域に目を向けた明治後期から大正時代にかけて、古来の怪談がリバイバルした。祟り話も大いに語られた。
 この時代の怪談の語られ方は、明治期にいったん迷信が否定されたプロセスを踏まえているから、祟りを戦略的に肯定するスタンスが研究されている。すなわち、祟りが迷信であることを前提とした上で、その迷信が現実化する異常事態に焦点を当てるのだ」

 本書には多くの「四谷怪談」の祟りのエピソードが紹介されています。
 歌舞伎関係者をはじめ、多くの人々にとって、それは実際に起こった事実なのでした。著者は「こにに『四谷怪談』の奇跡がある」として述べます。

「おそらく多くの祟り話が、実際には祟りなど起きないという経験的な理由によって存在意義を失っていったのだ。しかし不思議なことに、『四谷怪談』は逆である。ここぞというときに必ず異変が起きてきた。その経験の積み重ねが、今日まで続いている」

 夜に「四谷怪談」の話をしてはいけないという戒めがありますが、それは『東海道四谷怪談』の著者である鶴屋南北の体験談に基づくそうです。役者の家で伝承された逸話を、明治末期から大正・昭和にかけての時期に、新聞や雑誌などのメディアを通じて6代目尾上梅幸が語り継いだのでした。著者によれば、現在も流布する「四谷怪談」の祟り話は、六代目梅幸という名優が、同時にすぐれた語り部でもあったことからブランド化されました。そして祟りの噂の淵源は、鶴屋南北の時代にさかのぼります。南北たちは初演当時に、祟りの逸話を芝居のPRに活用したものと推測されます。著者は「南北は以前にもそのような広報活動を試みた前歴がある」と述べます。

 第二章の最後には、「祟られた南北」として以下のように書かれています。

「実は『東海道四谷怪談』の上演を機に、南北の周辺で異変が起きていた。芝居初演の年に、松島半次という者が死んだのをはじめ、翌年には二世増山金八など2人の作家があいついで死んでいる。いずれも南北の関係者である。その翌々年の3月には、南北門下で娘婿の勝兵助が死亡し、8月には同じく門下の勝井源八が死んだ。『四谷怪談』の初演から3年足らずで、5人の演劇関係者が次々とこの世を去ったのだが、異変はそれだけにとどまらなかった」

 続けて、著者は「祟られた南北」について述べます。

「1年後には、南北自身が死んでしまった。同じ年に、同業者の二世桜田治助も死亡。続いて南北の片腕だった二世金井由輔など、2人の人物も続けて亡くなった。さらにその翌年には、南北亡きあとの演劇界を担うと目された松井幸三が38歳の若さで病死。続いて二世勝俵蔵を襲名したばかりの南北の息子も死んだ。奇怪なことに、『東海道四谷怪談』初演からわずか5年の間に、鶴屋南北とその周辺にいた11人もの関係者が連続死した。これにより歌舞伎界は急速に衰退したのである」

 第三章「祟りの探訪」では、ある事件が小説や芝居になるまでの時間という興味深い問題について以下のように述べられています。

「この時代、事件が劇化されるまでに、普通はどのぐらいの年月を要したか? 赤穂浪士の討ち入りは、事件から46年後に劇化されている。八百屋お七の放火事件は、3年後に小説になり、およそ30年後に劇化された。皿屋敷の怪談も、伝承が文献に記録されてから31年後に劇化されている。累ヶ淵の怪談は、累の殺害事件から43年後にルポルタージュが評判になり、その41年後に劇化された。お岩さんの祟り事件と同時代のめぼしい出来事は、世間で話題になってから30年から40年ぐらい経った段階で、すべて浄瑠璃や歌舞伎に仕組まれている。そして、何度も上演されている。現代で言えば、何度も映画化されたというのと同じである」

 そして、「東電OL殺人の闇」として、著者は以下のように述べるのでした。

「いつの世にも深刻ゆえに多くを語られず、しだいに実情が闇の中に埋もれてしまう事件というのはあるものだろう。あるいは東電OL殺人のように、最初から闇の要素を含むような事件は、興味本位の語りやすいところでしか表立った話題にはならない。すると、お岩という女性が生きながらにして鬼女と化した事情というのも、私たちが想像する以上に、当時の人たちにとって語りにくい背景を孕んでいたのではないか?
 現代の私たちの感覚では理解が行きとどかないような、江戸時代人に特有の琴線に触れるおぞましさを醸し出す事件であったがゆえに、話題にする気力も失せたと。誰もが沈黙を余儀なくされるような、不気味な事件であったと・・・・・・」

 第四章「祟りの波紋」では、著者は「内部告発」として述ます。

「現代の怪奇実録本の作者として、私は過去にいくつかの実話集を書いてきた。書き手の側から言うと、読者が信じるか否かは別にして、ネタの信憑性は保持しているつもりなのだ。脚色はしたとしても、まったくのウソを書くことはない。そのルールさえ首の皮一枚でも保つことができれば、あとのことは知らないという姿勢である。虚構が真実を語るというけれど、そもそも虚構とは事実の再構成である。その結果、虚構が何ほどかの真実を内包するに至る場合もあれば、そうでない場合もある。つまらない虚構に終始した小説は、ひとかけらの事実ほどにも真実を語らない」

 わたしは『唯葬論』(三五館)の「怪談論」で、怪談の本質が「鎮魂」や「慰霊」にあると書きましたが、著者の小池氏も怪談について述べています。

「そもそも怪談の歴史は、宗教的な道徳意識を広めるための説教の歴史と密接なかかわりがある。たとえば江戸時代のスタンダードな怪談集である『伽婢子』を書いた浅井了意は真宗の説教者であるし、同じく怪奇実話を集成した『因果物語』を書いた鈴木正三は禅宗の説教者であった。累ヶ淵や皿屋敷の怪談は、いずれも浄土宗の宗教者によって怨霊が得度される。それらは宗教宣伝の書物であるから、祟りは決して野放しにされない。
 だが『四谷雑談集』には、その要素がない。祟りは鎮められることがない。同時に、作者は物語の末尾で祟りの恐ろしさを説くのではなく、性質の邪な者が報いを受けるのだと結論している。『あながちお岩の恨みにも限るべからず』というのだ」

 実際の、お岩の物語とはどのようにして生まれたのでしょうか。
 「リークされた四谷怪談」として、著者は以下のように述べます。

「最終的に『四谷雑談集』を書きついだのは、貸本屋の親父や講釈師かもしれない。だがそもそも原作を提供したサムライがいたのであろう。もしこれが内部告発文書なら、原作者は喜兵衛や田宮伊左衛門の近くにいた人物ということになる。彼は貸本屋の親父に告げたのだ。
 『お岩の失踪は、単なる夫婦のいざこざではない―』
 世間は当初、気まぐれな一人娘がとうとうおかしくなったそうだ、というぐらいにしか考えていなかった。しかし、あるサムライは、お岩失踪の背後にある伊東喜兵衛らの陰湿な画策には我慢しがたいものがあると感じた。そして内部情報をリークした・・・・・・」

 第五章「祟りの真相」では、著者は「神話のリバイバル」として、なんと阿部定事件を取り上げ、以下のように述べています。

「阿部定事件は、昭和44年(1969)のエログロブームのおりに、初めて映画化された。昭和51年(1976)には『愛のコリーダ』が世界的評価を受けたため、阿部定事件とは何だったかという話題が盛り上がった。個人的には、阿部定というと、宮下順子のイメージがある。日活映画の『実録阿部定』(1975)に由来するものだ。伝説の猟奇事件は、発生から40年を経たのちに、新しいイメージで世間の話題をさらった。これは江戸時代に事件が芝居に仕組まれるまでに要したスパンと一致する。事件を知らない新世代が育ち、あらためて過去に目が向けられて、古い事績が新鮮な驚きとともに再発見される。それに要する時間がおよそ4、50年なのだろう」

 著者は、「お岩がたくさんいる」として、複数の「お岩」という名の女性が存在したことを指摘します。そして以下のように述べます。

「複数の「お岩」がいたというのは、ひとまず歴史上の事実である。『お岩』の名から『四谷怪談』しか連想しない現代人の常識は、そもそも『お岩』という名が江戸時代の女性名としてポピュラーだったという事実から見れば、極めて非常識なことになる」

 また、著者は「お岩」という名前について以下のように述べます。

「日本の各地に『お岩』がいた。この名前は桃山時代から流行したようだ。 もとをたどれば、『いわ』とか『きく』などの二音節の女性名は、『瑠璃王』『姫夜叉』『岩鶴女』といった古代型の女性名が、中世になって分解した結果生まれた。たとえば『岩鶴女』という名であれば、中世に『~女』という名づけ方が廃れて短縮される傾向を強めた結果、『岩』と『鶴』に分解した。こうした命名法の単純化は、16世紀後半から公家・武家の娘の名に生じた。農民の娘の名も同じような変化を見せた。
 結果、桃山時代には身分を問わず、『とら』『まつ』『きち』『きく』といった名が増えた。『いわ』も同じ系列の名であったにすぎない。特別な名前であったわけではない。ただ、堅実な印象の名であり、長寿が連想される名ということで愛されたようである」

 また著者は、「二人のお岩」として、以下のように述べています。

「田宮家の系譜にも、複数の『お岩』がいた。少なくとも2人の『お岩』が。 過去帳によれば、寛永13年(1636)に亡くなった2代目の奥さんの俗名が『於岩』であった。この人がまず『第一のお岩』である。一方、『四谷雑談集』に出てくる『お岩』は、元禄時代の人であるから、寛永13年(1636)から数えると、およそ半世紀あとに『第二のお岩』がいたことになる」

 さらに著者は、3人目の「お岩」さんを発見します。
 そして、「後日譚」の中で以下のように述べています。

「伝説の軸となる『お岩』は3人いた。寛永・元禄・明和の時代に。 寛永のお岩さんは、田宮家2代目の奥さんである。この人の名は3代目の娘、すなわち孫に継承された。元禄のお岩さんである。彼女は夫に裏切られて失踪した。お岩が鬼女となって横丁を駆けぬけたという目撃談がひとしきり話題になったのち、事件は忘れられた。しかし、お岩失踪の背後に蠢く悪人たちの行状を暴露した告発文書が、御先手組内部の者によって執筆された。怪談の実録本として水面下で流布した」

 続いて、著者は以下のように述べるのでした。

「田宮家の没落後、新たに召し抱えられた山浦氏が屋敷に住んだ。やがて明和の時代になってから、山浦忠八郎の奥さんの変死事件が起きた。山浦氏の関係者も次々と不審な死を遂げたことから、祟りの噂が立った。『四谷怪談』の再現に世間は息を呑んだ。 江戸の世には貞女も悪女もひっくるめて、さまざまな個性の「お岩」がいた。彼女たちの行状が噂となって『四谷怪談』のストーリーと錯綜し、『お岩伝説』のヴァリエーションを増やした。明和の事件が元禄の出来事として語られたり、その逆もあったりして事実が混沌とする中で『東海道四谷怪談』が上演された。これが決定版とされた」

 本書は、「四谷怪談」という日本人なら誰でも知っている有名な怪談の歴史的背景を探った書であり、同時に語り継がれてきた多くの「四谷怪談」にまつわる怪異が事実であったことを証明する書でもあります。「祟り」という暗い問題に光を当てたきわめて珍しい作品であると言えるでしょう。それにしても、本書が刊行された2002年以降も、「お岩」の祟りが続いていることには驚かされます。

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