No.1419 心霊・スピリチュアル | 歴史・文明・文化 『彷徨える英霊たち』 田村洋三著(中公文庫)

2017.04.26

 『彷徨える英霊たち』田村洋三著(中公文庫)を読みました。
 「戦争の怪異譚」というサブタイトルがついています。
 この読書館で『魂でもいいから、そばにいて』『震災後の不思議な話』『呼び覚まされる 霊性の震災学』と、これまで東日本大震災に関連する霊体験についての本を取り上げてきましたが、先の戦争にまつわる霊体験についても気になってきたのです。

 著者は、1931年大阪府吹田市生まれ。
 同志社大学文学部卒業。読売新聞大阪本社社会部次長、写真部長、社会部長、編集局次長、編集委員を歴任。93年、定年退職。現在、ノンフィクション作家。編著書に『新聞記者が語りつぐ戦争』(全20巻、読売新聞社、85年、第33回菊池寛賞受賞)などがあります。

   本書の帯

 帯には「ガダルカナル、ニューギニア、フィリピン、硫黄島、沖縄」「祖国への帰還を果たせなかった魂たちが愛する家族へ送った14例のメッセージ」と書かれています。

   本書の帯の裏

 また、帯の裏には以下のように書かれています。

「あの戦争で海外で戦死した日本軍人・軍属約240万人のうち、半数に近い約113万人がいまだに帰国できていません。海外のジャングルや深海に捨ておかれた戦没者の人生は未だに完結していない・・・・・・。この人たちの霊魂は一刻も早い帰国を願っているし、肉親や友人知己宛てに何らかのシグナルを発するのは当然のことでしょう」(本文より)

 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。

「まえがき」
第1章 亡霊舞台の帰還
第2章 ガダルカナルの怨念
第3章 「餓島慰霊の旅」での怪談
第4章 ニューギニアからの遺言
第5章 ムンダの奇跡
第6章 頭が痛いブーゲンビル・墓島
第7章 ミレーの呼び声
第8章 父をたずねて300万キロ
第9章 イリアンへ花嫁人形
第10章 フィリピン・悲島の人魂
第11章 幻影乗せた慰霊船
第12章 硫黄島奇々怪々
第13章 沖縄夢幻
第14章 原爆死の兄、還る
「主な参考文献」
「あとがき」

 「まえがき」で、著者は以下のように述べています。

「戦争体験者が戦後30年を経て、やっと重い口を開いた数々の証言の中に、ギョッとするような、背筋に冷たいものが走る摩訶不思議な話が幾つもあった。前線にいる将兵が故国の肉親の夢枕に立った日が、後日、留守宅に届いた戦死公報による戦死日とピタリ一致していた、というような話は枚挙に暇がない」

 また、著者は以下のようにも述べています。

「理屈では割り切れないが、理不尽な戦争で非業の死を強いられた戦没者の御霊は幾千里の山河や波濤を越え、愛する肉親や縁者に無念や怨念を訴えているのであろうか? 戦没者と遺族が互いに寄せ合う、たゆみない愛、尽きぬ思いが成せる業であろうか?」

 続けて、著者は以下のように述べます。

「こんな筆者の心もとない推測を裏打ちしてくれる論考がある。民俗学を国文学に導入し、独自の境地を開いた大阪出身の民俗学・国学研究の第一人者・折口信夫(歌人としては釈迢空、1887~1953)の、日本古来の霊魂や慰霊についての考え方である。それによれば、心ならずも家郷の地を離れ、人知れず非業の死を遂げた人の魂は、鎮まるべき条件を欠く。つまり戦争などで亡くなった死者の魂は、その時期や場所を明らかにし、手厚く葬ってあげなければ、後世に祟りをなす御霊となる、というのである」

 そして著者は、戦没者の二世としてNPO法人「太平洋戦史館」を主宰し、今なお戦没者の遺骨捜索、収集と故国への帰還に奔走する岩淵宣輝氏の以下の言葉を紹介するのでした。

「この国の戦後処理は戦後70年にもなるのに、残念ながらまだ終わっていません。厚生労働省(略称・厚労省)の調査では、あの戦争で海外で戦死した日本軍人・軍属約240万人のうち、半数に近い約113万人がいまだに帰国できていません。海外のジャングルや深海に捨ておかれた戦没者の人生は未だに完結していないし、人権は失われたままです。そんな戦没者からの目線で見れば、この人たちの霊魂は一刻も早い帰国を願っているし、肉親や友人知人宛てに何らかのシグナルを発するのは当然のことでしょう。敗戦70年の年にそれを特集し、改めて戦争の愚かさを考えるのは、意義のある試みだと思います」

 第1章「亡霊部隊の帰還」では、1942年(昭和17年)の旭川にある第七師団の兵舎に、一木清直大佐が率いる「一木支隊」が幽霊となって帰ってきた話が「魂魄、兵舎に消ゆ」として以下のように紹介されます。

「営門からの『部隊接近!』に続く『軍旗入門!』の小玉兵長の大声を受け、衛兵指令の軍曹は直ちに『整列!』と号令した。衛兵所前で目黒上等兵を含む6人の控歩哨が背の高い順に右から横一列の執銃(小銃を持っての)整列を終えた時、ザクザクと靴音を立てて部隊が営門を入って来た」

 続けて、著者は以下のように書いています。

「衛兵司令の『頭右ッ』の号令で捧げ銃をしながら、目黒は目の前を通り過ぎる兵士の姿に驚いた。まず、どの顔も能面とも言うべき無表情で、まるで生気がなく、どす黒かった。しかも不思議なことに誰一人として見覚えのある顔がないのだ。さらに小玉兵長同様、彼らの下半身がずぶ濡れなのに気付いた。目黒は『何か変だ』と思った。他の衛兵たちも一様にキツネにつままれたようなキョトンとした表情をしていたが、お互いそんな疑問を確かめ合う余裕はなかった。衛兵の前を通り過ぎた帰還部隊の隊列は、連隊本部の吹き抜け通路を通過すると左折、第二線兵舎の方へ先を争うように入って行き、パッと消えたように見えた」

 消えた一木支隊はどこに行ったのか。著者は述べます。

「一木支隊は実は、この怪談当日、日本の南南東約5500キロのソロモン諸島ガダルカナル島(以後、ガ島と略記)で、凄惨、過酷極まりない地獄の戦場に投げ込まれ、全滅していた。決して、兵たちが弱かったのではない。作戦を指揮した大本営陸軍部(参謀本部)、同海軍部(軍令部)、ビスマルク諸島ニューブリテン島ラバウルの陸軍第17軍司令部など、軍上層部が誤った判断や失敗を重ね、兵員は否応なく死の淵に追いやられた。愛する妻子や肉親に心を残しながら、南溟の地に半ば棄てられるような形で果てた人々の無念は、いかばかりであったろう」

 また、「夢枕しきり」として、著者は亡霊部隊の将校の夫人たちのエピソードを以下のように紹介します。

「戦没者が官舎地区の将校夫人たちの夢枕に現れるのも、やはり亡霊部隊帰営のほぼ1週間後である。ある将校夫人が就寝中、夫が血まみれの軍服姿で枕元に立った。「あらッ、あなた」と声をかけた途端、夫の姿はスーッと消え、夫人は恐怖感から、しばらくは起き上がれなかった、という」

 さらに、夫人たちについて、著者は以下のように紹介しています。

「夫人たちは当然のことながら、夫がどの方面の作戦に参加しているのか、まったく知らされていなかった。だから亡霊部隊が歩二八の兵営に帰った、との話が耳に入った時、1人の夫人が『私の夫も夢の中で・・・・・・』と漏らすと、何人もの将校夫人が堰を切ったように応じた。『あなたもご主人の不吉な夢を見たの? 私も主人が血だらけで帰って来た夢を見たの』といった具合で、手を取り合って忍び泣いた」

 第2章「ガダルカナルの怨念」の冒頭では、「遥かなる戦場」として、著者は以下のように書いています。

「亡霊話は通常、儚げなものである。それが北国の軍都の場合、敗残を思わせる一木支隊が重い軍靴の音を響かせ、隊伍を組んで兵営に帰ったり、輜重車両が何台もガラガラと大きな車輪の音を立てたり、と誠に活発な動きを示した。それは一木支隊の兵たちの、やり場のない無念、怨念の成せる業ではなかったか?」

 ガダルカナル島は、南太平洋上に1000近くもの島々が北西から南東にかけ細長く連なるソロモン諸島の南島端死に近い、サツマイモ、あるいは太ったイモムシを横にしたような形の島です。著者は以下のように述べます。

「日本軍がガ島に送り込んだ将兵は、通算計3万5460人。命からがら生還出来たのは約3分の1の1万1870人にすぎない。残る2万3590人は戦死・行方不明とされているが、うち戦闘で死亡したのは約8200人だけで、残りの約1万5300人は食糧不足による餓死、あるいは病死という惨憺たる結末だった。米軍に初めて完敗した地上戦であり、食糧の補給さえない哀れな展開は”餓島”の異名で今に語り継がれている」

 第10章「フィリピン・悲島の人魂」の冒頭では、著者は「どの戦域より多い戦没者」として、以下のように書いています。

「ガダルカナルを『餓島』、ブーゲンビルを『墓島』の異名で呼ぶのなら、『比律賓』の漢字表記を略して『比島』と呼ぶフィリピンは、『悲島』の方が相応しい。何故なら日米両軍の決戦場となったフィリピンは、軍人だけでなく在留邦人をも巻き込んで、どの戦域よりも多い51万8000人もの戦没者を出した(厚労省調べ)悲劇の島だからである」

 そんな悲惨な戦場に少年船舶兵として参加した人に、井上三郎氏がいます。井上氏は自身の不思議な体験について、「ついてきた火の玉」として以下のように語っています。

「実はな、わしが1人で山の中をうろつき始めてすぐ、毎晩、火の玉が、わしについて来るようになったんじゃ。初めは敵が放った何かの火かと思うたが、そうではない。20ばかりの火の玉が、フーッと溜め息のような音を立ててな、わしの前、後ろを飛ぶんじゃ。いま思えば、ラグナ湖岸で全滅した第7戦隊の戦友の人魂だったかも知れんとです。初めは、気味が悪かった。じゃが、毎晩、出てくるんでな、いつの間にか慣れてしもうて・・・・・・。わしは、日本軍の陣地へ行きたかった。友軍と一緒になりたかった。だけど、歩いても歩いても見つからん。淋しい、と言うより、どうしたらええんかわからず、気がおかしくなりそうじゃった。夜、聞こえるのは鳥の声だけじゃ。わしは、ついて来る火の玉に呼び掛けた。『おーいっ、教えてくれーっ、日本軍は何処にいるんじゃ』と」

 井上氏は「戦友の御霊に守られ」として、以下のように語ります。

「わしが逃避行を始めた時からずっと、身の回りを飛び交っていた、あの火の玉は、わしが基地大隊と合流した途端、プッツリと出んようになったとです。復員して、檀那寺のお坊さんにそのことを話したですが、それは、あんたにしか見えん火の玉じゃ、と言われました。今、わしは、あれはやっぱり、戦友じゃったと思うとります。きっと戦友の御霊が、わしを守ってくれよったんです」

 第12章「硫黄島奇々怪々」でも、15歳で硫黄島に散った海軍特別少年兵のことが紹介されています。まず、著者は以下のように述べます。

「いわゆる海軍特年兵は、陸軍より高度な技量習得を必要とした海軍が、1941(昭和16)年7月から要員確保のために始めた志願制度である。14歳以上16歳未満の少年を採用、電信、暗号、信号、気象、測量の専門兵を養成した。兵力不足から徴兵年限を待ち切れず、少年にまで食指をのばしたのだが、戦局が悪化した末期には十分な教育を施せないまま、各戦線に投入せざるを得ない苦境に追い込まれた。今の中学3年生から高校2年生に相当する若者を1期生は57パーセント、2期生は39パーセントも戦死させる痛恨事となった」

 硫黄島では心霊現象が日常的に起こるなどと言われています。
 著者は、この島を訪れた元・読売新聞大阪本社機報部次長で、「関西自衛隊を励ます会」会長の下川晴司氏の体験を紹介しています。
 「裏付け証言と心霊写真」として、以下のように書かれています。

「事前に警告を受けていた、いわく付きの外来宿舎では何事も起こらず、一行を安堵させた。しかし、下川さんは帰阪してから現地で撮って来たフィルムを現像、焼き付けして、アッと驚きの声を上げた」

   下川晴司氏が硫黄島で撮影した写真

 続けて、以下のように書かれています。

「その写真は慰霊訪問の記念にと、天山の司令部壕近くに残っていた弾薬庫の前に立ち、同行の兵科予備学生出身の旧海軍少尉・山本芳朗さん(89歳、山本香料元社長。兵庫県芦屋市在住)に自身のカメラのシャッターを押してもらったのだが、背後のコンクリートの壁に、日、米両軍兵士の顔が10数人も写っていた。ヘルメットをかぶった顔、戦闘帽でうつむく顔、無帽で訴えかけるような顔・・・・・・。それらは硫黄島戦没者の無念を象徴するように見えた」

 硫黄島といえば、栗林忠道中将が有名です。
 栗林中将の辞世の歌である「国の為重きつとめを果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき」の最後の部分を、軍は「散るぞ口惜し」として公表しました。これについて、著者は以下のように述べています。

「矢弾尽き果て散りゆく兵たちを悼む栗林中将の”悲しき”心情を、参謀どもは女々しいと見たのであろうか。しかし天皇陛下は改変版でなく、中将の本歌に対してこう返された。
 『精魂を込め戦ひし人未だ 地下に眠りて島は悲しき』
 陛下は中将の絶唱を正面から受け止め、『悲しき』という同じ言葉で結ばれたのだ。以来、精霊現象が顕著に減った理由を、大浜・元司令はこう解説した。『戦中は皇太子殿下であった方が、天皇陛下として来訪されたことは、戦中の日本国民の念願であった「国体の護持」が立派に果たされたことを戦没者に改めて知らしめたでしょう。それに「あなた方は国のために精一杯戦ってくれたのに、その多くが未だ地下に眠っているのは悲しい」という象徴天皇の御製としては、援護行政批判ともとれる踏み込んだ内容が、戦没将兵の心を半世紀ぶりに癒したのではないでしょうか』」

 わたしは戦争の怪異譚を知るために本書を読んだのですが、結果的に「あの戦争は何だったのか」ということを改めて考えさせられました。かけがえのない命を国というよりは愛する人々のために捧げた英霊たちの存在があって、わたしたちは現在の平和を享受している事実を忘れてはなりません。本書を読みながら、わたしはサザンオールスターズの名曲「蛍」の中の「たった一度の人生を捧げて、さらば友よ、永遠に眠れ」「何のために己を絶って、魂だけが帰り来るの」というフレーズを思い浮かべました。

 本書の「あとがき」には、以下のように書かれています。

「800年前の源平の合戦は知っていても、70年前の昭和戦争をほとんど知らない若い人たちに、この機会にあの愚かな戦争をもう一度振り返って欲しい、と思ったからだ。そのため怪しい話の合間に、それを生んだ戦争の愚かしさを1行でも多く入れるよう努めた。怪奇噺と史実の綾織が上手く行った、と言う自信はないが、その辺りが『あぁ、しんど』の三里塚である」

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