No.1404 宗教・精神世界 『「般若心経」の真実』 篠原令著(阿部出版)

2017.03.23

 『「般若心経」の真実』篠原令著(阿部出版)を読みました。
 この読書館でも紹介した『もうひとつの「空海の風景」』の続編です。
 「誤解された『空』の意味」というサブタイトルがついています。

   本書の帯

 帯には「アジアの視点から日本人を問う」と大書され、続いて「『般若心経』にも頻繁に使われる『空』。『空』の意味がわからなければ、『般若心経』も、仏教思想も読み解けない。しかし日本人は『空』を誤解してはいまいか。仏教キーワード『空』を分かりやすく解明し、日本の仏教観にアンチテーゼを唱える」と続きます。
 帯の裏には、著者のプロフィールが記されています。

   本書の帯の裏

 カバー表紙には、以下のように書かれています。

「『空』がわからなければ、『般若心経』も仏教の本質も読み解けない。『空』について日本仏教界は、きちんと解釈できているのか、日本人は『空』の意味を、仏教を、本当に理解しているのか。日本人に、あらためて『空』を問う」

 また、カバー前そでには以下のように書かれています。

「宗教とは啓示による教えであり、深遠な世界に導く教えである。深遠な世界を目標にして、哲学的に探究し、化学的に体系づけていくことは意義のあることだが、帰依心なくしては真理に到達することはできない。宗教の根本目的は人生の意義を知り、己の進路を知り、また己の終局を探求することにある」

 さらに、カバー裏には以下のように書かれています。

「『権威』イコール『真理』であるとは限らない。そもそも宗教である仏教を『仏教学』という学問にしようとする行為そのものが不純である。観念論を弄び、『空』についても『実体がないこと』といった間違った解釈を金科玉条にしている」

 本書の「目次」は、以下のようになっています。

「はじめに」
「水波の不離」
「金莊の不異」
「五大と空」
「『般若心経』の正しい読み方」
「法華経の空」
「龍猛菩薩と『中論』、空観の原点」
「無我と真我、禅と空」
「阿弥陀来迎と空の意味」
「老荘思想と空」
「宇宙と空」
「涅槃と彼岸、仏事の意義」
「仏教人の改革」
解説「十二因縁、四諦、八正道、三身論、帝網の珠玉、般若心経」(漢訳、和訳)
「あとがき」

 「はじめに」で、著者は以下のように述べています。

「日本の仏教学界は東京大学のインド哲学科、仏教学科を頂点としたピラミット構造によって支えられている。ここの卒業生が全国の仏教系大学の教授に招聘されていく構造ができあがっている。徒弟制度のような相互扶助組織の中で地位と収入が提供されていくのだから本人たちにとってはこれほどいい制度はない。したがってその頂点にある学者の学説に異を唱えることなどまず不可能だと思って差し支えない。学会の頂点を極めたものはさしずめローマ教皇ウルバヌス8世といったところであろう。しかし『権威』イコール『真理』であるとは限らない」

 宗教とは何か。著者は以下のように述べます。

「宗教とは啓示による教えであり、深遠な世界に導く教えである。深遠な世界を目標にして、哲学的に探求し、科学的に体系づけていくことは意義のあることだが、帰依心なくしては真理に到達することはできない。宗教の根本目的は人生の意義を知り、己の進路を知り、また己の終局を探求することにある。ところが日本の宗教学者、仏教学者は概して無神論者である。神仏の存在を信じないことがあたかも学問としての独立性を保証するかのように誤解している。その結果、観念論を弄び、『空』についても『実体がないこと』といった間違った解釈を金科玉条にしている」

 「水波の不離」では、「空海」という法名について述べられます。

 若き日の空海が「虚空蔵菩薩求聞持法」の修業をしたと伝えられている四国室戸岬の洞窟から見えるのはただ空と海のみ、水平線を境に対峙する大空と大海、空海はこの雄大な風景を自らの法名にしたと考えられています。しかし、著者は以下のように述べます。

「だが『空海』という法名にはもうひとつの隠された意味があるのではないかと私は考えるようになった。それは『秘蔵宝鑰』『十住心論』の『第七覚心不生心』にある『水波の不離』の比喩を読んでからである。空海はここで『空不異色』『色即是空』の説明のために『水波の不離』と『金莊の不異』というふたつの比喩を挙げている」

 「空」について、著者は以下のように述べています。

「『般若心経』には『空』という言葉が頻繁に現れる。『空』とは何かということがこのお経を解く鍵であるとともに、仏教の根本思想もこの『空』の解釈によって様々に解釈可能である。それほど大事な『空』について空海はただ『水波の不離に似たり』の一言でかたづけてしまっているために1200有余年にわたってこの部分は重視されることもないまま見過ごされてきた」

 空海は「空」と「色」の関連性と対比性を「水波の不離」に似ていると喝破しました。著者は、これを分かりやすくするために「水」を「海」に置き換えて以下のように説明しています。

「人は海辺に立ちながら『海を眺めている』と言うが、実は『海』を見ているのではなく『海』の表面に表われた現象としての『波』を見ているに過ぎない。この『波』はそれ自身として独自に存在しているのではない。このことを仏教用語では『波』には『自性が無い』という。『波』は『海』の水面上にあらわれて刻々と変化する現象に過ぎないのでこれをまた『仮相』という」

 続けて、著者は以下のように説明します。

「『波』は『海』あっての現象であるから『海』は『波』の『体』である。つまり実体である。『波』そのものには自性がなく実体がないが『波』の背後には『海』という実体が存在している。この実体があるからこそ『波』という現象があらわれる。これを『波』は『海』の『用』という。『体』は作用の本源を意味し『用』はその作用である。世阿弥の能楽論書のひとつ『至花道』に『能に体・用の事を知るべし。体は花、用は匂のことし』とあるのも同じ意味合いである」

 そして、著者は以下のように述べるのでした。

「『波不異海 海不異波 波即是海 海即是波』の『波』を『色』に、『海』を『空』に替えて読めば『色不異空 空不異色 色即是空 空即是色』となる。『般若心経』の出だしの部分はこれで回答がみつかった。『水波の不離』とほまさにこのことであり、『色』と『空』の関係性と対比性はこの説明に尽きるのである。『空とは実体がないこと』という解釈は『海』は存在しないと言っているのに等しい荒唐無稽な解釈である」

 「金莊の不異」では、著者は仏教の「因縁」について以下のように述べます。

「釈迦は『生老病死』の四苦を観じて『因縁』を悟り、因縁を知ることによって『苦』の解決を結論付けた。苦源が因縁であり、因縁から苦が生じた、とすれば因縁のもとは、苦源の因と同じであり、苦源の源はもともと1つで、これさえ探し出せば問題は自ずから解決できるとした。
 この『因』とは何か、これはすべて『無明』、即ち愚かさから生ずる。この愚かさこそ因縁の『因』であり、苦源の『源』であると説き、『無明』の字句を因縁の筆頭に揚げて縁起法の体系を立てた。この『無明』から『老死』に到る十二因縁は釈迦仏教の根本思想であり、『三世両重』と言って時間的には過去、現在、未来の三世にまたがっている。つまり、輪廻転生を大前提にして説かれている。
 ところが日本の仏教学者は『空』を間違って解釈してしまったがために、この釈迦仏教の根本を見失っている。霊魂の存在を否定してしまったら釈迦仏教はもぬけの殻になり、その存在意義を失ってしまう」

 また、「諸行無常」についても著者は以下のように述べています。

「仏教は虚無的でも刹那的でもない。『諸行無常』という言葉が仏教思想を代表しているかのように用いられているが、この言葉は『人生は虚しい』『死ねば何も残らない』ということを説明するために用いられたのではなく、諸行無常の世界の裏に恒常不変の世界があることを説明するために用いられたものである。『色』と『空』の関係を理解すれば、諸行無常というのは『色』の世界を説明したに過ぎないことが理解できると思う。ところが日本の仏教学者たちは『諸行無常』という言葉につられて『空』を『実体がないこと』だと、『空』とは『無』に通じる意味であると誤解してしまったのである」

 「五大と空」の冒頭では、著者は以下のように述べています。

「五大という仏教用語がある。地・水・火・風・空の5つをいい、この5つの自然体を地大、水大、火大、風大、空大と格付けして相を形作り、自然と人間、神格と人格との連鎖、はたらきを現している。また、万物を構成する要素として五大は説かれている」

 密教ではこの「五大」にさらに「識大」(心)を加えて「六大」としています。
 人格神と自然神が合体してはじめて本仏世界に到ることができるというわけですが、著者は以下のように述べています。

「人間の生命の素なるものは自然の一部であり、また全部であるとすれば、人間の有する生命力、言葉を換えて言えば霊体が自然と接近することは当然といわねばならない。二千数百年前に仏教ではすでにこのような自然観、宇宙観を説いていたということは驚異的なできごとである」

 弘法大師こと空海こそは、「空」の本当の意味を理解した人でした。
 著者は、「空」の解釈について以下のように述べています。

「日本の仏教学者は五大、あるいは六大の『空』を四大を容れるための空間と解釈しているのだが、空海は決してそのようなことは言っていない。『空』も含めて、すべて存在を形作るひとつの要であるとしている。空間ではなく、要素である。このように解釈するのが日本語の解釈としては自然である。
 フィチーノはいみじくもそれを『精気』という言葉で表現している。西洋人はそれを『第五元素』と名付けているが、それは西洋の言葉に『空』という言葉がなかったからである。サンスクリット語の『シューニヤター』に『空』という訳字を充てたのは鳩摩羅什であるが、私はこれは見事な漢訳だと思う。しかし『空』という字が、あるときは『無』に通じることから多くの誤解を招いてきた」

 著者は、空海における「空」について、以下のように述べています。

「鳩摩羅什より約400年後に長安を訪れた空海は、そこで恵果阿闍梨に会い、密教を伝授される。恵果も空海も当然『空』が意味するものを理解していたし、その当時『空とは実体がないこと』などという学説は多分主流ではなかった。したがって2人とも『空』は『空』のまま表現し、敢えて難しい解説を加えなかったし、鳩摩羅什の仕事に対して異議を唱える必要もなかった。空海はその後、日本に戻ってから『水波の不離』『金荘の不異』という言葉でわずかに『空』の比喩を試みたにすぎなかった」

 唐における密教の巨人であった恵果は、空海に「私たちは過去世において何度も互いに師になり弟子になりしながら仏法を修めてきた。次回は私が日本に生まれてあなたの弟子になります」と語ったとされています。これについて、著者は「輪廻転生を信じていなければこのような会話は成り立たない。『空』を実体がないことだと解釈する日本の仏教学者たちは輪廻転生を否定している。自分が否定するのは本人の勝手だが、龍猛菩薩までも輪廻転生を否定していると断言してしまっている」と述べています。

 著者によれば、五大の「空」も般若心経の「空」もその意味するところは同じです。龍猛菩薩が「中論」の中で説いている「空」もまた同じです。そして、著者は「空」の本質を以下のように分かりやすく説明するのでした。

「テレビジョンはスィッチを入れて電気を流さなければただの箱である。電気が通って初めて映像や音声が現れる。五大の『空』はテレビに流れる電気と同じで、地・水・火・風、合体してできた肉体に『空』が加味されて生となり、『空』が離れれば解体して死となる。このように生命の裏付けをするのが『空』である。『空』は生命の実体であり、五蘊の生滅、肉体の生滅に関わりなく一貫して存在している。
 仏教寺院の五重の塔は地・水・火・風・空の五大を表したもので、一番下の石が地を意味し、上に登っていくにしたがって、地から空に到ることになっている。空は四大を容れる空間だというのなら、四重の塔でよかったのではないか」

 「『般若心経』の正しい読み方」では、著者は、「空」とは「実体がないこと」ではないとして、以下のように述べます。

「『空』こそ神秘実相世界であり、不生不滅、不垢不浄、不増不減、の永久不変の世界であるが、そのことを説いたはずの『般若心経』が逆にこのような無常観に支配された仏教という誤解を植えつけていることに対して滑稽を通り越して悲劇を感じたのである」

 そもそも、「般若心経」とは何か。著者は以下のように述べます。

「『般若心経』は釈迦が十大弟子の1人である舎利子に対して、釈迦の前世、観自在菩薩であったときに悟った自らの境地を話して聞かせたものである。観自在菩薩は釈迦の何代か前の前世の姿であり、この場面では釈迦が観自在菩薩を過去世から呼び出し自分は横で筵に横たわりながら観自在菩薩が説明するのを眺めていたとの解釈もある」

 著者によれば、2つの世界にまたがって二元統一的に生命現象を展開しているのが人間だといいます。人間は「空」なる秘密相と「五蘊」なる現実相を表裏一体のものとして生きているのです。それゆえに、五蘊は空に異ならず、空は五蘊に異なりません。また五蘊は即ち是空であり、空は即ち是五蘊です。このように空と五蘊の関連の一体性を示したのが「不異」であり、その同時性を示したのが「即是」だというのです。

 「般若心経」の要旨について、著者は以下のように述べています。

「般若波羅蜜多の功徳を説いたお経である。その他の部分はこの骨組みに付けられた輪郭描写であり細部描写である。にもかかわらず、『空』という言葉にあまりにこだわり、しかもその解釈を間違っているのがほとんどの設若心経解説書の実態である。このお経は『空』を解釈するためのお経ではなかったがために、殊更『空』についての解説をしていない。そのことが逆に多くの誤解を生むことになってしまったのは残念でならない」

 「法華経の空」の冒頭では、著者は以下のように述べています。

「仏教の経典は『華厳経』『阿含経』『方等経』『般若経』そして『法華経』と、釈迦の説法の年代に沿って編まれている。したがって『般若心経』の中で用いられた『空』という概念が、それより後に説かれた『法華経』の中でも、特にことわりがなければ、共通した概念として用いられていると考えるのが常識である」

 また、著者は「空」について、以下のようにも述べています。

「空海は『秘蔵宝鑰』や『十住心論』の中で『水波の不離』や『金莊の不異』の例えをもって、『空』は神秘実相界、霊界、大宇宙のことであると解説している。法華経の中でも『空』はこれと同じ概念で用いられていることは当然である」

 そして、著者は現代日本の仏教界の「空」理解を以下のように批判するのでした。

「現在の日本仏教界が『空』という言葉を『実体がないこと』という画一的な理解をしている姿は、まるで、1543年にコペルニクスが地動説を発表する前の中世社会のようである。天動説を信じて疑わなかった中世の人々にとって、地動説を唱えるコペルニクスやガリレイは異端者であったが、今の世に天動説を信じる人がいないように、いつの日か『実体がないこと』といった『空』の解釈は荒唐無稽になる日が来るだろう。その日が1日も早く来ることを私は祈っている」

 「阿弥陀来迎と空の世界」でも、著者は「空」について述べます。

「『空』の世界を理解すること、ここから『あの世』や『阿弥陀如来』への正しい理解が生まれる。『あの世』を論理的に説明したのが『空』であり、三身論を理解すれば仏教が各宗派に分かれて争うことの愚も理解されるだろう。死は誰にでも訪れる。死を恐れてはいけない。死は『あの世』への旅立ちであり、どうせならそのとき、あの世で歓迎会を開いてくれるような死を迎えたいものである」

 この意味で、「般若心経」は最高のグリーフケアのテキストと言えるでしょう。

 また、著者は法然について以下のように述べています。

「法然上人は人が死ぬと阿弥陀如来の許に行くのだと説いた。当人が阿弥陀如来の許に行けたかどうかはともかく、阿弥陀如来の許に行くのは肉体ではなく、霊体であることは間違いない。とすれば、浄土宗や浄土真宗の信者は少なくとも霊体の存在を信じていることになる。ということは、日本の高名な仏教学者たちよりも、遥かに仏教を理解していることになる」

 さらに、著者はスティーヴン・ホーキングについて以下のように述べます。

「宇宙物理学者のホーキング博士は、すでに宇宙の特殊な構造を掴んでいる。宇宙というのは単なる無機的な空間ではなく、簡単に言えば霊界だと思っても間違いない。その大宇宙を自在に飛び回る存在があることもホーキング博士は知っている。宇宙空間は真空に近い状態にあり、重力がないことは勿論だが、私たちが想像しうる単純な3次元空間ではなく、11次元の空間であるとホーキング博士は言っている」

 「涅槃と彼岸、仏事の意義」では、著者は以下のように述べています。

「仏事の歴史を紐解くと、インドにおいては、死後7日、7日毎に7回、これだけである。これは死者の生前の行為に基づく罪や徳が、7日毎の裁きによって、死後の輪廻の軌道が定められるとされていたからである。遺族は死者の生前の善事を追募することによって、死者がよりよい輪廻をすることを祈るといった意味合いであった。
 これが中国に入ると『七仏事』に加えて、中国古来の風習である『百カ日』『一周忌』『三周忌』が加わり、『十仏事』になった」

 日本でも仏教伝来の初期には「七仏事」でした。
 天平7年(735)の聖武天皇の詔に「親王薨ぜば、7日ごとに供斎し、僧一百人をもって限りとし、七七斎しおわらば、これをとどめよ。爾今以後、例としてこれを行なえ」(「続日本紀」)とあり、インド古来の「七仏事」をそのまま行っていたことがわかります。
 その後、中国との交流が密になるにしたがって、12世紀頃までに中国型の「十仏事」が一般化しました。そして14世紀頃になると、「七年忌」「十三年忌」「三十三年忌」が加わり、日本独特の「十三仏事」が確立しました。16世紀には、さらに「十七年忌」「二十五年忌」を加えて「十五仏事」になったのです。
 徳川時代になると僧侶の堕落からお寺商法はさらに悪どくなり、仏事は水増しされました。つまり、「二十三年忌」「二十七年忌」「三十七年忌」「五十年忌」「七十五年忌」「百年忌」と次々に新たに創出され、「百年忌」以降は五十年毎として、これを「遠忌」と名付けています。

 「仏教寺院の改革」では、著者は「葬式仏教」の起源について述べます。

「日本では江戸時代になって檀家制度というのが設けられ、宗門人別帳という一種の戸籍によってすべての人々が管理された。仏教各派の寺院は葬式や法事を通じて、檀家の管理監督を請け負わされた。この制度によって、本来なら墓とは無縁なはずの禅宗各派までが墓守をやらされ、幕藩体制下に組み込まれた。日本の仏教は葬式仏教に成り下がってしまったのである。同時に、妻帯も許され、寺は世襲されることになった。仏教の僧侶は本来、多くの人の幸せを願い、世俗の欲を離れて出家するからこそ人々の尊敬を集め、お布施や寄進によってその立場が保護されてきた。ところが寺という財産を世襲し、駐車場や幼稚園を経営して金儲けに励むというのでは俗人とどこに違いがあるのだろうか」

 それでは、日本仏教はどうすべきなのか。著者は以下のように述べます。

「江戸時代、300年かけて造りあげられてきた檀家制度は、また300年かけて無くしていけばよい。文化財的な価値のある寺院は、文部科学省の予算で管理すれば、拝観料を取る口実もなくなるだろう。中には国宝級の寺宝があることを自慢している寺もあるが、寺本来の立場から言えばこのような物は必要の無い物である。さっさと美術館や博物館に寄附してしまえばよい。寺は美術館や博物館ではない。寺には救いを求める人だけが来ればいいのである」

 そして、解説「三身論」で、著者は以下のように述べるのでした。

「空海は密教の第八祖であるが、それ以前の密教祖、龍猛菩薩に対しても、不空三蔵に対しても恵果阿闍梨に対しても『遍照金剛』という密号を用いることは許されていない。このことの重大性を認識して欲しい。空海は必然的に釈迦の生まれ変わりということになる。少なくとも恵果阿闍梨はそのことを知っていた。だから空海に『遍照金剛』の密号を授けたのである。しかし空海は自らが釈迦の生まれ変わりであることを、『般若心経秘鍵』のあとがきにさりげなく述べるに留めた。そして恵果阿闍梨の言葉を借りて、次回もまた日本に現れるだろうことを預言したのである」

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