No.1394 芸術・芸能・映画 『映画と本の意外な関係!』 町山智浩著(インターナショナル新書)

2017.03.01

 3月になりました。1日から台湾に行きます。第89回アカデミー賞は作品賞の誤発表という前代未聞の事件が発生しましたが、わたしのブログ記事「ラ・ラ・ランド」で紹介した映画が6部門で受賞し、存在感を示しました。
 『映画と本の意外な関係!』町山智浩著(インターナショナル新書)を読みました。著者は現代日本を代表する映画評論家で、1962年東京都生まれ。早稲田大学法学部卒業。『宝島』『別冊宝島』などの編集を経て、1995年に雑誌『映画秘宝』(洋泉社)を創刊。アメリカ・カリフォルニア州バークレー在住。この読書館で紹介した『トラウマ映画館』『トラウマ恋愛映画入門』の著者でもあります。2冊とも素晴らしい映画論です。

    本書の帯

 本書の帯には著者の顔写真とともに、「『インターステラー』の本棚になぜボルヘスの短編集が?」「『太陽がいっぱい』の主人公が友人を刺した本当のワケ!」「『007』のジェームズ・ボンドは言語学者!?」「インターナショナル新書創刊!」と書かれています。

    本書の帯の裏

 またカバー前そでには、以下のような内容紹介があります。

「映画のシーンに登場する本や言葉は、映画を読み解くうえで意外な鍵を握っている。本書は、作品に登場する印象的な言葉を紹介し、それに込められた意味や背景を探っていく。原作小説はもちろん、思わぬ関連性を持った書籍、劇中で流れた曲の歌詞にまで深く分け入って解説。紹介する作品は、『007』シリーズや『インターステラー』から、超大国の裏側がわかるドキュメンタリー映画まで。全く新しい映画評論!」

 本書の「目次」は、以下のような構成になっています。

「映画の本棚―まえがきにかえて」
第1章 信じて跳べ
第2章 金は眠らない
第3章 本当の根性
第4章 真夜中のパリ
第5章 3月15日に気をつけろ
第6章 メイド・オブ・オナー
第7章 さらば我が愛、我が友、我が痛み、我が喜び
第8章 彼女と同じものをいただくわ
第9章 天墜つる
第10章 リンカーンのユーモア
第11章 そこに連れて行くよ
第12章 貴様らが我々を騙すなら、我々も貴様らを騙す
第13章 時は征服できない
第14章 すべての探求は最後に出発地点に戻り、 初めてそこだったと知るのだ
第15章 あんなに短かった愛なのに、永遠に忘れられない
第16章 イケてる女
第17章 愛について語るときに我々の語ること
第18章 「何があったの? シモンさん」
第19章 愛と赦し
第20章 人はいつも、手に入らないものに恋い焦がれるんですね
第21章 縄ない
第22章 アメリカ映画の詩が聴こえる

 「映画の本棚―まえがきにかえて」で、著者は以下のように述べます。

「映画で画面に映る本には何らかの意味があるはずです。監督にインスピレーションを与えた本だったり、物語の謎を解く鍵が隠されていたり・・・・・・。その本を知っている人にしか伝わらない、本の虫だけに向けられたウィンクのようなものだと思います」

 わたしには、そんな経験が何度もあります。たとえば、わたしのブログ記事「ウォルト・ディズニーの約束」で紹介した映画(2014年)には、名作「メアリー・ポピンズ」(1964年)の誕生秘話が描かれていますが、映画の冒頭に『メアリー・ポピンズ』の原作者であるP・L・トラヴァースの書斎が映し出されます。その机の上には『グルジェフの教え』という本が置かれていました。G・I・グルジェフ(1866~1949)は「20世紀最大の神秘思想家」と呼ばれた人物です。代表作に『注目すべき人々との出会い』があります。

 また、トラヴァースの父親は娘の詩を読んだとき、「まだ、イェイツの域には達していないな」と言いました。W・B・イェイツ(1865~1939)は神秘主義詩人として知られ、魔術結社「黄金の夜明け団」のメンバーでした。つまり、グルジェフもイェイツもオカルト界の大物であり、目に見えない世界の実在を説く人物だったのです。イェイツには、そのものずばりの『幻想録』という著書もあります。トラヴァースの父親は非現実的な言葉を口にする人物で、現実の世界に適応できないアル中の男の現実逃避のように思えます。しかし、彼には本当に妖精や精霊たちが見えており、そんな彼の一種の霊能力が娘に多大な影響を与えたという見方もできます。

  さて、本書の著者である町山氏は、わたしのブログ記事「インターステラー」で紹介した映画を取り上げます。そして、「『インターステラー』の五次元の図書館」として、以下のように述べます。

「1冊どころでは済まないのがクリストファー・ノーラン監督の『インターステラー』(14年)です。なにしろ本棚の移動ショットで始まるんですから。並んだ本の背表紙のなかにマーティン・エイミスの小説『時の矢―あるいは罪の性質』(91年)が見えます」

 また著者は、「インターステラー」の本棚について述べます。

「『インターステラー』の本棚の持ち主は、主人公クーパー(マシュー・マコノヒー)の娘マーフ(ジェシカ・チャステイン)です。クーパーは環境破壊によって絶滅寸前の地球から移住できる惑星を探す宇宙飛行士で、マーフは後に宇宙物理学者になる天才少女です。だから蔵書も普通の子どもとはかなり違うのですが、この本棚は同時にノーラン自身のコレクションでもあって、彼のアイデアのカタログになっています」

 さらに著者は、以下のように述べています。

「ホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編集も見えます。クーパーが迷い込んだ5次元空間は、マーフの本棚が上下左右に連結されて無限に続く図書館のように見えます。まさにボルヘスが想像した『バベルの図書館』です。また、ボルヘスの短編『円環の廃墟』(40年)は、ひとりの男を夢で創造しようとする男の話ですが、最後に彼自身もまた誰かの夢の登場人物にすぎないと知ることになります」

 続けて、著者はわたしのブログ記事「インセプション」で紹介した映画(14年)に言及し、以下のように述べます。

「これが映画『インセプション』(10年)の発想の基になったとノーランは言っています。『インセプション』は産業スパイが他人の夢に侵入して密かに別の考えをインセプション(移植)するのですが、夢の中でさらに夢を見るので、何が現実で何が夢かわからなくなります」

 また著者は、「グランド・ブダペスト・ホテル」(13年)からヴィム・ヴェンダース監督の名作「ベルリン・天使の詩」(87年)を連想し、「ベルリンの『新しい天使』」として以下のように述べます。

「『ベルリン・天使の詩』は、人間の女性に恋した天使ダミエル(ブルーノ・ガンツ)が人間になるラブ・ストーリーとして世界的にヒットしました。でも、実は本当の主役は、図書館にいるホメーロス(クルト・ボイス)という老人です。彼が机で本を読む姿は、ある写真を基にしています。パリ国立図書館で本を読む、ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンの写真です」

 「映画の本棚―まえがきにかえて」の最後には、「どの本の背後にも、人間が隠されている。僕はそれを知りたいんだ」というSF詩人レイ・ブラッドベリの『華氏451』に登場する言葉が置かれています。 『華氏451』は、1966年にフランソワ・トリュフォーによって映画化されました。膨大な数の本が登場する、そう、あれはまさに「本の映画」でした!

  第1章「信じて跳べ」では、「パスカルの賭け」として、著者は以下のように述べています。

「人が論理や確証を超えてある決断をするのは、言い換えると自分の直観に賭けることでもある。しかし直観とは何か。イマヌエル・カントは、人間には理性では説明できない認識、経験に先立つ先天的な認識があると考えた。その考えは超越論と呼ばれ、19世紀、近代合理主義への反発もあって流行した。アメリカの作家エドガー・アラン・ポーは神秘主義的な詩や小説を書く一方で超越論に反発し、それを批判して『悪魔に首を賭けるな』という短編を書いた。その映画化が、オムニバス映画『世にも怪奇な物語』(67年)の第3話、フェデリコ・フェリーニ監督の『悪魔の首飾り』である」

 第4章「真夜中のパリ」では、イースター(復活祭)のように、年によって日付が違う祝日を「移動祝祭日」と呼ぶことが説明されます。「もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ」(アーネスト・ヘミングウェイ著、高見浩訳『移動祝祭日』新潮文庫)という言葉を紹介し、著者は「そう語ったヘミングウェイは、20代の頃パリで暮らした7年間を、60代になって回想記『移動祝祭日』にまとめた。この本は、映画『ミッドナイト・イン・パリ』(2011年)の発想の原点になった」と述べます。

 映画「ミッドナイト・イン・パリ」では、ヘミングウェイが主人公のギルに対して語った次のセリフが強く印象に残りました。

「誰だって怖いものは死だ。死ぬのが怖い理由は、まだ人を愛し足りないし、愛され足りないからだ。しかし、本当に素晴らしい女性と愛を交わせば死など怖くない。なぜなら、体と心がひとつになれば、ふたり以外の世界のすべては消え失せるからだ。その瞬間、魂の不滅を実感するのだ」

 第9章「天堕つる」では、「007」シリーズ23作目となる「007 スカイフォール」(12年)が取り上げられ、著者は以下のように述べています。

「『007 スカイフォール』では、まさに天が落ちるような事態がMI6(英国諜報部)を襲う。ボンドの上司M(ジュディ・デンチ)のノートパソコンが盗まれ、機密がサイバー・テロリスト、シルヴァ(ハビエル・バルデム)の手に渡ってしまう。彼はMI6本部のコンピュータに侵入し、世界各国に潜入させたエージェントの名前を公表、彼らの命が失われる。Mは英国議会で責任を問われることになるが、公聴会に向かう彼女の胸中で暗誦されるのは、桂冠詩人アルフレッド・テニスン(1809~92年)の無韻詩『ユリシーズ』だ」

 続いて、著者はテニスンの『ユリシーズ』について述べます。

「ユリシーズは古代ギリシアの知将オデュッセウスのこと。イタケーの王だったユリシーズはトロイ戦争に従軍し、有名なトロイの木馬作戦を考案して勝利を得るが、海神ポセイドンの怒りを買ってしまい、20年間も地中海を彷徨うことになる。ようやく母国に帰りついたユリシーズは、既に老い、臣下の英雄たちも旅の途中で死に絶えていた。1833年、学生時代からの親友を失ったテニスンは、ユリシーズの老境に自分を重ねてこの詩を詠んだ。ユリシーズは過去の戦いを振り返った後、この詩を新たな船出への意志で締めくくる」

 第20章「人はいつも、手に入らないものに恋い焦がれるんですね」では、著者は「エデンより彼方に」と「キャロル」の2本の映画を紹介します。

「『キャロル』(2015年)の監督はトッド・ヘインズ。『エデンより彼方に』(02年)に続いて50年代の禁じられた愛を描いている。『エデンより彼方に』は50年代のハリウッド製メロドラマのパスティーシュ(作風の模倣)だった。特にダグラス・サーク監督の『天はすべて許し給う』(55年)の設定や演出を完璧に模倣しているが、『エデンより彼方に』の夫が同性愛者だったと知って苦悩する人妻が黒人の庭師と恋に落ちるという内容は、50年代には絶対ありえないものだ。当時のハリウッド映画はヘイズ・コードという自主倫理規制に縛られており、同性愛や異人種間恋愛は、暗喩すら許されていなかった。50年代アメリカは、健全なアメリカン・ファミリーの幻想ですべての異質なものを封じ込めていた。だから『キャロル』は地下鉄の通気口のアップから始まる。同性愛は地下に隠されていた。ヘインズ監督自身はゲイであることを公言している」

 また、著者は「『太陽がいっぱい』の原作者の自伝的小説」として、以下のように述べています。

「80年代に『よろこびの代償』は『キャロル』の題で、パトリシア・ハイスミスの著書として出版された。『見知らぬ乗客』(アルフレッド・ヒッチコック監督、51年)や『太陽がいっぱい』(ルネ・クレマン監督、60年)の原作で知られるミステリ作家ハイスミスは89年付のあとがきで、これが彼女自身の体験を基にした作品だと告白した。 1948年12月、デビュー長編『見知らぬ乗客』の出版を控えていたハイスミス(当時27歳)は、ニューヨークの高級デパート、ブルーミングデールズで売り子として働いていた。精神科の治療費を稼ぐためだった。 その2年前、彼女は銀行家の妻ヴァージニア・ケント・キャサーウッドと恋愛関係にあった。ヴァージニアは離婚調停中で子どもの親権を争っていたが、ハイスミスとのホテルでの密会を私立探偵に録音されて、そのテープが原因で親権を失った。ハイスミスは男性と婚約し、同性愛の「治療」のために精神科に通っていた。『エデンより彼方に』でも描かれるように、当時、同性愛は精神病とされていたのだ。だが、ハイスミスは、ミンクのコートを着たブロンドの婦人キャサリン・センを接客し、恋に落ち、その晩、いっきに『キャロル』のあらすじを書き上げたという」

 著者は「かたつむりの恋矢」として、ハイスミスについて述べています。

「ハイスミスは女性への愛を、男性が男性を愛する物語に転換しただけでなく、恋愛感情を殺意として表現した。『見知らぬ乗客』では、テニス選手にファンの男が交換殺人を持ちかける。男は自分を結婚させようとする父を憎み、テニス選手の妻を殺してしまう。ハイスミスがかたつむりの飼育と観察を趣味とした理由も今では理解できる。短編『かたつむり観察者』(70年)では、雌雄同体のかたつむりの交尾が緻密に描写されている」

 さらに著者は、『キャロル』について以下のように述べます。

「愛を殺意へと歪めたのは時代の抑圧だろう。同性愛が病気とされていた時代、それを押し殺して結婚した人々は苦しんだ。キャロルのモデル、キャサリン・センは51年に自殺していた。ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』(25年)のように。ハイスミスに同性愛の手ほどきをしたヴァージニア・キャサーウッドもアルコール依存症で死亡している。ハイスミス自身は『キャロル』を書くことで自分を肯定し、婚約を解消して、一生、女性だけを愛した」

 第22章「アメリカ映画の詩が聴こえる」では、「心地よい夜に穏やかに身を任せるな」として、著者は以下のように述べています。

「詩は乙女チックな女子か気取ったインテリのもの、昔はそう思っていたが、偏見だった。アメリカ映画では、決戦に臨むとき、このうえなく男らしく勇ましいそのときに詩が朗々と歌い上げられることも多い。 たとえば『インデペンデンス・デイ』(ローランド・エメリッヒ監督、96年)。宇宙からの侵略者によってワシントン、ニューヨークなど世界の主要都市が一瞬で壊滅する。人類は残る航空機すべてを動員して、異星人の巨大戦艦に最後の総攻撃をかける。出撃前、生き残った世界の人々に対してアメリカ大統領がこう演説する。 『本日、7月4日はもはやアメリカだけの独立記念日ではない。世界が声をひとつにして宣言するのだ。「我々は穏やかに夜の中に消えていきはしない」と!』これはウェールズ出身の詩人ディラン・トマスの有名すぎる詩『あの心地よい夜に穏やかに身を任せるな』のラフな引用だ」

 著者は、ホイットマンとディキンソンという2人の詩人を取り上げ、躁と鬱、光と影といったように対比します。そして、彼らの対比をモチーフにした映画として「ソフィーの選択」(82年)の名を挙げ、以下のように述べます。

「ソフィーは戦前のポーランドでタイピストとして父の反ユダヤ論を広めることに協力したが、ナチスはその父を殺し、ソフィーの夫も殺し、彼女と息子と娘はユダヤ人と一緒にアウシュヴィッツの絶滅収容所に送られる。ナチスの将校はソフィーに『息子か娘、どちらかひとりだけ生かしてドイツ人として育ててやるから選べ』と言う。ソフィーは息子を選び、娘は殺された。死にたいと思ったが生き延びてしまった彼女はディキンソンの詩に心を掴まれた」

 続けて、著者は「ソフィーの選択」について以下のように述べるのでした。

「ユダヤ人であるネイサンはソフィーの罪を責め続けるが、彼女は償いのように彼を愛し、そのふたりをスティンゴは愛する。南部の田舎から出てきてニューヨークで初めて移民たちの現実を知るスティンゴには『天使よ故郷を見よ』(29年)の著者トマス・ウルフの経歴が重ねられている。『ソフィーの選択』は、ホイットマンとディキンソンとウルフのトライアングル・ラブという米文学史的に壮絶な物語だったのだ。ついにネイサンとソフィーは死を選ぶ。ふたりが固く抱き合ったまま眠るベッドには遺書の代わりにディキンソンの詩集が置かれていた」

 本書を読み終えたわたしは、著者の博覧強記ぶりに感銘を受けました。 じつは、わたしは一方的に著者を「わがライバル」と思っています。 拙著『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)を書いたときも、著者を意識しながら書きました。それだけに、本書はかなりの集中力をもって読みましたが、映画好き、本好きにはたまらない内容でした。わたしのような映画も本も大好きな人間にとっては、もう、こたえられません! 本書を読了後、まだ未見の「エデンより彼方に」と「キャロル」のDVDをアマゾンで購入。一気に2本観てしまいました。やっぱり映画は良いですね!

    本書の読了後に購入したDVD

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