No.1390 プロレス・格闘技・武道 『1984年のUWF』 柳澤健著(文藝春秋)

2017.02.13

 『1984年のUWF』柳澤健著(文藝春秋)を読みました。
 この読書館でも紹介した名作ノンフィクション『完本 1976年のアントニオ猪木』『1964年のジャイアント馬場』の続編です。アントニオ猪木のリアルファイト、ジャイアント馬場のアメリカ武者修行に続いて、プロレス&格闘技界に多大な影響を与えたUWFの真実を描いています。本書の内容にタブーはなく、著者の「覚悟」が読者に伝わってきます。

   本書の帯

 本書のカバー表紙には、オープンフィンガーグローブをつけたスーパー・タイガー(狭山聡)のイラストが赤色で描かれています。帯には「プロレスか? 格闘技か?」と大書され、続いて以下のように書かれています。

「佐山聡、藤原喜明、前田日明、高田延彦。プロレスラーもファンも、プロレスが世間から八百長とみなされることへのコンプレックスを抱いていた―。UWFの全貌がついに明らかになる」「『ナンバー』連載時から話題沸騰!」「特別付録 1981年のタイガーマスク」

   本書の帯の裏

 本書のカバー前そでには「日本人は、この惑星で最も深くプロレスを愛している―ルー・テーズ」と書かれ、帯の裏には「日本の格闘技はプロレスから生まれた。過去を否定するべきではないと思います」という中井祐樹の言葉に続いて、以下のように書かれています。

「新日本プロレスへの復讐のために誕生した『生まれてきてはいけない団体』は、元・タイガーマスクの佐山聡が加わったことで、プロレスから逸脱していく。全試合完全決着。ロープに振らず、場外乱闘も凶器攻撃も流血もない。キックと関節技で戦い、試合数は少なく、厳格なルールが適用される。そんなUWFを、観客たちは真剣勝負の格闘技とみなした―」
 本書の「目次」は、以下のようになっています。

序 章     北海道の少年
第1章     リアルワン
第2章     佐山聡
第3章    タイガーマスク
第4章    ユニバーサル
第5章    無限大記念日
第6章    シューティング
第7章    訣別
第8章    新・格闘王
第9章    新生UWF
第10章 分裂
終 章    バーリ・トゥード
「あとがきにかえて ~VTJ95以降の中井祐樹」
[特別付録]「1981年のタイガーマスク」
「引用資料」

 序章「北海道の少年」では、「中井くん」の物語から始まります。

 「中井くん」とは、この読書館でも紹介した『VTJ前夜の中井祐樹』の主人公である伝説の格闘家の中井祐樹です。わたしが最もリスペクトする格闘家の1人ですが、本書は格闘家の道を歩んだ彼の視点からUWFの歴史を追っているのです。ですから、わたしを含めて、リアルタイムでUWFブームを経験したファンの視点は違和感を感じてしまいます。
 また、多くのファンにとってUWF物語の主人公とは前田日明を置いて他にはありませんが、本書の視点は違います。前田ではなく、中井の師匠であった佐山聡を中心としてUWFの歩みを追っています。

 第1章「リアルワン」では、UWFの精神的支柱となったプロレスラーであるカール・ゴッチが、他人から「プロレスラーなんでしょう?」と質問されたとき、いつも「アイム、リアルワン」と返したことが紹介されます。
 そのことについて、著者は以下のように述べています。

「プロレスはリアルファイトではなく、観客を喜ばせるためのパフォーマンスであり、勝者と敗者があらかじめ決められていることは事実であり、しかもゴッチは嘘をつくことが大嫌いだった。だからこそゴッチは『ほかのレスラーはともかく、俺だけは本物(リアルワン)だ』と苦く答えるしかなかったのだ。リング上で行われている試合の勝敗を決めるのはプロモーターであり、残念ながらレスラーではない。だからこそ強い俺は、弱い敵に敗れなくてはならない。しかし、俺は日々身体の鍛練を怠らず、技の研究を重ねている。実戦になれば、相手が誰であろうが、素手で打ち負かすだけの実力を身につけている。本来、プロフェッショナル・レスラーは圧倒的な体力とレスリングの技術の上に、相手を屈服(submit)させる武器、すなわちサブミッション(関節技)を持たなくてはならない。しかし、いまやプロフェッショナル・レスリングは堕落してしまった。凶器攻撃、急所攻撃、そして流血。これらのどこが『レスリング』なのか。アメリカからプロフェッショナル・レスリングは失われた。本物=リアルワンと呼べるのは俺だけだ。
カール・ゴッチの思想とは、おおむねこのようなものだ」

 カール・ゴッチは「神様」と呼ばれましたが、彼の全盛期には「鉄人」と呼ばれたルー・テーズがマット界の絶対王者として君臨していました。ふたりとも真剣勝負に強いことで知られましたが、著者は以下のように書いています。

「カール・ゴッチはルー・テーズに勝るとも劣らない強者だが、ふたりの間には決定的な差が存在していた。”鉄人”ルー・テーズの妻であるチャーリーは、亡き夫とカール・ゴッチの違いを次のように評している。
 《カールはプロフェッショナル・レスリングのリアリティに決して飛び込んで行かなかった。カールにとって、レスリングは誇りであり、コンペティション(競争)だった。でも、ルーにとって、レスリングはビジネスだった。レスリングは、チケットを買ってくれる人の汗でできているのよ。》(『Wrestling Observer』2007年8月6日号)
 チャーリー・テーズの言う”プロフェッショナル・レスリングのリアリティ”とは、観客を楽しませるパフォーマンスに徹して大金を稼ぐということだ。テーズにはそれができたが、ゴッチにはできなかった」

 ここで、日本を代表するプロレスラーであったアントニオ猪木が登場します。
 猪木は新日本プロレスを旗揚げした当初、ジャイアント馬場の全日本プロレスが有名なプロレスラーを独占していたため、師匠筋であったゴッチにレスラーのブッキングを依頼。新日本プロレスの旗揚げ戦も猪木vsゴッチの「実力世界一決定戦」でした。しかし、その後、ゴッチの理想よりも、会社経営という現実を優先させた猪木は、ゴッチの権限を大幅に削りました。そして、ロスのマイク・ラーベルを新たなメインブッカーに据えたのです。著者は以下のように書いています。

「タイガー・ジェット・シンとのスリリングな流血の死闘、ストロング小林との日本人エース対決、大木金太郎とのかつての同門対決、ビル・ロビンソンとの知的でテクニカルな攻防。
 アントニオ猪木と新日本プロレスの人気が爆発的に伸びていく中、カール・ゴッチは、レスラーとしてもメインブッカ―としてもお払い箱にされた。ゴッチに残された役割は、前座レスラー数名のブッキングと、日本の若手レスラーにわずかな期間だけプロレスの基礎を教える臨時トレーナーだけになった」

 続けて、著者は当時のカール・ゴッチについて以下のように述べています。

「カール・ゴッチは大いに不満を抱いたものの、猪木との関係を絶つことはできなかった。すでにアメリカのマット界にゴッチの居場所はなくなっていた。さらに新日本プロレスから支払われたギャランティがなければ、フロリダ州タンパ郊外の小さな町オデッサに一軒家を購入することは到底不可能だった。ゴッチの生活は、新日本プロレスから得られる収入で成り立っていたのだ。アントニオ猪木は、藤波辰巳、長州力、藤原喜明、佐山聡、前田日明、高田伸彦などの若いレスラーを、次々にフロリダで暮らすゴッチの元に送り込んだ」

 第2章「佐山聡」では、プロレスが真剣勝負だと信じて新日本プロレスに入門した佐山聡が、先輩からプロレスの正体がショーであることを知らされるくだりが書かれています。著者は以下のように書いています。

「普通の人間ならば、諦めてショーを演じ続けるか、絶望して去るところだ。
 しかし、佐山聡は普通の人間ではなく、第三の道を選んだ。
 リング上で行われているプロレスはショー以外の何物でもない。
 では、道場で行われているスパーリングはどうか。
 カール・ゴッチからアントニオ猪木、木戸修、藤原喜明らに伝わった関節技もまた、卍固めや4の字固めのようにお互いの協力がなければ決して極まらないショー向けの技なのだろうか?
 そんなことはあり得ない。関節技が本物の技であることは、自分の身体の痛みが知っている。ならば、関節技を生かした新たなる格闘技を作り上げよう。つくりもののプロレスを、すべて本物に変えてしまおう。それこそが、18歳の佐山聡が歩み出した第三の道だった。佐山の考えた新格闘技とは、打撃戦から始まり、組みついて投げ合うテイクダウンの攻防から寝技の攻防に移行し、最終的には関節技で極めて完全決着するというものだった。いまで言う総合格闘技、あるいはMMA(Mixed Martial Arts)である」

 猪木の付け人となった佐山は、自分の構想を猪木に明かします。
 それは、1976年の半ばでした。著者は以下のように書いています。

「アントニオ猪木にとって、1976年は特別な年であり、異常な試合をいくつも戦っている。2月にはミュンヘンオリンピック柔道金メダリストのウィリエム・ルスカとの異種格闘技戦を。6月にはボクシング世界ヘビー級チャンピォンのモハメッド・アリとの格闘技世界一決定戦を。10月には韓国のプロレスラー、パク・ソンナンとの相手の目に指を入れるほどの死闘を。
 12月にパキスタンのアクラム・ペールワンと戦った試合は、再び相手の目に指を入れ、噛みつかれたあげくに腕を折って決着をつけるという凄惨なものになってしまった」

 続けて、著者は「重要なことは、ルスカ戦を除く3試合がリアルファイトであったということだ」と述べています。そのルスカもまた、8月には新日本プロレスのブラジル遠征に同行、リオ・デ・ジャネイロでイワン・ゴメスとバーリ・トゥードのリアルファイトを行い、激しい打撃戦の末に、流血に追い込まれました。結果はゴメスの反則負けでしたが。著者は述べます。

「ショーであり、エンターテインメントであるはずのプロレスに、リアルファイトが入り込んでいた異常な1年。それこそが1976年なのだ。
 プロレスラーとして前代未聞の大冒険の最中にあった”1976年のアントニオ猪木”に向かって、佐山聡は『打撃と投げと関節技を組み合わせた新しい格闘技を作りたいんです』と申し出たのだ」

 その佐山聡は、1981年にタイガーマスクに変身します。
 タイガーマスクがいかに不世出の天才プロレスラーであったかを、著者はニューヨークのMSG(マディソン・スクウェア・ガーデン)での試合の様子を紹介し、以下のように述べます。

「異次元の動きを見せて勝利したタイガーマスクに、マディソン・スクウェア・ガーデンの観客はスタンディング・オベーションを送った。ニューヨークのプロレス・ファンは、梶原一騎原作のマンガやアニメのことなど何も知らない。コミックのキャラクターではなく、佐山聡の作り出したスタイル自体が強い説得力を持っていたのである。
 すでに、サトル・サヤマはメキシコで、サミー・リーはイギリスで大きな人気を獲得していた。佐山聡が作り出したプロレスは、世界中で通用したということだ。1980年代初頭にそんなことができたレスラーは、佐山聡のほかにはただひとり、アンドレ・ザ・ジャイアントだけだろう。
 佐山聡はアンドレと並ぶ、世界規模のプロレスラーだったのである」

 第5章「無限大記念日」では、タイガーマスクとしての絶頂期にプロレス界を引退した佐山聡が「ザ・タイガー」「スーパー・タイガー」とリングネームを変えながら、ユニバーサル・プロレス(旧UWF)に参戦した様子が描かれています。第1次UWFには藤原、前田、高田といった、かつての新日本プロレスの仲間たちもいましたが、彼らと佐山とでは進む方向性が違っていました。著者は以下のように述べています。

「藤原や前田、高田にとって、プロレスは生活の糧である。プロレスラーである彼らにとって最も重要なのは、UWFを維持拡大することだ。だが、佐山にとって最も大切なのは自らが創始した新格闘技であり、UWFではない。佐山にとってのUWFは、新格闘技を実験するための研究室であり、新格闘技を運営するための収入源であり、新格闘技を宣伝するためのメディアであった。現段階で、UWFがプロレス団体であることは仕方がない。だが将来的には新格闘技のプロ部門に変えてしまおう。
佐山はそのように考えていた」

 佐山聡の新格闘技に賭ける情熱のルーツは、師匠のアントニオ猪木の情念でした。「週刊プロレス」の編集長として一時代を築いたターザン山本氏は以下のように述べています。

「新日本プロレスは猪木さんが動かしてきた運動体。その根本理念は、プロレスは最強であり、キング・オブ・スポーツであり、誰の挑戦でも受けるというもの。このイデオロギーで、猪木さんは日本のプロレスファンの心をわしづかみにして、馬場さんが作りあげた『本場アメリカのプロレス』という価値観を逆転した。世の中の大人たちは、プロレスは永遠に八百長だと思っている。実際にそうだから、レスラーは反論できない。すべてのレスラーは、世間に対して巨大なコンプレックスを抱えているんです。普通の人間ならば、自分のやっていることが八百長だったら、委縮してしまって前に進むことはできない。でも猪木さんは『世間はプロレスに偏見を持っている』と一歩前へ出て、プロレスを八百長と見る世間と戦おうとした。そこが猪木さんのすごいところ。猪木さんが馬場さんに勝ち、プロレスを八百長と見下す世間に勝つためには、実力測定の場所が必要だった。しかもそれは自分のリングでなければならない。異種格闘技戦です。格闘家からすればしゃらくさいことだけど、猪木さんがルスカやモンスターマンに勝ったことで、新日本プロレスのすべては好転した」

 また、山本氏はUWFについて以下のように述べます。

「UWFはアントニオ猪木の”格闘技”の部分だけで引っ張っていこうとした団体。いわば異種格闘技戦の発展形です。猪木さんは、ふだんはプロレスをやり、たまに異種格闘技戦をやった。猪木さんのファンにとって、格闘技はプロレスの上位概念として存在している。だから、格闘技の部分だけを取り出して、純粋なものにしてしまえば、猪木さんのコアなファンを根こそぎ持ってこられる。佐山さんは、穴だらけのプロレスを理論化して、これまでのプロレスが持っているネガティブな部分、プロレスを八百長とみなすための証拠を注意深く取り除いた。ロープに跳ばない。場外乱闘はやらない。エルボー合戦も、ブレーンバスターもバックドロップもない。残ったのはサブミッション(関節技)とキック。そして完全決着。
そうすることで、新日本プロレスファンの中の過激な左派、真剣勝負の格闘技を求めるファンたちを全部UWFに集めてしまった」

 第6章「シューティング」では、UWFでの佐山聡について述べています。

「1981年に”四次元殺法のタイガーマスク”という世界プロレス史に永遠に残るキャラクターを作り出した天才は、わずか3年後の1984年には、打投極の全局面で戦う夢の総合格闘家スーパー・タイガーという新たなるキャラクターを身に纏い、真剣勝負のプロレスを渇望する先鋭的なプロレスファンを魅了していたのだ。ただし、総合格闘技もMMA(Mixed Martial Arts)も、」まだ世界のどこにも存在しない」

 続けて、著者はUWFの佐山について、以下のように述べています。

「とりあえず自分は、UWFのリングでフィクションとしての総合格闘家=MMAファイターを演じよう、と佐山は考えた。
 関節技の名手である藤原喜明や木戸修、自分より遥かに大きい前田日明とシューティングに近いプロレス、格闘技色の濃いプロレスを戦う。UWFを見て、自分もシューティングをやりたくなった若者を集めて新たにジムを作る。彼らにはプロレスを教えず、シューティングだけを教える。数年後、若者たちはUWFのリングでデビューする。彼らの試合は結末の決まったプロレスではなく、厳密なルールの下で行われる純粋な格闘技として行う。さらに数年を経て、若者はメインイベンターとなる。その頃には、現在のレスラーはひとりもいなくなっている。UWFはプロレス団体であることをやめ、ごく自然に格闘技団体へと移行していく―。佐山聡はおおよそこのような未来予想図を描いていたのだ」

 リングス、K-1、修斗にプランナーとして関わった若林太郎氏は、1984年のUWFについて、以下のようにじつに的確にコメントしています。

「プロレスを歌舞伎にたとえると、猪木さんは大向こうを唸らせる不世出の千両役者。その世界観からはみ出して、いきなり前衛の現代演劇に行ったのがUWFです。時代を先取りして大衆を煽動する寺山修司のようなアーティストが佐山聡さん、『週刊プロレス』のターザン山本さんはもともと映画畑の人だから、超マイナーだけど前衛的なUWFに肩入れした。1984年のUWFは、プロレスの青春時代でした」

 また若林氏は、次のようにも述べています。

「佐山さんは、アントニオ猪木以降にプロレスファンがずっと求めていた『真剣勝負に見えるプロレス』を初めて形にした。本物の真剣勝負はUFC(Ultimate Fighting Championship=アメリカの総合格闘技団体)のように残酷で時として切ないもの。でも、UWFは真剣勝負に見えるのに、どこかハッピーエンド。美しい夢だからこそ、UWFは僕たちの心を捉えて離さなかったんです」

 佐山聡は本物の天才でした。UWFのヴィジュアル面の象徴といえるレガースも彼が考案したものです。著者は以下のように述べています。

「いまやレガースは世界中のプロレスラーが着用し、世界各地の打撃系格闘技のジムでも使用されている。
 1981年にデビューしたタイガーマスクは日本のマスクマンの元祖だ。
 ミル・マスカラスやドス・カラスに代表されるメキシコのマスクマンは存在したものの、日本で芸術的なマスクをつけたのはタイガーマスクが初めて。プロレスマニアが競うようにマスクを買い求めたことから、豊嶋裕司のようなマスク職人も続々と誕生した。タイガーマスクなくしては、ザ・グレート・サスケもウルティモ・ドラゴンも獣神サンダー・ライガーも存在しない。
 オープン・フィンガーグローブを考案したのも佐山だ。1977年10月に行われたアントニオ猪木とチャック・ウェップナーの異種格闘技戦で初めて使用され、以後、改良が繰り返されて現在では修斗、PRIDE,UFCなどあらゆる総合格闘技のプロモーションで使用されている。
 佐山聡こそ日本のプロレス文化、格闘技文化の淵源なのだ」

 第8章「新・格闘王」では、佐山聡と並んでUWFのシンボル的存在であった前田日明について述べられています。
 「前田最強説」として、著者は以下のように書いています。

「ユニバーサル時代の前田日明は、団体内では常にエースとして扱われ続けたものの、観客の支持を集めることはできなかった。流れるように次々と関節技を繰り出す藤原喜明に比べれば前田の関節技は未熟であり、藤原が「速すぎて見えない!」と驚愕した佐山聡のキックに比べれば前田のキックは遅く、かわされることも多かった。そのことを誰よりも自覚していたのは、じつは前田自身だった」

 「週刊ファイト」1985年2月5日号には、「ファンがオレに何を期待しているのかはわかっている。しかしオレは藤原さんのように関節技を何年も追求したのでもなければ、佐山さんのような天才でもない。1つずつ自分で納得しないことには次の段階へ進めない」という前田のコメントが載っています。
 そんな前田は、1986年4月29日に「最強」の幻想を身に纏います。
 その日、三重県津市体育館で、アンドレ・ザ・ジャイアントと伝説の一戦を行ったからです。ユニバーサル(旧UWF)が崩壊して新日本プロレスに参戦していた前田は「クラッシャー」として外国人レスラーに容赦ない攻撃を行い、何人も怪我をさせていました。それに業を煮やしたアンドレが前田を制裁しようとしてセメントを仕掛けた試合です。前田は大巨人アンドレの膝に何発も本気のキックを叩き込み、アンドレを試合放棄に追い込みました。この瞬間、前田のイメージは一変しました。多くのプロレスファンは「アンドレを撃退した前田こそは、最強のレスラーではないか」と考え始めるようになったのです。かくいうわたしも、その1人でした。

 アントニオ猪木、UWF、前田日明は、プロレスファンに何を与えたのか?
 著者が次のように、じつに見事な表現で説明してくれます。
 まず、1970年代後半、アントニオ猪木は一連の異種格闘技戦を行うことによって、ファンに次のような考えを植えつけることに成功したといいます。

「猪木の挑戦を避けているジャイアント馬場には実力がない。だから八百長のプロレスをしている。だが、猪木は違う、なぜならば猪木は誰の挑戦でも受けるといい、現にプロレスの外側にいる柔道家やボクサーやキックボクサーや空手家と、腕を折るような過激な戦いをしているからだ」

 また、1980年代半ば、UWFは打撃と関節技を組み合わせたまったく新しいスタイルを提示することによって、ファンに次のような考えを植えつけることに成功したといいます。

「UWFではロープに跳ばされても戻らず、ドロップキックを出せば軽くかわされる。場外乱闘も反則攻撃も両者リングアウトもない。明文化されたルールが存在し、試合は常に完全決着する。関節技とキックの両方で戦うUWFこそが真剣勝負のプロレスであり、プロレスの進化形である。史上最強のカール・ゴッチの弟子筋にあたる藤原喜明、佐山聡、前田日明らUWFのレスラーこそが、最強のプロレスラーにして最強の格闘家なのだ」

 さらには、1988年春、前田日明は、アンドレとの不穏試合やドン・ナカヤ・ニールセンとの異種格闘技戦の勝利によって、ファンに次のような考えを植えつけることに成功したといいます。

「前田の挑戦を避けているアントニオ猪木は年老いて衰えた。だから八百長のプロレスをしている。だが、前田は違う。なぜならば前田は真剣勝負のプロレスを行うUWF戦士であり、関節技はカール・ゴッチから、キックはシーザー武志やシンサック・ソーシリパンから学び、キックボクサーとの異種格闘技戦にも勝利した。UWFこそ最強の格闘技団体であり、前田日明は最強のプロレスラーにして新・格闘王なのだ」

 しかし、猪木も、UWFも、前田も、やっていたことはすべてプロレスであり、いわゆる真剣勝負の格闘技ではありませんでした。それぞれが新たな幻想をファンに植えつけたとしても、その正体がプロレスであることに変わりはなかったのです。佐山聡のシューティングだけが本物の格闘技でした。
 第9章「新生UWF」では、「コピーが本物を追いつめる」として、著者は以下のように述べています。

「新生UWFのスタイルは、佐山がユニバーサルで作り出した”シューティング・プロレス”そのものだ。レガースもシューズもルールも、1カ月に一度、大都市のみで興行を行うというやり方も、すべてユニバーサルの時に佐山が考え出した。だがいま、前田日明は、佐山のアイデアを丸ごとパクり、新生UWFを真剣勝負の純粋な格闘技と詐称している。
 多くの人々が前田の言葉を信じた。新聞も雑誌もテレビも広告も、あろうことか『格闘技通信』『ゴング格闘技』などの格闘技雑誌までもが、UWFを真剣勝負の格闘技と報じた。その結果、UWFは大ブームを巻き起こし、佐山のシューティングは、UWFの劣化版のように見られてしまった。コピーに本物が追いつめられたのだ。佐山にとっては、まことに厄介な事態であった」

 第10章「分裂」では、新生UWFが空中分解した後、1人でリングスを立ち上げた前田が「新団体リングスはプロレスではなく、純粋な格闘技である」と宣言したことが紹介されます。

「前田日明の誤算」として、著者は「しかし、1991年5月11日に横浜アリーナで旗揚げされたリングスは、純粋な格闘技の団体ではなかった。『UWFとリングスのスタイルに違いはまったくない。試合の結末は決められていた。観客はフィックスト・マッチであることを知らないから、みんながハッピーだった』とクリス・ドールマンは証言している」と述べています。
 リングスは基本的にUWFの焼き直しに過ぎませんでしたが、木村浩一郎、角田信明、佐竹雅昭といったリングス以外の外部の選手の試合には一部リアルファイトも混ざっていたようです。著者は、「リングスがリアルファイトの格闘技団体に変貌したわけではまったくない。一部にリアルファイトが含まれていただけだ」と断言しています。

 時代の流れを押し戻すことは誰にもできません。著者は述べます。

「1993年9月21日、日本の格闘技界に衝撃的な事件が起こった。
 藤原組を辞めた船木誠勝と鈴木みのるが新団体パンクラスを設立。
 東京ベイNKホールで行われた旗揚げ戦は、すべてリアルファイトだった。全5試合の合計試合時間はわずか13分5秒。
 ”秒殺”はパンクラスの代名詞となった」

 そして、パンクラスの旗揚げの衝撃から2カ月も経たない1993年11月12日、アメリカではUFCが誕生しました。それは、これまでの常識を根本からひっくり返す画期的なリアルファイトの大会でした。

 第1回UFCで優勝したのは、グレイシー柔術のホイス・グレイシーでした。
 その後、ホイスの兄のヒクソン・グレイシーが日本格闘技界を席巻します。
 UWFでは前田日明の弟分的な存在であった高田延彦が率いるUWFインターナショナルは、ヒクソン狩りを企てます。そこでUインターの実力者として知られた安生洋二がアメリカのヒクソン道場に出掛け、ヒクソンに道場破りを仕掛けますが、完敗します。Uインターのイメージは地に堕ち、観客動員数も急速に落ち込みました。窮地に陥ったUインターは新日本プロレスと業務提携することで生き残りを図るのでした。

 終章「バーリ・トゥード」では、わたしも観戦した新日本とUインターの全面対決からPRIDE誕生に至る流れを、著者は以下のように述べています。

「1995年10月9日に行われた『激突!! 新日本プロレス対UWFインターナショナル全面戦争』は東京ドームに6万7000人という空前の大観衆を呼び込んだ。団体のトップレスラー同士がシングルマッチで戦うことなどめったにないからだ。メインイベントで高田延彦が武藤敬司の4の字固めでギブアップしたとき、東京ドームには地鳴りのような大歓声が鳴り響いた。4の字固めは相手の協力がなければ絶対にかからない技だ。
 武藤は4の字固めをフィニッシュに使うことで、UWFがプロレス以外の何物でもないことを満天下に示したのである。1996年12月27日、存在理由を失ったUインターは解散を余儀なくなされた。それから10カ月後にあたる1997年10月11日、高田延彦とヒクソン・グレイシーの一戦をメインイベントとする格闘技イベント[PRIDE・1]が東京ドームで行われた」

 この[PRIDE・1]もわたしは観戦しました。
 格闘技ファンとしてのわたしも、この頃が青春だったのです。
 しかし、わたしの熱い声援も虚しく、高田はヒクソンに完敗しました。
 著者は、無惨に敗れた高田について以下のように述べています。

「高田延彦はプロレスファンの幻想を守るためにヒクソン・グレイシーとリアルファイトを戦い、そして敗れた。プロレスを代表して戦った勇者を、誰が責められるだろう。高田延彦がヒクソン・グレイシーに敗れたとき、UWFの存在理由はなくなった。しかし、同時に総合格闘技の時代が切り開かれた。PRIDEは日本の総合格闘技の代名詞となり、2000年代半ばには世界最大のプロモーションへと成長していく。その最大の原動力となったのが、かつて高田延彦のUWFインターナショナルに所属していた桜庭和志だった」

 終章「バーリ・トゥード」の最後に、著者は次のように述べるのでした。

「2016年の現在、プロレスと総合格闘技(MMA)を混同する人間は誰もいない。プロレスは美しい容姿と肉体、そして強烈なキャラクターを持つ選手が、常人には決してできない攻防を披露するエンターテインメントとして生まれ変わり、いまなお観客を魅了し続けている。一方、かつて柔術家の天下であった総合格闘技は、現在はボクシングとレスリング、柔術のすべてに卓越したエリートアスリートだけが生き残ることのできる、真のスポーツへと進化した。1984年に誕生したUWFは、プロレスと総合格闘技の架け橋となり、役目を終えて消滅した」

 わたしは本書を読み終えて、それなりの感慨を持ちましたが、やはり著者の代表作である『1976年のアントニオ猪木』の素晴らしさには及ばないと思いました。あの本には、著者の猪木に対する愛情と感謝の念に溢れていました。わたしも、猪木がルスカやアリと戦った1976年から、ずっと筋金入りの「猪木信者」でした。猪木がスタートした一連の「格闘技世界一決定戦」シリーズは、わたしを含んだプロレスファンに巨大な幻想を与えました。
 いわく、「全日本プロレスはショーだけど、新日本プロレスはリアルファイト」から「新日本もふだんはプロレスをやっているが、タイトルマッチだけはリアルファイト」へ、さらには「新日本も基本的にはプロレスをやっているが、異種格闘技戦だけはリアルファイト」といった幻想です。さらに新日本から分かれたUWF、特に、長州力への掟破りキックによって前田日明が新日本を追放された後の新生UWFは「正真正銘のリアルファイト」として絶大な支持を集めました。でも、もちろん新生UWFだってプロレスだったのです。

   「日経トレンディ」1990年4月号

 わたしは当時、「日経トレンディ」に「平成異界Watching」という連載を持っていました。同誌の1990年4月号で、新生UWFの正月興行を取り上げたことがあります。日本武道館で高田延彦が前田日明を裏アキレス腱固めで破った試合でした。お互いに関節を完全に決め合ったはずなのに何度も外したり、エスケープし合う展開に、柔道の経験のあるわたしは違和感を覚えました。そして、「UWFも、結局はプロレスではないのか」と書いたところ、大きな反響があったことを記憶しています。
 新生UWFが分裂した後は、前田が「リングス」、高田が「UWFインターナショナル」、そして船木誠勝が「パンクラス」を旗揚げし、それぞれ限りなくリアルファイトをイメージさせるプロレスを行いました。それとは別に旧UWFに参加した初代タイガーマスクの佐山聡は「修斗」という総合格闘技を創設しました。その後、衝撃的な「UFC」の登場、日本でも「RRIDE」「K-1ダイナマイト」などの総合格闘技の興行が隆盛となり、そして衰退していきました。すべては、なつかしい思い出です。
 なんだか、ずっと長い夢を見ていたような気がします。

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